第八章 帰還と病と悲劇の再演 その一
昼過ぎだというのに王都の城下町はいつものように活気がなかった。客を呼び込むための店主の声には覇気がなく、みなが不安げに時々顔を見合わせては、王城を見上げる。
つい先日、この国の第七王子ハーシェリクが帝国の十万もの軍勢を二万満たない兵で打ち破ったという吉報が舞い込んだ。一度は王子が奇襲で死亡したという噂が流れた町は歓喜に湧き立ち、酒場では我がことのように祝杯が交わされた。
だが王子の帰還が今か今かと待ちわびている民を嘲笑うかのように、次に凶報が流れる。
第二十三代、国王ソルイエ・グレイシスが病に伏したのだ。
国民が脳裏に思い浮かべたのは二十年以上も前の、王家を襲った悲劇。慧眼の王とも言われた時の王と、二人の王子が病にかかりそのまま亡くなった。
それから十数年、国民の生活は厳しいものだった。暗愚な王家、我が物顔で国を食い物にする貴族や高官、それに媚びへつらう役人達。皆が未来に希望を持てなかった日々。
あの日々がまた訪れるのでは、と皆が恐れいていた。
「……あれは?」
ふと店先の亭主が大通りの先に土煙を見つける。目を凝らせばその先頭を走るのは、真紅の鎧を纏った黄昏色の髪を靡かせた青年が馬で駆けている。続くは同じように馬に跨り、出来るだけ軽装となった騎士達。彼らは口々に道を開けるよう指示しながら、駆ける速度を落とさず通りを駆けて行く。そして彼らに続くように一台の馬車が疾走した。
その馬車には王家の者にしか許されない家門が施されていた。
「まさか王子が戻ってきた!?」
ハーシェリク王子の帰還、その一報は瞬時に王都に広がった。
そんな城下町のことは知らず、ハーシェリクの乗った馬車は正門から王城へと向かう。国境砦を出て一週間と三日。行きとは比べものにならないほどの強行軍でハーシェリクは帰還したのだった。馬車が止まると同時に御者を務めていたクロが扉を開けるのを待たず、ハーシェリクは自分で扉を開け飛び出ると同時に駆け出す。普段、決して廊下を走ることをしないハーシェリクが、我先にと飛び出した為、出迎えようとしていた高官や役人達は慌てて道を譲る
後宮へ続く門を抜け中庭の石造りの通路を走り抜けることには、背後に足跡が聞こえてきて自分の腹心達が追い付いてきたことがわかったが、ハーシェリクは足を止めることなくそのまま父の私室がある後宮へと駆けこんだ。
廊下を駆け父の部屋へと一直線に走る。だがその行く手を遮る者がいた。
「お待ちください、ハーシェリク殿下。」
「行かせてください、先生!」
立ちはだかったのは王家の主治医だった。年に何度も高熱で倒れるハーシェリクもお世話になっている。いつも穏やかな笑みを浮かべた高齢の医師だが、今は厳しい表情でハーシェリクを押しとどめようとする。
「殿下、なりません。」
「なぜですか!?」
医師の言葉にハーシェリクは声を荒げる。いつものハーシェリクからは考えられない荒々しい声に、医師は飲まれかけ道を開けかけたが踏みと留まると口を開いた。
「原因不明の病でございます。もし殿下の御身になにかあれば……」
「私のことなんてどうでもいいんです!」
だが医師の言葉をハーシェリクは最後まで効かず、医師の横をすり抜け父の部屋の扉を開く。
書類の匂いが充満した部屋だった。机の上には後宮だというのに書類が積み上げられ、夜も仕事をしていることが伺えた。見回せば暖炉の前のソファが目に入る。三歳、伯爵を助けてほしいと懇願した時、父はこのソファに座っていたのをなぜか思い出した。その時の顔を思うかべ、それが不安を煽る。
ハーシェリクはその不安を追い払うかのように首を横に振ると、寝室へと向かった。
「父様ッ」
勢いよく扉を開けると、室内の空気が揺れ、薬品の匂いは鼻孔を擽る。部屋の中は薄暗く、空気が重いような気がした。
「ハーシェリク様……」
名を呼ばれそちらに視線を向ければ、金属製の桶とタオルを持ったルークが佇んでいた。その瞳は一瞬開かれ伏せられる。その仕草がハーシェリクの不安を否応にも煽った。
「ルークさん、父様は……」
ハーシェリクの問いには答えず、ルークは視線を向ける。その先には豪奢な寝台、そして盛り上がった布団だった。ハーシェリクは意を決し寝台へと向けて歩きだす。
足元の柔らかい感触の絨毯を踏みしめ、寝台に近づくにつれ弱々しいながらも息遣いが聞こえてきた。その枕元に立ち、ベッドを覗き込むとハーシェリクは息を飲む。
(そんな、こんなに痩せて……)
元々父はほっそりとした体形だったが痩せすぎではなかった、とハーシェリクは思い出す。線が細いように見えて着やせする性質だった父は、軽々と自分を持ち上げるくらいの体格だった。それにルークが気を付けているのだろう、健康にはかなり気を使っていた。だが寝台に横たわり、瞳を閉じた父の頬は痩せこけやつれていた。
「父様……」
小さな声で呼ぶだけでハーシェリクは口を結ぶ。
最後に会ったのは出陣式の日。王の代理として錫杖を受け取った時だ。それからまだ一か月ほどしか経っていないというのに、何年も時が立ったように父が老け込んでしまっていた。
固まってしまったハーシェリクの気配を感じてか、ソルイエの閉ざしていた瞳が開き、ハーシェリクと同じ翡翠のような碧眼が、自分の息子を映した。
「……ハーシェ?」
夢うつつのように名を呼び、手を伸ばす。ハーシェリクが反射的に差し出された手を両手で握ると、ソルイエは数度瞬きした後、これが夢ではないと理解し瞳を瞬かせ、そして儚く微笑んだ。
「お帰り、無事でよかった……」
弱々しいがいつもと変わらない優しい声。病で辛いだろうに、それでも自分に心を砕く父の声に、ハーシェリクは胸を締め付けられ息苦しさを覚える。顔を歪めるハーシェリクにソルイエは言葉を続けた。
「……だめだよ、部屋に入ったら。」
医師にも止められただろう?と諭すようにソルイエは言ったが、ハーシェリクは父の手を握ったまま首を横に振る。
「……嫌です。」
「ハーシェ……」
普段はどちらかといえば聞き分けのいい、子供らしくないハーシェリクから出た拒絶の言葉にソルイエは苦笑を漏らした。
ソルイエはゆっくりと体を起こす。すかさずルークが近づき手を貸すと体制が楽なように背中へクッションを置き、冷やさないよう肩に上着をかける。ソルイエは執事であり幼馴染である彼に視線だけで礼を言うと、ハーシェリクが持ったまま離さない手をとは逆の手で、末の息子の頭を撫でる。
「無事で本当に良かった。」
病に侵されているというのに、気持ちはハーシェリクが行方不明と聞いた時とは雲泥の差だった。だから次に会えたら言おうと決めていたことをソルイエは口にする。
「……いいかいハーシェ、君はすぐ城を出るんだ。」
「え?」
その言葉にハーシェリクは驚き、うつむきがちだった顔を上げてソルイエを見た。その表情は驚きと困惑が混ぜ合わさったような顔だった。
「君なら王子でなくても生きていける。」
「父様、何を……」
ハーシェリクは聞きたくないとでもいうように首を横に振る。だがそれを無視しソルイエは言葉を続けた。
「彼女の、君の母のご両親にはいざという時の話はしている。私はご両親からは憎まれているが、彼女の子である君なら受け入れてもらえる。」
たった一人の最愛の娘を、ソルイエは両親から奪った。実際は彼女が自分から望んでソルイエと一緒になったのだが、両親にとってはソルイエが奪った同然だった。現に、何度かハーシェリクが生まれてから何度か会いに来てほしいと手紙を出したか返事は来ず、今回初めて返事を貰えたのだ。
「それにオルディス侯にも頼んであるから大丈夫だよ。」
オルディス侯爵家当主ローランド・オルディスはハーシェリクを気に入っている。それにその息子であるオクタヴィアンは、ハーシェリクの筆頭騎士だ。例え王子でなくなっても、オルディス侯爵家はハーシェリクの味方でいることを約束してくれた。
(それにバルバッセはオルディス侯爵家とは敵対したくないはず……)
あの男は自分の利益の為なら、敵対する貴族達を悉く罠に嵌め陥れた。しかし他国にまで勇名を轟かせる元将軍であるローランド・オルディスだけには易々と手出しは出来なかった。現役を退いて数年たった今でも、彼の名は国内外に絶大の影響力を持つ。そんな彼を害するなど百害あって一利なし、というのが現在のバルバッセの腹の内ではないかとソルイエは考えている。
父と兄は病に伏してから一か月くらいしか持たなかった。小さな娘は数日で亡くなった。次に瞳を閉じたら、目覚めることはないかもしれない。
ハーシェリクの頭に乗せた手を頬へ動かす。
「ハーシェ、愛しているよ。君が国の犠牲にならなくていいんだ……」
彼がどれだけ努力してきたかをソルイエは知っている。その努力が人に受け入れられていた反面、年齢にそぐわない能力の異様さに周囲から少なからず距離を置かれていた。それでも諦めず、身を削ってでも家族や国に己を捧げてきたことも知っている。
そんな彼を父親であるソルイエは、遠くから見ていることしかできなかった。
「父様ッ」
ハーシェリクは悲鳴に近い声を上げる。頬に添えられた手に自分の手を重ね、その言葉を否定するかのように首を横に振る。
「殿下、これ以上は……」
先ほどより顔色が悪くなったソルイエを見たルークがハーシェリクに言う。だが今にも泣きそうな顔で首を横に振るハーシェリク。生憎彼の筆頭達はさすがに国王の私室までは入室することができず、部屋の外で待機している。ルーク自身も力づくで王子を離すことはできなかった。
だが気配を感じ視線を向け、現れた人物を見てほっと胸を撫で下ろす。その人物はハーシェリクの背後に立つと、気づいていない彼を背後から抱き上げた。
驚いたハーシェリクが父からその人物へ視線を向けると、見知った顔があった。
「ハーシェ、部屋を出よう。」
「マーク兄様…………解りました。」
諭す兄の言葉にハーシェリクは、やっと諦めたように頷いたのだった。
兄に抱かれたまま寝室を後にし、私室も出て扉が閉められたところでハーシェリクは降ろされる。待機していた心配した筆頭達にハーシェリクは首を振るだけで、口を開くことはなかった。
そんな彼らをマルクスはとりあえず外宮の自室に戻ろうと促す。途中オランは帰還した部隊の事後処理の為、シロも用事があると別れ、クロも外宮に入るなりお茶の用意をすると調理場の方へ消え、三階のハーシェリクの自室に戻った時は、部屋の主とその兄二人だけだった。
居間のお気に入りのソファに身を沈め、ハーシェリクは大きく息を吐き出す。そんな様子を扉から入ってすぐ横の壁に背中を預けながら、マルクスは口を開いた。
「ハーシェ、無事によく戻った。こんな時でなければ戦の祝賀会でも開くんだがな。」
あえて明るい口調で言う兄にハーシェリクは不審感を覚える。兄弟の中で長兄のマルクスとは一番付き合いが長い。そんな彼は何か隠したりする時は、こんな笑っているが眉間に皺を寄せた顔をするのだ。
「……マーク兄様、何を隠しているんですか? ウィル兄様達は?」
そういえばマルクス以外の兄弟に誰一人あっていないことを思い出す。ウィリアムは城内にいるはずだし、三つ子もユーテルも父親がこんな状態で学院に行っているとは考えられなかった。
マルクスはハーシェリクの言葉に視線を彷徨わせたが、諦めたように小さくため息を漏らした。
「ウィルも、アーリアもレネットもセシリーも、ユーテルも倒れた。特にユーテルは元々体が丈夫じゃない。発病は遅かったがかなり危険な状態だ。それにお妃様方も病状に差はあるが同じような状況だ。」
「そんな……」
まさかの事態にハーシェリクは絶句する。マルクスはさらに言葉を続ける。
「郊外で療養中のメノウと留学中のテッセリには知らせていない。万が一の場合、王家の血筋は残さないといけないからな。ハーシェにもそうする予定だったが、それよりも先に知らされてしまった。大臣の指示でな。」
眉間の皺を濃くする兄にハーシェリクは黙る。つまり自分は誘き出されたのだ。暗殺に失敗した大臣が、次なる手を打ってきたのだ。王家の悲劇を再現したのだ。
「ハーシェ、父上の言ったようにすぐに城を出ろ。病に侵される前に。いや、あいつが動く前に……ッ」
マルクスの身体がぐらりと揺れる。そして壁に背中を預けたまま、ずるずるとその場に座り込んだ。
「マーク兄様!?」
ハーシェリクはソファから飛び降り兄に駆け寄るが、それをマルクスは片手を上げて制す。
「……近づくなッ」
だがその兄の言葉を無視し、ハーシェリクは兄に近寄るとその片手を握る。その手は驚くほど冷たく、すぐさま空いている手で兄の額に手を置くと手とは真逆にかなり熱かった。
(すごい熱がッ)
ハーシェリクはすぐに扉を開ける。すると廊下の先に階段を上がっているオランがいた。
「オラン、すぐに来てッ!」
ハーシェリクの異常事態を察知したオランが走り出し、ハーシェリクの声を聞いたであろうクロが廊下の角から顔をのぞかせた。
「クロ、早く先生を!」
短い指示にクロは頷き、オランとは逆に階段を駆け下りていく。ハーシェリクはすぐに部屋を戻ると、先ほどと同様壁に背中を預けたまま座り込んだ兄の片手を握る。
「……ハーシェ。」
手を握られ反応したマルクスが、末弟を呼んだ。
「お前だけでも……」
その言葉にハーシェリクは返事しない。だが握った冷たい兄の手を強く握ったのだった。
駆けつけたオランにマルクスを運んでもらい、兄の自室に向かった後、兄の部屋つきの使用人達に兄の世話を任せハーシェリクは自室に戻る。正直に言えば兄の側にいたかったが、何も出来ない子供なハーシェリクは邪魔でしかない為、大人しく部屋に戻ったのだった。
一時間もすれば医師を呼びに行ったクロが部屋に戻ってきて、マルクスの容体を伝える。
「マーク兄様の容体は?」
「診察後、今は薬を飲んで寝ているが……」
クロの表情が言葉以上にマルクスの状態を表していた。オランが剣の柄を握り占め、表情が強張る。
「そう。」
自室にいる時の定位置であるソファに座ったまま、ハーシェリクはクロの言葉に一言そう言っただけで瞳を閉じた。
思い出すのは父と兄の言葉。
「……逃げるなんて、出来るわけない。」
そうハーシェリクは自分に言い聞かせるように呟いた。




