お兄ちゃんの初陣
鎌倉の直義勢に、常犬丸と小山勢二千騎が参じた。
小山家は外様大名の筆頭である。出陣前の馬揃えの際、歴戦の武将たちの中に子どもが混じっていると、皆、好奇心をむき出しにして視線を注いだ。これに常犬丸は少しだけ怯んだものの、すぐに気力を奮い立たせ反対に相手を見返した。すると、最初は子どもだと侮っていた武将たちの目つきが温かいものへと変わる。ともに国や領地を背負う者としてのいたわりを感じた。
気持ちに余裕が生じた常犬丸は、ゆっくりと周囲を見回す。
合戦は目立つが勝ちの武将たち。皆それぞれに絢爛たる甲冑に身を包んでいた。特に目を引くのが、外様では小山氏に次ぐ佐々木氏。戦装束の様式を確信の上で崩し、外し、異彩を放つ派手者たちである。
――あの人たちのことを婆娑羅って呼ぶんだろうな。
自由と奔放の風。
これまでの形式や常識を覆して、新しいものを生み出そうとする熱っぽい気概を感じた。
彼らの熱気を受けて、意気揚々と西上する直義軍。
しかし、京からの新田義貞の追討軍にあっけなく蹴散らされ、箱根に敗走する。
時行との戦いでもそうだったが、直義という人はあまり合戦が得意ではないらしい。
弟の危機に、ついに尊氏も立ち上がった。
先走る直義に対し、朝廷へ叛意のないことを示そうと出家までしていたが、執事の高と外戚の上杉が、
「例え出家しようとも、一度でも叛意を見せた者に恭順は許さぬ。すみやかに尊氏を成敗せよ」
と、天皇の手蹟を真似たニセの綸旨をつくり、討ち取った敵将の懐から見つけたと主君を騙し、奮起を促したのだ。
まったく、服装ばかりでなく、ものの考え方までバサラな人たちである。
尊氏とてニセ綸旨の正体に気付かぬではなかったが、
「これ、本当に本物か?」
「本当に本当に本物ですよ!」
「私たちを疑うんですか!」
と抗弁する不埒な部下に、
「わかった、わかった、俺はお前たちを信じるよ」
騙されてみせる器量があった。
互いに、良き主人と良き部下を持った。
尊氏は腹を据えた。
関東の残存兵力を掻き集めて弟の軍勢に合流、義貞軍へ戦いを挑む。
もっとも、この一連のやり取りは、尊氏が『不本意ながら参戦』の体を装った可能性がある。なぜなら、先立ちの直義勢から『思うところあって』と、小山一門の軍勢を手元に控えさせていたからだ。
尊氏が己れの懐で大切に大切に温めていた小山、長沼、結城の兵たち。
彼らの先祖は、鎌倉幕府創成期、長兄の小山朝政を筆頭に、長沼五郎宗政、結城七郎朝光の三兄弟が大活躍している。さらに遡って天慶三年(九四○)、藤原秀郷が為した朝敵退治の顛末は伝説となって人々に膾炙されている。
先陣を飾る一門の威容に、人々は口を揃えて言った。
「頼朝公に仕えた小山の連枝だ」
「あの将門を討った俵藤太の後胤か」
名門一族を羨む目だった。
彼らは名跡ばかりではない。代々武勇の誉れ高く、一門皆弓馬の達人であることは、誰もが知るところだ。
小山一門を率いる常犬丸は、誇らしさと緊張で胸がいっぱいになった。
家紋の二つ巴の旗が風に翻った十二月十一日、箱根竹下の合戦では人々の期待にこたえ、一門は目覚ましい活躍を披露した。
中でも、本宗家たる小山氏は幼い常犬丸を守りながら恥ずかしくない戦い振りを見せた。実際に戦闘の指揮をとったのは、筆頭庶流の藤井宗秀であるが。
彼は、四代前に、先妻の子ゆえ惣領の座から退いた四郎時朝の曾孫にあたる。領地の藤井を名字としていたが、本来であれば名実ともに、宗秀が小山宗家の立場にあったかもしれない。
その彼が戦いの前、常犬丸へ不敵に笑いかけた。
「私を頼りにしてください。常犬殿の配下として、十分な働きを見せますよ。と言っても藤井が宗家に返り咲こうという野心は毛頭ありませんが」
いや、敢えて口にするところが、彼の対抗意識を伝えている。
怖いような気もするが、一方で、その覇気は心強くもある。
宗家の家臣が先の集団自決で弱体化したのに対し、藤井の軍勢は若く壮健な兵が充実している。この戦いで一族二千騎を牽引するのは彼らだろう。
そして常犬丸の予想は違わず、敵勢を追い散らし、討ち取った首三百。その成果のほとんどは藤井勢によるものだった。また勝敗が決し黄瀬川で兵を休めていた小山勢へ、敗走中の新田勢が踏み込んだ際も、藤井は体を張って常犬丸を守ってくれた。
これ以上頼もしい味方はいない。
――しかし、敵にまわせば?
常犬丸は、この日の感慨を胸に刻み込んだ。
負けて京へと逃げ帰る義貞軍。それを追って快走する尊氏軍。しかし、彼らの背後には新たな危機が迫っていた。
奥州からの大軍勢。
率いるは鎮守府大将軍北畠顕家。
二年前、十六才にして大抜擢を受け、陸奥守の任に補された麒麟児である。もっとも、彼は元来武家の出身ではない。村上源氏を祖とする官僚や学者の家系である。父の親房とともに後醍醐天皇の目に適い、建武政権で空前の出世を遂げていた。
武家を軽んじた後醍醐だが、『武』はおろそかにしなかった。それというのも彼が理想とする律令時代、貴族は文だけではなく武をも担っていたからだ。
顕家は、天皇の御無理にも見事応えた。
幼い親王を奉じて奥州へ下向すると、現地の武将を懐柔し、抵抗勢力を抑え、行政・軍事の機構を掌握するなど、顕家は天賦の才の持ち主であった。
その彼が二十万とも称する大軍を引き連れ、尊氏軍を後方から脅かした。
追いながら追われる尊氏軍。
後醍醐が顕家のような有能な若者を奥州の支配に向かわせたのは、北条氏残党が未だ盤踞する当地を警戒したゆえだ。それが、此度の板東武士の離反に西国との挟撃を可能にさせ、後醍醐政権にとって思わぬ幸運である。
建武三年(一三三六)正月、尊氏勢は京において敵を追い詰め、追い詰められる。
合流を果たした義貞・顕家軍を前に、尊氏の苦戦は目に見えていたが、戦端は開かれた。
京城の内外を問わず矢が射交わされる。
常犬丸の陣した洛内は人々の生活の場であっただけに、凄惨を極めた。
うち倒れる人馬の血肉は、大路小路に赤い山河を生んだ。
民家は容赦なく火をつけられ、合戦の目印とされる。辻風に煽られた猛火は、二条富小路の里内裏を始め、顕要たちの邸を焼いた。
どさくさに紛れて略奪強殺を行う者まで現れる。
逃げまどう人々の途切れることのない悲鳴。
まさに市街地戦の悲劇である。
渦中にあった常犬丸は顔をそむけた。
――まるで地獄のような。
しかし、このとき彼はまだ本当の地獄を知らない。
奥州軍には、北畠親子と同様、後醍醐天皇から重用された白河結城氏の当主、宗広の軍勢があった。
宗広とその息子は下総結城の庶流にありながら、いち早く天皇の側近となり、新政府の顕職に収まった。そして天皇は宗広を贔屓する余り、結城氏の惣領に任じた。宗家たる下総結城氏がこの頭越しの決定をこころよく思うはずもない。結果、彼らをして反後醍醐政権に走らせ、一族は対決を余儀なくさせられる。
同十六日、鴨川の東西では、二つ巴の旗が敵味方に別れて翻っていた。
西に尊氏軍の小山・下総結城勢、東に官軍の白河結城勢。
――同じ血を分けた人間同士が、その血を流し合うなんて。
合戦の昔語りでは聞いていた。しかし、実際に自分の身に降りかかるとは思ってもなかった。
そして彼の心情に斟酌なく、合戦は開始される。
互いに順次兵を入れ替え、火花を散らして戦い合う。
太刀を振り上げ、おめき叫び、血族同士が殺し合いを演じる様は酸鼻を極めた。
本宗家として気負っていても、常犬丸はまだ十歳だった。目眩を覚え、馬から落ちかけたところを野崎が支える。
小山一門の戦いは、敵味方百名を超える死者を出して、引き分けとなった。
大地には累々と横たわる屍、その兜や袖には二つ巴の笠標。
これを見た藤井宗秀は、
「同紋同士で紛らわしいですな。友討ちを避けるため工夫しましょう」
今後、味方の将兵は片袖を割いて兜につけるよう命じた。
合戦の全体を見れば、官軍は鹿ヶ谷まで退いたがすぐに盛り返し、尊氏勢は義貞・顕家勢に敗北する。
彼らは都を落ち、摂津(大阪府)で楠木正成に苦戦を強いられると、海路、九州を目指した。
だが、その洛内で、不思議な現象が起こる。
負けた尊氏に京中の武将たちが従ったのだ。勝った官軍を捨てて。
「俺に付いて来い! この次の合戦では必ず俺が勝つ! そうとなれば官位も領地も思いのままだぞ!」
景気の良い誘い文句で、敵方の武将の心を掴んだのである。
後醍醐天皇は倒幕後、あまりにも武士を蔑ろにした。その記憶は新しく、
「どうせ今回の戦だって、恩賞は我々武家にではなく、公家や僧侶にくれてやるんだろ」
反発する諸侯は、『後醍醐以前』の所領を安堵するという尊氏に期待した。
「この人なら、武家の願いを汲み取ってくれる」と。
尊氏勢は行く先々で味方を増やした。
先帝からは院宣を得、大義名分を手にした。
九州に上陸し、多々良が浜で抵抗勢力を打ち破ると、反転。
海路、陸路を埋めつくすようにして京へ向かう。
しかし、関東武将の中にも、なお京に残り、官軍に留まろうとする者がいた。
下野の武将では宇都宮氏。小山一門内では、そのころ、武者所一番方に勤務していた長沼判官秀行と小山左衛門尉秀政。秀政は前に述べたように、秀朝の弟にして常犬丸の叔父である。
一方の秀行は長沼の惣領で、自身の権限で一族を転向させていた。先の鴨川の合戦で彼らの名が見あたらなかったのはそれゆえである。白河結城氏に続き、長沼氏の宮方としての姿勢は、小山一門の内訌を深めることとなる。
武将らの姿がめっきり減った帝都。
春は名ばかりに、寒々とした風が吹き抜ける。
ここに来て、天皇の忠実なる家臣楠木正成は、諌言を申し出た。
「今ならまだ間に合います。義貞を追放して、尊氏と和睦を図るのです」
しかし、天皇を始めとする貴族たちはこれをうち捨てた。
「武士ごときが何を言う」
「合戦の勝敗がわからぬのか」
忠臣忠臣と持ち上げられながら、土豪出身の正成には越えられぬ身分の壁があった。彼の諌言は、浮かれ貴族らに笑われて終わった。
些末に囚われ、この期に及んで物の見えぬ彼ら。
官軍の片翼の将である北畠顕家を、奥州の安定のためにと軍勢ごと帰してしまったのである。
正成は天皇の政権に未来のないことを悟っていた。しかし、最後まで官軍の将として全うする。同年五月湊川での討ち死に。たった三ヶ月後のことである。
正成だけではない。勢いに乗じた尊氏軍は主立った敵将を討ち破り、圧倒的な力の差で後醍醐天皇を追い詰める。
後醍醐は三種の神器とともに比叡山へ逃れた。
あと一押し、しかし、ここで尊氏はふっと追撃の手を弛めた。
建武三年(一三三六)八月十五日、後醍醐に帝位を簒奪された光厳天皇の弟、光明天皇が践祚すると、盟友佐々木導誉が囲んでいた比叡山へ、
「意地を張らずに、この辺りで矛を収めませんか」
完勝を目前にしながら、和睦を申し出たのである。
「ああ、そうだな」
後醍醐は尊氏の申し出に応じ、三種の神器を渡して京に帰還する。
互いを切り刻むような合戦を幾度も経ながら、二人の間合いの取り方は常人の理解を超える。
もっとも、この時代、常人だの、普通だの、まともだのでは、歴史に名を残せない。何しろ『婆娑羅』が幅を利かせる時代なのだ。