異変
6、異変
リンが会社の医務室から出たところで、西村に捉まった。年下の上司で、3か月前まで付き合ってた男だ。
「何かご用でしょうか?」
ここは医務室に用のある人間しか通らない廊下だ。したがって人目がない。リンは人目のあるところに出ようと一瞬止まってしまった歩みを進めた。
西村は、リンの前に立ちはだかると二の腕をつかんだ。
「なんでそう意固地なんだ。きみは」
「何のことでしょう?」
「僕は、君を心配してんじゃないか。具合が悪いんだろう?僕のせいなんじゃないのか?」
「西村さんにはご迷惑をおかけして、申し訳ありません。軽い貧血ですから大事はありません。仕事に支障をきたしてしまって……」
リンは他人行儀に、文例集にでも載っていそうな言葉を選んだ。事実西村にはもう何の関係もない。
「そうか……」
「何か言いたいことがあるのなら、おっしゃってください」
(そしてもうほっといて)
後半は口に出さずに、力の緩んでいく手をそっと外した。
「いや、いい」
「そうですか、では失礼します」
ちっともいいなんて顔ではないのはお見通しで、何か含みのある表情だ。しかしもう関係ない。ただの上司と部下としてやっていく。
そう腹をくくってから……いや、括れてからまだ何日もたってはいない。彼との将来を考えた日もある。小さな幸せだったかもしれないが、それが大事だと思うのはさらに幸せなことだった。
しかし、何かが違ったのだろう。一方的な別れを告げられて終わった。
(だれかにすがろうなんて思わない)
変なプライドの高さが弱みになっているのに、当のリンは気づいていなかった。
昼休み例によって屋上のベンチで、智奈に言われて合点がいった。
「西村さん、部長の娘さんと婚約したんだって」
「……ふーん」
「あれ?驚かない?」
「別に興味ないし」
「そっか、でもさ出世間違いなしじゃん。部長は常務の、でしょ?常務は上に行くって噂だし」
「へえ」
弁当を無理に頬張る。
「ほんとにリンはこういう話に疎いよね。というかほんとに興味ないのか」
「仕事して、給料もらえるんなら、どうでもいい」
「西村さん結構人気あったんだよ。デスクでリンちゃんのこと結構見てるから怪しいなって思ってたのに」
「なに言ってんの。じゃお休み」
「ちょっと、リン?!」
早すぎるとつぶやいて、智奈は口を閉じた。智奈のスマホから流れる洋楽ラジオのかすかな音が、いつもならリンの眠りを誘うが、今日はさすがに眠れなかった。
(ほんっとに男運ないわ)
半ばあきらめていたがここまでとは思わなかった。西村の思わせぶりな言葉も、ちょっとした思いやりも、囁かれた愛も今では彼にとって隠しておきたいことなのだ。
「あたしか……あたしが悪いのか」
あきらめたように言って飛び起きると、智奈は驚いていた。
「なに?」
「智奈はさあ、男運ある?」
突拍子もない質問に智奈は目を丸くする。
「なに突然。あ、やっぱり西村さんに気があったの?」
にやにやと笑ってリンをつつく。その行動になぜかカチンときて、
「少し前まで付き合ってた。で振られた」
絶句する智奈を鼻で笑い、その嫌な笑い方を即座に反省する。
「あーっと、いつからいつまで?」
「1年くらい前から、3か月前まで……っと、うそうそ。冗談。智奈が変なこと言うからのってみただけ」
「なんだあ」
ちっとも信じていない顔でリンの顔を覗き込む。リンは目を合わせることができずにまた、ベンチに横になった。
「暇だ……」
ライブハウスツアーを終えたNEXTは、楽曲制作に入った。ノルマはひとり5曲。今日は休みを兼ねて自宅で予備制作。
コウヘイは、夏休みの宿題を新学期が始まるまでやらないほうだったから、無論今日は作る気なんてない。
しかし、呑みに行くのもためらいがある。もんじゃはショックだった。酔って女の家でいろんなことをしでかしたけど、あれはいけない、と思う。
しかも全く覚えていないのがさらにいけない。
「アル中だよなあ」
酒に弱いほうではないと思うけど呑みすぎると記憶が飛ぶことはあった。しかしこないだのはひどい。8時間近く記憶がないのだ。
その間にしたことを聞くと当分呑みに行こうという気にはなれなかった。
それはそれとして、暇なんだよな。
呑んでない時は二日酔いで家にいることがあるけど。
素面でひとりで家にいるなんて、
「変な感じ」