序章──料理の目覚め──
【トシキへ
今日もお母さんは仕事があるので夜の2時ごろまで帰りません。
ひとりでお留守番できるかな?
ご飯は冷凍庫から解凍して食べてね。
おかずは冷蔵庫に今日の朝ごはんの残り物があるはずなので
レンジで温めて食べてね。
いつもごめんね。お母さん頑張るからね。
おやすみ。 お母さんより 】
本村俊樹 7歳、小学1年生。
母親:女手一つで家を支える大黒柱
父親:2歳のときにしんでしまった。
トシキが小学生になった。この年からお母さんの仕事の量はいきなり跳ね上がり、夜はいることのほうが少なかった。トシキはいつもひとりで過ごしていた。朝ごはんは生卵とご飯と野菜の炒め物。お弁当は500円をもらってコンビニで買う毎日だった。夜は冷凍ご飯と朝ごはんの残り物。毎日変わらない日が続いていた。
そんなある日小学校の図書館である絵本を見つけた。「誰にでもできる かんたん おりょうり」という本だった。包丁や火など危険なものを使わない低学年用の本だったが、野菜炒めとコンビニの毎日だったトシキにはすべてが美味しそうに見えた。
───────そうしてトシキは料理少年となった。
はじめのうちは本を見ながら少しずつ作っていった。トシキの初めての料理はサラダだった。冷蔵庫にあったレタスとキャベツを手でちぎってお皿に入れて、醤油と油とゴマを混ぜたドレッシングをかけたサラダだった。普通のサラダだったが、自分で作ったということが嬉しくて苦手だったはずのキャベツもどんどん食べていった。お母さんに残しておくはずだった分も食べてしまった。
その日から、トシキの料理は日に日に進化していった。トシキは2年生になると、包丁や火を使った料理にも挑戦し始めていた。肉が生焼けになってしまったり、逆に焦がしてしまったりしてしまったが、色々な失敗を活かしながらどんどん成長していった。
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小学5年生から始まった家庭科の調理実習はお湯を沸かすところからだった。
(え、二時間でお湯だけ…どんな授業だよ)家庭科の授業がどの授業より一番しょうもなく思えた。
苦痛な家庭科の調理実習の時間にトシキはこっそりと、夜ご飯の下ごしらえをこっそりとしていた。
そのため、6年の最後に自由に好きなものをつくていいと言われたときは飛び上がる勢いで喜んだ。
トシキは、簡単に作ることが出来、お腹にたまるもの
───餃子を作ることにした。トシキはもちもちな餃子が好きなため皮から作る必要があった。
(強力粉、薄力粉、熱湯、塩…これで平気かな…? あ、アクセントにごま油でもいれとくか…)トシキは材料をボウルに入れると素早く、鮮やかな手つきで生地を練っていった。生地を伸ばし、広げる──。
餡を皮に包む作業のときには、ギャラリーがトシキの周りに集まっていた。
「みんなー、みてみてートシキ君を!すごいわよー。」先導したのは家庭科の先生だった。
結局、その日はクラス全員がトシキが作った皮と餡を使い、餃子を作ることになった。
そして、さらに独学で3年修行をし、トシキはさらなる進化を遂げた。同時にトシキは《中二病》というさらなる進化を遂げた。中学3年生の期末試験がちょうど終わった頃だった。
進化の影響により、キャベツの千切りをするのにも一呼吸入れて、《千刀乱舞!!》と叫びながら切っていた。
『忍桜切り!!』『微塵粉砕!!』『八つ裂き!!』『食者の為に』『ピーラー!!』『七月七日切り!!』『シャトー!!』『包丁者!!』
ものを切るたびに新しい技を覚えていった。
高校生になったトシキは、《中二病》というスキルを捨てるようになった。カッコ悪いと思ったからだ。しだいに技も忘れていった。
そしてその頃には、ほぼなんでも作れるようになっていた。レシピも完全に覚えていた。
ハンバーグ・唐揚げ・ラザニア・グラタン・マカロニなど有名所はもちろん
ファヒータ、ドーサ、ペナンアッサムラクサ、ルンダンと言った日本ではあまり知られてはいない料理までを幅広く作ることが出来た。
こんな料理に夢中なトシキだが、料理以外で夢中になっているものが1つだけあった。