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保健室の天使

 暗闇に浮かぶ、膝を抱えた小さな影。


 小さなわたし。


 誰よりも愛された。

 誰よりも憎まれた。




 母親が、恋しかっただけの小さなお人形。


 どれだけ世間でもてはやされようと。

 本当に、欲しいものは手に入らない。

 それならいっそ。

 眠ってしまおう。

 死んでしまおう。


 白雪姫のように。


 暗闇が晴れていく。

 白く白くなっていく視界に、夢が覚めていくのだと感じる。

 小さなわたし。

 薄くなっていくその姿は泣いているような気がして、透けていく腕を伸ばして―――







 覚醒した。

 やはりさっきのは夢か。

 消毒液か、アルコールの匂いがする。

 うっすらとまぶたを開けてみる。


「………………」


 どういう状況なんだ、これ。

 わたしの眠るベッドは最奥だ。

 ベッドは五つあるが、わたしが保健室に入った時に他の利用者はいなかったはずで。

 さらに保健の先生はちょっと出掛けるから、念のために施錠していくと言っていて。


 要は、私以外に無人なはずなのだが。

 ちょこんと、隣のベッドに腰かけるその人影は目覚めたわたしに気づいて、横に置いていたらしいスケッチブックをめくって見せた。

 黒のサインペンで、書かれたそれを。


 〔体調はどうですか?〕


 顔を覆う、大きめの白いマスク。

 出さない声の代わりに、持ち歩いているというスケッチブック。

 誰も、教師でさえ一度も声を聞いたことがないという、噂の。


(これが、保健室の天使)


 とても、慈悲深く優しい人物だという。

 ちょっと病弱で保健室に入り浸っているとか。

 話せないのか、話さないのか。

 スケッチブックで会話する彼のいつもにこにこしているのに、そこだけミステリアスなところがいいと言われているらしい彼の目を見て―――私は固まった。


 おまえたちの目は、節穴か。


 布団の中は暖かいはずなのに、背筋が寒くなった。

 仕事柄、いろんな人間を見てきたから、わかる。

 

 いつも微笑みを絶やさない?

 それは、努力しようとすればできる。

 怒ったところをみたことがない?

 表面上の感情は、訓練すれば上手く操作することができる。

 地味で控えめで思慮深く物静か?

 

 そういうものは、所作や服装でどうとでもできる。

 静かにしていれば、そういう性格なのだと勝手に思われるだろう。

 優しさも作れる。

 見せかけならもっと簡単に作れる

 頼まれて断らないのは、逆に断って物事がねじれたほうが面倒だと思っているからではないのか。

 そうとしか、思えない。


 にこにこと、微笑むその天使は。

 天使と呼ばれているはずの、少年の目の奥は―――笑っていない。


 〔どうかしましたか?〕


 ひっくり返され、表示される文章。

 常用の言葉なのだろう。

 気づいたことに、気づかれてはいけない。

 確実にこのタイプの人間は―――やばい。

 相手にしては、いけない人種だ。

 ドキドキと早まる心臓の音を気づかれないように、人の良さそうな笑顔を取り繕う。

 こうなったら迅速に、密やかに撤退しよう、そうしよう。

 視線を壁にやりながら、上半身を起こそうと布団をはがす。


「…いま、何時かな? あと、わたしの眼鏡しらない?」


 枕の横に置いていたはずの眼鏡と、あと手首につけていたはずの腕時計は、いつ外したんだろう。

 各務が気を利かせたのだろうか。

 周囲が静かすぎて落ち着かない。

 窓からの光が、厚手のカーテンに遮られていて明るいのか暗いのかもよくわからない。


 〔いまですか。もうすぐ、七時ですよ〕


「七時!?」


 飛び起きた。

 この学校の施錠は七時だ。

 何時間寝てたんだわたし。どう考えても寝過ぎだろ。



 [よくお眠りのようでしたので、起こすのがしのびなくって]


 いやいやいや。

 むしろ起こしてくれないと困る。

 施錠されたら帰れない。

 無理にドアを開ければ警報が鳴ってしまう。

 そうすれば、このままの状態で夜を明かすことに―――この得体の知れない人間と。


「あ、電話!」


 校内用の電話はもう使えないがケイタイがあれば、どこかにかけてなんとかなるはずだ。

 しかし。

 わたしは持ってないな。

 友人少ないし。ほとんど外出しないし。


「…持ってない、君」


 [残念ながら]


 すらすらとペンを動かしての回答がそれ。

 いやいやいや。焦ろうか。

 君だって朝までこの部屋に閉じこめられるんだぞ。


「いまなら走って警備員捕まえればどうにか」


 なると起き上がろうとしたわたしの肩を、いつの間にか近くに来ていた天使が軽く押した。

 元通り、ベッドに横たわる。


「なにす」


 るんだ、という先の言葉はわたしの頭の横に手を置いて覗きこんだ彼の目に圧倒されて引っ込んだ。

 にこにことしているのに、笑っていない。暗い底のない瞳に貫かれて動けない。

 いや、実際に天使が布団の上に乗っかっているので下半身は縫いとめられて動けない。


「………」


 これ、ヤバくないか。

 これ、ヤバくないか!


 寝る前に、じゃれて各務が言ったゲームのネタ台詞が頭の中によみがえる。

「昨夜はお楽しみでしたね」とか。


 いやいやいや。

 いやいやいや!


「冗談じゃないよ!」


 拘束されていない手で彼を押し退けようと無差別に振り回す。

 カタリと、枕近くに放り投げられていたスケッチブックが音をたてて床に落ちる。


「こんのっ」


 似非天使が!

 こちとら幽霊だっつーの!

 怯ませようと顔を引っ掻こうとした時、小指がマスクの端に引っかかり思いがけなく彼の顔下半分が露出した。

 思わず、固まる。

 天使の、その顔は。

 おそろしく整っていた。


 ニキビやシミひとつない、つるりとした肌にきれいな三角の鼻、そして形のいい薄いくちびるが―――開いた。


「冗談じゃ、ないよ」






 ぞくり、とした。


 見かけの通り、変声期を迎える前の高めの声かと思いきやそれは―――低い。

 声フェチではないはずだが、この声は、ダメだ。甘く、語尾がかすれたように消えるところが特に。

 頭にクるというか、腰にキたというか。

 動きを止めたわたしの両腕を天使はやすやすと片手で頭の上に封じた。

 ひょろく見えるのに、その力は強い。ここにきて男女差を見せつけられる。

 しまった。これじゃもう暴れる対処ができない。

 睨むことしかできないわたしと、目の奥が笑っていない天使の顔は近い。

 相手が近づいてきている。


「冗談じゃ、ないよ」


 耳に、直接言うんじゃない!

 力が抜けて赤くなったわたしはなにか言おうと口を開きかけ―――

 その時、はたと既視感をおぼえた。

 このお綺麗な顔を、わたしはどこかで見ていると。

 どこだ、いつだ。


 わたしの記憶力は並大抵のものではない。

 ちいさなことから、ちいさなときから積み重ねて忘れることなくしまわれている。

 観察力と洞察力がわたしをかつて天才と言わしめるために必要不可欠なものだった。

 思い出せ、思い出せ。

 そのたれ目がちな目尻―――左下に、ちいさな黒子。




 左下に、ちいさな黒子。




 先程の、夢の一幕が脳内に流れ出す。


 こ、れは。




「…あーあーあー」


 違う意味で、汗が、冷や汗が止まらない。

 もしかして。

 もしかして。

 この子、いつぞやの。





「あ、あお、青くん」


 ピタリと。

 耳に口が触れそうなほど近づいていた彼が止まった。

 これは、当たりだろうか。

 いや当たりだろうが当たっていてほしくない。いや当たるな。いやだってあのときの彼は。


「…思い出したの?」


 覗きこまれた彼の顔はあのときのように、泣きそうに歪んでいて―――


「りんごちゃん」








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