ケダモノは生贄を見つける
なんかごめんなさい。
ざわざわざわ、と彼の歩みにつれて、囁きが広がっていった。声は次々に生まれ、そして彼から遠ざかってゆく。ひそひそとさやかな中に混ざる、聞えよがしなそれ。おぞましい。醜い。恐ろしい―――。
アレクの表情は、まったく動かない。もともと表情に出ない性質ではあるが、宮廷とかかわる年月が増えるにつれて、鉄面皮も強度を増したのだ。
硬質で規則正しい足音からわずかに遅れて、煌びやかな宮廷の夜会にはいささか似つかわしくない漆黒のマントがそよぐ。
彼が黒を常にまとうのは、血の色を隠すためだとも、もとはどんな色の服を着ていても赤を通り越して黒く染まるまで血を浴びたからとも噂されていた。
いずれにしても、公爵という臣下の筆頭にありながら、彼は宮廷でも戦場の気配を色濃くまとう―――。
「こたびの戦い、まことに見事であったぞ」
「―――は」
このクロウシルヴァーを治める王に直々に声をかけられる、という栄誉に預かっても、彼の鉄面皮は変わらない。いや、わずかに深く伏せた頭の影で、瞳がきつくひかる。
幸か不幸かそれに気づいてしまった幾人かは、王に対して不穏なことでも考えているのかと恐れおののいた。
「……緊張した……」
恐れおののかれた漆黒をまとう公爵は、王の前から下がると、さっさと庭に出た。
なるべくひとけがないところを探しだすと、ずるずると座り込む。正確にいえば、へたりこんだ。足ががくがくしている。ここまで歩けた自分をほめてやりたい。
彼が王の前で最低限の返答しかしないのも、それ以上の余裕がないからだった。
他人がこの2メートルを超える身長と顔の傷を見てどう誤解しようとも(はっきり言ってどちらも不可抗力である。自分ではどうしようもない)、彼はフツーの人間だ。どっちかといえば小心者よりの。
生まれ育った下町から父に引き取られてたった10年で宮廷に慣れることなど無理だった。むしろ宮廷服が似合わないくらいにぐんぐん育つにつれて、苦手さは増した気さえする。
それなのに軍功を讃えるとかで夜会に強制出席。出たら出たで遠巻きにされて陰口のオンパレードで、とどめに王のお褒めの言葉である。
チキンハートはもう限界だった。戦場は平気なのに、自分でも不思議だが。
「……今日もウジ虫たちは見事なたかり具合ですこと」
(…………………………は?)
うっかり思考が停止したアレクは、きっと悪くない。
まさに鈴を転がすような、という形容がふさわしい、可憐で涼やかな声が「ウジ虫」とか言ってたら誰だってそうなる。ニュアンスがたとえっぽいし。宮廷貴族、と書いて蛆虫と呼ぶ、みたいな。
驚きのあまりがさ、と傍らの茂みが音を立てた。近くの樹の影にたたずんでいた人影が、勢い良く振り向く。
(……嘘だろう……)
そこにいたのは声音にふさわしく発言にふさわしくない華奢な姫君だった。
ミルクティーに似た甘い色合いの髪に、春の湖水の色をした淡い蒼の瞳。王家にしか現れないという、至宝の蒼と呼ばれる色。
現在の王族で、この色を持つのは王の他はひとりだけだ。
必要性がないかぎり、めったに宮廷にあがらないアレクでも知っている。
「……妖精姫……」
思わずもれた呟きに応えるように、リーフィティア王女殿下はにっこりと満面の笑みを浮かべた。可憐だ。しかし、何故かものすごく怖い。
「はじめまして、エヴィシンス公爵でいらっしゃいますね?」
「は、ご挨拶が遅れまして、大変失礼いたしました。アレクセイ・ロウランドと申します」
「―――今、お聞きになりましたよね?」
ざわ。
本能的に自分がとんでもないことをしてしまったのだと悟った。あのまま空気になって立ち去ればよかった!
「下僕になっていただけます?」
「―――何故ですか!?」
本気で会話のつながりが判らない。
「そうですよね、いきなり申し上げてもお困りですよね。説明いたしますと」
「いえ、解説をしていただきたいわけではないのですが」
王女殿下はひとの話を聞かなかった。
おっとりと笑顔で語られたことを要約すると、脅迫材料を探すため、らしい。現状では弱みを知らないから、それを調べるために張りつきたい。かつ、弱みを見つかるまでの間にばらされては困るから、自分が有利な立ち位置でいたい、というわけらしい。
―――それは、下僕エンドを迎えるために下僕になるということではないだろか?
チキンハートがぴるぴると震えているのが判る。
しかし、見た目に反してとんでもない性格のこの妖精姫に逆らう気など最早かけらもなかった。
―――数ヵ月後。
再び戦に出て勝利をもぎとってきた公爵閣下は、その褒賞として王女殿下を降嫁させる旨を王から告げられた。
王がなにやらげっそりやつれている気がしなくもないが、そんなことより。
「婚約ってどういうことですか、姫様っ!」
侍女の制止も振り切って、王女の私室へ飛び込む。また悪い噂が増えただろうが、そんなことに構う余裕はない。
「なにって、いずれ結婚する仲ということですわ」
くつろいでいるときに自分の部屋に無骨な軍人が飛び込んできても、可憐な王女は驚く様子も見せずに優雅にお茶を飲んでいる。
「そうではありません!理由を聞いているんです!」
「あら、そんなのあなたを恋い慕っているからに決まっているでしょう?」
あまりにもさらりと紡がれた告白は、あっさりしすぎていて一瞬意味がつかめなかった。
「あなたも、わたくしが好きでしょう?」
「それはもちろんですが、」
意味がつかめなかったから呆然として、問いの答えもするりと本音がこぼれた。よりによってその直後に我に返って、ほっと安堵の息を突く姫に気づいてしまう。
(……かわいい)
はっきり言って、うっかりほだされた。
無意識だろう、唇がゆるむのも、ロマンチックさのかけらもない告白に、それでもほおを染めるところも、ものすごくいとおしいと思った。思ってしまった。
「……もちろん、お慕いしております。わたしの妻になっていただけますか?」
「…………はい」
―――公爵閣下は、自分の評判がどれだけ悪いのか、ということをうっかり忘れていた。
―――妖精姫は、自分がどれほど幻想を抱かれているのか、ということをうっかり忘れていた。
公爵が王を脅して王女と婚約した、という噂にふたりそろって頭を抱えるのは、もう少し後である。
あれ、予想以上に姫君腹黒で公爵へたれ……
お互いにどこに惚れたのか、というのはまたいつか。