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犬鏡外伝 Side By Side ―双璧―  作者: 奥瀬
第二部 星を継ぐもの
8/13

今犬丸の加冠

この物語も折り返しをむかえ、ちびっこだった今犬丸も、少年武将小山氏政として成長していきます。

 今犬丸が初めて導誉と対面したとき、その煌びやかさに目が眩んだ。

 平金糸を惜しげもなく使った金襴(きんらん)纐纈(こうけつ)直垂(ひたたれ)、豹皮の行縢(むかばき)を腰に巻き、これ見よがしに黄金(こがね)造りの太刀を()く。

 婆娑羅大名とは聞いていたが、まさかこれほどまでとは。

 目眩を覚えたのは今犬丸だけではない。

 ――この御方が烏帽子親なんて大丈夫か。

 今後幕府内で親代わりの存在となるのだ。

 一抹の、というか相当の不安を感じる今犬丸と家臣団であるが、導誉は全く意に介さない。

「小山宗家のご子息たれば、仮親など将軍家や三条殿(直義)が相応しいであろうに。この導誉ごとき小名がしゃしゃり出て、申し訳ないこと限りない」

 からからと笑う。

 しかし、己れを小名と笑い飛ばすが、彼は佐渡守や若狭・近江などの守護職を歴任兼任する然るべき大大名である。(ただし配流中)

「いいえ、当家と致しましては過分な果報。恐悦至極にございます」

 野崎は慇懃な態度で頭を下げた。

 加冠の儀は滞りなく行われ、今犬丸は野崎らの手はずにより、将軍家の(いみな)(本名)から一字を拝領して氏政と名付けられた。

 ちなみに烏帽子親の『導誉』は彼が出家した際の法名であるが、導誉も尊氏も以前、かつての主君、北条高時から一字を授けられて諱を高氏(たかうじ)とした。同名は偶然だが、尊氏などはさらに後醍醐(諱は尊治)から倒幕直後に一字を与えられている。二人とも裏切った旧主に由来する名を平気で使い続けているが、神経が人並みでない。

 なお、朝氏・氏政兄弟の父、秀朝の初名は高朝。二人と同様、高時からの一字であったため改名したが、これが人並みの神経である。

 もっとも導誉は、下向前『たかうじ』が配流など将軍家に申し訳ないと『峯方』に改めている。旧主とは違い、導誉にとって尊氏は特別な存在なのだ。

 その彼が言う。 

「そなたの『氏』の一字が将軍家の一字であることを生涯忘れるな」

 導誉の言葉には、今犬丸の幕臣としての立場を改めて確認し、同じく一字を賜りながら南朝に付いた兄朝氏のようにはなるなとの戒めも含まれていた。

 けれど、今犬丸には『氏』の一字が兄との繋がりを生んだように感じられ、心のなかでにこっそり喜んだ。

 小山五郎氏政。

 以後、今犬丸は、小山家次男の通称、五郎の名で親しまれる。

「おい、五郎」

「はい」

 導誉から馴れぬ名で呼ばれ、氏政は少しこそばゆい。まだ元服して誇らしいと気持ちは湧いて来ない。

 同様に髷を結い、烏帽子を被った頭部も、何だか変な感じがする。家臣が会う度に「大人におなりで」と目を細めるのもこそばゆい。

 ――大人になるって、こそばゆいことばかりだ。

 氏政は照れながら導誉に寄っていく。

「小山の先祖が龍宮の海王から頂戴したという鎧を見たいが、良いか」

 唐突な道誉の言。だが、氏政は大して驚くことはなく、むしろ得意が顔に出そうになる。

 この日本(ひのもと)にあれば誰もが知る俵藤太の竜宮伝説。

 嚢祖秀郷の平将門退治は、龍王の敵、大百足退治の物語となって人間(じんかん)膾炙(かいしゃ)されている。龍王は天皇、大百足は朝敵の例えであろうが、伝説の中で俵藤太こと藤原秀郷は海神より多くの褒美を下賜されたことになっていた。

 その一つが珍らかな甲冑一揃えである。

「はい、こちらに持って来させましょう」

 頃は冬。寒さで人馬を損ねぬよう、鷲城と祇園城では互いに暗黙裏の休戦。氏政が元服を果たせたのも、その余裕あってのことだ。

 合戦が再会されるのは来春、正月が明けてからだ。

 その間、導誉の無聊を慰めるのは、城主たる己れの務めと心得ていた。

 伝来の鎧は、朝氏が九州に下向していたころ、宇都宮からの攻撃に備えて曲輪から鷲城に運び込んでいた。朝氏や郎等たちが出奔した際に、持ち去られなくて幸いである。

「先祖秀郷公が拝領しました鎧一揃えにございます」

 目に跳び込む鮮烈な紅白は、肩白赤糸威しの大鎧。兜の前立てに黄金の光彩を放つ龍頭(たつがしら)が睥睨し、大きく反り返った吹き返し、鎧と大袖の各板に龍を游がせて、八大龍王の意匠とする。

 まさに龍神からの下賜品として、申し分のない甲冑であった。

 幼い子どもではないから、龍宮云々の伝来は氏政も信じてない。おそらくは朝政の代に、謂われの甲冑として造らせたものだろうが、導誉もそんな野暮は言い出さない。

「龍王の意匠は甲冑によくあるものだが、凡百のそれらとは桁違いだな。(さま)()きこと、いくら見ても見飽きぬわ」

 派手好みが彼の趣味に適ったようだ。眼福、眼福としきりに感心する導誉の横顔に、氏政は誇らしさで胸いっぱいになる。

「この鎧は小山家の、というより、関東武士の宝だ。末々(すえずえ)まで大切に扱うのだぞ」

 佐々木氏は宇多源氏の流れ。近江で勢力を伸ばし、後に鎌倉幕府の重鎮となった名家である。しかし、その名家を持ってしても、秀郷の伝説と武勇には太刀打ちできるものはない。

 目を細める導誉は氏政の頭を撫でかけたが、頂きの烏帽子を見て、手を引いた。成人した相手に礼を失する行為と思ったのだろう。

「先祖を大切にすることは子孫を大切にすることに等しい。また、その逆も同じ。お前は小山の宗家を名乗るのであれば、家名再興と子孫繁栄について考えねばならぬぞ」

 外見は婆娑羅に過ぎる導誉だが、烏帽子子(えぼしご)たる自分を教導しようという(てい)である。

 すっかり心を寄せかける氏政だったが、次の一言は耳を疑った。

「まぁ難しいことはいい。わかりやすく言えば、早く女を知って子どもをつくれ、ということだ」

 つい先日まで童形だった少年は目を白黒させた。

 家臣が慌てて、

「入道殿、お戯れもほどほどに。当家は来年ようやく十三歳(現在満十一歳)になるばかりにございます」

 と、制するのを、

「何を言う。下総結城の先代は十代半ばで子を得たのだ。今から心構えを持ったとしても早過ぎることはないぞ」

 ここ数代の結城宗家は、小山宗家よりも深刻な不幸に見舞われていた。

先代朝祐は生まれて間もなく父親が亡くなり、直系断絶の憂き目に危機感を抱いた家臣団が、早期に、かつ複数の女性を彼に()()わせた。(ため)に、朝祐は二十代で亡くなりながら五人の男子を遺すことができたのだ。子どもの数だけでいえば、下総結城氏は小山本宗家に勝るのである。

 導誉の発言もあながち戯ればかりとは言えなかった。

「何となれば、俺が名家の姫御を紹介してやってもよい。ちょうど五郎と頃合いの良い姫御といえば……」

 思わせぶりな口振りに家臣らは色めき立った。

 導誉の仲人となれば、当然幕府の有力者との縁付きである。

 願ってもいない慶事だと。

 しかし、盛り上がる彼らを横目に、

 ――元服したのも早いくらいなのに、その上、お嫁さんだなんて考えられないよ。

 もじもじと身の置きどころのない氏政であった。


 導誉が氏政をよくかまうので、二人は(はた)から親子のように仲睦まじく見られた。親馬鹿だけに、子どもの扱いは馴れていたらしい。

 導誉との会話の中で、生前の父秀朝のことも聞くことができた。鎌倉に北条政権が健在だったころ、同輩で良い馴染みであったと、父の御家人時代を知った。

「お前の父親は真面目な働きぶりで、将来は重臣として取り立てられるだろうと誰もが思っていたが。本当に残念なことであったな。それにくらべて俺は……」

 彼は佐々木氏の庶流京極氏のさらに庶流に生まれたが、子がなかった京極氏に養子として入る。京極氏は宗家六角氏に匹敵する家格で、北条氏との血縁も強く、導誉は子どものころから遊び相手として高時に仕えていた。高時は長じて田楽や闘犬などの遊興に耽り、幕府の腐敗を進行させたが、取り巻きの導誉も共犯の一人ではなかったか。また、当時の奢侈(しゃし)贅沢(ぜいたく)が彼の婆娑羅大名としての資質を培ったであろうに、多大な恩恵を受けた高時を導誉は裏切った。まぁ、それほど見込みのない主君だったのである。

 後醍醐が覇権を握った建武年中も、導誉は去就に揺れる。

 尊氏と後醍醐の決裂で、征東の新田義貞に対し、まず直義勢として鎌倉を発向したが、

「軍中にはそなたの兄、四郎もいたな。馬揃えの際、挨拶を交わしたが、こんな子どもまでと驚いたものだ」

 そのころ、常犬丸と呼ばれていた兄はたかだか九歳。当時は思いもしなかった幼い兄の境遇を想像し、氏政は胸が締め付けられた。

「戦場では兄はどんなようすでしたか?」

「ようすも何も。そなたの兄は後陣として将軍家のもとに残り、俺は三条殿が負けそうになるや早々に新田へ寝返ったのだからな」

 己れの不忠をひけらかすように言う。

 氏政は呆気に取られたが、導誉は平然として続けた。

「さらに将軍家が出向して優勢となれば、またもや寝返った。自軍の中で裏切り者が出たのだから、新田勢は大混乱だ。あれは面白かった。箱根の合戦で将軍家に勝利をもたらせたのは、俺の二度の転向のおかげだ」

 と、放言して憚らない。

 斯くして箱根の合戦以降、導誉は尊氏一筋となる。

「将軍家は細かいことにうるさくないからいい。人間を無理に白黒つけず、ありのままを受け容れてくださる、器の大きな方だ。対して、弟の三条殿は守旧に過ぎるな」

 このときの氏政に、尊氏と面識はない。しかし後に一貫して、尊氏の軍下に名を連ねているのは、彼を臣従するに値するとした導誉の刷り込みによるものだろう。


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