生き方とは考え方
私たちは今まで生きてきた中で哲学という分野に間接的にもその分野自体にも絶対に触れてきたし、世界中どんな人も一度は考えて触れてきた物だと思っている。
例えば、科学(数学とか)、美学、思想、言語学、
倫理学など他にも幅広くある、この様な学校や日常的にも考えて学ぶ様な事が哲学から出来ていると言う事だ。
そして、哲学とは抽象的な表現をすると考える分野だ
そしてそれはつまり、考えることから始まり生まれるのだと、それは私たちの生き方そのものに直結する事だと思う。
今回はそんな生き方とは考え方ということについて
考えていこうと思う。
始めは考え方の作られ方について。
環境とか遺伝とかで決きまりそれが思想(価値基準)
となり日常の行動プログラムを左右する考え方へと
なり作られていくと思っています。
生き方が考え方な理由
考えて行動に移して良くも悪くも結果となりその繰り返しで長い歳月を経て生き方というものになるため、
考え方にない事は行動には移せないから、考え方から始まりそれをするかしないか考えて行動になる。
そのため、視野が広くて知識が多くある人の方が、
生き方の根本となる考え方が増えるため人生も、
生きやすい生き方をできるのではないだろうか。
生き方の指標として使える思想。
一人目は老子の思想です。
老子は昔の中国の思想家で伝説上の人物ですが、それに近いとされたのが老聃という人です。
ここでは一旦老子として思想を紹介します。
上善は水の如しと言う言葉があります。
これは水の様な生き方以上に素晴らしいものはないと言う事だ。なぜなら、水は全ての生命を癒しを与え、
全ての物体をありのままの映し出し、どんなものよりも柔弱であり、人の嫌う下の方へと流れていくそのため、水の様な生き方ができる人ほど本当の意味で、
得が高い人であるということらしい。
他にも、この世で自分が成せることなんてないのに、
自慢や自分を誇りに思うなんてこの世の根源である、
道から見れば傲慢でちゃんちゃらおかしい
に近い事を言ってました。
二人目三人目はヤージュニャヴァルキヤと釈迦です。
この二人は思想がほぼ似ているため一緒にします。
余談ですが、老子の思想と釈迦とにているため釈迦、
という人物は老子なのではないかととも言われてました。
まず、自分なんてないということについて、
これは最近の本でも自分なんてないからという人気の
本もありますが、自分たち私たちが思ってる様な自分なんていないということです。
私たちは自分とは何かと思うと究極は意識であるとわかります。
そして意識は脳から出るものだと思います、しかし
最近の脳科学ですら脳をいくら調べても意識現象には
繋がらないしわからないといわれてます。
そのため、脳は外部からの刺激を受けて行動するという機械とか電卓とかのプログラム的役割に非常にちかいものであります。
しかし、釈迦やヤージュニャヴァルキヤはもとも、
私とはいわばゲーム内における主人公みたいなものであり、私たちはそれに感情移入しすぎているだけで、本当の私はプレイヤーであるから、
本当の私(真我)は人生の傍観者でしかない。ということです。そのため、現代の脳科学を仏教ははるか昔に超えていたということです。
だからこそ、私たちはこのゲーム内の不幸なんかに、
浸るの馬鹿馬鹿しいからもっとこの、
仮初の人生を楽に生きていった方がいいのかもしれない、という考え方があります。
二つ目は釈迦が提唱した、現状の感謝です。
私たちは日々向上心を持って生きています。
そして、中々成長しない時や物事がうまくいかない時
は不幸に浸ったり感傷的に、
なります、しかし、それは現状に感謝する心を忘れてるだけだといいました。
例えば、会社で上司に怒られてへこんでる時も、
今生きてることに感謝すればどうでもいいと思える
のではないかということです。
つまり、日頃から現状の感謝を忘れずに傲慢に生きなければ幸せなはずだということです。
最後に、考え方で見える世界が変わってくるし、
その考え方でよくもわるくも自分に合った生き方が、
見つかるし、今より楽に生きていけるのかもしれない




