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ストーカー系執事は今日も黒猫伯爵様しか見ていない

作者: こやま ことり

ストーカー系執事は今日も黒猫伯爵様しか見ていない




「ラッテル・ガイストゼーレ! わたくしという婚約者がいながら他の女性にうつつをぬかし、更には血の繋がった弟を妬んで虐げているという性根の悪さにはもう我慢なりません! わたくし、イーリス・シュナーベルはあなたとの婚約を破棄し、あなたの弟であるキーファ・ガイストゼーレと婚約することをここに宣言いたします!」




 挨拶の一言もなしに高らかに宣言されたのは、ラッテルが学園の授業を終え、寮に向かおうとしていた道すがらだった。


 口上を述べたのは紅色の髪がなめらかに輝き、少し勝気そうなつり目であるが美人という部類にはいるイーリスである。彼女は国内の上級貴族が通うこの学園の高等部の同級生であり、確かにラッテルの“婚約者”であった。


 そしてイーリスの横には見目のいい男が不遜な態度で立っている。一つ下の学年に在籍している自分の弟であるキーファだ。黒髪は同じだが、青みがかった瞳とラッテルより高い身長、そして細身の体型で女受けのいい顔はラッテルとは似ていない。その容姿のよさと如才の無い処世術とあいまって、男女ともに友人が多い。


 対してラッテルは、地味で、陰気で、変わり者の男だと評され友人と呼べるものは少ない。同じ黒髪でも目はごくごく平凡な薄茶色。身長も中等部の学生くらいに小柄で、肌も病的に青白く、顔つきも地味だ。


 しかしラッテルはとある理由から有名だった。


 


「兄さん、弟として残念だ。母親が違うからと冷たくされるのは我慢できたが、イーリスにすら道理を通さないことをするなんて。そんな兄さんがガイストゼーレ家の次期当主”候補”だなんてのも間違っているよ。それにいつも連れているソレはなんだい? 黒猫をいつも連れ歩いてるなんて、不気味でしかないよ」


「”黒猫伯爵”なんていう不名誉な呼ばれ方をしているあなたが婚約者だったなんて、わたくし、恥ずかしいですわ」




 ソレと呼ばれた黒猫は二人から冷たい目を向けられても、まるで気にしていないかのようにラッテルの肩の上であくび一つするだけだ。実際気にしていないのだろうが。


 ラッテルが容姿だけなら地味なのに人目をひく一つの要因は、片目にあてている黒の眼帯だ。これは幼少のおりからずっとそうしてきており、容姿を美しく保つのに熱心な貴族の子女からは異様なものと敬遠される。


 そして、黒猫伯爵の由来は常に黒い子猫を連れていることだった。


 その昔、神秘が一部のものでは当然のようにあった魔術師の時代ならいざ知らず、使い魔のように黒猫を肩に乗せ、不気味な眼帯をして学園生活を送るラッテルは不思議な威圧を人に与えていた。


 そんな自分に対する揶揄は慣れている。だから別段気には留めなかったが、隣から不穏な気配がしてラッテルは自分の傍に立つ男を見上げる。


 その男は目の前にいる美形と呼べる二人すらかすむほどの造形をしていた。淡い金色の髪は柔らかな月光をあつめてできた絹のよう。その金の束を首の後ろでくくり肩に流している様は月光で作られた一筋の天の川のごとく。銀縁の眼鏡をきっちりとかけているが、その硝子の向こうには鮮やかな緑色の瞳。それはまるで女王の冠を彩ってもおかしくない極上のエメラルド。執事服をまとった体躯はそれだけで一級品の彫刻のようであるが、その上にある顔は余りにも整いすぎて人形じみてすらいる。人間の完璧な「美」とはこれをいうのかと、見たら誰がが思うであろう。この男の微笑みを見るために命をかけるものだっているかもしれない、とすら思わせる。


 けれど、今はその美しさは微笑みどころかいっそう眼鏡の奥の瞳の冷ややかさを際立たせていた。




「シュティー、そう睨んでやるな。美形がすごむと怖いぞ」


「ですがラッテル様、あそこにいるどこぞの馬鹿二人組が御身を侮辱する発言をしたのですよ。我が主を侮辱されて平気でいられるような者が執事などしていられましょうか。いいえできません。そのようなことを見過ごせる人間には執事などつとまりません」


「お前の執事観は世間一般とかけ離れてる部分が多いにあるがな。第一、コレのことはお前が忠告してきたことだろう。想定内のことに憤るな」


「想定内であろうと、事実侮辱されたことには変わりません。ああですがあのような愚かな人間以下の存在をラッテル様の目にいれることも業腹です。さあ、早く寮に戻りましょう」




 そうしてシュティーはうやうやしくラッテルの手を取り、寮への歩きを再開しようとする。が、さすがに後ろの二人組はそれを許してはくれないようだった。




「お待ちなさいラッテル・ガイストゼーレ! わたくしの言葉が聞こえなかったのかしら? それとも聞いた上で逃げるというのですか? “黒猫伯爵”は臆病でいらっしゃるのね!」




 自分の正義というものを一つも疑っていない、傲慢さが溢れ出ている声だった。シュティーの怒気がまた強くなるのを感じながら、仕方なしに振り返って再度自分の”婚約者”と弟の二人組と対峙した。




「聞こえているともイーリス嬢。僕との婚約破棄だったな。承知した、当主たる父上にこの件を伝えておこう。そちらの家への連絡はそちらでしてくれ。それでは」




 そう言って略式的な挨拶の礼をしたラッテルにイーリスは一瞬ぽかんとしたが、すぐに顔を紅潮させつり目がちな目をさらにつりあげた。




「な、な、あなたはわたくしを馬鹿にしているのですか!」


「おや? 婚約破棄を望まれたのは君ではないか? 君の要望をうけいれたつもりだが、まさか僕が婚約破棄なんてやめてくれと君にすがると思っていたのか?」




 イーリスは悔しそうに唇を引き結び押し黙った。図星だったのだろう。まさか自分との婚約破棄をあっさりと認めるという事態をプライド高い彼女は考えていなかったに違いない。


 確かにイーリスは美人であり、そのうえ貴族階級でいえばラッテルのガイストゼーレ家よりもシュナーベル家のほうが格上である。ガイストゼーレ家は国内の貴族の中でも特殊な立ち居地ではあるが、上級貴族の娘と婚姻を結ぶことは長男であるラッテルにとって有益なことであることは変わらない。むしろ普通の貴族家の長男ならばこの婚約をなんとしてでもつなぎとめるようにつとめることであろう。普通ならば、だが。




「イーリス、気にすることはない。兄さんは自分の不利になる話にならないように逃げるつもりだ。そういう卑怯な男なんだよあいつは」


「キーファ様…」




 そう言ってイーリスの肩に手をかけ、顔を寄せるキーファは貴族として控えるべき男女の距離を明らかに逸脱しているものだった。それを拒まずどこかうっとりと見上げるイーリスも同じである。ラッテルも表情を取り繕うのも忘れて呆れるものだったが、それ以上に顔を見なくてもシュティーが二人を蔑む目で見ていることがわかる。


 しかし、こちら側の目など気にしていないのか、イーリスはキーファに肩を抱かれながらラッテルをぎりっと睨む。




「黒猫伯爵、あなたはこの場限りの嘘で逃げて自分の不貞と不徳を隠すつもりだったのですね。そんなことをこのわたくしが許すとお思いですか!」




 婚約を破棄し、弟に鞍替えしようと今まさに男と密着している状態で「不貞」とはよく言えたものだ、とどこかラッテルは感心する。


 そしてさっさとこの茶番劇を終わらせたく、仕方なしに話に付き合うことにした。




「さて……不貞やら不徳とやらに心当たりはないが。どのようなことだろうか」


「とぼけようたって無駄ですわ。不貞の証拠はいままさに目の前にあります。あなたの横にいるローゼ・ヴィント嬢ですわ!」




 そういって淑女らしさの欠片もなしにイーリスが指をさしたのは、ラッテルの隣のシュティーの更に隣にいる女生徒だった。


 今まで沈黙を貫いていたローゼが名指しされビクッと体を震わす。柔らかな亜麻色、イーリスとは対照的に垂れ目がちな少女は今年の春からラッテルとイーリスの学年に編入してきた転校生だった。まだこの学園に来て数ヶ月しかたっていないというのにこんなことに巻き込まれるとは災難なことである。




「婚約者のわたくしがいながら、そのローゼ・ヴィント嬢に懸想し、あまつさえ人目を忍んで逢引をしていたというではありませんか。なんとあさましいこと!」


「まあなんとも予想通りの発言でつまらないな。ローゼ嬢の名誉のために言うが、僕とローゼ嬢は友人として関係を築いており、君が邪推するような事実は一切ない」


「そんな言い逃れが通用するとお思いで? あなたたちが二人きりで密会し、逢引をしていたという話は聞いてますのよ!」


「それは、いつ、どこでの話だ?」


「……え?」


「だから、僕とローゼ嬢が逢引をしたと話している者はその現場を見ていたということだろう。何月の何日にその現場を見たといっているのだ」


「そ、そんなもの聞いてどうしますの? 下位貴族だったら買収してその噂を止めようとでも? やっぱりあなたは卑劣な……」


「詳しい日にちはわからないのか? まあそれでもいい。どちらにしても、僕がローゼ嬢と二人きりで会った事実などない。むしろこう言い換えようか、不可能だ」


「何を根拠にそんなことが言えますの!」


「それは、僕の執事であるシュティーがいるからだ」




 イーリスは何を言われたか分からない、と怪訝な顔をした。それはキーファも同様で、余裕そうに見ていた顔が不審げなものに変わる。


 ラッテルの肩に乗っている黒猫が面白そうにパタパタと尻尾をふってくる。




「シュティー、ひとまずこの一月以内で、僕とローゼ嬢が同じ場所にいた時がいつどこであったか話してくれ」


「承知いたしました」




 主人に忠実な執事は上着の内側から一つの手帳を取り出した。それを開き、眼鏡に手をあてながら話し出す。




「まず、最初の週にローゼ嬢と教室外でご一緒されていたのは三日。一つは昼食時に中庭で。その時はご学友のブラウン氏、ヴァイオレット嬢がいらっしゃいました」


「中庭という人目もあるし、他に人もいた。逢引とはいえないな」


「次は放課後に図書室でお会いされております」


「ローゼ嬢はこことは違う文化にお住まいであったからこちらの風土を教えていたんだったか。その為に地理学の講師であるヴァイス卿にも助言をいただいた。やはりこれも二人きりとはいえない」


「ブラウン氏やヴァイオレット嬢などと一緒に昼食をおとりになった日はありますが、室外でお二人が一緒になる時はこうして寮へお戻りになられる場合です。その際は私が常にそばにおります。さて、その次の週ですが…」


「ま、待ちなさい!」




 淡々と手帳を確認していたシュティーとそれに頷いていたラッテルは揃ってイーリスを見た。イーリスは憤慨した様子で話し出す。




「そんな、あなたの執事のいうことを素直に信じられるわけがないでしょう! 第一、シュティーがあなたのこれまでの予定はおろか誰と会ったかまで全て把握してるとでも言いたいの? 学園内には入れない執事がわかるわけないじゃない!」


「そうだな、普通ならばそういうものなのだろう。だが残念なことに僕の執事はただの執事じゃない、シュティーだ」


「え?」


「ではイーリス嬢。いつでもいい。適当な日付と時間を指定してみてくれ」


「な、なんでそんなこと……」


「いいから、なんでもいい」


「……で、では、二週間前の放課後」


「二週間前の放課後はご学友の方々と一緒にカフェテラスで談笑。カフェテラスには女生徒はいらっしゃいますが、その時はテラス内にローゼ嬢はおりません。そして夕食時にはご学友とともに寮にお戻りになっておられます」


「ああ、もちろん知っての通り寮は男子寮と女子寮は分けられて、いかな貴族といえども互いの寮へ行き来できるものではない。なので寮に戻ってから女子寮へ行くなどということが不可能なのは君も承知だろう」


「な……それなら十日前の一日全てを!」


「その日は朝六時にご起床。寮にて朝食を取られたあと登校。一時限目は経済学、二時限目は神秘学ですが、こちらの教室移動の際にご一緒されていたのはシュヴァルツ氏とブラウン氏。二時限目を終えたあとは昼食の時間ですが、この日は神秘学の講師であるロート卿と授業後に質疑応答をしていたため、昼食はとらずに次の授業に向かわれております。それからは……」


「ま、待って。ちょっとやめてちょうだい。え、……え? シュティー、あなた、本当にラッテルの一日全てを把握しているというの? 誰と会ったか、何をしていたかまで?」


「ええもちろん。それが主人に仕える執事として当然のことですから」


 


 さらりと告げるシュティーはいたって真面目だ。むしろ何を馬鹿な事を言っているのか、とでも言いたげにイーリスを見るエメラルドの目を細める。一方のイーリスはあれほど激昂していたというのに、今は少し引き気味だ。


 はあ、とラッテルは疲れたため息をつく。




「イーリス嬢。これが僕にはローゼ嬢に関わらず、誰かと密会することなど不可能ということだ。いや、むしろ完全に一人になることすら難しい。僕は、この執事から常に監視されている」


「ラッテル様、監視とは何をおっしゃられますか。ラッテル様に不慮な事故が起こらないよう、常に見守っているというだけです。執事として当然の務めです」


「執事として主人を護ることは確かに大事だが、お前のように朝起きたときから就寝しているその間すらも監視し、しかもそれを全て記憶している執事などお前くらいだ。その手帳だって見なくても僕の行動を全部言えるのだろう?」


「勿論。この手帳はこういったときのために使うためだけのものです」




 眼鏡の縁を持ち自慢げにいう執事は、完璧な外見だけではなく頭脳の出来も人外離れしている。それを発揮するのは、ラッテルに限ることだけだが。




「で、でも、あなたがローゼ嬢と親しくしていたのは事実じゃないの!」


「ふむ……ちなみに、ローゼ嬢が編入してから僕がイーリス嬢に送った手紙の日付は?」


「ローゼ嬢が編入した当日に、そしてご返信をいただけていなかったので確認のために二週間後にさらに一通。そしてやはり音沙汰がなかったので、念のために一ヶ月後に」


「イーリス嬢。僕は君にローゼ嬢が編入してから三度に渡って手紙を送っているが、その中身は確認したか?」


「え? その、それは、もちろんよ。いつもの決まり切った季候の挨拶でしょう?」


「確認していない、と。見ていたら僕がなんでローゼ嬢と一緒にいるか知っているはずだが……君はここのところ、そこのキーファと”親しく”していたようだから、家が決めただけの婚約者である僕のつまらない手紙など見てもいなかったのだろう」




 イーリスは強く言い返してこない。手紙を読んだというのは嘘に違いないので、中身がわからずうまい言葉がでてこないのだろう。


 確かにラッテルがイーリスに送る手紙は婚約者の義務としての挨拶程度のものだ。自分がイーリスと積極的に仲を深めようとしてこなかった自覚もあるので、読まなかったことを責めるつもりはない。ただ、糾弾するならば事前に読んでおけばよかっただろうに、と呆れる気持ちはある。




「手紙がなんだっていうんだよ。だいたい、いくらシュティーが兄さんの予定を証言したってシュティーは兄さんの執事なんだ。兄さんの不利になるようなこと言うわけないじゃないか」


「そ、そうですわね。シュティーは優しいから、卑怯な主人に従うしかないですわ。ローゼ嬢と二人で会ってた時もきっと捏造してるに決まってますわ」


「いや、だから逢引したと証言してる者たちがいつのことを言ってるのかを知りたかったのだが……まあ、いい。不貞していないということはガイストゼーレ家の名に誓って言える。これ以上そのことで異議申し立てをするならば、当主の父に言ってくれ。さて、さっきから言っている卑劣だの不徳だのというのはなんのことだ?」


「それはあなたがキーファを妬んで虐げていることです!」




 ラッテルは頭を抱えたくなってきた。そこでにやにやと笑っている男のどこに虐げられている様子があるのか。茶番劇を興じるなら演技くらいしてほしいものだ。




「あなたはガイストゼーレの長男ですが、母親は第二夫人。正妻の子であるキーファの優秀さに嫉妬して、次期当主の座を奪われると思って虐げてきたのでしょう!」


「ああ、俺は本当は兄さんと仲良くしたかったのに……兄さんはいつも俺に冷たくあたるんだ。最近は特にひどくなって、わきまえろだとか、自分を立てろとか、ひどい時には脅迫じみた行為まで……」


「内容が漠然としすぎているんだが……最近といったな。キーファ、僕はお前と関わる機会など学園に入ってからはほとんどなかったと認識しているが、僕がお前に何かできたか?」


「なっ! それが弟にいう言葉ですか! そんなこと言うこと自体が……」


「兄弟仲がいい、とは言えないが、それはガイストゼーレ家ならば仕方がない。先ほど正妻だの第二夫人だのなんだか言っていたが、次期当主”候補”なのは僕もキーファも同じだ。そこに年の差や母親の地位など関係はない」


「長男が跡を継ぐのが当たり前でしょう? でも自分の悪評とキーファの優秀さで当主になれないかもしれないからと、あなたは……」


「イーリス嬢。当家は他家のように長男が当主になるとは決まっていない。それはキーファも承知のことだ。まあ、先に生まれた僕が継ぐことになると周りは思っているが。あと先ほども言ったが、僕がキーファに接触する機会などない。学年も違うから学内で会うこともない」


「そんなもの、お互い休日に家に帰ればいくらでも会うでしょう!」


「キーファはここ数ヶ月、王都の屋敷に帰ってきたことは、ない。シュティー、そうだな?」


「はい。ラッテル様は休日の際には必ずお屋敷にお戻りになり、領地運営の学びや手伝いをされておりますが、キーファ様が最後に戻られたのは年替わりの冬季休暇です。この間の春の長期休暇の際もお戻りになられておりません」


「シュティーの言葉が信じられないなら家宰に確認してくれ。ああ、確かにたまに学園で会った時に少しは家の手伝いをしろ、ということは言ったが、これが冷たくあたるということか? 休暇のおりに領地はおろか王都の屋敷にすら戻らず、友人の家で遊び呆けている弟に対して至極当然のことを言ったまでだが」




 イーリスはまさかキーファが全く家に戻ってないとは思っていなかったらしく、キーファに対して驚きの表情を向けている。キーファが言っていたことが本当なのか、ほんの少し疑いはじめているのがうかがえる。


 キーファはその秀麗な顔を苦虫を噛み潰したように歪めた。それでもラッテルに向ける目は野心をもって爛々と光っている。




「キーファ、お前がローゼ嬢のことを何も知らないということがここ最近屋敷にも戻らず、僕や父上の言葉を聞いていない証拠だろう」


「は? ローゼ嬢にいったいなんの関係が……」




 ローゼ嬢はひたすら黙したままだ。先ほどは少しばかり青ざめていたが、話を聞いていくうちにこの茶番劇がいかに馬鹿らしいかわかったようで、こちらも呆れた目で二人を見ている。




「ローゼ嬢は、我らが父上のご友人のご息女であり、そのご友人から頼まれ、父上が我が家にお預かりしている、当家の正式なご客人だ。長く国外で暮らしていたためこちらの言葉や文化に不慣れであるということと、ご両親はまだ国外で仕事があるということで、学園に転入される際から当家にておもてなしをしている。だから僕はガイストゼーレ家のものとして学園で不足がないように度々会っていた。もしお前が休日に屋敷に戻っていればローゼ嬢に会っているはずだ。ああ、休日の逢引など、同じ屋敷の中で客人相手にできるわけもなかろう? 学園以上に父上やら使用人たちの目があるのだからな。彼女がきたのは三ヶ月前、春の休暇の時だ。彼女を客人として迎えている旨をイーリス嬢、君に手紙で伝えている。だから手紙を読んでないのか、と聞いたのだ。これでキーファが家のことに無関心であることもわかっただろう」




 二人は呆然としてローゼを見つめている。まさか急な編入生がガイストゼーレ家の正式な客人であるなどとは夢にも思っていなかったのだろう。正式な客人であるということは、次男であるキーファはもとより、ラッテルの婚約者であるイーリスも彼女をもてなす側だ。それを知らなかった無知は恥であるし、しかもそれを不貞だと貶めるなど、ラッテルではなくガイストゼーレ家に泥を塗る行為だ。




「……ご挨拶が遅れまして、申し訳ございません。ローゼ・ヴィントです。まだこちらの言葉に慣れていないため、うまくしゃべれないことを、お許しください。……機会があれば、今後仲良くしていただけたらと思います」




 少し訛りのはいった発音でローゼは二人に淑女の礼をとる。二人がまだ飲み込めてないうちに、ラッテルに向かって「もういいか?」と聞いてきたので頷き、彼女を先に女子寮に帰るように促した。


 こんなことに付き合わせた詫びはきちんとあとでせねばな、とラッテルが考えていると、震える声が聞こえた。




「……兄さん、さっき、まだ二人とも次期当主”候補”だといったな?」


「ああ、そうだ。僕が次の当主だと父上は名言していないだろう」


「ふ、ふふ、ははははは! なんだ、まるで次の当主面をしているから、俺が知らないうちに決まっているのかと思ってたよ。もしかして、と。でも当たり前だよな。当主になるには”五体満足”な体が必要なんだから」


「キ、キーファ? あなた、なにを言ってるの」


「イーリス。何も心配しなくていい。兄さんはガイストゼーレ家の当主にはなれない。なる資格がないんだ。だから僕が次の当主だ。兄さんとの婚約はやめて僕と婚約することに何も問題ない。そう、そうだよ。片目のない不完全な体のお前がガイストゼーレに選ばれるわけがない!」




 勝ち誇ったように笑うキーファにイーリスは戸惑い、ラッテルとシュティーはただただ冷めた目で見ている。




「シュティー、お前も兄さんの執事などやめて俺の部下になれよ。さっきの監視だのなんだのはよくわからないが、お前の優秀さとその美貌は次期当主の俺に仕えるほうがふさわしい」




 見下し切ったその顔と言葉にラッテルは眉を寄せる。


 こいつは一体どれほど愚かなのか。たまらず口を開こうとしたが先に言葉を発したのはシュティーだった。


 その完璧な美しさを持つ姿で、シュティーは笑う。


 それはまるで天使のようで、そして悪魔の微笑にも似ていた。


 


「我が主の弟君であり、ガイストゼーレ家のご令息に対して不敬を働くことを先にお詫び申し上げます。あなたのような知性も品性も人間性もラッテル様の髪の毛一筋ほども及ばない低能な存在を主人にすることなど未来永劫絶対にありえません。そもそも私はガイストゼーレ家に仕えているのではなく、ラッテル様を終生の主人とし、お仕えいただくことを許していただいている立場。ラッテル様のお傍にいること、それが我が誇り。ラッテル様を見守ることが我が喜び。この地に舞い降りた奇跡のような存在であるラッテル様こそが我が命。おわかりになられましたらこれ以上、我が主人に対する侮辱は自分の寿命を縮めることと同義だとその空っぽの頭に刻んでくださいますようお願い申し上げます」




 シュティーこそが奇跡を体現した美しさを持つ存在であるというのに、すらすらとラッテルへの過剰な賛辞とキーファを貶める発言を微笑みを浮かべたままのたまう。


 既に慣れている自分の執事の悪癖にラッテルは辟易とするが、深く関わりの無かったキーファは自分が貶められているのにも憤慨することを忘れてぽかんとしている。




「それと……確かにガイストゼーレ家では当主になる資格に欠けることのない身体が必要なのは確かです。そして我が主はある事情にて片方の瞳を失っております。ですが、それでもまだ次期当主”候補”であるということ。それがどういうことかをまずお考えになってはいかがでしょうか?」




 それでは失礼いたします、と完璧な礼をし、言葉をなくした二人を置き去りにしてシュティーはラッテルと共に歩き出した。




「……お前、いい加減僕のことを過剰に言うのはやめろといっているだろう」


「私は真実を口にしているだけでございますので」


「まあ”黒猫伯爵”に不釣り合いすぎるお前を従えてることに不平を言う輩にあれをやると静まるんだがな、痛ましいものを見る目で見られるんだぞ。大体あいつらはなんであんなことを言い出したんだ。お前からあいつらが婚約破棄を企てていて、今日あたりにくると聞いていたから人の少ない時間に学園を出たわけだが……」


「おかげであの醜態を他家に聞かれずにすみました。あの馬鹿君はラッテル様から上級貴族のイーリス嬢を奪い、自分が婚約を結ぶことで当主になれる可能性をあげようとしたのではないかと」


「浅はかな考えだな。さて、あの茶番劇で納得してくれたらいいのだが、お前の余計な一言のせいでそうもいくまい」


「ええ、今頃どうするかを話し合われてることでしょう」


「“みる”んだろう」


「ええ、私の全てはラッテル様のためにありますから」




 シュティーはラッテルに向けて微笑みかける。先程まであの二人に向けていた冷笑とは違う。またたく新緑の瞳は眼鏡ごしにもただひたすらにラッテルにだけ向けられている。


 ラッテルの肩がすいっと軽くなる感覚があった。




「ああ、そうだ。お前の全ては、僕のものだ。シュティー」




 苦々しく絞り出したその声音はシュティーの微笑と、羽ばたく鳥の音にかき消えた。





―――――




「まさか父上がいらっしゃっているとは」




 男子寮の応接室。貴族向けの寮であるからして、応接室は華美過ぎなくとも十分に贅をこしらえたつくりだ。


 ラッテルが座る向かいには、実父であるガイストゼーレ家当主レヴェアンが座している。容姿はキーファが年齢を重ねた姿に近いが、常に不機嫌そうに細められている目はラッテルと同じく人を寄せ付けない雰囲気を持っている。


 何より違うのは、普通では見えないけれども動かすとガチャリとなる左足–––義足の存在である。




「ローゼ嬢が過不足なく過ごせているか、学園長に会いにきたのだ。……あと、最近鳥たちがざわついていたのでな。シュティーのせいであろうが」




 レヴェアンはちらりとラッテルの後ろに立っているシュティーを見やる。が、シュティーは我関せずというように無表情のままだ。




「先程、イーリス・シュナーベル令嬢より婚約を破棄したい旨を伝えられました。新たにキーファと婚約をしたいそうです」


「あの馬鹿息子が。シュナーベル家の令嬢も浅はかな考えを。一時の熱情で冷静な考えができなくなっているようだ」


「婚約の件はキーファからそそのかしたのでしょう。まあ浮かれているのは否定しませんが」


「婚約破棄の件は承知した。だが、キーファと婚約させるかどうかは向こうの家と話し合う。キーファは当主になれぬのだから、どこぞに婿入りする必要があるからな」


「……そのことについて、まだ諦めていなかったのですか」


「お前こそまだ諦めていなかったのか。お前の要望に従ってまだ当主候補と言っているが、本来ならあいつはもうそうではない」


「慣例に従うならば先に候補でなくなるのは私であるべきです。私は五体満足ではない。キーファも私が候補でいることに納得いっておりません」


「それはお前が真実を伝えていないからだろう」


「伝える必要がありません。私はガイストゼーレ家の当主選びの儀をなくすつもりなのですから。そうなれば真っ当に当主に相応しいものを決めるまで」


「数百年と続く当主選びの儀式はガイストゼーレ家の歴史そのもの、当家がこの国で重用される理由でもある。それをなくそうとするなど我が息子ながら面白い」


 


 レヴェアンは薄く笑い、もう今はない自分の左足を撫でた。それが感傷なのか、彼自身もガイストゼーレ家の当主に選ばれたことを恨みに思っているのか、ラッテルにはわからない。


 ただレヴェアンはすぐにラッテルに向き直った。それはすでに、当主たる者の顔をしていた。




「卒業までだ。それまでにできなければそのままお前が当主だ。ラッテル。よいな」


「承知しております」




 ラッテルは頷く。応接室の窓辺に黒い鳥が止まって、かかっと笑うように鳴いた。





―――――




 貴族が集まる学園であるからにして、寮の自室は申し分ない広さと機能を備えている。


 寝室に加え、一人用の浴室に炊事場、また従者用の控え室もある。従者も二人や三人連れてきてもいいのだが、ラッテルが連れてきているのはシュティーだけである。リビングは寮生同士の応接も兼ねているため、そこそこの広さも持っており、調度品は自分たちで用意していいことになっている。


 ラッテルは華美なものを好まず、自分がくつろぐことを優先しているため、気に入っているソファにテーブル、申し訳程度の来客用の椅子を置いているくらいだ。他の寮生が絵画やら陶器の置物なども用意しているところに本棚を設置し、その本棚からも溢れるほどの書籍が壁際に整理整頓して並べられている。それらは数百年前の時代の歴史学であったり、神秘学に連なるもの、はたまた古語で書かれていてるような書籍だ。図書館や古書店でこういった類の本を集めるところも気味の悪い黒猫伯爵の噂を助長している。


 ラッテルはソファにもたれかかり、足元に寄ってきた黒猫を不機嫌そうに手で払いながらシュティーを呼ぶ。




「シュティー、飲み物を」


「こちらにご用意しております。軽食もございますので、どうぞ」




 主人の意を先に読んで用意しておくのは執事の鑑と言えるだろう。シュティーの場合はラッテルの世話を焼きたいだけの可能性もあるから素直に認める気にもなれないが。




「また、こちらの手紙が至急ということで届いております」


「読むのも面倒だ。そのまま話せ」


「はい。シュナーベル家のご当主がすでに来られており、女子寮の応接室におられると。旦那様もそちらに向かわれたようです。婚約破棄の件について内々の話し合いのようですが、ラッテル様は女子寮にはいれないため、代理に私がくるようにと」




 男子寮と女子寮はいかなる貴族であっても学園生徒は互いの寮は立ち入りが許されない。だが、保護者および使用人は別である。使用人は貴族子息からしたら対等の人間ではない。私室に行くことまでは流石に許されないが、用向きを伺うために応接室や寮監のところにいくことが可能だ。


 紅茶の香りを吸い込みながら一つため息をつく。




「随分と早い動きだ。向こうの家もいきなりの娘の我儘に焦っているのだろう」


「ええ。結局はラッテル様に何一つ落ち度もないのに脳内花畑令嬢が否を申し出たわけですから。ラッテル様に非がないのは当然のことですのに」


「まあシュティー、ほどほどにしてやってくれ」


「よろしいのですか? ローゼ嬢という正式な客人をもてなすどころか貶め、塵芥にすぎない弟君との不貞の証拠もございますので、いくらでも追い詰められますが……」


「イーリス嬢も落ち度はあるが、彼女もある意味では犠牲者だ。婚約破棄さえ整えばいい」


「ラッテル様の優しさは神々すらひれ伏すほどでしょう。ああ、今すぐにでも慈愛に溢れたラッテル様の素晴らしさを吟遊詩人に歌わせなければ」


「そんなことをする必要はない。さっさと行ってこい」


「承知致しました。ですがラッテル様、くれぐれも……」


「わかっている。問題はない」




 一礼し、シュティーは部屋を出て行った。ここから女子寮まではそれなりに距離がある。話し合いもすぐに終わるとは思えない。月が少し傾くくらいには戻ってくるのに時間がかかるだろう。普通ならば、だが。


 部屋の中にいる人間はラッテル一人になり、静寂が訪れる。


 カップの中の紅茶を飲み干し、シュティーがわざわざ多めにいれていたポットから替わりを注ごうとした時にその静けさを破るドアのノックの音が響いた。


 足元の黒猫が扉へと走り、器用に鍵をあける。訪れた人間は猫が鍵をあけたことに驚きつつもそのまま入室し、扉を閉めた。ガチャリ、と逆に鍵をかける音が鳴る。


 訪問者であるキーファは、部屋を見渡してラッテル一人であることを認めると、醜悪に笑った。




「シュティーはきちんと父上からの手紙に従ったみたいだな」


「何の用だ。キーファ」


「あのあとよーく考えてみたんだが、やっぱり兄さんがまだ当主候補っていうのがおかしいとしか思えなくてなあ。なにかあるんじゃないかって思い直したんだよ。俺が知らないところで実は当主について決まっている、とかな」


「考え過ぎだ。大体僕は当主になにがなんでもなりたいわけじゃない」


「それでもだ。当主は資格あるもののうちから選ばれる。兄さんの意思なんて関係ない」




 意思など関係がない。そう、その通りだ。


 当主への野心に関係なく、当主の儀に参加できる資格があるものから選ばれるもの。




「だから、兄さんが当主になれないように念入りに下準備をしたほうがいいってことに気付いたんだよ」


「僕を殺す気か?」


「ははっ。いくらなんでもそこまでしないよ。ただ片目がなくなるくらいじゃ候補から外れないみたいだからね? もう少し傷を増やしておこうかなあって」




 懐からナイフを取り出す。それはガイストゼーレ家の紋章が柄に刻まれており、ラッテルも同じものを持っている。




「筋書きとしては、婚約者を奪われて当主になれないと焦った兄が、弟を呼び出して脅しつけるけど、返り討ちにあったっていうところかな。嫌われ者の黒猫伯爵と俺なら、みんな俺の言うことのほうを信じるに決まってるだろ?」




 確かに友人が多いキーファと変人で陰気なラッテルならば世間はそう解釈するだろう。キーファの社交面での能力の高さは群を抜いている。イーリスがうかつだったとしても婚約破棄を言い出させたりすることなど口がうまい人間じゃなくてはできない。


 だが、決定的にキーファには足りないものがある。それは頭の中身だ。




「あれだけ『自分はシュティーに監視されている』なんて言ってお笑い種だ。主人の大事な時にいないんだからなあ。いるのはその薄気味悪い黒猫だけだ」




 なぜ、ラッテルがいまだに当主候補なのか。


 なぜ、ラッテルが黒猫を連れても学園から指導がないのか。


 なぜ、ラッテルのそばに常にいるシュティーが今ここにいないのか。




「兄さん、おとなしくしててくれよ。もしズレたら傷だけじゃすまなくなるかもしれないんだからな?」




 ラッテルはただ沈黙したままソファに腰かけている。足元で黒猫がキーファを見上げている。


 動かないのを恐怖しているからと受け取ったのだろう。キーファは悠々とラッテルの元に歩き出し、目の前に立つ。


 そして、そのナイフを振り上げた。




「なっ……!」




 刹那、閃光が部屋を覆う。


 その眩しさにキーファが立ち眩んでいると、今ここにいるはずのない人間の声が聞こえてきた。




「これはこれは、我が主の弟君殿ではありませんか。物騒なものをお持ちなようですね?」




 光がやむと、その声の持ち主の姿が露わになる。


 隙のない執事服と秀麗な美貌を崩さずにラッテルの前に立ち、ナイフを持つキーファの腕をひねりあげる。




「なっ……なんだ今の光は! なんでお前がここにいる! シュティー!」


「あれほど申し上げましたでしょう。私はラッテル様をお見守りすることが我が喜びだと。そして、我が主に害なす存在を許すつもりはございません」




 彫刻の顔に酷薄な表情を浮かべてシュティーはキーファを床に押し付けた。


 いまだに何が起こったかわからないキーファは反抗するよりも前にひたすら戸惑いの表情を浮かべている。




「キーファ、僕はシュティーに監視されていると言ったが、どうやって監視しているかは伝えていなかったな」




 足元の黒猫を見下ろし、キーファに対して一つ頷く。


 そしてまた部屋中を真っ白に染め上げる光が現れ、そして光の逆作用のように生まれた影が室内を覆う。


 光と闇に惑わされすぐに事態を把握できていないキーファだったが、次第に目が慣れて急に暗くなった室内をいぶかしげに見まわす。


 そして、ソレを見つけると目を丸く見開いた。




「いひひひっ………この姿で会うのは久しぶりだなア、ガイストゼーレの末裔。ひひっ、そこに転がってるのもオ、ひっ、ガイストゼーレの血だなアアア。よおくわかるぞオ……オレサマの血だあア」




 影の中で淡く発光しているソレは、歪に美しく、そして歪に醜いものだった。


 白いローブを羽織ったソレは、出来の悪いパッチワークの人形のようだった。右肩から先は腐りはて指先は白骨化しているのに、左肩から先はすらりとした染み一つない腕と手首。右の太ももから膝までは女性らしい曲線美を描いているのに、膝の下からは急にやせ細り皮膚と骨だけの足がくっついている。逆に左足は膝までは骨しかないのに、膝から下は若々しい男性らしき足がつながっている。


 顔には鼻がなく、笑いを浮かべている口は空洞だ。けれども皮膚は絵の具で塗り固めたかのように真っ白い。左目はぽっかりと暗い穴が開いているが、右目にはエメラルドの如き瞳がはめこまれている。


 まるで子供がつなぎあわせた出来の悪いガラクタ。ソレは、明らかに、人ではなかった。


 けれどもキーファは–––ガイストゼーレ家の末裔は、すぐにその存在が何かがわかった。




「ガイストゼーレ家の、精霊……!」




 ひひっと不気味に笑い、ソレは空中に浮かんで一回転する。




「そうだよオ、オレはお前らの言うガイストゼーレ家の精霊だア。まあちゃんと言やア、ガイストゼーレというオレの名前を貸してやっているんだよオ。オレサマがガイストゼーレそのものだ」


「なんで精霊がここにいる!? 精霊を従えられるのは当主だけだ! や、やっぱりもう当主は兄さんに決まってたのか!?」


「いいや違う。ソイツが何を『持って』いるか、よく見るんだな」




 ラッテルの言葉に、キーファはよくよく精霊の姿を見直した。


 健康的な左足はすぐに自分たちの『父親の左足』ということはわかった。けれども腐っている部分のほかに無事なところは女性的すぎて、兄に当てはまらない。


 そしてあまりにも異常な、人ならざるモノすぎて真っすぐ見れなかったその顔を見てようやく気付く。


 右目の輝かしいばかりの緑の瞳。


 エメラルドのような宝石のごとき瞳。




「それ、は、シュティーの」


「ひひひゃアアア当たりだよオ、ガイストゼーレの末っ子オオ」


「でも、そんな、シュティーは両目が、ちゃんと」


「シュティー、教えてやれ」


「はい。ラッテル様」




 シュティーは立ち上がり、常にかけている眼鏡を外した。


 それを見たキーファは驚愕で目を見開いた。




「そんな、そんな馬鹿な……!」


「簡単な目くらましの術だ。シュティーまで片目が違っていたら、いくら鈍くても気づいてしまうだろう?」




 眼鏡を外したシュティーの左目は、精霊の右目と同じエメラルドの瞳。


 けれど左目は、ラッテルと同じ茶色の瞳だった。




「キーファ。お前は僕の片目がないことはソイツに選ばれたせいかもしれないと思っていたんだろう。だがそれは違う。僕の左目はシュティーに与えたんだ。シュティーがソイツに選ばれ、瞳を奪われたから」




 精霊は空洞の口からべろりと長い舌を出すと、自分で自分の右目をえぐって舌の上でエメラルドの、シュティーの瞳を自慢するように転がした。




「お前だって我が一族がなぜ他家と違う特別な位置にあるのかわかっているだろう? ガイストゼーレ家だけが、魔術師の時代が終わってなお精霊と契約し、その精霊の力を行使できるからだ。当主である父上がいまなお精霊と契約しているように見せているが、実際はすでに選ばれたシュティーがソイツの力を使っている。お前は何で僕がずっと黒猫なんかを連れてると思っているんだ? しかも、黒猫は子猫くらいの大きさのまま、変わらず、十年も」




 黒猫伯爵と呼ばれだしたのと眼帯をつけはじめたのが同じころだなんて、ほとんどのものは気づいていないだろう。




「まさかその黒猫が……」


「ソイツが姿を変えてたんだ。ソイツはなんにでも体を変えられる。そして当代選ばれたシュティーはソイツの目を通して【みる】ことができる。何かがあればどこにいても先ほどのようにソイツのところに転移することもできる。それがソイツの力だ。お前とイーリス譲が密会していたのも、すべてシュティーは見ていた。婚約破棄の騒動を使ってシュティーを一時的に僕の側から離そうという企てもな。お前たちの近くに鳥がいたのに気づかなかったか?」


「だけどシュティーはガイストゼーレの一族ではない! なんでシュティーが当主の儀で選ばれているんだ!」


「オレはキレイなものがスキなんだア。お前ラの一族に力を貸してやっているのは、キレイなカラダからいっとうキレイな部分をもらう約束があるからだよオ。だがなア、昔ガイストゼーレの血の匂いがしたと思ったラ、そこにシュティーがいたのさア。こいつほどキレイなヤツ見たことなかったからなア。オレサマは契約を持ちかけたのさア」




 精霊は面白そうに笑いながらキーファの顔を覗き込む。




「オマエもガイストゼーレの末裔。オレのためにキレイな体……オマエラのいう五体満足のカラダを用意してくれてるみたいだが……シュティーのキレイなのにはかなわんなア。これはダメだなア」


「そんな……それなら、それなら次の当主はシュティーだというのか!?」


「何を世迷言をおっしゃっているのでしょうか、この愚か者は」




 聞くだけで凍てつきそうな声を吐き出したシュティーはどれだけその顔を険しくしても美貌は損なわれない。人ならざモノに魅入られるほどの美しさは、眼鏡という余分なものを取り払ったことで余計に際立つ。




「私の主人はラッテル様。これは私の命ある限り、いえ死しても変わることはない絶対のものです。ガイストゼーレの精霊を使役できる私が選ぶ主人はラッテル様。つまり、次代のガイストゼーレ家の当主になるのは私が仕えるラッテル様になります」


「僕はそれに納得していないが、一族以外のものがソレと契約できたことを周りに告げるのも憚られるからな。対外的には僕もお前も当主候補だったわけだ。しかしさすがにこの一件でお前を当主にすることはできなくなったな。せめてシュティーよりも気に入られれば話は違ったろうが」




 仲のいい兄弟では決してなかった。自分を陥れようと画策しているのも承知していた。けれどもラッテルはキーファを哀れに思う感情しかない。


 シュティーの逆鱗に触れた。その時点でどうあがいてもキーファは身の破滅が決まっていた。


 愚かで頭の足りない弟を本心から哀れに思う。


 けれど、救う気もない。




「さて。ラッテル様を害そうとするなど万死に値する行為。今ここでお前を精霊に食べさせてもいいのですが、お前に流れる血はガイストゼーレのものであることには違いない。その血のために、生かしといてはやりましょう。ですが」




 真実を飲み込めず、いまだ呆然と「嘘だ」とつぶやき続けるキーファの耳元でシュティーは何事かささやく。そのとたんにキーファはびくりと身を震わし、おびえたようにあたりを見回し始めた。まるで今まさに命を狙われてると言わんばかりに。


 様子のおかしくなったキーファを興味なさそうに一瞥し、シュティーが指を鳴らす。


 すると部屋の中から忽然とキーファの姿が消えた。




「……どこにやったんだ?」


「寮の自室に。体は傷をつけておりませんよ」


「なにを言ったんだ。明らかに様子がおかしかったぞ」


「いつでもお前を見ているぞ、と。あの虫けらはこれから先、闇に、影に、少しの暗闇からも視線を感じるようになります。何をしていても、自分を監視する視線を感じるのです。まあ実際に監視もしますが、幽霊に見張られているような心地でしょう。ラッテル様に反旗を翻す気持ちも浮かばないほど衰弱するかと」


「ふうん……うん? いや待て、僕も常に監視をされているが普通だぞ。それが罰になるのか?」


「視線を感じさせるということが重要なので。それでもラッテル様のように普通でいられる方はそうそういないでしょうが」


「常人に耐えられないことを主人にやるか……」




 呆れたため息をつくと、先ほどまでとは打って変わってにこやかにシュティーは主人に微笑みかける。その微笑は女神のごとくだが、見慣れたラッテルはただ疲労しか感じない。


 ラッテルのそばにはシュティーが、シュティーがいなくても黒猫が。黒猫がいられないときは小鳥が、虫が、はたまた燭台の炎となってラッテルの周りに常に『目』がある。そしてそれを通して常にラッテルを見ているのが目の前の執事だ。とはいっても、そのこと自体にはラッテルに不満はない。


 そう、ラッテルの不満はそこにはない。




「ひひひひッ。今回の契約者サマは相変わらずだなア。精霊使いが荒い」


「まだいたのかこの痴れ者が。疾く失せよ」




 実の弟に命を狙われていても平然としていたラッテルが、眉を寄せ忌々しそうに空中に浮かぶソレに言い放つ。心からの嫌悪感と憎悪を隠そうともしていない。


 しかしその憎悪心すら楽しそうに人ならざるモノは歪に笑い、挑発するように舌先で瞳を転がす。




「おやおやア。消えても黒猫に戻るだけだぞオ。契約者サマがそうお望みなんだからなア。それにオレサマはお前の一族を守護する精霊ってヤツのはずなんだがナア」


「お前のような不愉快なものが精霊などと高尚な存在であるはずがない。早くその醜悪な姿を消せ」


「ひひっ相変わらずだな坊ちゃん……ひっひっ、わかったよオ」




 室内に漂っていた影と共にその姿は凝縮され、やがて影の塊は小さな黒猫になる。


 黒猫はなおーんと鳴いて、ひらりと窓から部屋を出ていった。


 部屋は月明かりが差し込むだけの静寂な空間になる。


 ラッテルは黒猫が出て行った窓の先、闇を見つめて唇を結ぶ。




「さて……一応は旦那様にこの件をご報告いたしましょう。あのような愚か者でもガイストゼーレ家の直系、いずれあの愚か者の子供が必要にもなるかもしれません。飼い殺しにすることに変わりはありませんが……」


「シュティー」




 はい、と答えようとした瞬間にシュティーの身体が揺れた。


 自分よりも背の高いシュティーのタイを掴み上げてラッテルはシュティーを睨み上げる。


 たった一つしかない瞳で。




「お前のすべては僕のものだ。あの穢れたモノが僕のものであるお前の瞳を持っていることを僕は絶対に許さない。あいつと我が一族の契約を解除して、あいつからお前の瞳を取り戻す。それがガイストゼーレ家の破滅につながるとしても。お前のすべては僕のものなのだから。そうだろう、シュティー」


 


 悔しさをたたえて、それでも統べるもののとしての傲慢さを持ってラッテルはシュティーの両目をしかと見た。


 ああ、と。シュティーは言いようのできない罪悪感と、そして恍惚感を感じる。


 自分がガイストゼーレ家の使用人になったばかりのころ。ガイストゼーレ家の森の中で崖から転落し、シュティーをかばったラッテルは顔半分がつぶれるほどの怪我を負った。


 まだ子供で、目の前で死に近づいている主人にどうすることもできないシュティーの前に現れたのがあの人ならざるモノだった。ガイストゼーレの血の匂いにつられ、けれども肝心のラッテルは怪我を負っていて、代わりに無事だったシュティーに契約を持ち掛けた。


 今すぐラッテルを助けてくれるならば、と。そうして契約は結ばれ、シュティーは右目を捧げた。


 ラッテルの顔は時間を巻き戻すかのように元通りになり、シュティーは安堵した。


 けれども死の淵から帰ってきたラッテルは激昂した。片目がなくなったシュティーを見て。


 そうして治ったばかりの自分の右目を抉り出し、それをシュティーに突き出した。




『いつかあいつに奪われた僕のモノを取り返す。それまでに僕のこの眼を代わりとしろ。お前が僕のものである証に』




 その時から、シュティーはラッテルに絶対の忠誠を誓っている。


 けれど、と。


 主人が自分の瞳を奪い返そうと精霊を憎く思っていることを知りながら、自分は精霊の契約を解除することはしない。


 たとえそれが主人の望みだとしても。


 主人が憎む精霊の力を使ってでも、ラッテルを守るために。


 目の前で命が消えようとする絶望を二度と味あわないために。


 それは、ただ、すべて目の前の存在のために。


 あの醜いモノに選ばれた自分に似合う卑劣さであると知ってても。


 シュティーは微笑む。


 自分だけに与えられた、同じ茶色の瞳を愛おしそうに見つめて。




「はい、ラッテル様。すべてあなたの望むままに」




 闇の奥から黒猫の鳴き声が聞こえた。

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