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宇宙の中に宇宙はある  ー良寛とパスカルー

 先日、良寛について調べていたら、次のような歌に出会った。

 

 【あわ雪の中にたちたる三千大千世界みちほおちまたその中にあわ雪ぞ降る】

 

 この歌を読んで、良寛は大きなスケールの持ち主だったんだな、と改めて思った。

 

 歌にある「三千大千世界」というのは、ウィキペディアの説明では下記のようになっている。

 

 【仏教の世界観では、須弥山を中心として日・月・四大州・六欲天・梵天などを含む世界を一世界とし、一世界が1,000個集まったものを小千世界といい、小千世界が1,000個集まったものを中千世界といい、中千世界が1,000個集まったものを大千世界という】

 

 仏教の段階では科学的な宇宙観は完成されていなかったが、仏教的な世界観においても大きなスケールの世界が構想されていたのがわかる。その巨大な世界を、良寛はあえて降る雪の中に見ている。

 

 私の解釈だが、良寛は降っている雪のひとつひとつの中にまた違う巨大な世界があって、その中にもまたあわ雪が降っている、そのように感じていたのではないかと思う。

 

 パスカルもこれに似た事を言っている。

 

 【無限の中において、人間とはいったい何なのであろう。

 しかし私は、人間に他の同じように驚くべき驚異を示そうと思うのであるが、それには彼がその知るかぎりのなかで最も微細なものを探求するがいい。一匹のだにが、その小さな身体のなかに、くらべようもないほどに更に小さな部分、すなわち関節のある足、その足のなかの血管、その血管のなかの血、その血のなかの液、その液のなかのしずく、そのしずくのなかの蒸気を彼に提出するがいい。そしてこれのものをなおも分割していき、ついに彼がそれを考えることに力尽きてしまうがいい。こうして彼が到達できる最後の対象を、今われわれの議論の対象としよう。彼はおそらく、これこそ自然のなかの最も小さなものであると考えるであろう。私はそのなかに新しい深淵を彼に見せようと思う。】

 (「パンセ」前田・由木訳 p48 中公文庫 改版)

 

 ここでパスカルが言っているのは自然の中にある無限性の問題である。私はパスカルは、良寛と同じように自然の中に無限に続いていく世界を見ていたのだと思う。

 

 …もちろん、実際にはパスカルと良寛では思想が著しく違う。その点は考慮しなければならない。

 

 パスカルの場合は、キリスト教信仰が頭にあるので、彼が自然の無限性を示そうとする時は、その反対に人間の有限性が強調される。人間は「ちっぽけ」で「惨め」な存在である事が自然の無限性との対比で示される。

 

 このような操作がなされるのは、そうした惨めな人間を救うのは神の光のみであるからで、そうした結論に持っていくためにパスカルは自然の無限性を示そうとしている。

 

 それと比べると良寛は神の慈悲を示そうとしているわけではない。ただ、私は微小なものの世界の奥に広大で無限な世界を見るという詩人的な素質を両者は共に持っていたと思う。これは西洋東洋問わず、そうした資質の持ち主が見ようとする認識の共通点なのかもしれない。

 

 ※

 今、私が言った事を私の乏しい科学知識とミックスさせながら論じてみよう。

 

 パスカル・良寛の時代には量子論のようなミクロの世界は知られていなかった。それでは、これらの詩人的直感は具体的なミクロ世界の探求とはどういう関わりを持っているだろうか。

 

 量子論に二重スリット実験というものがある。これはふたつのスリットを用意しておき、その背後に板を設置しておく。

 

 2つの穴に向かってひとつの電子を飛ばすと、どちらかの穴を通って背後の板にぶつかるはずなのだが、この時、この電子は2つの穴をまるで幽霊のように同時に通過している、という事が実験でわかった。(これは電子が分裂して通過しているのではない。あくまでもひとつの電子が幽霊的に同時に2つの穴をくぐり抜けている)

 

 おそらく、この実験をはじめて知った人は(そんなわけないだろ、嘘つくな)と思われるだろうと思う。私も最初はそう思った。

 

 それで、その頃の私は量子論が気になってその手の本を色々と読んだのだが、結局のところ、私にわかったのは「量子論はわからない」という事だった。

 

 それは(君が頭が悪いからだろ)と賢い読者は思うかもしれない。しかし私はそのような読者にたずねてみたい。「あなたの言う(頭の良い)とはどういう状態ですか?」と。

 

 上記の二重スリット実験で、ひとつの電子が同時に2つの穴をくぐり抜けるという状況はまともな理性からは信じがたい状況である。

 

 しかし視点を変えてみればそれほどおかしくもない。そもそもなぜ、私達は私達が当然だとしている世界観、合理性、常識、そうしたものがミクロの世界にも通用すると先天的に考えていたのだろうか?

 

 量子論的世界においては、鍵をポケットに入れておいても、次の瞬間には鍵はポケットから消えているかもしれない。鍵は量子的にワープしている可能性がある。

 

 だが現実に生きている私達は鍵のワープ可能性について不安には思わない。私達は鍵がなくなった時、合理的に考える。「ポケットに穴はあいていなかったか?」「誰かが盗んだんじゃないか?」など。

 

 鍵のような大きな物質なら安定している為、量子的なワープを懸念する必要はない。私達はひとつの物質が幽霊のように存在している世界を思い描く事はできない。それは私達の認識の限界を越えている。

 

 要するに、量子のようなミクロの世界においては私達の認識を越えている合理性、世界、常識があるというだけの事であり、それが私達が理解できるような形式であらねばならないという神の命令もなければ、人間からの圧力も存在しない。

 

 ミクロの世界の更にその奥には私達には理解できない大きな世界が広がっている。それを数式で表す事は可能だとしても、幽霊のような物質形態は私達にはあくまでも不可解なものでしかない。だがそれを不可解と感じるのは私達が人間だからなのだ。

 

 パスカルや良寛がそう直感したように、人間というのは限界を持つ存在である。自然が人間に理解可能な形式を持っていないければならない理由はない。むしろ答えは逆で、私達が生きる上で必要としている感覚・思考・観念といったもの、そうしたものが私達のサイズに合った自然によって作られたものなのだ。

 

 それ故に、私達の認識の枠組みが、私達の知る、ある程度の大きさだったり、エネルギー量の範囲内に収まるのは至極当然と言える。私達は私達の生きる範囲の延長においてのみ世界について知る事ができる。だが知る事を越えた世界というのも彼方には広がっている。

 

 パスカルや良寛のような無限を志す人物は詩的直感によって、認識の彼方にある世界をイメージする。

 

 こうしたイメージの力の具体化が科学的進歩の源泉だと言ってもいいかもしれない。詩人が直感で触知したものを科学者は後から実証的に表していく。

 

 科学も哲学も人間の行う事だから、人間の限界というのは何らかの形で現れてくる。ミクロな世界の奥に人間の知り得ない巨大な世界がある。それはもしかしたら普通のことかもしれない。

 

 同じような事で、「宇宙の始まる前」というものがある。科学的にはビッグバン以前である。

 

 「時間」はビッグバンと共にはじまったそうだが、それでは時間が始まる「以前」はどうなっていたか。


 ここには時間「以前」の状態を、「前」という時間観念で測ってしまっているという矛盾が生じている。

 

 ビッグバン以前がどうなっているかは科学的にわかっていないらしい。仮にそれがわかったとしても、時間が生まれる以前の世界を、時間ー空間の概念を基準とする私達には認識し難いものだろう。

 

 極大の世界にも極小の世界にも未知の領域が残されている。それらを探索し、理解しようとする事は人間の業であるが、またそれらを探索しようとする事によって人間の理性の限界を知り、自然に対して、世界に対して謙虚になるというのもまた人間の行うべき業のひとつではないかと私は思う。


 良寛やパスカルは、その優れた直感によってそのような人間の限界を彼方の視点から振り返っていたのではないか。


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