表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
9/43

第9話 名を知らぬ香にこそ仮面は応ふなり



夜明け前の空は、まだ墨を溶いたように重たかった。


宗像の中庭――そこはもはや、現世とは思えぬ光景だった。


焼け爛れた柱、崩れ落ちた瓦。


白砂は黒泥に染まり、敷石の上には、幾つもの骸が無言のまま横たわっている。


若き見習いも、老いた使い手も、その顔は誰のものとも判別できなかった。


まるで、散りそびれた紅い花が、無言で咲き違ったように――

地に伏した命が、折り重なり、沈んでいた。




「……すまん、間に合えへんかった」




息を切らして駆け込んだ冬馬の足が、地を叩いたまま止まる。


ここが宗像の本家であるはずがない。


護られていたはずの王の地が、今は“破られた黄泉”そのものだった。




中庭の奥に、ひとつの影が見えた。


志貴。


血の気の引いた顔。

紅の痣が咲く右肩を押さえ、膝をついたまま動けずにいた。


その隣に、白い影があった。


狐――王の獣という神のふりをした男が、志貴の喉元に、指を添えていた。




「……離れろ!」




冬馬が叫ぶと同時に、懐から巾着を取り出した。

一心から託された、あの香――志貴をつなぐ、最後の鍵。



狐がゆるりと振り返る。

蒼の瞳が、夜を裂くように光を返す。




「おや……ようやくお戻りで。二番手くん」




丁寧な声音に、どこか乾いた嘲りが滲んでいた。


冬馬の眉が、わずかに動いた。

けれど言葉は返さなかった。




……最初から、志貴にそう見られていることくらい、狐に言われなくともわかっていた。


志貴の隣に立つのは、一心――それは、幼い日からずっと感じていた。


自分は、その背を守る役目。

“二番手”で構わない。


志貴が選んだ未来に、ただ在れるのなら――それだけでよかった。




「……遅かったですね。この子、もうあなたの手には負えないかもしれませんよ?」



冬馬の巾着が、静かに揺れた。

次の瞬間――一心の香が、まるで時を溶かすように広がっていく。


志貴の身体が、小さく震えた。


――それは、一心の香。

世界が、一瞬だけ“正しい匂い”を取り戻した。


志貴の魂が、呼吸を取り戻す。


崩れかけた魂が、かろうじて“かたち”を保つ。


香が届いている。


それを、志貴の目が確かに捉えた。




「…香りに、反応しましたか」



狐の指が止まり、微かに目を細めた。



「なるほど……彼にも香を仕込むとは。まったく――慎重な男だ」


「王の側にあるのは、穂積の役目や。……お前じゃない」


冬馬の声が、低く、深く落ちた。


「“理”の約定を忘れたか。お前は王を導く存在ではなく、“理の従者”やろ」


「それは、かつての話でしょう?」




狐が中庭の骸を見やる。



「……この子が、もっと強ければ。誰も死なずに済んだ」




志貴の肩が、びくりと揺れた。




「泣いてばかりの弱さでは、王にはなれない。それを知る時が、今だった――ただ、それだけのことです」


「言葉を選べ、狐」


冬馬が一歩前に出る。


「志貴が孤立したのは、お前が張った結界のせいや」


「王には、“孤独”を引き受ける覚悟が必要です」


狐は冷たく言い放ち、すっと指を引いた。

その瞳は、志貴を“完成品”として眺めていた。



そのときだった。


ざっ、ざっ――


空気が変わる。


複数の足音が、東の塀を、北門を、西の石畳を踏みしめて近づいてくる。


――黄泉使いたちだ。


宗像の本家が破られた。

それを受け、第一線の使いたちが一斉に流れ込んでくる。


 


「宗像の結界が……!」


「炎が……!」


「王の痣が反応を……!」


「器?……」


 


誰かが、ぽつりと呟いた。


 


「まさか、暴発?」


 


その一言で、空気が凍る。


志貴の力が宗像を焼いた――そう誤解された。


その目が、志貴へと注がれる。怒りでも、憐れみでもなく。

ただ――絶望。


 


「違う!!」


 


冬馬の声が、中庭を裂いた。


 


「……暴発なんかじゃない! 志貴が――退けたんや!」


 


ざわめきが止まる。


 


「見てみろ! 志貴がここにいる!

破られた結界の中、命が残っとる!

志貴が“ただの子供”なら、全員、死んでる!」


 


そこに、静かに狐の声が重なる。


 


「器だからこそ、痣がある」


 


狐は指を上げる。蒼白の炎が、骸にともる。

ひとつひとつ、灰へと還していく。


 


「黄泉使いの死骸は、悪鬼の糧になる。

だから私は……王の代理として、送り火を」


 


――灰も、残らない。


狐の炎は、美しい。

けれど、どこか“完全すぎる”。


死の痕跡すら許さないその手際に、志貴は思った。


(これは“送り火”ではない。“消去”だ――)


 


狐の掌が、血に濡れた仮面を、玩具のように掬い上げた。


「“仮面”が砕けないのは、あなたが王である証。まぁ、仮面はつけなくとも良いのだけれど」


 


志貴の視線が、泥に沈んだその仮面に向く。

志貴の髪が風に揺れた。


 


そして――狐が、ほんの一瞬だけ、まばたきを忘れた。


髪からこぼれ出す香。


この匂いは――知らない。

私のどの記憶にも、存在しない。


 


志貴にすっと目をやり、わずかに苛立った。

扱いきれる王ではないのかもしれない。


 


「間に合わんかった。ここに、あったのに…」


 


まなじりに、静かに涙がにじんだ。


胸元を握りしめる。

救うことができる何かが、確かに、胸の奥にあった。


 


――これは、狼でも、狐でもない。


志貴の中にある、“誰でもないもの”。

声にも、形にも、なっていない。

けれど、確かに“ある”。




志貴は、ぽつりと呟いた。


 


「……私が、強くなかったから、あの人たちは――死んだんやな」


 


「違う」


 


冬馬の声は、静かだった。


 


「お前は、戦った。それだけは――間違いない」


 


風が吹いた。

志貴を包むように、香りが舞う。


 


冬馬の巾着が揺れ、一心の香が、ふわりと広がる。


 


志貴の肩がふるりと震える。

魂が、それに応じて、呼吸を取り戻す。


 


「……私、選びたい」


 


「何を?」冬馬が訊いた。


 


志貴は、静かに言った。


 


「ここに棲んでいた、“誰にも選ばれなかった声”――

それを、私が、王として選ぶ」


 


仮面を見つめたまま、志貴は小さく、確かに微笑んだ。


 


狐の香ではない。

狼の香でもない。


 


この魂の奥底に眠っていた、もうひとつの存在が――

いま、目を覚ました。


 


夜が明ける。

世界が、わずかに――“彼女”の名を、思い出そうとしていた。


 


……それは、ずっと、彼女の中にいた。


“狼”すら、封じた。


忘れられた、けれど、決して消えなかった――原初の声だった。


 


「王の痣があるのは私が望んだわけやない」


 


香の残り香だけが、夜気にとけてゆく。


 


それは狼のものでもなく、狐のものでもなく――

志貴自身の、初めての“選んだ香”だった。


 


「この力が制御できないのも、私が望んだことやない。……せやけど、それでも、ここで終わらせたら、あかん。きっと、あかんのや」




彼女の声には、悔しさでも哀しさでもない、“受容”が宿っていた。




 


黄泉使いたちは、誰も言葉を発せぬまま、ただその場に佇んでいた。


 


「何なら、宗像本家に生まれたことすら、私が望んだことやないわ」


 


命が残ったことに安堵しきれず、

目の前の王が“何者であるのか”に、答えを持てずにいた。


 


「外野にガタガタ言われっぱなしは宗像本家の後継ぎとしては面白うない」


 


その静寂を、決定的なまでにぶち破ったのは――志貴だった。

 


「文句ばっかり言うてんと、傷ついた仲間たすけんかい!」


 


志貴の声が響き渡る。

聞いたこともない怒声だった。


 


黄泉使いたちが一斉に動き出す。

ざわざわした声の中、志貴は目を伏せた。


 


「……もう、守られんのは終わりや」


 


その声は、かすれていたが、確かだった。


 


「私は、王なんやろ? だったら誰からも命令されとうないわ」


 


ゆっくりと、志貴が立ち上がる。


 


濡れた泥の中から、仮面を拾い上げる。


 


泥が、爪の奥に入り込む。

それでも、構わない。


 


仮面は、砕けていない。

だが――もう何かが違っていた。


 


志貴の指先が、泥に濡れた仮面の頬をなぞる。

そこに誰かの“顔”が、初めて宿ったかのように。


 


指先が仮面の頬をなぞるたびに、そこに刻まれていくのは“誰かの願い”ではなかった。


 


志貴の息遣いと、志貴の選んだ香と、志貴の声――

それだけが、“狼”という輪郭を仮面に与えていく。


 


「……それが優しすぎる檻やったとしても、もう私には、いらんのや。けど――」


 


「あの人みたいな匂いなら……檻でもええか。仮面でも、構わへんな」


 


志貴が選んだのは、誰かの願いではなく、自分の愛した香だった。


 


もう“誰かの面”じゃない。


 


「好きにさせてもらう――それが、今の“私”やろ?」


 


志貴の魂の輪郭に、初めて沿って仮面がかたちづくられていく。


 


それは、檻でも従属でもない。

“志貴”という名を持つ、ひとつの魂のかたちだった。


 


志貴のまつ毛が震える。


 


「もう、私は……決めたんや」


 


冬馬はその姿を、息を呑んで見ていた。


 


“王”の器が、ようやく自らの声で歩き出した瞬間。

けれどそこに、もう“補佐すべき対象”ではない存在がいた。


 


目の前にいる幼馴染は、運命を選ばされたのではなく、

“選び返した”王になっていた。


 


――今度は、自分のほうが問われる番なのだ。


 


それでも、冬馬は迷わない。

宗像の王が選んだ道ならば、何度でも付き従う。


 


……だからこそ、彼は来なかったか――と、冬馬はどきりとした。


 


あの男――“一心”は、すべてを嗅ぎ取っていたのだろう。


 


自らを必要とされるより先に、志貴が“必要とする”瞬間を、

きっと待っていた。


 


男として一枚も二枚も上手――そう思うほどに悔しい。


 


けれど、今の最善は“ここに在る”ことだけ。

志貴が選んだその道を、黙って支えるしかない。


 


冬馬は、小さくため息を吐いた。

 



 


一方で、狐は表情を失っていた。


 


微笑みも、皮肉もない。

蒼い瞳の奥で、何かが計算され、何かが捨てられた。


 


――王が“檻”に自らの名を刻むとは。


 


その選択を、予想していなかったわけではない。

けれど、それが“あの香”によってなされたことが、何より腹立たしかった。


 


「あんた、こんな風な宗像、一番怖いんと違う?」


 


志貴の言葉に、狐の蒼い瞳が微かに揺れた。


 


「私が、“あんたの知らんもんを、抱えているから」


 


狐は何も返さなかった。

ただ、風が吹くのを待つように、目を伏せた。


 


「あんたの香、もう怖ない。……もう、揺れへん」


 


志貴は、かるく首をかたむけるようにして、狐をにらみつけた。


 


「冬馬。……次に、やられたらなやりかえす。徹底的にや」


 


志貴は、まっすぐに言った。


 


「……なら、次は――私が“喰う”番や」


 


その声に、かすかに笑みが滲んだ。

それはもう、“守られていた子供”のものではなかった。


 


冬馬は、困ったように微笑んだ。


 


「――つきあうわ」


 



 


風が吹き、志貴の選んだ香が散っていく。


 


狐は、散り際の香に顔をしかめた。


 


――なぜ、狼は姿を見せない。


 


いつだって王のそばにいたはずの“檻”は、今なお姿を現さない。


 


まるで全てを見透かしたように、高みから静観しているのか。

それとも、この光景を、王が“自ら選び取る”ことすら――最初から読んでいたのか。


 


志貴を砕くつもりだった。

力で、孤独で、現実で。


 


だが志貴は、香ひとつで仮面をつくりなおした。


 


……そしてなにより、志貴が自ら選んだ。


 


狐である自分にではなく、“檻”にこそ執着を向けたことが――


 


檻に囚われたのではない。

檻を、望んだ。

そして、自らの輪郭に沿わせた。


 


……それが、最も耐え難い。


 


“檻を愛する”王など――

そんな王は、王ではない。


 


「……次は、必ず“本物の王”に仕立て上げてやるよ」


 


そう呟いたかに見えたが、風の音にかき消されていた。




 


夜は、ようやく明けた。


 


けれどその光は、まだ、“志貴”という名を照らすには――ほんの少し、足りなかった。


 


――光が足りぬなら、それでも歩く。


 


志貴は、かつて“檻”だったその香を、

自らの名を刻む足音として踏みしめてゆく。


 


その胸の奥には、確かに在った。


 


誰にも触れられなかった声が――

その名を、“宗像の王”として、いま結びなおそうとしていた。


 


その鼓動の奥に、たしかに残っていた。


 


それは仮面ではない。


誰かの願いでもない。


志貴という、ただひとつの香が。

いま、「仮面」に応えた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
番契り 番地獄 狂愛 執着愛 奪愛 蜜毒 独占欲 贖罪愛 狂おしい愛 倒錯愛 契り地獄 奈落契り 血と魂 狼と少女 禁忌の契り 赦しは毒
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ