お父さんが死んで、お兄ちゃんが城主になりました。
兄弟の父、小山秀朝は、武蔵女影原で総崩れとなった味方のあとを受け、同二十三日、府中で戦い、そして敗れた。
後醍醐天皇の親政に不満を持つ者は多く、次々と敵の北条軍に参じたためだ。秀朝は敗北の責を負うため自裁の道を選んだ。敗けを敗けとせず、本領を守り、子らに継がせるため。
主人の決断に、ともに戦った郎等らも殉じようとした。
「殿の先払いに」
早くも腹に刃を突き立てた者もいた。
死出の旅支度を始める仲間らに、野崎も遅れてはならじと鎧の括りを小刀で絶った。
しかし、その彼の腕を掴んだのは、他ならぬ秀朝だった。
「そなたは死んではならぬ」
生きて小山へ帰り、家を頼む、子どもたちを頼む――
乳兄弟の彼へ懇願するようにして果てた。
野崎は主人の遺言に従い、仲間たちの血潮が染めた大地を踏み越え、小山へ帰り来たのだった。
秀朝の後を追った一族郎党は百名を超えた。いずれも小山家の枢軸となる者たちである。
――生き残るより、皆とともに死ねたのなら、かほど楽なことはなかった。
小山家の将来を思えば。
しかし、幼くして一門の当主にならざるをえない遺児を前に、それは許されぬ感傷だった。
「何物に代えましても、小山家と常犬丸さまたちをお守り致します」
この先の困難さも理解しえず、ただ父の死になきじゃくる兄弟。
野崎の固い誓いは二人にどれほど届いただろうか。
さらに兄弟にとって悲しむべき事態が起こった。
母の出家と隠棲である。
「そなたたちの父さまのご冥福をお祈りするためです」
母は兄弟たちに言い聞かせて、曲輪を出た。
夫の死をこの世の終わりのように嘆き悲しんだ母の結論だった。
両親は子どもの目から見ても仲むつまじい夫婦だった。
――だけど、死んだ父さまのために、ぼくたちを捨てるの?
常犬丸は母を恨んだ。
弟の今犬丸は母を恋い慕って毎日泣いてばかりいる。
――ぼくは今犬みたいに泣かないよ。だってぼくは兄上なんだから。この家の当主なんだから。
泣きたいのは自分も同じであるのに、弟をなぐさめようとする。周囲の大人たちへも、泣き顔を見せたのは父の死を限りにと涙をこらえた。
当主没後、小山家の最初の困難は、常犬丸の下野国守(行政の長官)と守護職(軍事・警察の長官)の任官であった。
両職は、藤原秀郷以来の名門一族である小山宗家が代々兼職世襲していた。当主が児童とて、他氏には譲れぬ。家臣らは、常犬丸を秀朝の嫡男『小山四郎』として朝廷へ申し立て、後継をかなえた。『四郎』は小山家当主の通称であるが、彼がまだ元服も済まぬ幼子だったことを、朝廷が把握していたか定かではない。何しろ後醍醐天皇による親政は、混乱の真っ直中にあり、言葉は悪いが、そのどさくさに紛れることができた。
こうして世襲の件は無事解決したものの、小山家には問題が山積した。
府中合戦の集団自決は、常犬丸を補佐する家臣団を人材不足に陥れた。秀朝の弟五郎秀政は遠く京の武者所に勤務し、当然その郎等も西国に従っていた。
そこへ、思わぬ味方が現れる。
兄弟の住まう曲輪は国衙と守護所を兼ねていたが、先年夫の死をきっかけに出家していた祖母――大後家の尼が、隠棲先から出向いてきたのだ。
大後家の尼は、孫たちの苦境と嫁の不甲斐なさを見かね、常犬丸の後見人に名乗り出る。
老いた家臣ばかりが居並ぶ広座敷。
かつて曲輪の女主人であった大後家は、綾地の法衣の裾を颯爽とさばきながら出でました。
「これより常犬丸の父とも母ともなって、小山家の再興を果たしたく思います」
尼削ぎの頭髪を帽子で覆い、その顔は嫡子を亡くしたばかりだというのに毅然と前を向く。当家の危機を十分に察し、母親としての悲しみを封じたかのように、背筋をまっすぐに伸ばす居住まいは、老いをみじんも感じさせなかった。
その凜とした姿に、
――常犬さまが成人されるまで、小山宗家は持ちこたえられる。
家中の人々は、ほっと胸をなで下ろした。
幼い当主のかたわらに寄りそう大後家の尼は、風雪や外敵から雛たちを翼下に守ろうとする鳳のごとき貫禄があった。
大後家は、常犬丸の補佐役として、曲輪内の国衙・守護所の機能を滞らせることを許さず、術よく家臣らに采配を振った。
配下の軍忠状(合戦での軍功証明書)に証判を与えたのも彼女だった。
家内でも一族の者をまとめ、常犬丸へ当主としての心得を薫陶するなど、彼女はなくてはならない存在となった。
秀朝亡きあとの小山宗家は、大後家の牽引で順調に動き出す。
大後家は、多忙にも係わらず、疲れ一つ見せない。
だが、それが逆に野崎を危惧をおぼえさせた。
――お年もお年だ。無理をしていらっしゃらねばよいが。
「少しお休みになられませんか。残りは他の者に任せましょう」
家臣の配慮に、大後家は、
「いいえ、ものごとは最初が肝要なのです。無理をしてでもこの時期を乗り越えれば、あとが楽になります。それに常犬丸はこのところ、とみに成長を見せています。私の務めは年ごとに易しくなることでしょう」
そして野崎を見て、
「これもそなたの養育のおかげとありがたく思っています」
むしろ労う。
彼女の気配りは家臣の一人一人に向けられていた。
しかし、世情は大後家の願いとは裏腹の方向にむかった。
西国で武家を統率していた足利尊氏は、敗走した弟直義を救うべく京より発向、北条勢を追い払ったが、そのまま東国に居ついた。後醍醐政権の矛盾に、彼は天皇と新政府から距離を置き始めた。
先年、権力を握った後醍醐天皇の政治は、何から何まで間違っていたからだ。
まず第一の間違いは、武力によって討ち果たした北条政権の終焉を、武家政権の終焉と見誤ったことだ。己れの理想とする律令時代に世の中を戻すべく、武家を軽んじ、倒幕に用をなさなかった公家や僧侶を重んじた。もちろん、倒幕の功労者たる尊氏や新田義貞らには相応の地位と領地を与えたが、何の手違いか、宮方として奮戦した武将から、領地や所職を取り上げるなどの失態を犯している。もっとも、武家政権の復活を怖れる後醍醐であれば、武将への恩賞がなおざりになるのは当然ともいえたが。
間違いはそれだけに留まらない。
寵姫のねだり言に耳を貸し、武家との約束を反故にする。無能な人間を登用し、国政をいっそうの混乱に陥れる。奢侈・遊興を慎まず、その上、数百年前に焼失した大内裏を再建しようと、重税を課し民百姓を苦しめた。
「こんなことなら、昔の方がまだましだ」
人々は不満の声を上げ始める。
であれば、
――後醍醐天皇の近くに身を置いたら、共倒れになる。
足利兄弟は互いの想いを確認し合った。
最初に反政権の狼煙を上げたのは、弟直義であった。
表向きは君側の奸、新田義貞を成敗するという名目で兵を集めた。義貞は、尊氏が京の北条方と戦っていた際、彼に呼応したかたちで鎌倉を攻め、壊滅させた討幕運動の連携者である。また、同じ清和源氏の血を引く関東の武将――けれど、武家の棟梁は二人もいらない。尊氏と貞義は戦う宿命にあった。
直義が関東中の武将へ送った軍勢催促は下野の小山氏にも届く。
足利と新田、どちらに付くか。尊氏の本拠足利は下野の南西、新田は国境を挟んで上野(群馬県)である。地理的な親近感だけでなかったろうが、小山氏は足利を選んだ。北条時代、同じ清和源氏でありながら幕臣としての地位や精彩に両家は少なくない差違があり、義貞が後醍醐天皇に気に入られ、近臣となってからも、その印象は引き継がれていた。
建武二年(一三三五)十一月、小山の軍勢は直義軍に随行するため、下野を発った。
下野守護として常犬丸、わずか九歳(満八歳)での初陣。
大後家は出陣に先立ち、常犬丸に言い聞かせた。
「くれぐれも先代(秀朝)のような真似はしないでおくれ。小山の存続のことを第一に考えて、生きる道を選びなさい」
「はい、お祖母さま」
その日の彼の出で立ちは、淡い黄色の童水干の上に若草色の胴丸を着していた。胴丸は小さなものを選んだとはいえ、子どもには大き過ぎるはずだ。それなのに、常犬丸の身体にしっくりと馴染んでいる。大人たちに着せられた、という感はなく、体との隙間を小山宗家としての誇りが補っていた。
しかし、その姿は弟の今犬丸の目に、兄を別人に思わせた。
怖いような気がして、見送りだというのに、乳母の尻に隠れたまま出られない。
「ほら、兄上さまにご挨拶をなさるのですよ」
促されても、首を振るばかりである。
この日だけではなかった。親しんだ兄が遠くに感じたのは。
父が亡くなってから、兄は乳母たちの手を離れ、大人の男たちの世界に行ってしまった。
一緒に遊ぶ機会もなくなり、会うごとに大人びていく兄に、取り残されたような気持ちになっていた。
――おにいちゃんはもう、ぼくのおにいちゃんでなくなってしまったの?
今犬丸は胸に寂しさをため込んでいた。
その思いが今日の戦装束でいっそう深められる。
ぐずる弟に、常犬丸は笑いかけた。
「私の留守中、おばあさまや乳母たちを困らせるなよ」
弟とろくに顔を合わせられぬまま出立した。
馬上の人となった兄の背中が遠くになってから、ようやく今犬丸は濡れ縁から見送る。
「父さまのように死なないで。ちゃんと生きてかえってきて」
本当はそう言いたかったのに。
今犬丸は泣面をつくり、さっそく祖母や乳母を困らせた。