10 顧問とは別に
恵水は右手の甲で額から流れた汗を拭った。屋外が暑い上にプレハブの中なので風通しがあまり良くない。暑さが籠もる。
俺も、風神雷神柄のスカジャンは脱いだけど、トレーナーを着ているので、暑い。……でも、今、これを脱ごうとしたら、思考の硬直した恵水あたりに変な誤解をされそうでコワイ。
「さっきは、それっぽいことも言っていたけど、岡目八目というか、それくらいだったら素人でも言えるかもしれないでしょ」
今時のJKにしては岡目八目なんて難しい言葉を知っているなあ、と俺は少し感心した。佐藤恵水という女の子は、相撲を取る時以外は眼鏡を掛けているようで、お下げ髪ということもあって、なんか古典的な学級委員長っぽいヤツだ。
まあ、恵水の言いたいことは、分からないでもない。
素人でも、それっぽいことを言うだけなら、言うことはできるのだ。
例えば俺は北海道出身なので、プロ野球チームは当然地元のHNFのファンだ。……元の世界にはあったけど、こちらの世界にもプロ野球って存在するのだろうか? それは後で確かめてみるとして……HNFのナイターの試合をテレビで観戦していたりすると、時々監督の采配に疑問を感じたりする。「この場面でこのリリーフ投手を出しちゃダメでしょ。ほら四球出してランナーが貯まって劇場になってきた。ほらタイムリー打たれたじゃん」みたいなケースが多々ある。
そのへんの、ビールを飲んで酔っぱらっているバーコードおじさんでも、監督采配の批判程度ならできるのだ。
じゃあ、たとえば俺が、プロ野球チームの監督になれるのか?
試合の時に適切な采配をして、チームを勝利に導くことができるのか。それも、短期的な視点で目の前の試合だけを勝てばいいというわけではない。一年間シーズンを通して戦い続けなければならない。
単に試合で勝つだけが監督の役割じゃない。日頃から選手を指導して効果的な育成をしなければならない。もちろんコーチもいるから一人で全部やるわけではないが、責任は監督が背負う。
もちろん俺には野球に関する専門的な知識も技術も無い。だから監督になるなんて無理だ。
……でもそれを言っちゃうと、相撲に関する専門的な技術も知識も無い。そんな俺が女子相撲部の監督になっちゃっていいのか、という疑問はある。
「男が相撲の監督なんて」
恵水さんは、あくまでもそこにこだわるらしい。
だがそこで、俺は一つ可能性に気づいた。
「いや、ちょっと待てよ。文句があるならんならさ、女性の指導者を捜せばいいじゃないか? そうだよ。どうしてその可能性に思い至らなかったんだろう。相撲は女の嗜み、っていうなら、学生時代は相撲をやっていて引退して指導者になった人だっているんじゃないのか?」
女子部員二人は顔を見合わせた。なぜか、眉根を下げて悲しげな表情になった。
「……それが、そうしたいのは、やまやまなんだけど。そもそもそれが上手く行くなら、最初から城崎さんのような男の監督なんて迎えるどうこういう話なんて出てこないし。今の日本の状況じゃ、指導者不足なのよね。特に相撲経験者の女性は」
「ちょう、、、あれがあるから」
クロハが何か言いよどんだ。なんだろう。男の俺には言いにくいようなデリケートな問題なのだろうか。
だが、理由がなんにせよ、指導者がいないというのはどういうことだ。
「なんだそりゃ。おかしいっていうか、不健全だろう。別に女子相撲に限らずどんなスポーツでも、選手が現役引退した後に、きちんとスポーツ科学理論などを学ぶことを条件に指導者になれる道がなければ、そのスポーツは裾野が広がらずに、優秀な選手も育って来ないぞ」
「いちおう、顧問の先生は、いるんだけど。女の先生だけど、相撲経験者じゃないから。そもそも学生時代は魔法生物部だったって言っていたから、スポーツの経験がそもそも無いみたいで」
ため息しか出てこない状況だ。なんなんだろうか、戦時中の物資不足で「欲しがりません勝つまでは」とか真顔で言っていた昭和初期の日本みたいじゃないか。
部活の顧問の先生も、最近の日本でよく聞いていたブラック部活じゃないのかな? 生徒にとってのブラックではなく、顧問教師にとってのブラック。学校の授業の準備やテストの採点などもしなければならないし、生徒の進路指導も必要だし、生徒が何か問題を起こしたら対応しなければならない。そこに加えて部活の顧問として、土曜日曜返上で従事しなければならないというアレ。それだって、自分の経験のある競技の顧問をできるというわけでもないので、そのスポーツに関する知識も何も無い状態から始めなければならないというケースがよくあるらしい。
まあ、それを言ったら、相撲経験が無いにもかかわらず相撲部監督にスカウトされている俺の今の状況も、どうなんですかという感じだけど。
「顧問の先生とは別に、相撲の実技の指導者が必要なのは確かなんです。だから、城崎さんが我が部の監督に本当に相応しいかどうか、実力を見せてください」