45.つわものどもの痕跡に
気の緩みそうになる同じ階段、同じ通路、同じ眺望。変わりばえのない塔の中。
新たに踏んだ段に白墨の痕跡はない。石段のへこみや黴模様の位置は、確かに変化している。
白さを増す月光、それを弾く暗い湖面、幽かに浮かぶ黒い森は、変わっているのか変わらないのか判然としない。ただその位置を変える月だけが、時間の経過を教えてくれる。
視界の通らない螺旋構造に、それでも時折は警戒心を引っ張り出して、ヴァニタスは階段を上っていった。外から見たとおり真っ直ぐ積み上げられた塔は、上っても上っても螺旋に差を見せようとしない。
次に現れた扉は。蝶番が外れてだらしなく口を開けていた。
覗き込むと、縁の崩れた角卓が斜めに立っている。膝を折るように二本の脚を折り畳み、卓上にあった物を石床にぶちまけていた。黒く濁った薄い錫の皿と杯、赤黒い錆棒状の小刀。朽ちた小さな木樽には葡萄酒でも入っていたのだろうか。黒く流れた染みが一瞬、血の痕に見えた。
石床に三箇所、長方形の痕跡を認めることができる。牛皮紙か羊皮紙のようだが、黴と苔に埋まり水分を吸って、内容を確かめるどころか持ち上げることすらできない。摘み上げた欠片は存外厚く、滑石の薄片がまだ指先に残った。クロセス村で見たそれよりも、ずっと高級品に違いない。
壁沿いには長椅子が幾つも坐っている。兵士の詰め所だったのかもしれない。
壁に立てかけられ或は床に落ちた武具の痕跡。槍の穂先はもろもろに崩れ、斧は錆の固まりだ。木製の柄や盾は腐りきっている。帯状や板状の金属は鎧の補強金具だろうか、それを覆う革は触れただけで元の形を失った。
室の半ばほどに衝立があったが、元々薄い板木のために既に倒れ臥している。奥には寝台がぎゅうぎゅう詰めになっていた。その幾つかには何故か錆の塊が横たわっている。足元には靴だった物が、これも倒れたまま朽ち果てていた。立てかけられた長剣は手に取る事はできたけれど、抜こうとすると途中でぐずりと折れてしまった。
兵どもが夢のあと。
ヴァニタスは、下唇に歯を立てた。
何もかもが虚しくなった世界の痕跡を、彼はしばらく見つめていた。
これは或は、彼の故国の姿かもしれない。
公国が滅びて後、彼の国に戻ったことはない。
戻りたくないわけではない、けれど戻ることができない。
その風景はきっと、彼の記憶とは異なるから。
あの後。
西の狂領主が斃され、戦乱が徐々に収束していった後。
ロシ公国だった土地は、全て天領に召し上げられ、今そこに暮らすのは墓守ばかりという。
城もなく里もなく、草原も花畑も残っていない。人影もなくただ墓石だけが並んでいる、そんな光景を。
彼は見たくなかった。彼には、とても耐えられなかった。
例えそこに家族の墓碑があったとしても。
いや寧ろ、なればこそ。
ああ、それでも。
何時かは戻らねばならない。それが彼の、ただ一人、最後の国民としての義務だろう。
そして最後の王としての。
手向ける花もなく、投げかける言葉も知らず。
悼みに顔を背けながらその場を後にした。
そろそろ。
痕跡が何かに気づき始めたようです。
でもまだ認識したくない。まだまだひよっこ。




