第二章 王子と民と出陣式 その三
明日の支度を終えたクロは自室にいた。今は堅苦しい執事服ではなく簡素な部屋着である。それでも髪に合わせた黒い服を着る辺り、彼が主から貰った名前通り黒を好むことを証明していた。
そんな彼の目の前の机の上には暗器が並べられていた。ナイフ、ダガー等刃物はもちろん、火薬や毒薬、解毒薬等の薬品、そして糸のように細く長い鉄線。並べられた品々を一つ一つ丁寧に手入れをしていく。
特に鉄線は細心の注意を払っていた。この鉄線は一本の糸のように見えて、実際はさらに極細の鉄の糸を一本の糸のようにまとめてある。またその糸一本一本に特殊な魔法式が組み込まれていて、魔力を通すことにより伸縮が増し自在に操ることも、強度と切れ味を増すことも可能という、かつて生まれた国の技術の粋が集められていた。
最後に鉄線を専用の糸巻に巻き終えて、クロは息を漏らしつつ自分の肩を手で揉みほぐす。装備の手入れはいつも丁寧に行っていたが、今回は特別丁寧にやった為神経を使った。
時計を見れば既に時刻は十二時を回っている。
(もうこんな時間か。)
手入れを始めてから三時間が経過していた。集中していた為、時を忘れてしまっていた。
ふと微かな音がしてクロは扉に目を向ける。その扉は廊下に繋がる扉ではなく、ハーシェリクの部屋へと繋がる直通の扉だ。執事であるクロだけは、廊下を経由せずとも主の部屋に行くことができるよう隣室が与えられていた。
(まだ起きているのか……)
明日は早いから休むと言って自分達を帰したのに、とクロは嘆息する。そして立ち上がりハーシェリクの部屋に行こうとして、ドアノブに手を伸ばしたところで一旦手を止め、踵を返し廊下への扉へと向かっていた。
月明かりだけが頼りの薄暗い部屋の中、ハーシェリクは窓際に置かれたソファに、前世の子供時代にした体育座りのように両膝を抱えて座り、ぼんやりと夜空を見上げていた。右手には銀古美の懐中時計が握られ、時々親指の腹で撫でる。時折夜空から視線を外して懐中時計を眺めては、また夜空へと視線を戻す。
(……寝なくちゃだめだと解ってはいるんだけどな。)
そうハーシェリクは内心ごちる。
明日は出陣式。式典の後、城下町を大名行列のように行進しそのまま戦地となる国境へと向かう予定だ。明日は朝から早いので、早々に筆頭達を帰し自分はベッドに潜りこんだ。しかし布団を被り瞳を閉じても、羊を数えても眠れそうになかった。
「四年前を思い出すなぁ……ね、クラウス。」
誰もいない空間に、ハーシェリクは話しかける。
三歳の宴の日。その日の事をハーシェリクは片時も忘れたことがない。この国の闇を知った日だからだ。
あの日、この懐中時計を拾わなければ、彼に出会わなければ、自分は今頃どうなっていたか。王族の暮らしを宝くじが当たったかのような幸運だと浮かれ、ぬくぬくと守られ……守られていることも知らずに無知のまま生きていただろう。
「四年もかかった。四年も……」
ハーシェリクはそう呟き、懐中時計を握った手に無意識に力が入る。
「……ハーシェ。」
闇の中から声が聞こえた。ハーシェリクが視線を動かせば、影が動いた気がした。それが誰かすぐわかった。
「クロ、まだ寝てなかったの?」
「それはこっちのセリフだ。」
ハーシェリクの言葉に呆れたように言葉を返し現れたのは、カップを二つ持ったクロだった。
「明日の為に早く休もうと言った人間が、どの口でそれを言う?」
クロの反論にハーシェリクは苦笑いを浮かべるしかない。
「ほら、これを飲め。そして寝ろ。」
そう言ってクロがカップを差し出したものを受け取り覗き込むと、そこには白い液体が入っていた。
「ありがとう。」
そう言ってハーシェリクは口をつけようとしてピタと動きを止める。見た目はホットミルクだが、香りがちがったのだ。
「クロ、まさかまた……」
「緊張を解して睡眠効果のある薬草も入っている。この前見たく薬じゃないから安心しろ。」
じと目で睨む主にクロは肩を竦め、自分用に用意したカップに口を付ける。
その様子にハーシェリクは小さくため息を漏らして、自分もカップに口をつける。優しい香りと甘いハチミツが体を温めてくれた。やはり緊張していたのであろう、温かい液体が緊張を溶かしてくれたようだった。
「……まったく、主に薬を盛る執事が普通いる?」
緊張が和らいだハーシェリクがクロに視線をなげつつ言った。ハーシェリクがそう言ってしまうのも仕方がない。
教会のテロが鎮圧しとある令嬢の葬儀の後、ハーシェリクは時間を惜しみ以前より増して、国内に蔓延する不正の調査にのめり込んでいった。
「私は、休んでなんていられない……守ってくれた彼女の為にも。」
鬼気迫る表情でそう言う彼に兄達はもちろん、腹心達も心配したが何も言えなかった。
当の本人は彼らの心配をよそに、昼間は善良で幼い王子を演じ、夜は各部署へ情報を仕入れに出向いた。そして限界まで調べ事をして意識を失うように短時間の睡眠をとる。元々ハーシェリクはある程度睡眠時間を確保しないと体調に影響が出る性質。それを知っている執事は何度となく主に注進したが、主は一向に聞き入れなかった。
そこでクロは強硬手段に出た。食後のお茶に睡眠薬を混ぜたのだ。睡眠薬とはいっても以前ハーシェリクが誘拐された時に使われた粗悪品ではなく、適量なら副作用もないクロがいろんな伝手を駆使して手に入れた一級品である。
一日目はハーシェリクも疲れていたかと思った。続く二日目は首を傾げ、ついに三日目になると執事を問い詰めた。
「ハーシェは言っても聞かないだろう?」
と無表情で静かに怒る彼。その頃にはさすがにハーシェリクにも無理をしている自覚が出始めていたのだ。昼間の授業も身が入らず、剣術ではいつも以上に簡単に剣を弾かれ、馬術訓練では危うく落馬しそうになった。だからクロが強制的に休ませようとしたというのも納得がいったし、むしろそこまで彼に心配をかけたことに反省した。
「その薬を盛った執事を咎めようともしない、普通じゃない主にはお似合いだと思うがな。」
そう言ってにやりと笑う彼に、ハーシェリクもつられて笑いが零れる。
「クロと出会ってもう三年か。」
長いようで短い、だがやはり長い三年間だった。彼がいなければ、自分は未だに無力な子供だったに違いない。
クロだけではない。オランやシロ、兄達がいてくれたから、助けてくれたから才能も魔力もなにもない無力な自分はここまでくることが出来たのだ。
「ありが……」
「ハーシェ、お礼を言うにはまだ早い。これからだ。」
礼を言いかけたハーシェリクを、クロが遮りにやりと笑う。その言葉にハーシェリクも笑う。
(そう、この為に準備をして来たんだ。これからが勝負だ。)
ハーシェリクは頷き、カップの中身を飲み干した。
大勢の臣下達が左右に谷のように並ぶ玉座の間。中央には赤い絨毯が引かれ一方の端には扉が、もう一方には玉座があった。
玉座には国王であるソルイエが、その隣には大臣であるバルバッセがいた。ざわめく臣下達の中、本日の主役登場を告げる官吏の声と共に重い扉が開かれる。
ざわめきがぴたりとやみ、視線が扉から現れた者に集中する。
開かれた扉の先に現れたのは、特注された金の刺繍が施された紫紺の軍服を身に纏い、赤き王者のようなマントを靡かせ颯爽としたこの国の末王子ハーシェリク。背後には己の臣下である筆頭達を引き連れ、淡い金の髪を揺らし、翡翠のような瞳を真っ直ぐと前を見据え大広間に踏み入れる。いつも春の陽射しのような笑みはなく口を横一文字に結び、赤い絨毯を踏みしめて進むと玉座の前で膝をおり父である王に頭を垂れた。筆頭達もそれに倣い膝を尽く。
ソルイエは立ち上がって頷き、大臣からハーシェリクの身丈に合わせてつくられた金の元帥杖を受け取ると彼に差し出す。
「……ハーシェリク・グレイシス。汝をこの時より我が代理人と認め、この杖を下賜する。兵二万を持って我が国への脅威を退けよ。」
「御意。」
固い父の声にハーシェリクは頭を上げる。そして立ち上がり、元帥杖を受け取ると父を見た。青くなっている父にハーシェリクは一瞬だけ微笑んでみせ、すぐに表情を引き締めた。
「陛下の為、民の為、全ては我が祖国グレイシス王国為、必ずや脅威を取り除いてみせます。」
宣言したハーシェリクは一礼すると、マントを翻し来た道を戻る。その後ろを筆頭達が続いた。
ハーシェリクは筆頭達を引き連れ、玉座の間から正門へと向かう。そして開け放たれた扉から外へ出ると、整列した軍を見渡す。
戦闘には今回の遠征軍の指揮を務める将軍が二人。一人はテオドル・セギンといい、子爵の位を持つ貴族だ。そしてもう一人は傭兵上がりの将軍、ヒース・ブレイズ。両将軍が最敬礼をして出迎え、それに習い他騎士、兵士達も一糸乱れぬ敬礼をする。
ハーシェリクが王から授かった元帥杖を掲げ、声を上げる。
「全軍、出立ッ!」
その声に呼応して音楽隊が行進曲を奏で始め、将軍二人が軍馬に跨り、移動を開始する。ハーシェリクも用意された馬車に乗りこむ。馬車には屋根や壁がなく、また普通の馬車より地面から高めに作られている為、成人男性がその場で立てば膝から上が民衆に晒されるような作りだった。平均よりも若干身長の低いハーシェリクは、さらに用意された台に乗った。シロも一緒に乗り込み、ハーシェリクの背後に控えるように立つ。馬車の御者はクロが務め、オランのみ軍馬に騎乗する。
全ての用意が整い、後は動き出すのを待つばかりなったところで、ハーシェリクは深呼吸した。
(ああ、ついにか……)
ついにこの日がきてしまったとハーシェリクは実感する。
いつかは必ず来る、避けられない日。仲良くなり、親切にしてもらった城下町の人々に、嘘がばれる日。
馬車が動き出し、ハーシェリクは振動で無様に転げ落ちないよう足に力を入れる。
馬車がゆっくりと進むと同時に町の人々の歓声が聞こえ、リョーコだった日々の終わりが近づいた。
ハーシェリクは一度目を閉じる。そして馬車が城門を潜り、城下町へと入ると同時に瞳を明けた。翡翠の瞳に映ったのは、青い空、前を進む兵士達、そして手を振る城下町の人々。
行進を見送りに来た民衆の中に、いつもお菓子をくれたお菓子屋の夫妻がいた。彼らの瞳が驚きで大きく見開かれている。彼らだけではない。人々が始め王族の王子が現れた瞬間歓声を送っていたが、王子が誰かと解ると皆が驚き戸惑う。
顔は前を向けたまま視線だけを彷徨わせれば、旦那さんに支えられるルイが見えた。孤児院から見送りに来たであろう子供達の中に不安げなヴィオがいた。リョーコと関わりがあった人々は、表情を曇らせている。
(ああ、これじゃだめだ。)
彼らに不安な表情をさせてはいけない、とハーシェリクは思う。
ハーシェリクは俯く。
例え何があろうと、王族は民に不安を抱かせてはならない。彼らにとって王族とは国の象徴なのだから。
ハーシェリクは顔を上げ、いつものように微笑んでみせた。たとえ彼らが騙されたと彼らが詰ろうと、呆れて見離したとしても、この国の王子として生まれたからには彼らを守る。だから笑う。彼らの不安が取り除かれるように、この国が大丈夫だと思ってもらえるように。
それが、ハーシェリクが望んだものだから。
これがハーシェリクの初陣でもあり、後世で語られる『大国の動乱』の幕開けでもあった。