71 オタク、社宅を目指す
俺は女子高生三名を残してプレハブから飛び出した。工場に逆戻りだ。
勤務初日ってことで、仕事を覚えることに集中しすぎてしまった。
自分の生活基盤を整えるのを後回しにしてしまった。
普通なら住む家くらいは最初に確保してあるもんだけど、異世界転生という事情が事情だけに、しょうがないっていえばしょうがない。
ということで俺は正規部員二名と臨時部員一名を残して、旭川西魔法学園相撲部を後にした。といっても行く場所はその学園の地下なんだけど。
また例の貨物用エレベーターに乗って、物扱いされている気分を味わいながら地下にくだる。
事務所へ行くと、扉の窓から中を覗いてみると最初の時に会った男性がいた。名前は、ええと、誰だったっけ。佐藤さんか。
じゃない。鈴木だ。鈴木副工場長だ。鈴木とか佐藤とか、日本全国どこにでもありふれた名字は困るな。佐藤だったらウチの部員の佐藤恵水だよ。旭川なんだから旭川らしい名字を名乗ってほしい。たとえば青森における小比類巻とか沖縄における島袋みたいなの。
礼儀として当然だけどノックをして中からの返事を待って扉を開けて事務所に入る。と、鈴木副工場長の向かいに来客が座っていることに気づいた。
「あら、あなたは。また会ったわね」
今更ながらだが、事務所内にはフェロモンの香りがむんむんとしている気がする。あくまでも気がするだけだ。相手だって、食品工場に来るのに、香水などの化粧を濃くするとは思えない。だけど、美を究極化したような体から漂う色香は隠しようも無い。
今朝、青い車で俺を工場まで送ってくれた謎の美女だ。
また会うとは。
運がいい、っていう問題じゃないだろう。俺は佐賀県擬人化アニメのライブイベントに当選して一生分の運を既に使い切ってしまっているのだ。だからここで幸運イベントが起きるとは思えない。
幸運でないとするならば、運とか不運とかの範疇を超越した、より上位の運命の赤い糸で結ばれているってことじゃないのかな。
「あ、来客中だったんですか。いいんですか、俺が入ってきちゃって」
「いいのよ。もうこちらの打ち合わせは終わって、今から帰るところだったから」
美女の声は天上の甘露ともいうべき色っぽさがある。声優大好きで声豚を自称する俺が認めるのだから、それだけすばらしい声ということだ。
「相撲部の指導に行っているのではなかったのかね?」
「あ、そちらは、基礎的な訓練をさせているので、その間に、きちんと環境を整えるのも必要なことかなと思って、来ました。相談なんですけど、こちらの工場には、社宅とか、ありませんか? 俺、住むところが無くて困っているんです」
「あれ? 昨日、ここで書いてもらった入社時の書類には、ちゃんと住所が書いてあったような」
住所を書く欄なんかあったかな? いや、あるのが普通か。
何て書いたんだっけ? 昨日のことだけど、あまり明確に覚えていない。
住所を書くなど、珍しいことではないので、深く考えずに漠然と自分の住所を書いていたと思う。
それは、転生前の元の旭川市における住所だ。道路を挟んだ向かいにコンビニのセコマがあるという立地の古いアパート。それを深く考えずに書いてしまったかもしれない。
でも、その座標には俺の住むべき愛の巣は無い。セコマの向かいにセコマという、ドミナント出店方針にしてもやりすぎ感のあるコンビニ競争過密地域になっている。そうだと最初から分かっていたら、住所を書く時に慎重になっていて、何も考えずに漠然と書いたりはしなかっただろう。
「いやぁ、それが、諸事情でそこに住めなくなってしまいまして。新しい家を確保する必要が出てきたのです。で、社宅があるという噂を聞きまして、空きがあったら、是非入居させてもらいたいんですが。家賃は給料から天引きって形でお願いできたら」
できれば、いくばくかでも給料を前借りしたいところだ。俺の手持ちの金は心許ない。
「社宅の空きかぁ。担当者に聞いてみないと分からないけど、そんな都合よく空きがあるとは思えないかな」
渋い表情をしながら、副工場長は机の上の電話から受話器を取って、どこかに電話をかけ始めた。話の内容からすると、やはり社宅に空きがあるかどうかを確認しているらしい。
でも、製麺工場で、社宅なんてあるのか。てことは、家族経営の地元の中小企業とかではなく、それなりの資本のある大企業なのだろうか。
ガチャリ、という音とともに電話の受話器が置かれた。コードが盛大にねじれていた。
「確認してみたところ、ちょうど都合の良いことに、空きが一室あるらしい。アパートではなく、一軒家になるそうだよ」
その言い方だと、アパートの社宅も一軒家の社宅もあって、現在空きがあるのは一軒家ってことになるのかな。すげぇな。社宅も複数あるのか。
「入居は、すぐにでもできるらしい。前に住んでいた人が、家財道具の片づけをする間もなく慌ただしく出て行ったので、そのまま残っているらしい。まあ、前に住んでいたのは若い女性だったというから、デザイン的な好みに合わなかったとしても、そのへんは我慢してほしい、と担当者は言っていた」
んんん?




