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第7話 香にまどふは、誰がため



心に残されし、ただひとつの“香り”。


誰かを拒み、誰かを求める魂のさざめき。


――彼は、来ない。


それでも、香は、ここにある。


 


***


 


 日は翳り、障子の向こうに気配が落ちた。


 張り詰めたような静寂の中、わずかに指先で擦るような音がして、


 


「……入っても、ええか」


 


 その声が、志貴の呼吸を止めさせた。


 扉が開いた。夕の光に背を押された冬馬が、そこに立っていた。


 出雲にいるはずだった。任務の途中のはずだった。


 それでも、今、彼はここにいた。


 


「ずいぶん、眠ってたみたいやな」


 


 その声音は、思ったよりも近かった。


 志貴は、頷くことしかできなかった。こみ上げそうになる何かを、喉の奥で押しとどめる。


 


「……身体、大丈夫か」


 


「……平気や」


 


「うそつけ。顔、真っ青やぞ」


 


 そう言って、冬馬は迷いなく志貴の隣に腰を下ろした。


 気安さではない。慣れでもない。ただ、そうあるべきだというように、当たり前の動作で。


 


「黄泉使いは治りが早い。なのになんでや?」


 


 志貴は、ほんのわずか、目を伏せた。


 睡眠を優先させ、食事がないがしろだったことがばれている。


 


 なんなら、一心の飴すら、いまは口にできない。


 狐が差し出したあの飴を思い出すだけで、胃が軋んだ。


 一心のものなら平気なはずなのに、なぜか手が止まる。わからない。


 


 押し黙るしかない志貴に、冬馬は呆れて、ため息をひとつ落とした。


 


「――狐が、来たんやろ」


 


 ふいに落ちたその言葉は、空気をひとしずく凍らせた。


 志貴は、またしても応えなかった。応えられなかった。


 


「……向こうで聞いて、耳を疑うた。まさか、あいつが宗像に足を運ぶなんてな」


 


 冬馬の声には、静かな驚きが残っていた。


 


「泰介さんが死んでから、ずっと姿を見せんかった。宗像のことなんて、まるで興味を失うたみたいやった――あの狐が、や」


 


 言いながら、冬馬は唇を噛んだ。


 


「それが今になって、急に動いた。……まるで、封を解かれたみたいに」


 


 志貴の肩が、ごく僅かに揺れる。


 


「狐が“自分の意志”でここに来たとは、俺には思えん。……誰かが、ずっと止めてたんやろな。あいつを、お前の傍に近づけんように」


 


 障子の隙間から、夕風がひとすじ、廊下を渡っていく。


 


「けど――その“手綱”が、切れた。……全部、白い炎が焼き払うたんかもしれへん」


 


 志貴は、なにも言わなかった。


 ただ、冬馬の言葉が落ちるたびに、胸の奥で何かが、そっと疼いていた。


 


 しばらく沈黙が降りた。


 だが、冬馬はそれを破らなかった。志貴が言葉を探せないことを、誰よりも理解していた。


 


「……出雲を離れる前、一心に呼び止められてな」


 


 そう言って、冬馬は懐から、小さな巾着を取り出した。


 薄紅の布に、品のいい結び。見慣れた包み。


 志貴の胸に、微かな熱が灯る。


 


「預かった。お前に、渡してほしいって」


 


 冬馬は、そっとそれを志貴の膝の上に置いた。


 


 香りが、すぐに滲み出した。


 懐かしい、けれどどこか新しい。胸の奥を撫でるように、静かに、香が広がっていく。


 


 志貴は、巾着をじっと見つめたまま、指を動かせなかった。


 


「……逃げられへんよな、あの人の匂いって」


 


 ぽつりと、それだけ。


 


 冬馬は、その横顔を見つめたまま、低く言った。


 


「狐の香、合わへんかったんやろ」


 


 志貴の喉が、かすかに鳴る。


 否定も肯定もできなかった。けれど――たしかに、それは事実だった。


 


「それ、ただの香やない。俺には、そう思えた」


 


 巾着から立ちのぼる香に目を細めながら、冬馬は続ける。


 


「一心、何も言わんかった。狐が来たことも、公介さんが消えたことも――全部、知ってるくせに」


 


「……知ってる、の?」


 


「ああ。あの人、顔には出さんけどな。狐のこと、とうに計算済みやった。……揺さぶられてることも、たぶん」


 


 言って、冬馬は志貴に目を向ける。


 


「けど、それでも動かんかった。……あえて、俺を送り出した。何も言わんと、な」


 


 志貴は、巾着を見つめたまま。


 


「……来ないんやね」


 


 志貴の唇が、熱を孕んで小さく動いた。


 声ではなく、吐息に近い呟きだった。


 それは香のなかに溶けて、もう誰の耳にも届かなかった。


 


 冬馬はふっと目を伏せる。


 


「……公介さんも、同じやった。いなくなる前、一心と何か話してた。俺の目を避けるみたいに、こっそりな」


 


「二人が?」


 


「何を話してたかは、はっきりとはわからん。でも、“知ってる顔”やった。全部、分かってて、それでも行くって顔や」


 


 言葉を選ぶように、冬馬は少しだけ間を置く。


 


「……止められへんかったんかもな。それが、あの人なりの答えやったんかもしれん」


 


 その沈黙が、すべてを物語っていた。


 


 香りに包まれる志貴の横顔を見つめながら、冬馬は思った。


 


 狐は、皆のために王を消費する。


 狼は、王のために皆を喰らう。


 


 正しいかどうかなんて、どうでもよかった。


 ただ、志貴のためには、どちらがふさわしいか――その答えだけは、とうに出ていた。


 


 一心もまた志貴と同じ、“宗像”だから。


 


 ⸻


 


 一心が狐をはじき出そうとしている理由は、まちがいなく"宗像”としての判断。


 


 狼は、宗像の王を削らない。


 だからこそ、宗像は代々、あの仮面を受け継いできた。


 


 守るための檻。それだけを選び続けた一族の、重たくて、静かな答え。


 


 冬馬は、それでも言葉にはしなかった。


 志貴がまだ知らないその真実を、自分の口で語るわけにはいかなかった。


 


 代わりに、香が伝えてくれるはずだった。


 この香こそが、“何を選び、何を捨てたか”の証なのだから。


 


 指先が、一瞬だけ躊躇った。


 


「……巾着なんか、いらんのに」


 


 志貴の指が、巾着をぎゅっと握る。


 言葉と、手の強さが、正反対だった。


 手は離せなかった。胸が、否応なくそれを求めていた。


 


 魂の奥――誰にも届かないその場所に、


 ふと、香が染みるような感覚があった。


 痛みではない。癒しでもない。


 ただ、“忘れられないもの”に触れたときの、静かな熱。


 


 悪いものではない。けれど、逃げることも、拒むこともできない。


 それが、この香の正体だった。


 


「十日後、一心が来る」


 


 冬馬の声が、優しく響く。


 


「お前のその香りが、まだ残ってるうちに」


 


 志貴は顔を上げた。わずかに目が潤んでいた。


 


「……ほんまに?」


 


 その声に、かすかに揺れるものがあった。


 


「ああ、ほんまや」


 


 その返事だけで、涙がこぼれた。


 胸の奥が、ひび割れて、そこからあふれてくるものがあった。


 


 会いたかった。


 “一心”に。


 


 ただそれだけのことが、どうしてこんなにも難しいのか。


 


 巾着を抱きしめる。


 それは、掌の中に残された唯一の“証”だった。


 


 昔、一心の袖の内に忍ばせていた香袋。


 稽古で転んで、袖口からこぼれたその香が、ほんのりと空気に滲んだ。


 


 不思議と、あれだけは、怖くなかった。


 血の匂いと混ざっていても――安心した。


 


 触れられなくても、届かなくても、ここにある。


 


 香りが胸に満ちる。


 遠く、遠くにあるはずの温度が、いまだけは、ほんの少し近く感じられた。


 


 冬馬は、それを見届けてから、そっと立ち上がった。


 


「……また、来るわ」


 


 そう告げて、障子を静かに閉じる。


 


 足音は、しなかった。


 空気さえ、彼の退場を邪魔しなかった。


 


 残されたのは、志貴と、掌の中のぬくもりだけ。


 


 静かだった。


 風の音も、廊下の軋みも、何もない。


 


 ただ去るだけの背中が、どうしてあんなにも遠いのか。


 引き止めなかったのは、冬馬じゃない。


 志貴のほうだったと、香に触れて、やっと気づく。


 


 志貴は、巾着に頬を寄せたまま、目を閉じる。


 


 まだ痛みは残っている。


 右腕も、胸の奥も、熱を孕んだままだ。


 


 けれど、いまはただ、この香に包まれていたかった。


 


 何も語られぬ想いが、胸の奥で、そっと息をしていた。


 


――それで、今はもう、十分だった。


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