ブルゥ・デスティニイ
発育不全で入学もままならなかった主人公が、必死に一歩踏み出して、入った新しい世界で、彼を待っていた者は、生涯をかけて贖う相手だった。
その年は早くやって来た秋に、皆早足に訪れるだろう長い冬の予感を余儀なくされていた。
俺、アレン・フランス・ロルァ・フォン・カーライツは、シェネリンデの二大勢力の一方、ダグラス・ヨアヒム・カーライツの嫡男として、12年前に生を受けた。
父ダグラスには、正妃である母との間に4人の娘が有った。当時寄る年波に、後継者を欲していた父は、次々に生まれる娘達に、些か辟易としていた。
5人目に漸く俺が誕生した時には、諸手を挙げて、誰も目にしたことも無いほどの喜びようで有ったと言う。
だが、5人目に漸く生まれた跡継ぎは、極端に虚弱な子供だった。次々に背負い込む病気が、成長を遅らせ、居並ぶ一族の後継者達との間に大きく水を空けられてしまっていた。
元々虚弱で有ったと言う事も有ったが、まだ、ものごころ付かない時から、俺自身が自分の置かれている立場というものを察知してしまったと言う事も、ストレスと成って俺の体を苛んだ。
父は、一族の将来も、自分の落胆も、己の中に納めてしまって一切俺を責めるようなことは無かった。だが、その父の愛情を感じるが故に、一層、期待を裏切り続ける自分を感じずには居られなかった。
母もまた、末に生まれた息子に愛情を惜しみなく注いでくれた。姉達も同様だった。もっとも、一番下の姉だけが、3つ離れていて年の近い姉弟だった。その上の姉達は、既に嫁いでいて、他国と言うことも有り、数えるほどしか会った事がないのだが。
とにかく、俺以外の子供には既に手がかからず、両親の関心は俺一人に集中していた。
就学の年齢になっているにも拘わらず、病弱を理由に家庭教師の世話になっていた。最も、9歳に成っているはずの息子の体がどう見ても5歳児にしか見えなければ、親は不安で外に出せなくなるのも無理は無かった。
9歳になった秋の或る日、父の末弟の息子であるローラント・カーライツが父親と共に、グラヴゼル入学の報告に屋敷を訪れた。長兄で有り首長で有る父に諂う父親に代わって、奴は成長不良の俺を見下していた。
真新しい制服に身を包んで、わざわざ俺の隣に立った。頭1つ小さい俺を下げた視線で嘲笑う。
「おめでとうローラント。アレンもご一緒出来ると良かったのですけど」
溜め息交じりに言う母に嫌みたらしく言う。
「伯母さま。アレンには良い先生方が付いておいでだから大丈夫ですよ」
言われて、寂しげに微笑む母に鼻の奥が熱くなる。“泣き虫アレン”ローラントの口が無言で何時もの揶揄を形作った。
直後、喘息の酷い発作で入院して2年の間涙を呑んだが、ローラントの次弟がグラヴゼルへ上がった事を聞いて遂に切れた!
性懲りも無くその日も朝から熱っぽくて、又母がオロオロしている。
「少しでも召し上がらなくては治りませんよ」
「薬は飲みましたし、明日には治ります」
「……だって、お前」
「子供扱いは止めてください!僕はもう12で、とっくにグラヴゼルへ行ってなきゃ成らないんですよ!」
「アレン……」
母の呼びかけを無視してベッドへ潜り込んだ。……駄目だ。母様が嫌になりかけてる……
翌日の昼下がり、アイスクリームにリンゴのコンポートを載せた好物の皿を手に、執事のメイズが様子を伺いにやって来た。
「お熱は引いて居りますようで、良う御座いました。ところで、で、ございますが……」
昨夜来口を効いていない母に泣きつかれたらしい。
「お前の言いたい事は判っているよ。メイズ」
「されば、奥様がお喜びでございましょう」
「母様には謝ろう。お前が僕の味方になってくれるのならな」
「坊ちゃまのお味方で御座いますか?!」
「僕をグラヴゼルへ連れて行っておくれ。僕はどちらでも良いんだが、独りで行こうと思っていたのだからね」
「坊ちゃま!」
「母様に知らせたら、2度と誰とも口を効かないが」
目を白黒させて固唾を呑むメイズの顔が面白かった。
「仰せのままに」
ここの所度々行方不明になる息子を、すわ、非行の兆しかと、危ぶんでいた両親は、実の所感激と共に、俺の就学を快諾してくれた。
入学手続きも済んで、入寮するという日、付いて来たがる母を必死の思いで説得した俺は、生まれて初めて自分一人で世の中というものに遭遇した。
世の中に出たと言っても、まだ学生、学校と言う治外法権の世界に飛び込んだに過ぎなかったのだが、幼年学校にも通わなかった俺には、未知の世界だった。
正門を過ぎる車の中で、この門を入ったら違う世界があるのだと思ったことを今でも忘れていない。
車が校舎の車寄せに着いた。
「お荷物は後ほど、寮のお部屋の方にお持ち致します」
対応に出た学校の職員が言い、庶務で登録を済ませると、屋敷から唯一付いて来ていた執事のメイズが、溜息をつきつつ首を垂れる。
「坊ちゃま。お元気でおいでくださいませ。御前様、奥方様にお手紙をお忘れになりませんように。お辛い事もございましょうが、どうかお体をお愛い下さいまして…」
「メイズ。僕は週末には家に帰る事も出来るんだからね。ここから何年も出られないんじゃ無いんだからね。大袈裟に悲しまないでおくれ。じゃ。僕もう行くから。父様と母様に心配しないでって言っておくれ。気を付けてお帰り」
滂沱の涙を流しつつ、執事が帰って行くのを見送っていると、聞き覚えのある声で、無礼な挨拶を受けた。
「よぉ。泣き虫アレン。やっと来たな」
従兄弟の中で1番年嵩のガキ大将、ローラント・カーライツ。いちいち俺を見下す嫌な奴だった。
俺が彼を認めた上で、何も言わずに居ると焦れて言う。
「俺が何故ここに来たか聞かないのか?!」
何ともめんどくさそうに言う彼に、仕方が無いから聞いてやった。
「どうして?!」
「てめぇ、その生意気な言いぐさは何とかならねぇのか?!」
聞けと言うから聞いたのに。
「俺はな。親父からお前の世話をするように命令されたんだ。お前みたいな泣き虫小僧のな。このグラヴゼルで付いて行くだけでも大変なんだぞ。なのに…」
「ローラント・カーライツ!!口を慎め!仮にも主筋の後継者に対する口の利き方とは思えんな!!」
突然背後から一喝が飛んだ。
ローラントの体が緊張に強ばったかと思うと最敬礼で謝罪した。
「申し訳有りませんでしたっ!!」
「アレン・カーライツ伯爵でおいでですね?!私はスタファ・ロウェル。学校に馴染まれるまでお世話を致します。こちらへ、取り敢えず寮の方へご案内致します」
「宜しくお願いします」
俺は、右手を差し出して、近づきになるために握手を求めた。彼は鳶色の目を見張って、大きな温かい手で、俺の手を握った。
「伯爵がおいでになるヤコブ館は、新入生と、2学年の学生が収容されています。4年に編入しておいでになるのですが、幼年学校も経験されておられないとか、寮生活に馴染まれるまではこちらの方が都合が良いかと思います」
「不都合がございました折は、いつ何時でも、私に仰って下さい。できる限りの善処をさせて頂きます」
スタファ・ロウェルの言い様は、学校での生活も家と大差ないように思えた。
「アレンと呼んで下さって結構です。ロウェルさん」
「スタファ」
「スタファ。学校では社会的な身分とは切り離されるものと思って居たのですが…」
「その通りですよ」
スタファは俺に笑顔で応えた。
「通常、学校の中では社会的な身分とは切り離されています。ですが、それは、一般の学生にのみ適用されるものなのです」
「一般の学生?!」
「はい。聖グラヴゼルは入学試験に際してはその者の身分出自に関わらず、一切が試験結果で選別されます。ご存じの通り、入試は、学科、論文に分かれており、知識だけではパス出来ないように工夫されています」
「試験の結果を審査する試験官も、学校の現役教師と、下級生の指導を担当する学生との二部構成で行われます」
「そして、一旦全ての学生が、一般学生として登録され、その後の学校生活で上げた成績によって、大学、社会へと進路が決められます」
「社会に出る前に進むべき道が決まる?!」
「ええ。それは一部の学生のみに関わる問題なので、一般の者には情報提供はされません。貴方もいずれ、資格者となられる方ですが、今は何も申し上げる事は出来ないのです」
「もちろん、その制度に関わる事が無くても、聖グラヴゼルは十分所属する価値のある学校で有るのは言うまでも無いのですがね」
説明を聞きながら歩く内に、寮に着いた。学生の増加に伴い、増築を繰り返して来た学舎は、慣れを会得して居ない者には錯綜を極め、自分の部屋を確実に探り当てる迄には相当時間を要するので有るのが見て取れた。
俺には総てが面白く無いもの、だった。
大カーライツの後継者として、総ての権利と、愛情を注がれてここまで来た。望んで得られぬものは無く、学問も、芸術も、技術に至っては困難を感じたこととて無い。
勢い人生に対して脱力感を既に味わっている始末だった。ここでもまた、俺の胸を躍らせるものとて無いのだと、落胆しかけたその時、頭の上から声が響いた。
「スタファ・ロウェル!週明けの生徒総会の事で話しが有る!!」
艶を帯びたテノールが、心地良く響き、俺の心を揺さぶった。何時になく心を動かされて声の主を捜した。
「アウル!後で伺います!学生会の命令でカーライツ伯爵をご案内せねばなりません!」
彼等が話している間中、俺の心臓は早鐘を打ち続けた。
あれは…誰だ?!。
逆光の中、長い髪を後ろで束ね、華奢な躰に纏わりつく様に流した、幻想的な姿が浮かび上がっていた。
陰に沈み込んで、顔形は定かで無い、だが、その姿を見るなり、彼から目を離せなく成っていた。
スタファが視線を戻し、俺を促して歩き始めて漸く現実に引き戻されていた。
「あの方は…何方でしょうか?!」
聞く声が震えていた。スタファが無理も無いと言うように頷いて、振り返った。
「アウル。我々は親愛を込めて、そうお呼びしております。あの方こそ、王太子殿下の弟君にて、コンスタンツ・アウロォラ・フォン・オルデンブルク公爵であられます。伯爵には、面識がお有りでは無かったのでしょうか?!」
明らかにスタファの口調は誇らしさを秘めていた。
彼等にとってオルデンブルク公爵はいずれ傅き、押し立てて行くべき旗頭で在ると同時に、拠り所となる者なのだろう。
「伯爵と同様に、身分の高い方ですので、幼年学校の就学者では在られませんが、1年遅れの入学にも関わらず、既に最上級生で有られます」
「学校では、4学年以下の歴史と、哲学の講師をお勤めです。伯爵のクラスも公の授業を週1回はお受けになられるはずです。お楽しみになさって宜しいですよ」
新入生と違って、4年に編入した俺は、翌日から通常のカリキュラムで進んで行く授業に出ることになった。
授業の内容は2年も前に終えていた所で、思い出す迄に数分かかったが、思い出して終えば退屈なだけだった。
仕方が無いので、教師や、上級生が務める講師の人間観察が毎日の日課になった。面白そうな人物は何人か居たが、彼、程に惹きつけられる者は他に居なかった。
週1の授業を楽しみにと言ったスタファの言葉通り、アウルの授業の時だけ嬉々として目を輝かせて居た俺が、端から見れば至極奇妙に映っただろうと、今になって冷や汗が出る。
当時は回りも俺と似たり寄ったりだったのだろう、俺一人が彼に心酔している事を見抜かれもしなかったし、冷やかしもされなかった。
授業の中には、心身の鍛練を兼ねたフェンシングや球技、ピアノやバイオリンと言った科目も組み込まれていた。俺は球技はかったるいし、ピアノは今更だったので、フェンシングを取った。
何れも一科目必修で、選択の余地が有った。
何時目かの授業の中で、教師とアウルが試合をするのを見ることになった。以外だった。アウルが格闘技を嗜むとは思わなかったのだ。
何故だかは判らなかったが、戦いを好んでするとは思えなかったのだ。今はそれが当たって居なくも無かったと判ったのだが。
その時、教師と試合を始めた彼の姿勢に驚かされた。
一見柔らかく少女の様な外見を持っている彼が、白い稽古着に身を包み、マスクを掛けて剣を閃かせると、それまで見えなかった闘志が前面に出てきた。
オリンピックの選手でも有ったと言う教師が、鋭く斬り込まれて、だじろいで居るさまを目の当たりにして、俺の憧れが驚きと共に舞い上がったのは言うまでも無い。
気迫が教師のそれを凌駕しているのだ。
確かに、相手が自分の生徒で有るという引きと、傷付けることを憚る貴人で有るとう遠慮は有っただろう。その為に始めは手加減が見えた教師の踏み込みが、彼によって次第に真剣味を帯びてくるのを、半ば快感とも言えるものに貫かれながら、夢見心地で見ていた。
やがて試合が終わり、マスクを外して礼を交わした彼が、模範試合の礼を述べられ、俺達に一礼して部屋を後にしようとしていた。
教師は俺達に向き直り、素振りのフォームを説明し始めた。皆教師の方に注意を向けて居たが、俺一人がアウルの姿を追って居た。
マスクと剣を片手にそのまま出て行こうとしたものの、流れる汗が足を止めさせた。立ち止まって汗を拭い、濡れたブロンドをかき揚げた。その目に1人だけ彼を向いてぼうっと見惚れている俺が留まったようだった
見詰められて、我に返ると自分一人置いてけぼりに成っていた。焦って見直した俺に彼が笑った。
その笑みに俺の心が捕まった。
ずきんと、心臓から体の奥へと痛みが走った。
当時の…今もそのきらいが有るが、その頃の俺には自分の頭の中の考えを、何か有ったときに咄嗟に言葉として発することが出来ずに、相手に切り込まれると、悔しさと焦りが先に立って感情が走り出してしまうのを止められず、遂には泣きだして終うという厄介な癖があった。
今は泣きだすことは無いのだが、焦るのは相変わらずで、そんな時には決まってアウルに言われてしまう。
「感情が先走る。悪い癖だな。アレン?!。」
咎めるような、容認するような。妙な具合に。
当時も今も、感情を全く無いもののように見事に抑えきるアウルを見ていると、精神力の強さに舌を巻くこと頻りで有る。
編入間もない頃、その悪い癖を立て続けに出して、最初の生徒総会の頃には「泣き虫アレン」と言う有り難くも無いニックネームが蔓延して終っていた。
権力者の子弟の俺に面と向かって言う馬鹿は居なかったが、自分がどう言う評価を受けているのかは聞かずとも察しが付くというものだった。
俺がこの世に倦んで何も望むものが無いと言ったのは、回りに対しての事だったが、自分自身に対しては甘いと言うか、情け無いというか…その辺が甘やかされて育った子供だった。
自分を鍛えるという概念が無いので、鍛練していけば自分が変わる等とは全く考えずに居られたところが、世間知らずの極みだったかも知れない。
課せられた課題を処理するのは苦も無く出来た。何かテーマを決めて研究の結果を論文に仕立てることも然り、要するに勉学に関する事に対しての苦労は無く、成績は常に学年の主席だった。
勢い論文発表や講師代行、等の役割を振られる事になった。これが「泣き虫アレン」を作り出す原因だった。
落ち着いてやれば何でも無い。難しい事を押しつけられて居るわけでも無かったのに、やたら慌てて失態を露呈する。
それが何ともやり切れないのは、その様な場所には必ずアウルが居合わせた。彼にしても俺と同じ様に役割を振られてそこに居合わせたのだが、失態をやらかす度にそれを見ていた。
恥ずかしさにかあっと頭に血が上ったが、目の端に映った彼が、他の者の冷ややかな、嫉妬をも含んだそれとは違って居たと思ったのは、俺が感じていた自分への甘やかしでそう見えていたのでは無かったと知らされる日が来た。
半期に1度の生徒総会の日、例によって俺は講師待遇の上級生から、生徒会役員を拝命し、壇上でその日1番長い上半期の生徒活動の総括という奴を、発表させられることになっていた。
準備までは何の苦も無かった。自分で上げた原稿だったし、何度も読んで殆ど諳んじていた。後は壇上に上がって原稿を読み上げればよいのだ。
心配することもあがる必要も無いのだが、俺は全く足が地に着かないほど上がって終って、順番が迫る舞台袖で、今にも失神して終いかねない程に成ってしまっていた。ガクガクと四肢が震え、失禁して終うのでは無いかとも思った。
このまま壇上に上がって取り返しの付かない事態を引き起こして終う前に、恥を忍んで代役を申し出ようかと真剣に悩んだ。しかし、土壇場になって誰が引き受けてくれるだろう?!
ここまで来てしまっては、どうにもならなかった。
どちらにしても俺は終わりだと、可能性を手にして生まれてきていても、実力が伴わなくては何にもならない。
何も持っていないのと同じだった。
もう駄目だと目を閉じたとたん、俺の背をふわりと掌が支えた。
「しっかりしろ。アレン・カーライツ」
「お前には出来る。充分準備してきただろう?!もしもの時は私がフォローしてやる。思い切ってやってこい」
信じられない事態に恐る恐る振り返ると少し困ったようなアウルの顔があった。
ふ…と、涙が浮いたのを覚えている。
「仕方ないな。ほら」
言ってそっと唇が額に触れた。
まだ呆然として居る俺に、溜め息を付くと唇に…
「厭じゃ無かったか?!」
聞かれて、思い切り首を振ると、彼が笑う。
「馬鹿。ぱあになるぞ」
もう一度、ぽん、と、背中を押してくれた。
夢見心地のまま、何をやったのかも分からないままに、舞台を降りて来ると、満足そうに微笑む彼と、同級生たちの驚愕が俺を迎えた。
たった1度の成功が俺を生まれ変わらせた。
やれた、と言う規制事実が有る事を拠り所に、其れからの危機を乗り切れるようになった。
以後、「泣き虫アレン」と呼ぶ者は居なくなった。
お読みいただき有り難うございました。この話に出てくる学校は、実在の中学校です。未だかつて見たことも聞いたことも無いような珍しい学校でしたが…次の作品でより詳しい概要がご覧になれます。