第六章 国境と戦と奇策 その二
本来なら遠征軍が到着し、活気づくはずだった国境砦。しかし今は夜が明ければ十万の帝国軍が押し寄せてくるかもしれない、そんな緊張感が支配する国境砦の会議室で、国境の守護を任された将軍や幹部達は青ざめた顔を突き合わせていた。
だが軍議だというのに誰も口を開かず沈黙を守っている。時刻は午前三時を過ぎ、会議は休憩を挟みつつも既に十五時間に達しようとしていた。
「どうすればいいんだ……」
そう呟いたのは上座に座る砦の責任者であるバルトルト将軍だ。彼は堅実な性質が買われ、帝国とのにらみ合いの場所でもあるこの砦を任されてから任期は長い。だが防衛戦に長けた彼であっても今回は分が悪すぎた。
砦の既存兵力は約三千、テオドルと共に来た兵も約二千で合わせて五千弱。それに対しアトラード帝国軍は十万の兵が展開している。すぐに王都へ通信を行い援軍要請したが、どんなに少なく見積もっても二週間は時間を要した。
籠城戦をすれば、可能性は低いが犠牲を出しつつも守り切れるかもしれない。しかし籠城戦をするには兵糧が足りなかった。それは元々低かった兵の士気をさらに低くする。
「もう打つ手はないのか……」
バルトルトの呟きはその場にいる全員の胸中を代弁していた。誰もが解っていた。この砦は十万もの敵軍に押し寄せられれば、大海の大波に呑まれる小舟の如く敵の手中に沈むことを。そうなればここにいる将軍を含めた全員が良くて捕虜、最悪死という結果が待っている。
そんな空気の会議室の扉が音を立てて開かれた。そして一人の兵士が飛び込んできた。
「し、失礼します!」
「何事だ、軍議中だぞ!」
扉の側にいた幹部が怒鳴る。だが兵士は言葉を続けた。
「申し訳ありません、ですが至急お伝えしなければと思い……」
「なんだ? まさか、帝国軍が攻めてきたのか!?」
色めき立つ会議室内だったが、兵士は慌ててそれを否定した。
「いえ、違います! 王子を……ハーシェリク王子を名乗る者が現れました!」
兵士の報告から三十分も経たぬ間に、今まで砦の最高責任者が座っていた席に鎮座したのは金髪碧眼の幼子、ハーシェリクだった。
ハーシェリクは村を出発した後、ロイと共に馬車を走らせ出来る限りの速さで砦へとたどり着いた。そして闇夜に乗じて帝国軍に発見されることもなく砦へと入ったのだった。
一瞬敵軍の密偵なのではと疑った者もいたが、ハーシェリクの顔を見てみながそれを否定しることとなる。
誰もが知っている。この国の王族は一般人とは一線を画す美貌を持つ一族なのだ。薄汚れた服を纏っていようと、他家族と並べば霞む容姿だったとしても、ハーシェリクは紛れもない美貌を持つ王家の人間だった。それに先の教会の事件でハーシェリクの存在は、貴賤問わず多くの人間に認知されることとなったのも一因だった。淡い色合いの金髪に翡翠のような碧眼の幼い王子の存在を、この場にいるほぼ全員が知っていた。
「ハーシェリク殿下、よくぞご無事で。」
バルトルトの言葉に、ロイを自分の席の後ろに控えさせたハーシェリクは一瞥をしただけだ。怪我をした左腕は包帯が巻かれているが痛々しいが、本人はそんな様子を微塵も見せず、顔色の悪い会議室内の人の顔を見回す。
「堅苦しい会話はやめよう。戦況は?」
七歳の子供とは思えない口調と雰囲気に、将軍を含めた室内の者達は飲まれる。だがそんな彼らをハーシェリクは、口調と違った愛らしい顔を乗せた首を傾げてみせた。
「将軍?」
「……はっご報告いたします。」
現在の状況の報告を聞き終えるとハーシェリクはふむ、と顎に手を置いて考える。
「なるほど。」
そう頷く表情から彼がどう考えているのか誰も解らなかった。そんな彼に一人発言を求めた人間がいた。
「……殿下、申し上げます。」
「貴方が私に? セギン将軍、今は貴方の謝罪を受けるほど心情も時間も余裕はないのだけれど。」
進み出たテオドルに、ハーシェリクは若干嫌味が混じった言葉を投げる。だがハーシェリクがそういう言い方をしてしまうのも仕方がないだろう。彼は本来この場にいるのはおかしいのだ。二万の遠征軍を率いていたはずが、我先にと逃げ出しこの砦に逃げ込んだのだから。
二回り以上も年下の子供にそう言われ、テオドルは奥歯を噛みしめたが、それでも言葉を続けた。
「……このままではわが軍は無駄に疲弊し、命を落とすのみです。ですが殿下がいらっしゃるなら、交渉の場を設けることができましょう。」
「で?」
ハーシェリクは足の交差を組み替えて先を促す。その動作が余裕を見せつけられているようで、テオドルは自分の中に苛立ちを感じたが、それを抑え込み言葉を続けた。
「交渉して頂き、なんとか休戦に持ち込めれば、無駄な死を増やすことをありません。」
「で?」
ハーシェリクはさもつまらないもの聞いたかのよう返事をし、利き腕の肘を椅子の肘かけについて手の甲に顎を置きつつテオドルに先を促す。
ロイはその様子を後ろから見て、ぞくりと背筋に氷を落されたような寒気が走る。
たった数日だったが、ハーシェリクと共に旅をしてきたロイは、彼がこれほど冷めた声を出すことを知らなかった。たった二人きりの心細い旅路だというのに、ハーシェリクはまるで散歩でもしているかのような雰囲気だったからだ。しかし今、頼もしい将軍や軍に囲まれた状況だというのに、ハーシェリクのたった一言がロイに寒気にも似た緊張感を覚えさせる。
「どうか。ご決断を……!」
そんなロイの心情なの知る由もないテオドルは、膝を付き頭を深々と下げ進言する。そんな彼を遮るように椅子から勢いよく立ち上がったのはバルトルトだった。
「何を言っているのか、セギン将軍ッ 貴殿は王子殿下に帝国軍への人身御供になれとでもいうのか!」
「ですがバルトルト将軍、セギン殿の言うことも一理あります!」
別の男がテオドルの言葉に同調した。それに続くかのように別の者が言葉を発する。
「このままでは無駄死にです! なら王子殿下に頼るしか、我々はもう……!」
「それでも貴殿らは王国の兵か! 恥を知れッ」
ハーシェリクを蚊帳の外にし、将軍や幹部達の意見は真っ二つに割れた。
方や王子を帝国軍へと差し出しなんとか生き残ろうとするもの、方やそれに反対する者。
そんな様子にハーシェリクは再度ため息を漏らすと、ロイを怪我していない手で手招きして、耳打ちする。その内容にぎょっとしたロイがハーシェリクを見返したが、ハーシェリクが頷くのをみて、仕方なしに深呼吸をする。そして目の前の机に思いっきり自分の手を叩きつけた。大きい音に辺りが静まりかえり、室内の人々の注目が全てロイに集まる。
ロイが机に叩きつけた手を擦りながら居心地悪そうに首を竦めたが、彼が咎められる前に指示したハーシェリクが口を開いた。
「盛り上がっているところ悪いけど……」
ハーシェリクは深くため息を付き、そして真っ直ぐとテオドルを見据える。
「それがバルバッセの思惑、ということね。」
「ッ!?」
テオドルが息を飲む。彼だけではない。彼の意見に賛成していた者達が皆、同じような反応をしたのをハーシェリクだけでなく反対していた者も見逃さなかった。
この中には現在のグレイシス王国の内情を知っている者もいる。特にこの砦の責任者であるバルトルトは、その堅実な性質からバルバッセとは相容れない。その為王都から離れたこの国境砦へと左遷させられたのだ。そうやってバルバッセやその周辺は己の都合の悪い人物を遠方へ飛ばしたり、人知れず消したりしているのだ。
ハーシェリクは全て見通したかのような、余裕ある表情で言葉を続ける。
「やっぱりセギン将軍だけじゃなかったみたいだね。あなたとあなた、バルバッセの名前が出た時に動揺したでしょ。」
小さな手で指をさしながらハーシェリクはにやりと笑いつつ言った。
「あとあなた達は勘違いしている。私を差し出せば帝国軍が退く? こんな有利な状況を捨てて、たった一人の王子が戦利品なんて割にあわないでしょ、普通に考えて。」
「そんなことは……!」
反論しようとするテオドルに、ハーシェリクはうんざりするように首を横に振った。
「いい加減気が付いているでしょう? 認めなよ、バルバッセはあなた達を捨て駒にしたって。」
「そんなことはないッ 殿下さえ帝国へ行けば私は助かるんだ! そう閣下が……ッ」
テオドルはそう叫んだがはっと気が付き自分の口を手で押さえる。だが既に時は遅い。この場にいる全員が聞いたのだから。そしてそれはバルバッセが絡んでいるという証拠でもある。
「自分で墓穴掘ったらしょうがないね。」
ハーシェリクは呆れたような苦笑を漏らす。
「……なら、私は帝国に亡命する。」
テオドルから出た現実味のない言葉に皆が呆気にとられた。だがそんなことをおかまいせずに、我を失ったテオドルは叫ぶように言葉を続ける。
「このままここで殺されてたまるか! なら王子をつれて帝国へ降伏する! 皆も死にたくはないだろう!」
「貴方は何をいっているんですか!」
いつその場で地団駄を踏み出してもおかしくない、駄々をこねた子供のように叫ぶ彼に、非難の言葉をぶつけたのはロイだった。
「それでも国の剣ですか、盾ですか!?」
(殿下は己の危険を顧みず、砦に来たというのに!)
ロイは己の血液が沸騰するかと思うほど怒りを覚える。相手が将軍、ましてや貴族ということも忘れ非難した。
「黙れ、平民が!」
ロイの言葉に顔を真っ赤にして剣を抜くテオドル。ハーシェリクを守る様にロイ、そしてバルトルトがテオドルの前に立ちはだかる。しかしその緊迫した雰囲気の中、ハーシェリクは小さくため息を漏らし、そして口を開いた。
「仲間内で争っても意味ないでしょうに……クロ。」
「御意。」
音もなく会議室の中、テオドルの背後に黒づくめの男が現れた。もしこの中で注意深くそして人間観察が得意な人物がいたら、彼が王国軍の壊滅を報せに来た兵士だと気が付いたかもしれない。
「どこから!?」
テオドルが反射でその男に剣を振り上げたが、男は慌てる事もなく流れるような動作で剣を持った腕を掴み、隙だらけの腹へ拳を叩きこんだ。
「グフッ!?」
テオドルが呻きながら剣を落し、腹を両手で押さえ蹲る。
皆現状が呑み込めず呆気にとられている間に、男は王子を帝国へ差し出すことに賛同していた者どもを同じように一撃で地面に沈めて行き室内を制圧した。
その出来事に動けずにいる皆の中、唯一ハーシェリクだけが動いた。椅子から立ち上がり、黒装束の男に歩み寄る。
「クロ、状況は?」
「証拠は全て押えた。……けがをしたのか?」
フードを深くかぶっている為表情は読みがたいが彼が眉を潜めている雰囲気を感じ取り、ハーシェリクは包帯の巻かれた腕をぽんと利き手で叩いて見せる。
「大した傷じゃないよ。じゃあ後は帝国軍にお引き取りを願うだけだね。オラン達は?」
「帝国軍が布陣している平原側の丘の近くの森で身を隠している。いつでも帝国軍に仕掛けられる。」
「わかった。じゃあ行こうか、ロイさん、皆さんも行こう。」
そう言ってクロを引き連れ歩き出すハーシェリク。扉を開け、側にいた兵士にテオドル達を捕えておくよう指示する。
そして蹲っているテオドルを見下ろした。
「セギン将軍、これだけは言っておく。」
その表情はいつもの柔らかい表情から想像できない、ぞっとするほど冷たいものだ。
「私は王子。その責務から逃げる気はない。私の命一つで多くの人間が助かるなら喜んで差し出す。だけどね。」
見上げるテオドルをハーシェリクの視線が真っ直ぐと射抜いた。
「今回、無駄な血が多く流れた。一部の人間の利己的な考えのせいで……私は絶対許しはしない。」
そうハーシェリクは言った。ただ心の中で付け加える。
(絶対許しはしない。バルバッセも……無力な自分も。)
東の空が白くなり始め、夜から朝へと変わろうとしていた。国境砦の高台へと上がったハーシェリク達はその空見上げ、そして地上を見下ろす。
西のアトラード帝国の方角を見れば、十万もの軍勢が展開していた。たき火であろう赤い光が各所でみられ、すでに敵軍が準備を始めていることがわかった。
大軍を見下ろしていたいたハーシェリクは、すぐ脇に控えていたクロに視線を向ける。
主の視線にクロは頷くと、魔言を唱え手に光球を作り出す。そしてそれを頭上へと投げた。光球は投げられた通り空へと昇って行き、そして弾ける。
「殿下、これは……」
ロイは弾けた光球を見上げたまま疑問符を浮かべ、バルトルトは意味がわからず問う。そんな彼らをハーシェリクは意味ありげに笑って見せるだけだった。




