第九章 王子と大臣と悲劇の終幕 その三
城下町の大通りからは離れた裏通り。昼でも薄暗いその場所は人の気配がなく、身を潜める為にあるような場所だった。その建物と建物の間の細い道には、大小二つの影は蠢いている。小さな影はこの国の王子ハーシェリク、もう一つの大きな影はこの国の大臣ヴォルフ・バルバッセだった。
後宮から出た後、バルバッセはすぐに自分の馬車にハーシェリクを押し込んで、混乱している御者に激を飛ばし王城を後にした。邸宅まで最短距離の道を指示した。
だが馬車の進む先々で近衛騎士が検問をしていた。検問に捕まればバルバッセは逃げることが出来なくなる。そこで彼はハーシェリクの腕を掴み馬車を降りると、馬車では通れない幅の狭い裏通りを自分の足で進む。
しかし普段は馬車を使っている上、子供とはいえハーシェリクを引きずる様に歩き続けると体力は削られる一方だった。
ハーシェリクは抵抗もせず引きずられるまま、バルバッセの成すがまま逃げようともしない。バルバッセはハーシェリクの手を離し建物の壁に背中を預け、息を整えつつ、今後のことを考える。
こうなっては国にはいられないことは明白だった。なら別の国へ亡命するしかない。
(屋敷に戻ったら金目のものと、後は……)
「バルバッセ、無駄なことはやめたほうがいい。」
彼の考えを遮るかのように、今まで大人しくしていたハーシェリクが話しかける。
「あなたは一体に何を望んでいた?」
あまりにも抽象的な問いにバルバッセは汗を拭いながら眉を潜める。だがハーシェリクは彼を見上げ問いを続けた。
「金銭? 名誉? それとも支配欲? あなたは一体、何が欲しかったの?」
「黙れ……」
うんざりした声を発するバルバッセ。しかしハーシェリクは口を閉じることはしなかった。
「多くの人間を傷つけて、多くの人を泣かせて……貴方は自分が満足するものを手に入れることができたの?」
「黙れと言っているッ」
怒鳴ると同時にバルバッセは拳を壁に叩きつけ、頭上から埃が降る。上等な服に埃がついたが、バルバッセは気にも留めず、そして苛立ちを隠しもせず言葉を続けた。
「私がこの国を動かしてきたんだッ 私がいたからこの国は他の国と対等に渡り合えたんだッ!」
この国では貴族の力が大きく、貴族の中には他国との交流を持つ者もいる。バルバッセともなると個人で数多の国に蜘蛛の巣のような伝手を持っていた。その情報は国に有益な情報をもたらした。
「それなのに王族達は私を認めなかったッ 何も渡さなかったッ それどころか蔑み奪おうとしたッ 何もかもだッ! だから自分で手に入れたッ 金も名誉も全てをだッ!!」
先王の時代よりも前から国の腐敗は始まっていた。貴族達の横暴は日に日に増幅し、役人達もそれに倣い上に媚び下を虐げた。
先王である慧眼の王は、己の欲望に走る肥大した貴族達を抑える為にいくつかの改革を行おうとした。しかしそれは王家の悲劇により失敗し、貴族達はさらに肥大していった。
「……私は別に、貴族が一般人よりも裕福な暮らしをすることには異論はない。」
血走った瞳を見開いて叫ぶバルバッセに、ハーシェリクは真逆の落ち着いた声で言う。
「王族や貴族が裕福な暮らしできるのは、その分責任を背負っているからだ。」
だからハーシェリクは貴族が上等な服を纏い、高級料理を食すことになにも異論はない。働いたら給料がもらえるのと、貴族がいい生活をすることは同じ意味だと考える。
「だけど貴方は違う。」
ハーシェリクは真っ向からバルバッセを否定する。
「責任から逃げて、罪を他人に擦り付けて、都合の悪いものは全て消して……」
己以外を全て道具のように見て、そして不要になったら切り捨てて。
「貴方はそれで何を手に入れることができた?」
それはハーシェリクの純粋な問いだった。どんなに考えてもハーシェリクは、大臣が何を求めていたのか、理解できなかった。所詮赤の他人だ。全てを解り合うことはできないとは解っている。しかし問わずにはいられなかった。
「貴方は有能だ。方向さえ間違えなければ、この国はもっと栄えたはずだ。なのになぜそちら側にいってしまった?」
バルバッセは優秀で有能だった。城の中で多くの資料から彼の尻尾を掴もうとしても、結局できなかった。なぜそんな人間が、どこで道を踏み誤ったのか、ハーシェリクは問わずにはいられなかった。
『なぜ、貴方はそんなに自分の価値を下げるようなことをするの?』
かつて、バルバッセはそう問われたことがある。
太陽のように輝く金の髪、同じく金の瞳を持つ金色の姫。まるで舞い降りたよう天の御使いのように現れ、王を愛し、妃達を癒し、幼い王子王女達を慈しみ、侍女から官吏等下々の者達に慕われた、後宮の太陽と称された寵姫。
その寵姫に怒りながらも悲しげな表情で問われた言葉が、バルバッセの頭の中で反芻される。
『貴方は私よりも頭もいいし優秀なのに、なんでそんな悲しいことが出来るの?』
真っ直ぐと見据えられそう言われた時、バルバッセは言葉を失った。いつもなら難なく躱すのに、あの時の彼女の言葉だけは誤魔化すことが出来なかった。
その息子が、あの時と同じように問いかけてきた。
「……黙れええッ!!」
バルバッセがハーシェリクの胸元を掴み、壁に押し付けた。背中に痛みを感じハーシェリクは眉を顰める。
「なら、なぜ私を殺さなかった!? 『影の牙』なら私を容易く殺せただろう! 牙じゃなくても、オルディスの小僧でも、あの化け物みたいな魔法士でも命令すればよかったのではないかッ!?」
それはかつて自分の配下にも言われた言葉だった。ハーシェリクは瞳を一度閉じる。
「……殺したかった。」
それは絞り出すような、普段のハーシェリクからは考えられない、暗い感情のこもった声だった。感情を露わにした瞳が開き、バルバッセを映す。
「クラウスもお前が殺した。アルミン男爵も、オランの婚約者も教会に薬が渡らなければ死なずに済んだかもしれない……頑張って真面目に生きてきた人間が死ぬなんて間違っている。」
ハーシェリクは自分の感情が、どす黒い怒りの感情が胸の奥から噴出してくるのを感じ、止める事が出来なかった。
「お前はジーンを追い込んだ。それしか生きる方法がないと思い込ませ、利用して、そして邪魔になったら殺した……彼女は私の手の中で死んだ。」
冷たくなっていく彼女をハーシェリクは昨日のことのように覚えている。手に濡れた地の感触も忘れられずにいる。彼女の事を思い出すたびに、愛しさと憎しみが己の心を支配する。
「私はお前を、この手で殺したいほど憎んでいるよ。」
見た者が恐怖を感じるような、憎しみに燃える暗い炎を瞳に称え嗤うハーシェリク。
バルバッセは息を飲む。そして王子に委縮していることに気が付き驚愕する。しかしそれを認めることが出来ず、バルバッセは怒りか、それとも恐怖か判別できない、やや震える唇を動かそうとする。
「なら……」
「だけど、憎しみだけでお前を断罪したら、お前のやっていることと変わらない。」
バルバッセの言葉はハーシェリクによって遮られた。既にハーシェリクにはさきほどのような嗤いはなかった。己を律するように自分の拳を握り、全てを自分に言い聞かせるように言葉を続ける。
「それにきっと、彼らも……彼女も喜ばないだろうし、悲しむ。」
彼らの最期が憎しみだけを残していったわけではない。彼らは自分に希望を残して行ってくれたのだと思いたい。だからハーシェリクは自分の怒りや憎しみの感情をしまいこむ。
前世でも感じたことがなかった激しい憤り。それは大臣だけでなく自分にも向けられる感情を、全て己の中に留める。
(この感情は誰にも渡さない。私だけのものだ。)
時を重ね薄れていくかもしれない。だがこの感情は無くなることはないだろう。この感情がある限り、ハーシェリクは彼らを永遠に忘れずにいられると確信する。
「バルバッセ、自分の罪を認めるんだ。自分が犯した罪を知り、受け入れて、償うんだ。」
その結果が死罪だとしても、今死んで終わりにはさせないとハーシェリクは思う。
「……ああ、だからか。」
そんな王子にバルバッセは納得したように言った。そして襟首を掴んだ手に力を入れ、王子を持ち上げる。
「バルバ……セ?」
華奢なハーシェリクの身体は軽々と持ち上がり、それと同時に呼吸をすることが困難になる。反射的に、襟首を掴むバルバッセの手を小さな手でつかんだが、びくともしなかった。
「王子、私を説得する為にわざと捕まったな?」
異様なまでに無抵抗な王子に違和感を覚えた。そして近衛騎士達は、検問はしていたが捜しに来る様子はない。つまり、この状態も目の前の王子の掌の上だったということだ。
「甘いぞ、王子。甘すぎるわ!」
この期に及んで説得しようなどと甘すぎる。結局、この王子は非情になりきれないのだ、とバルバッセは嗤う。
「私は逃げる。逃げのびてみせる!」
バルバッセの手に力が入った。ハーシェリクは息が出来ずに、視界がぼやけ、意識が遠くなる。だが次の瞬間、首を圧迫していた感触は消失、投げ出されるように地面に頬りだされる。
地面に打ち付けられ、痛みに悶えながら、空気を求め大きく息を吸う。だが同時に鉄の匂いをかぎ取る。
体を起こし、匂いの元を見て、ハーシェリクは瞳を見開いた。
「バルバッセ……?」
彼が倒れていた。そして地面には赤い血だまりを作っている。思い起こされるのは彼女が死んだあの日の光景だった。
「ぐあ……ああ……」
うめき声をあげうつ伏せに倒れながら胸部を抑えるバルバッセ。そんな彼を見下ろす人物がいた。
「セギン、将軍?」
なぜ、牢屋に入れられているはずの彼が、この場にいるのか。そしてなぜ血の付いた剣を持っているか。混乱したハーシェリクは、血の匂いがする空気を吸うことで、肺に空気がいきわたることで、理解した。
脱獄した彼が背後から、自分の首を絞めていたバルバッセを、その剣で貫いたのだと。
「……ハーシェリク殿下、今私は貴方様の命をお救いしました。」
今し方、人を一人刺したというのに落ち着いた言葉でテオドルはハーシェリクに話しかける。その瞳は狂気に満ちた光が宿っていた。
「どうかこの功績をお認め下さり、先日の無礼はお許しください。そして許されるならお傍に……」
狂気に支配された彼がどんな言葉を望んでいるのか、ハーシェリクは解った。そしてその言葉を言わなければ、自分の命も危ういともわかった。だが、それでもハーシェリクは真っ直ぐと彼を見つめて口を開く。
「貴方は何を言っている?」
血の滴る剣を持ったテオドルをハーシェリクは拒否する。
「貴方の罪は、私に無礼を働いたことじゃない。私利私欲のために軍に被害をもたらし、あまつさえ将軍であるにもかかわらず逃亡した。」
王族へ対する罪は軽くない。だがこの男はそれ以上の罪を犯したことに気が付いていないのかと思うと、ハーシェリクは怒りを通り越して呆れた。
「例え私の命を救ったとしても、千人以上の兵士の命が失われたことに変わりはない。貴方の罪が消えることはない。」
きっぱり言い切るハーシェリク。テオドルは数拍沈黙した後、口を開く。
「……なら仕方がありません。」
狂気が支配した表情と、血が滴る剣をハーシェリクに向け、言葉を続けた。
「王子はバルバッセ大臣に弑され、私が駆け付けた時は既に死んでいた。王子の無念を晴らすべく大臣を誅したのが私ということにしましょう。」
大臣を跨ぎ、一歩、また一歩とテオドルは足を進める。大臣の血で靴底を汚し、血で足跡を地面に残しながら、ハーシェリクに凶刃を突き立てるべく、距離を縮めた、
そして座ったままのハーシェリクの目の前に立ち、剣を振り上げる。
「死ねええぁああああッ!!」
叫び声と共に剣が振り下ろされ、その刃がハーシェリクに到達する。だがそれは彼の妄想の中だけだった。何もないはずの宙に、振り上げた剣は押す事も引くこともできずに、止まっていた。否、剣だけでなく、全身が微動できずにいた。
テオドルは眼球だけ動かし自分の身体を見る。体中に、糸のような細い鉄線が巻かれ、鉄線の先は建物に固定されていた。まるで蜘蛛の巣に嵌ったよう虫のように、テオドルは囚われていた。
視線を王子の前に戻せば、血のように赤く暗い瞳を持つ青年と目が合う。
「……クロ。」
「ハーシェ、こいつは変わらない。もう引き返せない。」
変われる人間は存在する。ハーシェリクに出会い正しい方向へと向いた人間もいる。しかしクロは変われない人間も、過ちを認めることが出来ない人間も、そして狂気に堕ちていった人間も多く知っている。 堕ちてしまった人間は、戻ってくることはない。そんな者達を救ってやれる方法は一つしかない。
「殺してやることが情けだ。」
だがハーシェリクは、己の執事の言葉を否定する。
「だめだ、クロ」
「こいつは将来、必ずお前の害となる」
「それでもッ」
ハーシェリクは強く言った。
「彼が裁かれるのは、ここではない」
ハーシェリクのその言葉を最後に、テオドルは意識を失った。
気を失ったテオドルを脇道に除け、クロは大臣に歩み寄って膝を付き、うつ伏せの状態から仰向けにして状態を確認する。
「ハーシェ、大臣はもう……」
クロはそう言いつつ胸部から流れる血を止めようと止血を施す。しかし剣は胸部を貫いていて、すでに大臣は虫の息だった。
「……最後は、捨て駒に、殺されるとは……な。」
大臣が息絶え絶えに呟いた。まさか自分の最期が暗い路地裏で、捨て駒に殺されるとは思ってもみなかった。
そんな彼にハーシェリクは歩み寄り、クロと同じように片膝を付き、彼の顔を覗き込む。
「……バルバッセ、彼方は何を求めていた?」
さきほどと同じ問いに、バルバッセは走馬灯のように脳裏を駆け巡る記憶の中に答えを探す。
いつからか、心に穴が開いていた。空虚な穴。その穴を埋める為、いつもなにかを渇望していた。
何で埋まるか見当もつかなかった。だから貴族という立場を利用し、なにもかも手に入れようとした。だが大金を手に入れても、多くの貴族達を従えても、王家さえ手中に収めても、満足することはできなかった。求めれば求めるほど、手に入れれば手に入れるほど、穴は広がり、何かを欲した。だが何を欲していたかはわからなくなった。
脳裏に浮かぶのは金色の姫の後ろ姿。初めて王に紹介され出会った時、美女が並ぶ後宮では見劣りする容姿だというのに、彼女は輝いて見えた。そして彼女と言葉を交わすとその心が揺さぶられた。
その感情の正体を知る前に、彼女は王との子を残し、この世を去った。
その子供は彼女の子供らしい、変わった存在だった。
思い出されるのはハーシェリクが行方不明となったと聞いた城下町の者が城に押しかけた風景。バルバッセはあの時、苦い感情を確かに感じた。
民に慕われ、凛々しく己を貫くハーシェリクの姿は、照明を落としたように暗くなる視界でも鮮明に思い浮かぶ。そして彼女の時と同じように心を揺さぶった。
心の底から湧きあがるドロドロとした感情。彼が憎かった。彼が妬ましかった。闇を照らす光のような存在の王子が。
いつから道を違えたのだろう。まだ若い頃は志というモノがあったはずだ。しかしそれがいつしか己の利益という目的に上書きされた。彼のように志が貫けなかったから、彼に嫉妬したのだ。彼女と同じ、彼の真っ直ぐと自分を射抜くような瞳が怖かった。
(ああ、私は、彼に嫉妬して、恐れていたのか……)
だがそれを教えてやる義理は無い、とバルバッセは結論に達する。
「くだらない……」
その言葉が王子に向けられてか、自分に向けられての言葉だったのか。
ヴォルフ・バルバッセの真意はハーシェリクには伝わらず、彼の意識はそこで途絶えた。




