戦いの終わり
東山の足利尊氏のもとへ援軍が到着した。
関東の基氏より派遣された畠山勢・平一揆・白幡一揆他三千騎である。
義詮の軍勢も西山の東麓に整った。
氏政らは、東西同時攻撃の発動を命じられる。
三月八日、西山勢が鬨の声を挙げ桂川を越え、四条・六条の大路に攻め入った。待ちかまえる敵を前に、大宮通の西側に陣を取る。戦闘が始まり、間もなく両軍とも多数の手負いと死者を出す。
東山では、細川の陣していた今比叡社に尊氏が入り、細川勢は七条東洞院に展開していた。土岐勢は塩小路を西へ抜けて南に下り、八条東洞院の寺を拠点とする。
氏政は舅の仁木氏と六条西洞院の長講堂前に陣を張り、櫓を建てた。
同十二日払暁、氏政は徒歩の畠山勢・平一揆・白幡一揆と合流し、西洞院を六条から南へと向かった。
七条大路に差しかかろうとしたとき、西の小路から南朝勢が姿を現した。
互いに姿を見とめた両軍は一斉に駆け出し、中間地点となる七条西洞院の橋の上で激突した。巳の刻から牛の刻(午前九時から午後一時)まで兵を入れ替え入れ替え、火花を散らして戦った。前線では白幡の武将や畠山の重臣が死んだ。
この間、導誉の一族、佐々木氏頼が千騎を引き連れ、氏政たちの軍勢に加わった。東洞院の細川勢も同じ七条の通りにあったことから、すぐに異変を察知し、味方へ駆け参じた。
南朝方も続々と七条へ援軍を投入する。
周囲は敵味方の兵であふれかえった。
細川相州は油小路まで進むと敵兵から太刀を浴び、左腕に傷を負う。これに入れ替わって、またも畠山勢が西へ進む。堀川を超えたところで主将が矢傷を負い、撤退。
味方は西洞院、敵は堀川。油小路をはさみ、百丈(約三○○m)あるかなきかの間を押したり退いたりをくり返す。
主戦場となった七条大路には、討ち果たされた仲間の屍が累々と横たわっていた。中にはまだ息のあった者もいただろうが、それを踏み越えながら敵陣に打ちかかる。
氏政も馬に乗る余裕などなく、徒歩立ちで一兵卒となって敵へ向かった。例の婆娑羅戦法は封じられ、時と場所を選び、田舎者らしい泥臭い戦いに徹する。
仕留めても仕留めても、雲霞のごとくわき出す南朝勢。
首などとる間もない。ただ、死体の山を築くだけだ。
しかし、斯くの如く奮戦する氏政と小山勢にあって、意外なことに後の記録に彼らの活躍する姿は少ない。
氏政のかたわらでは、細川相州が敵の侵入を許し、じりじりと後退する味方に怒り狂っていた。馬から降り、鎧を脱ぎ、負傷した左腕を吊り下げているが、それも真っ赤な下着の袖を輪にして首にからげ、
「見苦しいぞ。者ども! 退くなっ押せいっ」
もう片方の手で紅の扇を振り回して叫ぶ。
「何だっ、そのちまちました戦い方は! 一斉に攻撃せんかっ」
怪我も立場も忘れて前線に突入する。
平一揆の江戸一族十四人は、豪快奇抜な甲冑で、怖いもの知らずにも横一列に並んで前進する。出会う敵を片っ端から切り刻む彼らは、引両の家紋を兜の前に付けていた。通常、傘印は兜の後方に付けるものだが、敵に後ろを見せぬという示威行為である。この戦いでの印象が鮮烈だったせいか、後に江戸氏の嫡男は下野守に任じられる。
こうして人目を奪う彼らの中にあって、氏政は地味に過ぎた。
――しょせん、私の婆娑羅など付け焼き刃であったか・・・・・・
氏政は心底、思い知らされる。
彼らの婆娑羅は生来のものであり、その強烈な光彩に、人々の記憶から小山勢の活躍は薄まってしまうのであった。
今比叡社の尊氏は、七条大路で細川と畠山が深手を負ったと聞くと居ても立ってもいられなくなった。命鶴丸以下二十騎ばかりの兵を連れ、一気に鴨川を越え、細川の陣に入った。
将軍は高櫓を見とめると、何を思ったか鎧を脱いでかけ上った。茜色の細袖は二筋の金箔を上下に張り渡した装い。それを、地面から見上げる武将たちに見せつけ、
「おぉぅ、ここから対面をすれば手早く済むわっ」
さすが婆娑羅大名を統べるだけあって、この尊氏も並の人ではない。
怪我をした細川や畠山、その他の武将たちが挨拶を終えても、高櫓が気に入ったのか降りようとしない。
「何やっているんですか! そんな派手な格好して、敵の良い的になりますよ! 早く降りてくださいっ」
命鶴丸が階下から騒いだが、いつもの笑い方で、
「戦さで負けるとあらば、皆と一緒に命を落とすのが最良だ。この陣が敗れ、私が生き残っても意味がない」
顔に似合わぬ素敵な科白を吐く。
よっぽど仲間と死にたいらしい。盃を手に端座し、合戦のようすを眺めながら、
「敵が近付いたら、俺が自害する時間を稼いでくれよ」
と、のたまう。
その落ち着きぶりは、いかなることが起きようとも動じる気配はなく、臣下の武将たちを勇気付けた。
暮れに及び、尊氏は温存させていた部隊を投入した。
疲れ切っていた将兵らも、力を振りしぼって堀川へと進む。
宮方も八条・九条から援軍を呼び寄せ、一歩も引かない。
悪戦苦闘。いつ果てるとも知れず。
そのとき、八条堀川の方角から歓声が上がった。
武家方の使者が大声で呼ばわる。
「戒光寺を落としたぞ! 敵将の桃井も討った!」
後にわかることだが、桃井は逃げおおせた。しかし、九条の東寺まで肉薄したのは確かである。
南朝勢はこれを受けて、一人二人と逃走を始めた。一度落伍者を出した軍隊は歯止めが効かない。逃げ出す兵を留めるはずの将が、我先にと逃げ出す。軍は軍の体を為さず、崩れ去った。
背中を見せる宮方勢。だが彼らを追いかける気力も体力も使い果たし、武家方の将兵らはぐったりとその場に座り込んで、見送る。
氏政もその一人だった。
八条の友軍に応え、勝ち鬨を上げてやりたかったが、もう立つこともできない。
その彼のもとへ、野崎が馬を引いて近付いて来た。
呆然と見上げる氏政に、
「お若い方はいけませんね。力の限り戦ってしまいますから。その点、年寄りは力のおさえ方を知っています」
老人と侮っていた野崎に兜を脱がされ、支えられるようにして馬に跨る。
――それにしても、戒光寺を落としたのはどこの軍勢だ?
氏政は合戦を終決させた味方に感謝しつつも、少しだけ蟠りを覚えた。七条の友軍を尻目に、むしろ囮に、うまく八条堀川まで潜り込んだという事実が。
報告では、土岐と小田・佐竹の連合軍であったという。
――土岐が八条の東に陣取っていたのは知っていたが、小田と佐竹? 彼らは確か小山勢のすぐ南にいたはず。
さらに云えば、東山では小山勢の北に布陣していたものを。
いつの間にか、はるか南に潜り込んでいたのである。
囲碁の勝負に、将棋の飛車角を持ち込まれたようで、納得いかない。
――律儀な田舎者は派手な婆娑羅者に霞み、婆娑羅者は勝手の良い要領者に手柄を持って行かれるのか。
とはいえ、後に伝えられたところ、佐竹氏も庶流筆頭の下総守を討ち死にさせている。皆命懸けで戦っていたのだ。
小田の惣領は養子として入った庶流の讃州孝朝。南朝から転向した際、小田の直系嫡男は宗家を退いている。
――小田氏はこの合戦をきっかけに昔日の威光を取り戻すのだろうな。
氏政は想像を逞しくさせた。
戒光寺の陥落に、南朝勢は九条東寺から兵を引き払った。淀・鳥羽の後陣も、雨の降るなか没落する。一軍に楠木正成の遺児がおり、翌日摂津の天王寺に落ち着いたという。
東西の両将軍、尊氏と義詮は皇居に入り、後光厳天皇も後日洛中へ還御した。
京に平和が戻り、各地から集まった武将たちは恩賞を得て、それぞれの在地へと下向する。
ただし、氏政は所識にあって京へ留め置かれていた。同輩らが帰郷するようすを少々僻みっぽい目で見送る主人の視線に、野崎は、
「良いではありませんか。それだけ将軍家に重く用いられているという証しですから」
そうではなく、下野に残してきたよし姫が恋しいのである。もう二年も離ればなれに暮らしている。姫に会うにも、鎌倉なら小山まで馬を駆って二日の距離。帰郷も気楽なものであったが、京とあればそうもいかない。
そんな主の心地を、野崎はどう解したものか、
「気が利きませんでした。無聊をお慰めする相手でしたら・・・・・・」
と、側室の斡旋である。
氏政は即座に断言した。
「まだ妾をとるつもりはない」
「舅殿への気兼ねでしたら、ご心配いりませんよ。堅いことをおっしゃる方ではありませんから」
「だから、違うって」
氏政にとって、よし姫はこの世でただ一人の女性なのである。それをわかってほしい。
「浮気の一つもできない甲斐性なしと思ってるだろ」
「そんなことはありませんよ。連理比翼の喩えもあります。夫婦の仲睦まじいことは良いことです」
と、言いつつ。
言外に、美貌の奥方を持つのも考えものですね、と匂わせている。
野崎としては妾を置いてでも氏政に多くの子どもをもうけさせたいのだ。
――小山家の子孫繁栄のことしか頭にないのか。この男は。
氏政も子どもはたくさん欲しい。だが、姫に不幸な思いをさせたくないのである。
「いっそうのこと、奥方さまを京にお呼びしてはいかがですか?」
野崎は、平和を取り戻しつつある京へ、本邸を遷すことを提案した。
考えてもなかったが、幕府が鎌倉にあれば鎌倉に、京にあれば京に。将軍の臣下たる武将であれば当然のことだ。
鎌倉(正確にはこのころは入間川)に基氏を中心とした関東経営組織があったため、今後は基氏の配下として出仕するものと考えていたが。
しかし関東の諸大名の中でも、尊氏に付いて京に本居を移した者は多い。
生地にこだわりさえしなければ、京で幕臣として暮らす道もあるのだ。
出世のことをほとんど考えたことのない氏政へ、野崎は地方の一武将からの脱皮を促そうとしたのである。
先祖藤原豊沢以来、二十代五百年の間、関東に根を下ろした一族。秀郷の子の代で朝廷に重用されたこともあったが、政変や他氏の台頭により出世を阻まれた。
――それがまた中央へ返り咲くのか。
感慨に耽る氏政に、野崎が言う。
「とにかく、奥方様の西上については早急に下野と連絡を取りましょう」
新生活への期待に、氏政の胸は踊った。
都での久住を決意した氏政に、尊氏も目をかけようと思ったらしい。
天皇への謁見に氏政を御所に伴うという。
五位以上で殿上人の資格を得るというものの、彼自身が昇殿を許されたわけではない。だが、随兵として伺候するなどこの上ない栄誉である。綾小路の小山邸では、主人以下郎等下働きにいたるまで、皆、喜びに舞い上がった。
ただ、その家中にあって、野崎だけは、
「殿が誉れ、老臣冥利に尽きまする」
あまりに畏まった挨拶である。
「だからもっと素直に喜べって」
彼をよく知る氏政はからかった。
野崎は思いを表情ではなく行動で示した。
有職故実に則り装束を整え、氏政の動作や作法についても口喧しく注意した。
――私に恥ずかしい思いをさせたくない一心、というのはわかるのだが。
少々閉口する。
公家の子であれば、父親から儀式の作法を伝授される。武家の子でも身分の高い家柄であれば同様である。だが、氏政は父も祖父も幼いころに亡くしている。さらに男子として教養を付けるべき大切な時期を、合戦に明け暮れた。
「それでも舅殿や佐々木殿には、一通り手ほどきを受けて来たが」
結婚後も導誉は、ことあるごとに烏帽子子の氏政を息子同然に遇してくれた。
それを野崎は、
「お願いですから、入道殿の真似だけはしないでください」
これほどの大騒ぎをしながら、氏政の参内はあっけなく終わった。
夏の暑い時期であったので、下着が汗だくである。
尊氏の邸宅で挨拶を終え、綾小路の邸に帰り着くや、小袖の襟を崩して風を入れる。
「野崎、帰ったぞ」
口うるさい男だが、今回の功労者である。礼を言わねば。
しかし、何度呼べども姿を現さない彼を、近侍らが探しに行く。邸の留守を預かっていた野崎は、出かけるまで鬱陶しいくらい、そばに付きまとっていたのに。
氏政はその足で自室に向かった。
庭に面した廊を渡り、氏政は何気なく目を遣った日差しの中の光景に、凍りついた。
野崎がこちらに背を向けてうずくまっていた。
氏政は沓を履くのも忘れて、庭先へ飛び降りた。
「野崎、野崎!」
抱き起こした彼の前身頃は真っ赤に染まっていた。
左手で上衣の裾をたくし上げ、短刀を握り締めた右手が腹を割いていた。
野崎の体はまだ温かく、だが、すでに呼吸は止まっていた。
「なぜだ!」
主の栄誉に沸く、この邸に何の不満があって。
怒りさえ覚えた、そのとき――
ふと、視界の端にほのめく緑。
それは、花ごろ野崎と眺めたつつじ。
今はもう、葉ばかりが青々として。
――あの日、野崎は私に何を伝えようとした?
氏政は顔を上げ、風に揺れるつつじの葉を凝視した。
『私は大きな過ちを犯しました……』
そして、彼の言わんとした過ちの正体に思い至った。
――野崎、やはり、お前だったのか。
抱き締めた家来の顔を見下ろす。
死によって頬の筋肉は弛緩し、それは笑い顔にさえ似ていた。
野崎は死んだ。もう十分だとでも言うように。
だが、その直後に起こった悲劇を予見しえたであらば、早まることはなかっただろう。
同年七月二十三日。
その日は、ちょうど二十年を経た父秀朝の命日。
綾小路小山邸にて、当主氏政逝去。
享年、二十七歳。
死因、不明。
だが、当時の人々は知っていた。
本来戦場で討たれるべき武将が、刃の他をもって害されることを。
―了―
最後までお付き合いありがとうございました。
氏政の遺児、若犬丸(のちの小山義政)とその子若犬丸(父と同じ幼名を生涯通す)の活躍はまた後日投稿します。




