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第8話 魂に問ひしは 仮面か、香か



冬馬は、十日後に一心が京都に来ると告げた。


巾着を渡された、あの晩の言葉。


確かに聞いた。


けれど、それはどこか、現実味を欠いていた。


 


理由を、誰も語らなかった。


知らないのか、それとも――教えたくないのか。


志貴には、わからなかった。


 


――その“わからなさ”こそが、いちばん怖かった。


 


ただ、一心のあの香りを思い出すことしか、できなかった。


 


呼吸をするたび、微かな違和が鼻腔をくすぶった。


狐が出入りしているせいだ。


残り香がどうにも、落ち着かない。


 


一心のくれる香とは、どこかが、何かが違う。


懐かしいはずなのに、微かに、違う。


その“ほんのわずか”が、志貴の魂を、締めつけた。


 


怖かった。


一心の香りが、わからなくなりそうで――怖かった。


 


「また来ますよ。……いえ、お嬢の方から、呼ぶことになるかもしれませんね」


 


――違う。


呼ぶわけがない。


呼びたいのは――……


けれど、その名を口にすれば、


何かが、戻れなくなる気がした。


 


「……寝苦しい」


 


 


宗像邸に、不穏な気が満ち始めたのは、


狐が現れてからだった。


 


屋敷の結界は、異様なまでに重ねられ、


誰もが息を潜めて過ごしていた。


 


「これはお嬢を“護るため”ですから」


 


狐はそう言って、結界を幾重にも張り巡らせた。


“王は皆のためのもの”――その思想が、結界の重なりに、透けていた。



そして、異様なほど慎重で、冷徹だった。


 


それを見ていた者たちはいた。


けれど、誰も声を上げなかった。


 


狐は、宗像の王に仕える“獣”。


その格は、黄泉使いの誰よりも高く――


異を唱えることは、咎に等しかった。


 


命令ではなく、通達。


意見ではなく、既定。


 


屋敷は静かに、従った。


 


“護られている”はずなのに、


志貴の胸には、ただ“囚われている”という感覚だけが残った。


 


冬馬が出雲の任に出されたのも、


狐の意向だったと耳にした。


 


志貴のそばに残ると言い張った彼を、


上はやんわりと、けれど確実に遠ざけた。


 


「王のお側に在る者は、選んでいられるものではありません。


わかるでしょう?


……あなたのような方に、務まる役ではないんです」


 


誰かの声だった。


けれど、それが誰だったのかすら、


思い出せないほどに――


屋敷には、沈黙が根を張っていた。


 


誰ひとり、志貴に何も言わなかった。


ただ、狐だけが、


気まぐれのように姿を見せては、


冷ややかに、笑った。



その夜も、眠れなかった。


 


目を閉じても、香の向こうに、


“違う誰か”が立っている気がしてならなかった。


 


一心が来るまで――あと、五日。


志貴は、そっと目を閉じた。


 


 


香りが、違う。


 


懐かしいはずなのに、


狐のは――ほんのわずかに、違う。


 


その微かな違いが、


志貴の魂を裂くようだった。


 


鼻先に触れるたび、


古傷に塩をすりこまれるような痛みが走る。


 


“懐かしい”という言葉を与えることすら、


どこか、冒涜に感じた。


 


一心の香りには、


いつも、“声”が宿っていた気がする。


 


香と、声と、魂は――


どこかで繋がっていた。


 


けれど今、


呼吸しても、何ひとつ、響いてこない。


 


志貴の魂は、


それを、拒んでいた。


確かに。はっきりと。



 


――深夜。


 


何重にも張られていたはずの結界が、


音もなく、破られた。


 


風のない夜。


 


ふいに、鳥たちが一斉に飛び立つ羽音が響いた。


 


志貴は、はっと顔を上げた。


 


 


――何かが、来る。


 


 


空気が、焼ける。


 


同時に、屋敷の東――黄泉の封域に、


炎が、噴き上がった。


 


あの、白い炎だ。


 


宗像の屋敷を、


焼き尽くそうとしていた。


 


結界があるはずだった。


何重にも、張り巡らされていたはずなのに。


 


それが、すり抜けるように、侵入してくる。


 


 


志貴は、中庭に立ち尽くした。


 


 


「……なんで、ここに」


 


 


火の音が、空を裂く。


屋敷の奥には、


子どもや老いた者。守らねばならぬ命がある。


 


だが――自分は。


 


志貴は、右肩に手を添えた。


そこには、小さな梅の痣。


 


けれど、


詠唱しても、封は解けなかった。


 


血を流して覚えたはずの手順が、


今は、別人の記憶のように遠い。


 


「――解けない、なんで……っ」


 


血が騒ぐ。痣が疼く。


なのに、術も、矛も、応じてこない。


 


――声がない。




呼ばれたい声。

けれど、それは、今どこにもいない。



まるで、閉じ込められているのは、

私ではなく“あの声”のほうだった。





「……たすけて」


 


 


その名を呼ぼうとした瞬間、


背後から、手が伸びた。


 


志貴の口元を、冷たい掌が塞ぐ。


 


 


「――誰にすがろうとしていたの?」


 


「そんな声、私に向けてくれたらよかったのに」


 


囁きは、氷のようだった。


 


 


「封は、ひとりしか解けない――そう思っていた?」


 


 


振り返れなかった。


 


振り返れば、終わると、わかっていた。


 


 


――次の瞬間。


右肩に、激しい熱。


 


痣が咲く。


蔦のように半身を這い、


美しくも痛々しい文様が、浮かび上がった。


 


 


狐が、封を――解いた。


 


術が起動する。矛が呼応する。


身体が、勝手に動き出す。


 


詠唱など、必要なかったのだ。


志貴は、己の震えに気づく。


 


 


――こんなにも、簡単に。


 


 


「余計なことを考えている場合かな?」


 


 

視界の向こう。

白い炎の中心から、影が這い出す。


 


黒く、どろりとした形。

呻き声のような音を立てて、志貴の方へ向かってくる。


 


白い炎に喚ばれた、

かつて人であったものの成れの果て。


 


牙を剥き、

肉を裂くために這い寄ってくる。


 


――悪鬼。


 


 


「退がれっ――!!」


 


志貴の叫びが、夜を裂く。


 


幼子を背負った女。

膝をついた男。


 


皆が後退る。


 


 


数が多すぎる。


 


志貴の記憶にあるどの戦闘よりも、

圧倒的だった。


 


 


狐は一歩も引かず、

鋭い手刀でその喉元を断ち落とす。


 


返り血が宙に舞い、

志貴の頬を濡らす。


 


 


もう一体。


志貴は刃を振るう。


軋む音。

骨が砕ける音。


 


 


――違う。


戦い方が、違う。


 


身体は動いても、

胸が、苦しい。


心臓が、痛い。


 


 


狐は止まらない。


踏みつけ、裂き、引きずり倒す。


その髪にも、衣にも、返り血が飛び散っていたが、

一切拭おうとはしなかった。


 


 


一体、二体、三体――


 


百体近くのそれを、

すべて退けた時。


 


返り血に濡れた狐と志貴が、並び立っていた。


 


 


「……これが、王の本来の力ですよ」


 


 


志貴が、白い炎の中心に目をやった。


そこには、目があった。


――人の、目。


 


 


その瞬間。

白い炎の本体が、咆哮した。


 


 


「目を見るな――」


 


それは、公介がかつて、


何かを“見てしまった”者の声で、言っていた。


 


それが、脳裏をかすめる。


 


 


――人がいる。


炎の真ん中に、

人がいる。


 


 


さらなる咆哮が、空気を裂く。


 


それはもはや、獣の声ではない。


苦しみ、叫ぶ、悲鳴だった。


 


 


殺してはいけない。


 


何かが違う。


 


その違和感の正体に、

指先が震える。


 


 


「あれを遠ざけないと、皆が死ぬよ」


 


狐の声に、志貴の身体がびくりと反応する。


 


 


最後の一撃を、志貴は矛ではなく、

息で放った。


 


斬ってはいけないと、判断したのだ。


 


 


風が吹き抜ける。


 


白い炎が、悲鳴を上げ、


空へと、消えていった。


 


「……私が本物だと、理解できたかな?」


 


狐が、志貴の右肩に指を這わせる。


鎖骨の端。

うっすらと紅い痕。


 


「……なるほど。獲物のあかし、というわけか」


 


冷たい笑み。


 


 


「“お前は触れるな”――なんとも、傲慢な主張だ」


 


狐の指が、喉元へ。

志貴は首をすくめ、身をよじる。


 


 


「……嫌っ……」


 


 


「大丈夫。


志貴みたいな“何もない”子には、


私くらいがちょうどいい」


 


 


狐が、後ろから志貴を抱きとめる。


 


 


「あなたの中の“王”が、望んだんです。


生きるために、実に素直な選択。


……そばにいるのは、私でいいと」


 


 


「……違う、ちがう」


 


 


「ねえ。


どうして、声が届かなかったのか、不思議じゃない?」


 


狐は笑っていた。


 


「呼んでみる?


いいよ、やってごらん。


でも、傷を負うのはあなた」


 


 


志貴の喉が詰まる。


涙が、視界を歪める。


 


志貴は膝をつき、

口元を押さえた。


 


血を――吐いた。


 


 


「……ほんとうに、脆い」


 


狐が呟く。


そして、小瓶を取り出す。


 


 


「……その身体、癒さなければ死ぬ。


わかってるでしょう?」


 


 


志貴は首を振った。


 


「いらない! やめて……っ!」


 


 


狐は応じず、


小瓶の中身を、口に含んだ。


 


そして――志貴の顎を取り、

唇を重ねる。


 


 


一瞬、世界が静止する。


唇が触れた刹那、

呼吸すら止まるほどの、静寂。


 


 


だが、志貴は全身で拒絶した。


歯を立てた。


狐の舌に、血が滲んだ。




口の中に流された液体を、


志貴は、地面に吐き出す。



液体の残滓が喉奥に微かに残っている気がして、何度も唾を飲み込んだ。



けれど、震えは止まらなかった。


指の先まで、冷たい。



 


「気持ち悪い……!」


 


 


狐は黙って、それを見下ろしていた。


 


「ほんとうに、面倒な子だ」


 


 


志貴の瞳から、静かに涙がこぼれた。


 


「お嬢が“誰”に助けてほしかったか、


私は知ってる」


 


魂が――少しだけ、音を立てて折れた。


 


 


狐の目が細められる。


 


 


「……ねえ。


打開するには助けが必要でしょ?


そしてあなたが“助けて”って、言った」


 


笑みが深くなる。


 


 


「つまり、私を呼んだ。


そうでしょう?」


 


狐の声が、首をしめつける。


 


 


「あなたの中の王は選ぶことができる。


そうして、何度も何度も、生き延びていく」


 


 


いや。

実際に、首をつかまれている。


 


 


「……そう。


王は独占されない。


誰かひとりのものになんて、なれないんだよ」


 


 


その声に宿るのは、愛ではない。


執着とも違う。


 


それは、永遠に終われぬ者だけが纏う、


狂気の香だった。


 


 


志貴は、まだその正体を知らない。


けれど――


この存在が、遠くにいる“あの声”と


同等の危険を持っていることだけは、


魂が覚えていた。


 


 


***


 


静寂が落ちた。


 


 


中庭の片隅。


血の泥にまみれた土の上に、転がるものを、


志貴は見た。


 


仮面。

志貴の仮面。


 


 


仮面をつけずに、戦っていた。


仮面をつけねば、戦ってはいけないはず。


 


おかしい。


 


自分には、ルールが適応されていなかった。


最初からか。

今、変えられたのか。


 


 


「仮面をつけずに戦った黄泉使いなど、いない?


あぁ、知らなかったの?」


 


狐の声が笑う。


 


 


「“本物”は、最初からルールの外にいるの。


どうして誰も、こんな当たり前のことを教えてくれなかったのかな?


私なら、丁寧に教えてあげるのに」


 


 


嫌だ。


頭が痛い。


 


 


ふらつきながら、手を伸ばす。


けれど、それは――狼ではなかった。


 


狐の面。


 


「……違う」


 


 


手に取った仮面を、


志貴は、震える手で、地に叩きつけた。


 


 


面は砕けなかった。


 


泥に沈んだその仮面は、

ただ冷たく、何も映さぬ目で、志貴を見返していた。


 


まるでそこに、


狼でも狐でもない、名もなき“神”が潜んでいるように。


 


それは、

“もうひとりの誰か”の目だった。


 


 


春の夜のごとく、儚く。


志貴の世界に、決定的な“何か”が、落ちた。


まるで、

その仮面こそが、“私の中の誰か”を知っていたかのように。




――聞こえた。





誰のものでもない声。


一心でも、狐でも、冬馬でもない。





けれど、確かに私の奥底に“あった”もの。

名もなく、形もなく。



けれど、あの仮面だけは、それを、最初から見抜いていた。



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