第9話 名を知らぬ香にこそ仮面は応ふなり
夜明けの手前、空は墨の底でひくつくように重く、宗像の中庭には火が去ったあとの温度だけが残っていた。
焼けた柱は鼓動をやめ、瓦は砕けた形のまま露を吸って黒く沈む。
白砂だったものは黒泥に変わり、踏めば湿りを吐いて足袋を汚した。
敷石には、幾つもの身体が静かに置かれている。
若い見習いも、年を重ねた使い手も、顔の輪郭を均され、同じ無音で横たわっていた。散りそびれた紅の花が、一度に地へ落ちたみたいに。
志貴は、その縁に膝をついていた。
裂けた羽織の下、右肩の梅の痣がまだ熱を宿し、神経の奥でじくじくと灼える。
焦げた布が肌に張りつき、動くたび皮膚が細く裂けて沁みた。
香袋を握る掌には爪がつけた四本の痕が乾き、口の奥には鉄の味だけが残る。
風が灰を少しだけ上げた。
さっきまで誰かの髪で、衣で、息だったものが、空気にほどけていく。
白い炎の芯に見えた瞳の色が、閉じたまぶたの裏に蘇る。
見るな、と教えられて逸らした視線が、いまさら遅れて胸を内側から掻きむしった。
***
望の姿は、もう屋根にない。残っているのは、彼の火が触れた跡ばかりだ。
蒼白の炎は音も煙も立てず、骸を灰に変え、灰をさらに消して、痕跡を消すことを仕事にして去った。
穢れは悪鬼の糧になる――理の上では正しい。
だが、そこに温度はない。
残らないように、残さない。
送るためではなく、消すための火。
志貴は腰のほうへ手をやり、短く息を吸った。喉の白い層がひりつく。
自分の血を、少し、指先に呼ぶ。
爪痕から滲んだ赤を親指で集め、最初の骸の額へ触れた。
血紋は小さい。指の幅で印をなぞるだけ。
誰の教えでもない。けれど、これしか知らない。謝るための道筋を、灯すための合図を。
「……守ってやれずに、ごめん」
声はほとんど息だけで土に吸われた。
志貴は印を置き、胸の前でひと拍おく。
香の拍がふくらみ、指先から柔らかい熱が立つ。
炎が上がる。包むための、息の温度を持つ火。焦げの匂いに微かな蜜の甘さが混じり、燃え残った影が、迷わず沈む。
狐の火が消したものを、志貴の火は送ろうとしていた。送る、と言葉にしたら崩れそうで、何も言わない。
次の額へ、また次の額へ。
血は薄くなる。唇を歯で噛んでまた集める。
胃の奥が痙攣し、こみ上げた血を指で掬う。
涙がこぼれてしまわないように、志貴は小さな息を繰り返し吐き出した。
***
少し離れた場所で、冬馬の号令が飛んでいた。
負傷者の収容、結界の縫い直し、火の当番の交代。黒の羽織は乱れず、指示はぶれない。
だが彼は一度として志貴を見なかった。
皆の前で“王”へ視線を向けぬ節度――今日に限って、わざと厳格に守っている。
守られているからこそ、志貴にはほんの少しだけ、寂しかった。
「縫い直しは地からや。上はあとでええ。地脈が揺れとるところから急げ」
声に応じて数人が膝をつき、掌で地を撫で、印を置きはじめる。
志貴はその輪に入らない。
王の痣の残した熱が、他人の術を狂わせるのを知っているからだ。
彼女はそこから少し外れ、地の縫い目に自分の血を落とした。
香が、血を逆流させる。
胸骨の内側が熱を帯び、視界の周辺が白く滲む。鼓膜に薄い膜が張ったように音が遠のき、代わりに地の音が近づいた。
石の芯が鳴り、焼けた木の空洞が息を吐く。宗像の地はまだ生きている。痛みの向こうで、ただそれだけがはっきりした。
「……理が、逆流してる」
いつからそばにいたのか、冬馬の低い呟きが耳の脇でほどけた。
志貴の血と香に宗像の理が混ざっては戻り、また混ざっては戻る。印を打つ指が一斉に一拍遅れ、石の壁が細く軋む。
志貴は奥歯を噛んで、逃げようとする理の尾を指で掴んだ。
「返したらあかん。ここに縫い留める。返せば、夜がまた来てしまうやろ……」
志貴の額に脂汗が浮かぶ。
「志貴、もうええ。お前の身体の治療が先やろ!」
冬馬の声はいつもより荒い。
志貴は首を振り、額の汗を血に混ぜて線を引く。
視界の端で、屋敷の者がひとり、ふたりと手を止め、こちらを見ているのがわかる。
見られたくない。けれど、隠れる場所はない。
「……見たこと無いやり方してはる」
誰かの小さな声。
別の誰かが頷く。
志貴の呪術は遅い。詠唱はよく噛む。
そう志貴は思っている。
けれど、宗像の理を手でつかんで地へ戻す、このやり方は志貴しかできない。
見ている側のほうが、その特殊性に先に気づきはじめていた。
志貴は最後の印を置き、掌を地に貼りつける。骨の中の紅がふっと息をした。
譲る、という言葉が喉まで上がる。
王の痣の封印も、この力も、自分より適切な誰かがいるなら渡したほうがいい――その思いに、体のどこかが小さく反発した。
紅そのものが体内で噛みしめるように息を吹き返す。譲れないものを、誰よりも自分が知っているという感覚が、息の合間に差し込んだ。
「……いまは、私しかおらん」
志貴は地面に告げた。返事はいらない。
***
――そのころ、離れの屋根の上では。
焼け残った棟の陰に、ふたつの影が膝を折っていた。
黒い外套の裾から覗く脚は細く、片方は踵で瓦の縁を軽く叩いて拍を取り、もう片方は指だけで数を刻む。宗像の者ではない。匂いでわかる。
「地、七割は戻ったか。……早すぎるな。見えるか?」
低い声。返ってきたのは笑いを堪えた鼻息だった。
「見えるのは香だけな。でも、これは嗅いだことがある」
「兄さんのか?」
「いいや、もっと粗い。紅の雛の匂いかもしれん」
「報告では一発が桁違いって話だけど、雛で済むか」
「済まないだろうな。……贋作ではない、本物だろ」
ふたりは名乗らない。
冥府は宗像に紅の雛がいることを知らない体裁でいなければならない――干渉してはならないからだ。
ふたりは「行方不明の兄を探す弟たち」として、ただ焼け跡の香を嗅いだ。
「皮肉なもんだな。紅は数ある理の色でいちばん戦う。白も蒼も紫も黄も碧も、こちらの黒もそれぞれの理があるけど、戦場の真ん中で世界を握るんは紅だ。……それを、宗像は毛嫌いする」
「宗像は本来なら紅を祀る家だろ?」
「他に対する最強の抑止力になるからな。ただ、紅を“器”に閉じ込めて眺めるのが宗像のやり方だ。……器が自分で歩きはじめたら、宗像はどうするか、見ものだな」
ふたりの視線の先で、志貴が背筋を立てた。
額の汗が顎へ落ち、血紋が光り、包む火がひとつ静かに消える。
***
「……志貴」
呼びかけに顔を上げると、咲貴がいた。
血と灰に汚れながら、目だけがまっすぐでどこか晴れている。
冬馬が視線で制した。
咲貴は正面からその視線を受けて、歩調だけを緩めた。
「来てくれたんか……ここはええ。あっちの印が間に合ってないんや。あんたやったら、すぐできるやろ。行ってきて」
ぶっきらぼうな言い方に、咲貴はむしろ嬉しそうに頷いた。
志貴のそばに居続けるより、志貴が選んだ場で動くことが正しいと知っているのだ。
咲貴の背が離れる。
羨望と劣等が胸の底で短く揉み合い、志貴はひと息に呑み込んだ。
双子の妹は才覚にあふれる黄泉使いだ。
咲貴が持っていて自分にないもの。
自分が持っていて咲貴が持たないもの。
両方が確かにここにある。
冬馬が近づき、地面すれすれの声で囁く。
「狐の香がまだ残っとる。深く吸うな」
「……わかってる」
「なぁ、志貴さんよ。……お前、並以下ちゃうで」
志貴は思わず見返した。
冬馬は視線を逸らさず、苦い笑いを口端だけで作る。
「理を手でつかんで地へ戻すんは、誰にでもできることやない。見てみい。皆、見惚れとる」
言われて周囲を見れば、印を打つ手がほんのわずか止まりかけ、すぐに動く。
止まりかけた理由は珍しさではない。
珍しいだけなら見物で終わる。
今、目に宿っているのは憧れに近い畏怖だった。
壊すための火を送る火へ変え、拒む香を守る香へ変える――その作法に、皆が気づきはじめている。
「狐は冷たいな」
誰かのつぶやき。別の誰かの頷き。
「志貴の火は、温い」
「……温いだけやない。詫びとる」
土に吸われた声が、志貴の耳にも届いた。
胸の冷たさがわずかに溶け、同時に別の冷たさが背骨を撫でる。
狐は志貴を試すために彼らを置いた。
志貴は狐を使うか迷って、彼らを殺した。
くだらなさは、どちらも同じ。
だから志貴は狐を使わない。
使えば楽になる。使えるものは使えばいい――咲貴はそう言うだろう。
志貴だって理屈ではわかる。
けれど、これは誇りでも理屈でもない。
魂の問題だ。
狐の香が理を塗り潰すたび、志貴の魂は紙やすりで削られるみたいに擦り切れていく。
その恐怖は、咲貴には、きっとわからない。
「宗像を出てほしいなら、私を追い出せばよかった」
志貴は土に向かって言い、続ける。
「代わりがあるなら立てればええ。骸の山を築かん誰かがおるなら、それが一番や。……でも、今ここには、おらん」
だから血が尽きるまでやるしかない。最初から選択肢などないのに、いつも選べと迫られる。
王かどうかの話ではない。
やるのか、やらないのか――二つしか置かれない。
「……選びようがないだけや」
志貴は言い、血紋を骸の額へ置いた。
***
ひとしきりの修復が終わったとき、朝の光が瓦の破片に触れはじめた。
光は足りない。だが、無いわけでもない。
志貴がふっと顔を上げると、遠い屋根の端に薄藍の衣が見えた。
望だ。片膝を立て、肘を乗せ、まどろむような笑みでこちらを見るとも見ないともつかぬ眼差しを投げる。
指先が蝶を誘うようにひらひら揺れ、声にならない一言を作った。
――「助けて」と言ってごらん。
志貴は応えない。
望の唇が綻ぶたび、崩れていくのは彼自身の“余裕の仮面”だとわかる。
仮面の落ちた庭から、屋根の男の喉へ――志貴の視線は静かに刃を突き立てるみたいに正確だった。
黄泉使いたちは誰も割って入らない。
対峙の輪郭を、皆が黙って見守る。
「……せいぜい、意地のかたちをなぞっているにすぎない」
音なき唇の動きが言葉を運ぶ。
志貴の肩の痣が白布の下でうっすら疼く。
けれど彼女は目を逸らさなかった。
狐は柔らかく、無限に残酷に笑う。
やがて修復の手が一段落し、朝の光が瓦片に触れはじめた。
光はまだ薄い。けれど、無ではない。
志貴がふっと顔を上げると、遠い屋根の端に薄藍の衣が見えた。
望だ。片膝を立て、肘を乗せ、まどろむような笑みでこちらを見るとも見ないともつかぬ眼差しを投げる。
指先が蝶を誘うようにひらひら揺れ、声にならない一言を作った。
離れの屋根の陰で、ふたりの影がもう一度目を合わせる。
「狐を飲み込まない宗像の王とは……。俺たちの探し物も近場にでそうだな」
「これは宗像の吉兆じゃない。……冥府に、だな」
ふたりは笑い、すぐにその笑いを飲み込んだ。風が瓦を渡り、匂いだけが長く残った。
――名を知らぬ香にこそ、仮面は応える。
朝は、まだ足りない光で王を照らしはじめる。




