第五章 謀略と人々の声と王の狂気 その二
王の執務室は重い空気が支配していた。室内に響くのは王が書類の上を走る万年筆の音と、その王から時折零れるため息だけだった。
王の顔には血の気がなく、見るからに焦燥していた。王の補佐をする官吏達が、いつ倒れてもおかしくはない思うほどだ。しかし王は周囲の心配など気にせず……というよりは気づきもせず、ただ目の前の書類だけ集中していた。だがそれでも時々手が止まりしばらくの間微動さえせず、ハッと我に返り仕事を再開すること幾度か。
何度目かわからないため息を漏らし、ソルイエ・グレイシスは万年筆を置きその手で眉間を揉む。今日までの二日間、碌に眠れずにいた為頭痛が酷かった為だ。
眠れなかったのは理由がある。
ハーシェリクが率いる遠征軍と、連絡が取れなくなったのだ。
それまでは通信魔法道具を使用し定時連絡は問題なく行われていた。しかし二日前から連絡が取れなくなった。予定では国境砦まで三日の位置。連絡がつく国境砦から現地へ兵を派遣するよう要請しようとしたが、それは軍務局の高官に止められた。
「国境には帝国軍が近づいているとのこと。この時期に国境砦の軍を割くことは得策ではありません。」
そう高官は諭すように言葉を続ける。
「ここ数日は天候が悪く空気中の浮遊魔力量も多かった為、通信が不安定なだけかもしれません。もしかしたら行軍中に魔法道具に不備が発生しただけの可能性もあります。」
確かに砦などに設置された魔法道具と違い、行軍中に使う簡易型通信魔法道具は持ち運びができる分天候や周囲の浮遊魔力の影響を受けやすい。それに通信を行う魔法道具は道具の中でもは精密な造りの為、一度破損してしまったら現場の魔法士には修復は不可能。
「それに国内ですから危険はありません。」
そう断言する高官にソルイエはそれ以上何も言えず引き下がった。だがその翌日も、その翌日にあたる今日も遠征軍との通信は回復していなかった。
予定なら国境砦に到着するのは明日。なら明日には砦の通信魔法道具を使用して連絡が来るはず、とソルイエはそう思おうとした。しかしそんなソルイエの願いを打ち砕くかのように、王の執務室に軍務局の役人が飛び込んできた。
息を切らせながらも役人の報告が終わると同時に、積み重ねられた書類が音を立てて床へと落ちる。王の執務室内にいる官吏達の視線は、一瞬だけその書類の束に向いたが、それもすぐ部屋の主であるソルイエと注がれる。ソルイエは目の前の報告した軍務局の役人を目見開いて凝視し、微動さえしなかった。
ソルイエは自分の心拍が否応にも上がり、汗が噴き出るのを感じた。
「それは……真か?」
擦れた声が零れる。両手を机についてゆっくりと立ち上がると、月の光を集めた長い白銀の髪が肩から流れ落ちた。
役人は国王の言葉に固唾をのみこみ、そして言葉を続けた。
「……遠征軍二万は奇襲を受け瓦解。ハーシェリク殿下も行方不明と連絡と国境砦より報告がありました。」
それはつい先ほど国境砦からの通信でもたらされた報告だった。
そのまま役人は現在の状況を報告するが、ソルイエはそれがどこか遠くで言っているように聞こえた。頭には言葉が入ってくるが、思考が纏まらなかった。
微かにソルイエの口が動いた。何かを言ったようだが聞き取れず、役人は問い返す。
「陛下?」
「……け。」
だがそれさえも不明瞭で、役人は問う。
「陛下、申し訳ありません。もう一度……」
「皆、出て行け。」
それはいつも温和な笑みを浮かべた国王からは想像できない、冷めた声だった。感情が消失したような瞳が役人を射抜き、その役人も執務室にいた官吏達も、足早に執務室から退出する。扉の閉まる音が響き皆の気配がなくなると、ソルイエは先ほどの報告を頭の中で繰り返す。
奇襲を受けたセギン将軍が騎兵二千騎ほどを連れて、昼夜を駆け国境砦へと雪崩れ込んだ。混乱するセギン将軍が支離滅裂になりながらもどうにか確認すると、遠征軍はアトラード軍の伏兵に奇襲を受けたという。
即座に確認の為、兵を派遣しようとしたが、国境沿いの平原に時を測ったかのように、帝国軍が現れた。その数は十万。事前の調べよりも十倍もの軍勢だった。帝国の大軍と対峙したため、奇襲を受けた場所への兵の派遣は出来ず、また援軍が期待できない状況での大軍との対峙。
あり得ない、としか思えなかった。自軍の内部情報が漏れた上、こちらが収集した情報が全て図られたような虚偽としか考えられない、相手の動きだった。
ふとソルイエは自分の考えを改める。
(情報は最初から漏れていた……?)
そうとしか考えられなかった。全てが最初から仕組まれていたと。
ソルイエに脳内に浮かぶのは、あの男しかいない。
(バルバッセ……あの男がッ)
あの男は最初からハーシェリクの命を狙っていたのだ。城内ではハーシェリクに手を出せない彼は、あえて王族でも断わることが不可能な状況を作り、ハーシェリクを軍に随行させた。そして帝国と裏取引し、今回の派遣の情報を提供したのではないか。それだけではない。元々国境側の紛争地域は、帝国との戦争が絶えない場所だ。その国土を差し出したのかもしれない。その見返りにハーシェリクの抹殺、もしくはその身を帝国へと差し出したのではないか。否、あの男の事だ。さらに確実にするために、自らの刺客を放った可能性もある。
(ハーシェリク……)
末王子の微笑みが脳裏に浮かぶ。そしてその微笑みはかつて愛した寵姫の面影と重なった。
『私がいなくなってもこの子がいるから大丈夫よ。』
そう彼女が言った。そして我が子を託して逝った。
「私が、間違っていた……」
ソルイエは呟く。その声音にはいつもの柔和な雰囲気は皆無だった。
「最初から間違っていたんだ……」
なぜ、自分は王としてあろうとしたのか。
娘を失い、誇りを失い、友を失い、最愛の人を失い、そして今、また失った。
なぜ、耐えようとしたのか。
嘆きから、焦燥から、怒りから、喪失から。
「今からでも……」
そう言ったソルイエの翡翠の瞳には、狂気が宿っていた。その瞳のまま、ソルイエは部屋の隅に置かれた剣を見る。
剣に引き寄せられるかのようにソルイエはふらふらと足を進める。床に散らばってしまった重要と書かれた書類を踏んだが意に反さず、ゆっくりと剣を手に取ると鞘から向き放つ。
白銀の細身の剣。護身の為に持っていたが、使用したことは一度もない。一振りすると風を斬る音が響き、問題なく扱えることを確認し鞘に剣を戻す。次に魔言を唱え、魔力を風属性に変換し探索魔法を構築する。
魔法が発動する直前、廊下へと続く扉が開け放たれた。そちらに意識が行った為、ソルイエの魔法は失敗に終わり、部屋中に風が吹き荒れ、書類を宙に舞わせた。
扉から駆け込んだ者は走ってきたのであろう肩で息をし、風のせいで書類が花弁のように舞う室内に驚きつつも部屋の主を探した。
「父上、どちらに……父上!?」
部屋に侵入した者、第一王子であるマルクスは、書類が舞う中、探していた人物を見つけたが、その人物が手にしたものを見て驚く。父の手には剣が持たれていたのだ。マルクスは生まれてから今まで、父が剣を持つ姿見たことはほとんどない。祭典の時に飾りとして佩いている姿を見た程度で、剣を抜く姿など一度も見たことがなかった。
「……マルクスか?」
名を呼んだ声も普段では考えられほど、冷え切った声だった。ソルイエは普段家族を呼ぶ時は、とても柔らかい声で呼ぶ。家臣でさえ多少王らしく口調を変えたりはするが、その人柄がにじみ出たような優しげな声だ。
しかし今の、自分を呼ぶ声は、いつもと違いマルクスは室内に張り詰めた空気が充満していくことがわかった。
「父上なにを……」
しているのか、と問うとして最後まで言葉にすることはできなかった。ソルイエから向けた視線が、声以上に冷め切っていた為、言葉を飲み込んでしまった。無意識にマルクスは剣の柄へと手を運びそうになり、それに気が付くと柄を握る前に拳を握る。父親から重圧を感じたのだ、と理解した。
(父上に、重圧を……恐怖を感じるなんて。)
だがふとマルクスは人づてに聞いたことを思い出した。父は亡くなった父の兄弟比べ剣術も魔法も劣っていた。だがそれは父の兄弟達と比べて、の話だ。聞いた話では、父は剣の腕なら近衛騎士、魔法の腕なら上級魔法士ほど拮抗するほど実力を持つ。どちらかならその能力を持つ者はいるだろう。だが両方の能力を持つ人間はそう多くはない。
「……私は、元凶を討つ。」
黙ってしまったマルクスに、ソルイエは静かに言った。それはいつも、秀麗な顔立ちに温和な表情を浮かべた、優しき王とはかけ離れた表情をしていた。
「父上、落ち着いて下さい。」
務めてマルクスは冷静に言う。
元凶、それはすなわちヴォルフ・バルバッセの事だ。否、それだけではない。父のいう元凶とは城内に巣食う、バルバッセに加担した者達全員を指すのでは、とわかった。
「もう奪われて後悔するのは沢山だ。それならいっそのこと……」
「父上ッ」
そう静かな狂気を宿した瞳でソルイエは言う。
なぜ今まで後悔に耐えて来たのか。最初の娘を失った時、脅しに屈せずあの場で奴を殺せばよかったのだ。逆らう者全てを切り捨てればよかったのだ。そうすれば、大切な者を奪われる恐怖に毎日耐えなくてよかった。ハーシェリクを失わずにすんだのだ、と。
剣の柄を握る父にマルクスは動けずにいた。
マルクスもバルバッセが憎くない、といえば嘘になる。遠征軍が奇襲を受け壊滅したという報告を受けた瞬間、それを画策したヤツの顔が思い浮かんだ。そして激しく後悔をした。
(私は、いつも後れを取る。)
オクタヴィアンとの友情を失った時も、国の現状を知った時も、いつも後れを取っていた。今回も、ハーシェリクが行くことを断固反対すれば、回避できたかもしれない。
これ以上後れを取るわけにはいかない、とマルクスは思う。
(もし父上がその剣を振うというのなら、その汚名を自分も被ろう。)
そうマルクスは決意する。
幸い、自分の下には優秀な弟たちがいる。例え自分が王位継承権がなくなったとしても悔いはない。
「父上……」
マルクスは、決意を込めて父を呼んだ。
そんな強張ってしまったマルクスの肩を叩く者がいた。マルクスが振り返れば、そこには王の筆頭執事であるルークがおり、彼に頷いて見せる。そして王子より一歩先の執務室へと入室した。
「陛下……いや、ソルイエ。」
「ルーク。」
名を呼ばれたソルイエは友の名を呼ぶ。そして数瞬迷った後、友から視線を外しながら言った。
「止めてくれるな、ルーク。私は……」
「筆頭執事はなにがあっても主を裏切ることはない。」
ソルイエの言葉を遮るようにルークは言葉を紡ぐ。
「だけど、俺は友人からお前のことを頼まれている。」
それはかつて、寵姫と呼ばれ慕われていた女性との約束。彼女が恐れていた自体が、ついに起ってしまった。
『ソルイエは優しい王様。だけどまた絶望と恐怖を味わったら、彼は王ではいられなくなってしまう。』
彼女の予言めいた言葉通り、ソルイエは王でいられなくなりかけていた。
『ソルイエを守って……そしていざという時は止めて。』
ルークは瞳を一度閉じそして開く。そして真っ直ぐと共を見つめた。
「彼女が愛した男が道を踏み外す前に、俺は止めねばならない。」
二人の間の緊張が増した。
そんな室内の緊張感を壊すが如く、もう一人の侵入者が現れた。
「失礼します。」
「……ウィル?」
マルクスが侵入者の名を呼ぶ。現れたのは第二王子であるウィリアムだった。ウィリアムは王の執務室の惨状を目のあたりにし、少しだけ口を結んだ後、一言だけ呟いた。
「……なるほど。」
そして動けないでいる三人の目を一人ずつ見て、ふうとため息を漏らした。
「父上、兄上、それからルーク殿も落ち着いて下さい。」
さもうんざりした風な口調に表情。だがそれは決して三人を馬鹿にしたわけでなく、ウィリアムのくせだった。両親から受け継いだ整った顔立ちの表情筋は、仕事以外には全く活躍しない為、いつも不機嫌のようだと言われる。それこそ機嫌が良くても気が付かれないのだ。そんな表情筋残念な第二王子のウィリアムは、殺気立つ人間達に言葉を投げる。
「私はハーシェからもしもの場合、必ずみなと止めるようにいわれています。」
「……は?」
マルクスが間の向けた声を出した。そんな兄にウィリアムは言葉を続ける。
「ハーシェからの伝言です。『万が一自分が行方不明になっても、自分の死体が出るまでは早まらないで欲しい』ということです。」
「それは、ハーシェが今回の事を予想していた、ということか?というかなんでおまえが?」
どちらかといえばウィリアムよりマルクスのほうが、ハーシェリクとの付き合いが長い。まるで仲間外れにされたような気分になってマルクスがウィリアムを咎めると、弟は兄の視線に肩をすくまして答えた。
「それもハーシェから聞いています。曰く『父様は言ったら絶対止めるだろうし、マーク兄様も感情的で解りやすいところもあるので心配です。でもウィル兄様は冷静に対処してくれそうなので。』と言うことです。ですから、皆さんの頭が冷えるまでは、この部屋から出しません。」
きっぱりとウィリアムは宣言する。そして動けないでいる父にウィリアムは言葉を続けた。
「父上、今父上に動かれてはハーシェリクが成そうとしていることの妨げになるやもしれません。どうか辛抱してください。」
「……ウィリアム、君はハーシェがやろうとしていることを知っているのか?」
「いいえ。教えてはもらえませんでした。」
ハーシェリクは何も言わなかった。ただもしもの場合の歯止め役をウィリアムに願っただけである。
ウィリアムの言葉に黙ってしまった父に、彼は真っ直ぐと瞳を見つめて口を開いた。
「もしそれでもその剣で強硬手段をとるというなら、まずは私を斬って下さい。私はこの場を絶対どきません。」
「ウィリアム……」
「もし本当にハーシェが戻らぬなら、その時は父上や兄上の手を煩わせずとも、私が全て処理いたします。」
青い瞳の奥に静かな意志を秘めたウィリアムに、ソルイエは一度だけ細剣を見て、そして首を振った。ルークが近寄りソルイエから剣を預かると、ソルイエは糸が切れた操り人形のように椅子に倒れこむように座ると項垂れた。そんな彼を女性が声をかけた。
「陛下……」
「……ペルラ?」
呼ばれソルイエが視線を向けると、本来はこの場にいない女性が立っていた。マルクスと同じ上質な紅玉を溶かしたような髪と、磨き上げた紅玉の瞳、身長が高く均整のとれた身体は、すでに四十近いというのにその色香は二十代のままの、グレイシス王国王妃ペルラだった。
「陛下、陛下に私は謝罪をせねばなりません。」
扉を閉めた後、そうペルラは言うと深々と頭を下げたのだった。
「私は、バルバッセに言われました。母国へ手紙を出せと。出なければ、陛下とマルクスが娘のようになる、と。」
あの喪失は今もペルラは覚えている。やっとつかまり立ちできるようになった娘が、その数日後には冷たくなっていた。
そしてペルラは大臣から預かった密書を同封して送ったのだ。
内容までは知らないが、今回の帝国軍の奇襲を聞いて、あの手紙が原因だとわかった。大臣が帝国と公国に根回しをして、国内に敵を引き入れたのだ。パルチェ公国は友好国だといっても同等ではない。国力は王国のほうが上だ。実質権力を持つ大臣が脅せば、パルチェ公国は従うにしかない。王国と公国が戦争をしたなら軍配は王国に上がり、公国は属国となるだろう。だから公国は従うしかない。
(あの男は、己の為なら国をも傾けるのか……!)
ソルイエは大臣と不甲斐ない自分に怒りを覚える。だがそれよりもまずは目の前の恐怖に震える王妃だ。自分と同様に彼女も深く傷ついていた。だがそれを自分の事ばかりで気が付くことが出来なかった。
ソルイエはペルラに近づくと彼女を抱きしめる。
「辛い思いをさせた。すまかった、ペルラ。」
耳元で心よりの謝罪を言うソルイエ。その場にいたマルクスとウィリアムはいたたまれず視線を逸らしたが、その言葉に緊張が解けたのかペルラの頬を涙が伝った。
「いいえ、いいえ! 違うんです、陛下!」
だがペルラの次に出た言葉は皆の想定外なことだった。
「私は、迷いましたが大臣の言葉を拒否するつもりでした。娘の仇の手伝いなどしないと拒否することを決めた時、彼女の息子が……ハーシェリクが部屋に訪れたのです。」
部屋に前触れもなく現れた彼は、全てを知っていた。そしてその上で手紙を出してくれと言ったのだ。
「私を信じて下さい。」
そう言った彼は、今はいなくなってしまった彼女に似ていた。太陽のように明るく力強い彼女に。
「だから私は、ハーシェリクに促されて、書いた手紙と共に大臣の密書を祖国へ送りました。でも、まさか彼が行方不明になるなんて……!」
泣き崩れるペルラをソルイエは支え、椅子へと誘導すると片膝を付き王妃の手を握る。ただ王妃は謝るだけだった。
王妃の言葉を聞いた王子二人は互い身に顔を見合わせ、そして深いため息を漏らす。
「だからか……」
その呟きはマルスクのものだった。
ハーシェリクが遠征軍指揮官と決定したあの議会で、マルクスはハーシェリクに少々違和感を覚えていた。あの時、ハーシェリクは自分の筆頭達を皆に見せつけた。まるで自分の力を見せつけるかのように。否、筆頭の力はその主の物だから、ハーシェリクの力だといっても問題はない。だが普段のハーシェリクなら、無駄に彼らの力をひけらかしたりはしない。それに彼らを物扱いすることをしない。つまり、見せつけるようにする必要があったということだ。なぜ必要になったか。なぜあえて大臣を挑発したのか。
つまりあの時から、ハーシェリクは策を講じていたのではないか、という結論に達する。
「……とりあえず戻ってきた時、拳骨は確定だな。」
長兄の言葉に次兄は頷き同意したのだった。彼らの中で、先ほどまで感じていた不安や焦燥感は消え失せていた。
アトラード帝国との国境にある砦の会議室には、一人の男が兵士達に両脇を支えられ、国境の守護を担う将軍達の前に現れた。
その男は三日前に消息を絶った遠征軍で、唯一国境砦に自力で辿りついた男だった。
「報告、いたします……」
男は弱々しく口を開いた。支給された鎧は所々破損し、手当てを受けたであろう頭部には包帯が巻かれ、顔の半分を隠していた。
「軍はほぼ壊滅……私は……」
そこで男は膝が落ち倒れかけるのを両脇の兵士が支える。そうなるのも無理はない。彼は一般の兵士だ。乗馬の心得があったから、あの場から逃げてこられたが既に体力の限界だろう。
「わかった。」
兵士の言葉に目の前の老将は重々しく頷いた。彼はバルトルト伯爵といい、国境を守備する将軍である。多くの戦場を経験した彼は、その性格を表すような堅実な戦いをし、幾度となく敵軍の攻撃を退かせた。烈火の将軍であるローランドを矛と例えるなら、バルトルトは盾と称される守護の将軍。
バルトルトが次に視線を向けたのは、その部屋の隅に設けられた席に真っ青なった男だ。
「セギン将軍、これはどういうことか?」
「わ、私は……」
セギンはそれ以上喋ることができなかった。彼が国境砦に落ち延びたのは昨日。昼夜問わず駆けたおかげで、セギン含む二千の騎兵は国境砦に逃げ込んだ。その直後、アトラード帝国軍が、国境側の平原に布陣した為、部隊を派遣しようにも身動きが取れなくなった。
「一軍の将が兵を捨て自らの命だけ助かりたく逃げるとは……恥知らずが。」
そうバルトルトは吐き捨て深くため息を漏らす。今は目の前の青くなった将軍より重要なことがあった。
「……貴殿の責任追及は後回しだ。今は明日にでも攻めてくる帝国軍をどうするかだ。」
その言葉を背中で聞きながら、兵士達に支えられた頭に包帯を巻いた男は部屋を後にする。その口元が笑っていたことに誰も気がつくことはなかった。




