第三章 遠征軍と新米兵士と闇夜の特訓 その二
本日の行軍行程を終えた遠征軍は、見回り担当の者を除き、各自ゆったりとした時間を過ごしていた。
その中、野菜スープと固いパン、そして赤い果物を乗せた盆を持った栗色の髪を持つ少年が緊張しつつ礼をする。
「で、殿下のお食事をお持ちしましちゃッ。」
少年は最後で噛んでしまい羞恥で顔が熱くなる。お辞儀の体勢から身体を起こしても、相対した人物の顔が見ることが出来ず、視線を伏せたまま盆を差し出す。
彼の名はロイ・ビルトといい、とある貧乏商人の長男であり、そしてこの春に軍に入隊したばかりの少年兵だった。少年兵とは成人後正規兵となる少年たちの事で、彼らは訓練だけでなく、装備品の手入れや先輩兵士や騎士達の世話など雑務が主な仕事である。
なぜ長男のロイがなぜ軍に入ったかというと、単純に金の為だった。貧乏子沢山というが、長男の彼を筆頭に下には四人の弟と妹がいる。だが貧乏商人である父の収入は増えるどころか、税金があがって物価も上がり支出ばかりが増えた。父と母が懸命に働いても、一家七人が暮らすには厳しかった。
そこで長男であるロイは兵士に志願したのだった。兵士になれば給金を貰えるし、いくらからの免税も受けられる。ロイ自身は兵士として軍の寮に入る為食うには困らないし、六人なら父の収入と自分の給金で飢えずにすんだ。
それに本を読むことが出来た。王城の書庫にロイは入る事は出来ない。しかし、偶然書庫に勤めている司書の男性と知り合いになり、ロイが本好きだという事、でも貧乏で本が買えないと言うと司書の男性は、こっそりと持ち出して貸してくれたのだ。ロイが感激して頭を何度も提げると、彼は微笑みながら言った。
「気にすることはないよ。僕も子供の頃から本が好きだったからね。あ、でも僕が借りたことになっているから、本を汚さないでくれよ。」
ロイは後で知ったが、彼は一般家庭の出だが特待生で学院に入学し、秀才と呼べる成績を残して卒業し王城に勤めている、本の扱いには煩いと評判の司書だった。
毎日訓練や雑務をこなしへとへとになった後、夜寝る前に借りた本を読むのがロイにとって唯一の楽しみだった。
ロイには夢があった。それは作家になること。貧乏でも商人の家、文字の読み書きは父と母から教わり、将来は世界を回り、その経験を元に本を書く……そんな壮大で抽象的な夢を持っていた。しかし現実は甘くない。夢よりもお金、本よりも食べ物が必要だった。だからロイは、夢は夢のまま、軍に入隊し、今回の遠征に参加することとなった。
行軍中の仕事は王都にいる時とさほど変わらず、武器の手入れや馬の世話、食事の用意など雑務がほとんど。だがそんな雑務だけのはずが、一つ重大な仕事が追加された。
「……野菜スープですか。」
そう言って頭を下げたままの彼から盆を受け取ったのは、第七王子の筆頭執事であるクロだった。やや不機嫌そうに言った彼は、血のような暗い紅玉の瞳を細めスープを注視したが、視線を伏したままのロイにはわからなかった。
「ありがとうございました。」
だがそれも一瞬の事で、クロはロイに短くお礼を言うとすぐに身を翻した。ロイがクロが去ったことがわかり視線を上げる。そのまま執事の行先を見てみると、たき火の側で腰を下ろした子供が、食事を持ってきた執事から盆を受け取っていた。
(あれがハーシェリク殿下……本当に子供じゃないか。弟と比べて細いな。)
遠目で後姿だけだが、それだけでもわかった。上等な衣服に身を包んでいるが、触れば折れてしまいそうなくらい華奢だとロイは思う。
弟と同じ年くらいなのに、王子が王族というだけで戦場に行かねばならないと思うと、ロイは心が痛んだ。
「どうかしたのか?」
突然話しかけられてロイはビクリと肩を震わす。振り返れば夕焼け色の髪をした騎士が不思議そうにロイを見ていた。
その人物をロイは知っている。特徴的な橙色に金のメッシュが入った髪、やや垂れぎみの青い瞳の青年。行軍中は深紅の鎧をまとった彼はとても目立っていたが、現在は鎧を脱ぎ黒地の簡素な服を着ていた。
(この人が狂騎士百人斬りの!?)
『烈火の将軍』という異名を持つローランド・オルディス侯爵の三男で、つい先日の教会の暴動にて、彼が狂気に堕ちた聖騎士達百人を無傷で斬り伏せたのは、軍でも有名な話だった。
さらに彼は軍務局と警邏局共に有名人だ。最年少で武術大会を圧倒的な力で優勝したり、後日行われた訓練では多くの兵士や騎士達を一人で手玉にとったり。
同世代で彼と対等に戦える騎士は、王都にはいないと兵士達が言っていたのをロイは聞いたことがあった。
その話を聞いた頃のロイは、筋骨隆々しい大柄な人物を想像していたが、実際は優男と言っても差し支えない青年だと知って驚愕した。出陣式で王子の隣に立つ彼は、物語に出てくるような貴公子だった。
そんな彼に、ロイは慌てて頭を下げる。
「す、すみません!殿下に夕飯を届けにきまして……」
「ああ、そういうことか。面倒をかけたね。」
そう言ってオランは苦笑を漏らす。
「ハーシェ……リク殿下が、皆と同じ食事じゃないと嫌だと言うから。」
うっかりいつも通り呼びそうになったオランは誤魔化しつつ言った。
事の始まりはハーシェリクが、自分だけ豪華な食事なんて嫌だと言いだしたのが原因だった。
「皆と同じように行軍しているんだから、自分だけ豪華な物は食べられないよ。」
行軍中はどうしても質素な食事になってしまう。それこそスープが用意出来ればいいほうで、パンと干し肉一切れずつなんてこともあり得る。だが王族や貴族には、一般の兵士とは別の食事が用意されるのが常だった。
それがどうしてもハーシェリクは嫌だったらしい。クロが渋い顔をして栄養面などの心配をしていたが、結局はクロが折れてハーシェリクは他の兵士と同じ食事をとることになった。むしろ王子が食すのだから、最低限スープはつけと通達され、兵士達は隠れて喜んだ。
「もしかして、兵士の食事改善のため?」
と出発前にオランが問えばハーシェリクは悪戯っ子のように笑ってみせるだけだった。
そんな上司に視線を向ければ、彼もオランに気が付き手を振っている。その隣で魔法士は本を読み、執事だけが飲み物を用意したり、果物の皮を剥いたりと甲斐甲斐しく世話をしていた。
「じゃあ俺は戻る。君は少年兵かな? なにか困ったことがあったら言ってくれ。」
そう言ってオランは離れようとする。その彼をロイは引きとめた。
「オルディス様!」
内心、先ほどの言葉は単なる社交辞令だとロイは思った。しかし、温和な表情につい縋りたくなってしまった。
「ん?」
「もしお願いできるのでしたら、僕に戦い方を教えて下さい!」
そのロイの言葉にオランは首を傾げる。
「戦い方? 剣の扱いなら軍で習っているだろう。俺の剣も基礎は押えているが我流だからあまり参考にはならないぞ。」
それは厳しいという言葉では足りないほど、厳しすぎる鬼教官と呼ばれる人物にも言われたことだ。その鬼教官に「騎士のような整った戦い方も傭兵のような荒々しい戦い方も出来る、努力だけじゃない天賦の才だ。常人には真似できない。」と言わしめたほどだ。オラン自身、戦っている時は頭で考えるよりも先に体が動く為、教えようにも教え方がわからないが正しい。
だがロイはそれでも食い下がった。せっかくの機会を逃したくなかった。
「僕、全然戦いができなくて……でも絶対死ねないんです。」
ロイは自分の不得手を知っている。元々向いていないのだろう、武器を扱うことがうまくできず、訓練ではいつも教官に怒鳴られていた。
「なら、どうして軍に入った?」
オランは問いかける。だがその声音は先ほどより低く、ロイはビクリと肩を震わせる。
「軍に入れば危険が付きまとうのは当たり前だろう。」
「それは……」
ロイは俯きそうになるのを堪え、ぐっと顔を持ち上げる。そしてオランを正面から見つめた。
「両親と弟妹達を助けたかったんです。だから必ず生きて帰らなくちゃいけないんです。」
少年兵が前線に出ることは少ない。だが絶対にないわけではない。もし戦場に出ることになったら、絶対に生きて帰らなければいけない。それにもし自分が戦死したら遺族に見舞金は支払われるが、今まで受けてた免税や給金に比べれば微々たるもの。家族が飢えてしまうのだ。
決意の籠った瞳でオランの蒼い瞳を見るロイ。そんな彼にオランは厳しかった表情を緩め嘆息する。
「……わかった。とはいっても俺が教えられるのは基礎程度だから、あまり期待しないでくれよ。」
「ありがとうございます!」
ロイは勢いよく頭を下げたのだった。
ロイは全ての雑務を終えて、オランが指定場所に向かう。野営している軍から離れ、森への中へと進んでいると、途中狼の遠吠えが聞こえ首を竦ませたが、それでもロイは進んだ。
今や時の人ともいえる第七王子の筆頭騎士の指導が受けることができるのだから。
森を抜けると視界が開ける。そこは小高い丘になっていて、膝より低い草が風を受けてうねる。ロイは本物は見たことはないが、昔売ってしまった絵本で見た海の波のようだった。
そんな丘を上がると、岩に一人腰掛ける子供がいた。
月明かりを受けた淡い色の金髪が夜風を受けて揺れ、少女とも見間違えるほど幼いが整った顔立ちだった。その顔に嵌った翡翠の宝石のような瞳は雲の隙間から見える星を見ている。
まるで物語から出てきた妖精のようで、それでいて未完成で早熟な美貌を持つ彼にロイは言葉をかける事も忘れ見惚れる。
その人物に、ロイは心当たりがあった。
(この方が、ハーシェリク殿下……)
今回の遠征軍で、国王代理を務める幼き王子。
王族はみな美形や美人と噂を聞いていた。下っ端なロイは軍務局所属の第一王子さえ遠目でしか見たことがなかった為、噂程度で本当は違うだろうと思っていた。しかし今目の前にいる王子は噂通り、否噂以上の美少年だった。
そんな彼が夜空を見上げていた視線をロイに向ける。
「どちらさま?」
小首を傾げながら問う彼に、ロイは慌てた。見惚れていたなどと口が裂けても言えるわけがないし、王族を立ったまま凝視していたなど不敬罪と言われても言い訳ができなかった。
ロイが混乱してどう対処するが考えあぐねいている内に救いの声が響いた。
「王子、彼がさきほど言ったロイです。」
「ああ、彼が!」
丘の上から現れた自分の筆頭騎士であるオランに、ハーシェリクは頷くと岩から降りてロイに歩みよった。
「初めまして、ハーシェリク・グレイシスです。」
ロイの目の前にきて、ハーシェリクは微笑んでみせる。
その微笑みに一瞬見惚れたのはつかの間、我に返ったロイは慌てて膝を尽こうとしたが、緊張して強張った為、前のめりに倒れてしまう。慌てて両手をつくが、まるで土下座をしたような形になり、恥ずかしくて自分の顔が熱くなるのがわかった。
「大丈夫?」
そう頭上から声をかけられてもロイは顔を上げることができない。
だがそんな彼の腕を掴み無理やり起き上がらせる人物がいた。もちろんオランである。
「怪我でもしたのか?」
そう問いつつロイの頭からつま先までも見て、特に怪我がない事を確認し安堵のため息を漏らし彼を解放する。
「大丈夫そうだな。」
「すすすす、すみません!」
ロイは慌てて礼をする。腰を直角に曲げて視線は地面だ。
「ハーシェリク殿下、失礼いたしました!」
その様子に苦笑が漏れる声が聞こえたが、緊張したロイの耳には届かなかった。
「こちらこそ、オランとの約束に押し掛けてごめんなさい。どうか頭を上げて下さい。」
その言葉にロイは恐る恐る頭を上げる。目の前には苦笑しているハーシェリクがいた。そして申し訳なさそうにハーシェリクは言った。
「よかったら一緒に訓練させてもらってもいいですか?」
ロイに断わる理由も術もなかった。
ロイが周りを見回せば、別の岩には手元に明かりを出現させ読書に勤しむ美女が座っていた。彼の視線の先に気が付いたハーシェリクは、彼が自分の筆頭魔法士だと説明する。
「この周辺に結界を張ってくれているんです。だからここには猛獣も魔物も近づかないから安心ですよ。」
その説明に安堵し、二人並んでオランの教師とし剣を教わる。オランは二人の素振りを見た後、各々に助言をした。そして二人ともオランの助言を受けて再度素振りを始めるが……
「王子、姿勢が悪い。」
ロイの前なのでいつものように敬称省略で名を呼ばないよう配慮はしているが、今は教師ということで敬語は省いていた。そんなオランにロイはぎょっとしたが、注意された当のハーシェリクは気にも止めず頷く。
「解った。」
そう言ってハーシェは姿勢を正し再度降るが、その様子にオランは再度注意する。
「解ってない。ほら、腰が引けて姿勢が悪いから剣を振り下ろした時に剣先がぶれるんだ。」
「むむ。」
そう唸りながらももう一度剣を振うが、そこには改善された余地はない。オランは以前ハーシェリクの剣術の教官の『鬼教官』として有名な人物に言われたことがある。
「殿下はやる気はあるし、努力も厭わない。だが圧倒的……」
どんな一兵卒も彼の手にかかれば一人前になると言われる鬼教官が、最後まで言葉に出来ず力なく乾いた笑いをした。確かにオランも最初ハーシェリクの訓練を見た時、同情したくなったのを思い出す。
圧倒的にセンスがない。努力云々の前の、努力でどうにかなる以前の問題だ。それはハーシェリク本人にも自覚があるようだが、それでもやらないよりはと諦め悪く鍛錬しているのである。
ただここ最近、春以降の剣の訓練については、ハーシェリクはかなり力を入れているようだった。
その理由をオランは察しがついている。
ハーシェリクは一度命を失いかけた。あの教会での事件で皆が油断した一瞬の出来事。ハーシェリクは、あの令嬢がいなければ命を失っていた。
それからハーシェリクは。多忙な合間を縫って今まで以上に剣の稽古に力を入れるようになった。我武者羅に不得意な剣を振う彼の後姿を、オランは止めることはせず今まで見守ってきた。
ハーシェリクの背中が語っていた。
少しでも自分の身を守ることができたなら、彼女を失わずにいれたかもしれない、と。それは過去オランも感じたことがある無力感。そして今も胸の奥にある思いだった。
執事はあまり良い顔をしないが、オランはハーシェリクが剣を持つことに反対はしない。剣は命を守るだけではない。心も守ることができるとオランは考える。
だからオランは心を鬼にしてハーシェリクを指導する。
「ロイを見てみろ。最初の頃と比べて姿勢が大分よくなったから、安定した型になってきた。」
オランの言葉にハーシェリクがじっとロイを見る。ハーシェリクから注目されてロイは慌てた。
「そんなことはないです!」
だがロイの言葉はハーシェリクには届かず、ハーシェリクはじっと自分の持つ訓練用の剣を見つめるのだった。
「むー……」
それからも訓練を続け、そろそろ剣を振うのが辛くなってきたころ、暗い森の木々の間から音もなく一人の青年が現れた。その青年はロイも見覚えがあるハーシェリクの執事であるクロだった。手には水筒が複数持たれている。
「黒犬も来たし休憩にするか。」
その一言でロイは手短にあった岩に腰を下ろす。剣を振っていた手だけでなく、姿勢を意識して力をいれていた足も疲れで震えていた。
「隣、いい?」
震える手を見ていたロイにハーシェリクは話しかける。額に汗の玉を浮かべた彼に、ロイは一瞬躊躇ったが、しかしその場を退くには足の震えで動けずにいた。その為どうぞと言って座る位置をずらした。
「ハーシェ様、どうぞ。そちらの方も。」
そんな彼らに音もなく忍び寄ったクロが、外面よく微笑みながら水筒を差し出す。ハーシェリクがお礼を言って受け取り、ロイも恐縮しながら受け取った。
「おーい黒犬、俺にも……って投げて渡すな!」
「うるさい。」
笑顔のままさらりという執事と、それに不平不満を漏らす騎士の言いあいを聞き流しつつ、ハーシェリクは受け取った水筒の蓋をとり液体を口の中に流し込む。
ふと一陣の風が頬を撫でる。気持ちよく目を細めたハーシェリクにロイは話しかけた。
「あの……なぜハーシェリク殿下は訓練を?」
最もな質問だった。ハーシェリクはまだ学院にも通っていない子供。そんな子供が必死に剣術の稽古をしているなんて、傍から見れば異様であろう。ハーシェリクは苦笑を浮かべながら答える。
「最初は最低限自分の身は守れるようになろうかと……だけどずっと訓練してはいるんですが全然身にならなくて。ロイさんは?」
「……僕は生きて帰りたいんです、情けないかもしれませんが。」
ハーシェリクに逆に問われ、ロイは数拍考えた後、頬をかきながら言った。
軍に入っておきながらとても軟弱な理由だった。もし他の兵士の先輩がいたなら、笑い飛ばされるか激怒されたであろう。だが王子は彼を笑うことはしなかった。
「そんなことないですよ。」
そして真剣な表情でロイを肯定する。
「生きることは大切です。だからその為に努力するロイさんは立派だと思います。」
「立派だなんて……」
そう言われてロイは照れる。これまで生きてきて、立派と言われたことはなかったからだ。
「それに……死んでしまったら、終わりですから。」
ハーシェリクが顔を伏せ、今にも泣き出しそうな苦しそうな表情で呟く。
「殿下?」
ロイがその表情に戸惑いつつ問おうとした時、オランが歩み寄った。
「さて、もう一度おさらいしたら終わろうか。」
その言葉にロイは喉まで出かかった質問を、ついには口にすることができなかった。
それが後の世、ハーシェリクの逸話や功績を多く書き残す、作家ロイ・ビルトと王子の最初の邂逅であった。
ロイ・ビルトはその時の事をこう書き残す。
『運命の神が王子と自分を引き合わせたのだと、今にして思う。自分は彼の偉業を残す為この世界に生れ落ち、そして出会ったのだと。』
ロイ・ビルト著 ハーシェリク・グレイシスの生涯 序章より