第109話 ぬるま湯の罠
アカネによる四天王撃破の一報はほどなくしてラーライリア大陸全土を駆け巡った。
これまでの3年間に渡るヘイレンダールの起こした戦争において、初めての主要な将軍の死亡のニュースであったのだ。それも相手はイルセルセやノルアの正規軍でもなければ将軍でもない。一般人を率いて戦った、たった一人の女性の仕業だというのだ。
~ヘイレンダール帝国 帝都コテル ノイエンヒュッテ精神城~
皇帝クルーグヘイレンは頭を抱え、執務室のデスクの上に突っ伏していた。貴重な手駒を、それも四天王の中でも随一の実力と人望の持ち主であった風のベンヌを失ったのだ。
魔王は「なんということが起こってしまったのか」と不運が重なって起きた偶発的な事件を嘆いているのではない。自らの手が敗着となって斯くなる仕儀と相成ったのだという自責の念に押しつぶされているのである。
ノルア国内での支配を強固なものとするため方針の転換をし、ヘイレンダール国内で巨人による動乱が起こったために、自身が帝都に引き返して、丁度手薄になったタイミングで計ったように起こった事件である。
魔王は巨人の動乱がアカネによって引き起こされたことは知らないが、彼の言う『敗着』とはそこではない。
「私が…アカネ殿にあんなことを言わなければ…」
魔王の追憶は4ヶ月余り前、彼とアカネが初めて会った時にまで遡る。彼はベンヌのことを大層評価していたアカネに向かって「彼は彼で問題がある」と言った。「ベンヌのやり方では下が育たない」と、愚痴をこぼした。
その情報があったからこそ、アカネが『ベンヌ暗殺』の手を思いついたのではないか、と考えたのだ。下が育っていないからベンヌさえ倒せば残りはどうにかなると考えた。だからこそ暗殺を実行したのではないか。自分の不用意な発言こそがアカネに暗殺を実行に移させてしまったのではないかと思い悩んでいるのだ。
実際、アカネはそう考えて作戦を実行したし、副官のペロシュはベンヌが暗殺された時も、砦を前にした時も、致命的な判断ミスを犯したため敗北したのだ。
「それにしても…まさかここまでの力を秘めているとは…」
新生ノルア王国の復活劇にしても、今回のベンヌ暗殺にしても、たった一人の女性に強大なヘイレンダール帝国がここまでひっかき回されるとは彼は夢にも思っていなかった。正直言って舐めていたのだ。
その時、執務室のドアがノックされて魔王を呼ぶ声がした。
「エイヤレーレか…入れ。」
魔王はかきむしって乱れていた髪を整えて姿勢を正すと、その聞き覚えのある声に応えた。
エイヤレーレが挨拶をして部屋に入ってくると早速本題に入った。
「ヴァンフルフの連れてきた捕虜についてなんですが…いかが致しましょう?」
「チクニー・コンコスールか…今はどうしている?」
魔王の問いにエイヤレーレが即座に答える。
「通常の捕虜と同じように牢に入れてあります。尤も、彼はそもそも軍属ではないので、どのような扱いをしてもどこからも文句を言われる筋合いはありませんが…」
守られないことも多いが、捕虜の取り扱いという物には身分や所属に応じて細かい取り決めがある。そういったところが国際条約で決まっていないと途端に戦場は無法地帯と化してしまうのだ。
しかしその履行には必要条件がある。軍属として識別できる物を身につけていないといけないのである。便衣兵は重大な国際法違反であり、すぐさま処刑される存在である。そうしないと、軍隊はすぐに疑心暗鬼に陥り、占領した町での市民への虐殺が起こってしまう。これを防ぐため『良民表』というものが配布されることもある。これを持っていれば便衣兵や軍属ではない、間違いなく一般市民である、というものを示す識別票である。
旧日本軍が南京に入城した時は約20万枚の良民表が配られたという。
闇の勇者一行についてはそもそも便衣兵どころか軍属ですらない。扱いとしてはただのテロリスト、犯罪者である。
魔王はしばし考え込んだ。ベンヌが残した貴重な駒である。これをどう使うのか…
見せしめに処刑するのか、人質として活用し、投降するよう呼び掛けるか…魔王は先ほどと同じく4ヶ月前のアカネとの会話に思いを馳せる。弱者を駒として操る自分と、中立に立ち、弱者と強者の権利を平等に主張するアカネ。
ノルアやイルセルセは別だが、ことアカネに関して言えばこれは通常の戦争ではない。意志と意志とのぶつかり合いなのだ。力でねじ伏せることにさほど意味はない。もちろんアカネを殺せば戦いはそれで終わる。だがそれはただ『殺した』だけであって『勝利』ではない。少なくとも彼はそう考える。
ならば、この手に入れた駒を『勝利』のために使う方法がないか。
工夫がついたようで、魔王が口を開いた。
「もてなせ」
この言葉にエイヤレーレがニヤリと笑って応える。
「畏まりました。二度と我らと敵対しようなどと言う気が起きないよう、十分に可愛がって…」
「違う。文字通りもてなせ。部屋も牢屋ではなく来客用の部屋に鍵をかけられるようにしてそこに移せ。
そして王侯貴族のようにもてなすのだ。望む物は全て与えろ。女が欲しいと言えば適当な娼婦を町で雇ってこい。但し、決して外には出すな。そして、運動もなるべくさせるな。」
エイヤレーレがその意図を計りかねてまごまごしていると、さらに魔王は続けて言った。
「奴のおおよその経歴は調べがついている。アカネ殿に拾われるまでずっとぬるま湯の中で生きてきた男だ。
奴の望み通り再びぬるま湯に漬けてやるのだ。但し、今度は首までしっかりとな…」
「アカネさん…式神が戻ってきました。」
ベスクの村で疲れをいやした後一旦ナスルディン達と合流しようと考えていたアカネであったが、エピカがそう言いながら一枚の手紙をアカネに手渡した。
「一方通行じゃなかったんだ、これ…」
そう言いながらアカネが手紙を開く。アカネは内容を確認すると、難しい顔をして首をひねった。
「なんて書いてあんの?アカネちゃん。」
「機密が漏れるとまずいから詳しいことは書けないけど、王都に来いって…」
ビシドの問いにアカネがそう答えた。
「あんだけのことしておいて今更どのツラ下げてそんなこと…どうすんの?アカネちゃん。」
ビシドは露骨に嫌そうな顔をする。それもそのはず、イルセルセは表だってアカネ達と敵対してはいないが、転移陣を使って彼女たちを殺そうとした可能性が高いのだ。
「罠でしょうか、アカネさん。コンコスールさんのことも気になりますし、イルセルセの方は無視した方がいいんじゃないでしょうか?」
エピカの言葉にアカネが少し考え込んでから答える。
「ん~、チクニーの方こそ向こうからなんかアクションがないと何もできないんだよなあ。
そもそも今どこにいるのかも分からないし。」
「アカネ様は、この呼び出しに何か心当たりはあるの?」
アマランテがアカネに問いかけるが、その答えは即座に返ってきた。
「いや、十中八九ステファンのことだろ。」
「そ、そういえばそんなニュースもありましたね。」
エピカが半笑いでアカネの言葉に反応する。そう、すっかり忘れていたのである。世間的にはアカネが四天王を倒したことよりも光の勇者が魔王に敗北したことの方が大ニュースなのだが、アカネ達はそれどころではなかったのだ。
「イルセルセ国内の状況と、世論がどうなってんのかも確かめたいから危険は承知で一旦王都に行ってみたいんだけど、いい?エピカ。」
「まあ…そうですね…」
結局エピカも渋々ながらこれを承諾するしかなかった。
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