第7話 香にまどふは、誰がため
宗像本家の夜は、どこか薄暗く、甘ったるい。
香炉に焚かれる香は、いつもと違う。白檀に似て、けれど微かに生臭い。
月は望へ傾いていた。月が満ちるほど、この屋敷の香は重くなる。
志貴はその差異を、舌の奥の小さな拒絶として受け取っていた。
箸を取る。
汁の表に、鉄を孕んだ赤がかすかに光る。
箸の先で豆腐を割ると、白の裂け目に微かな赤がにじんだ。
口へ運ぶ。舌の裏で、針の先ほどの鉄が跳ねた。
嚥下の手前で喉が固く閉じ、息だけが胸に溜まった。
「……だめや」
言葉より先に、体が結論を出していた。
女中たちは気づかない。
狐の望が自らの血を膳に少量混ぜているなど、誰ひとり知らない。
宗像では古来、狐の血は“薬”だった。
理を整えるため宗家が取り入れてきた。
かつて、泰介の指先から落ちた一滴が、湯の面で金にほどけたことがある。
「理は血でつなぐんや」
そう言って笑った父の横顔。
その記憶までが、今夜は薄く生臭く揺れる。
だが、志貴の理には、狐のそれは“毒”として触れた。紅の理は、望の理を拒んでいた。
箸を置くたび、胸の奥が冷たく疼く。
喉を通る香が理に反発し、身体だけが理由も知らぬまま衰えていく。
「お嬢さま、これ以上お召し上がりにならぬのですか?」
「……大丈夫。少し、胸が悪いだけ」
大丈夫――ではない。
けれど、これは病ではなく“選別”されているのだと志貴は喉の奥で理解した。
狐は、その拒絶を静かに見ていた。
――宗家の後継が自分の血を毒と断ずる。それが何よりも屈辱だった。
***
数日前、冬馬は急遽、出雲の任から戻された。
表向きの理由は「冥府側の報告整理」。
だが書状の裏に、見覚えのある筆致でひと言だけあった。
――宗家へ急ぎ戻れ。
署名はない。だが、香だけでわかる。
――一心だ。
帰路に立ち寄った冥府の関所では、公介名義の通行許可がすでに通っていた。両者とも、この異変を把握している。
冬馬は息を吐いて笑う。
「ほんま、あの人達らしいわ」
曲がり角ごとに、香の層が厚くなる。
畳が吸った夜の湿りと、衣に残る出雲の風の乾きが、歩幅のたび擦れ合う。
「あと少し」
独り言が、紙障子に吸われた。
空を見上げれば、月は満ち始めている。
望の理が満ちきる前に、志貴を護れと一心の香が告げるようだった。
宗像本邸に近づくや、鼻がきな臭さを拾う。
血のような香。それは“守護”ではなく“侵食”の匂いだった。
「……嫌な匂いやな」
そう呟いたときには、もう志貴の部屋へ向かっていた。
***
月の明るい夜、回廊を抜ける風が乾いていた。
志貴は目を閉じていた。手足に力が入らない。狐の香が体の奥に残り、理の芯が乱れている。
それでも誰にも言わなかった。言えば、狐が嬉しそうに笑う気がしていた。
ふと、窓辺に小さな包みが届く。
淡紅の布、細やかな結び。
「……こんなに、たくさん?」
食べきれないほどの桃の砂糖漬け。
誰からかは、わかってしまう。思わず、笑みがこぼれた。
「恩返しされるようなこと、してへんのに」
包みを膝に置いた瞬間――ぽたり、と音。
砂糖漬けの器に、透明な水滴のような光が落ちた。蓋の端から、細い光の尾が覗く。
「……なに、これ……」
掌ほどの小さな影が、早く開けてよと器をつつく。
淡い金の瞳、雲のような髪。指先から、火花のような光がこぼれる。
最初に顔を出したのは、蜜を指に塗っては志貴の爪へちょんと押しつける“蜜好き”。
次に現れたのは、裾へもぐって胸元で丸くなる“ぬくもり好き”。
遅れて、廊下の影から全力で走ってきて、桃の欠片を頭に載せて得意げに止まる“はこび屋”。
光の尾が、笑い声みたいに部屋の空気を震わせた。
八雷のひとり――いや、次々に。
泉の底から生まれ、志貴の香に呼応して現れた“護り子”たち。
志貴は息を呑む。
けれど――怖くはない。理の芯が静かにうなずく。
“これは敵じゃない”。
「あなたたち……なに?」
問いに、“はこび屋”がぴょこんと跳ね、蓋を持ち上げる。
掌に乗るほどの桃の欠片を取り出し、ふわりと志貴の前へ差し出して――自分でぱくり。
光がほのかに強まり、室内の空気が清らかに変わる。
「……可愛い……」
思わずこぼれた一言に、八雷たちは一斉に振り向く。
小さな尻尾のような光を揺らし、志貴の手や頬、裾へ次々と乗ってくる。
袖に潜った“ぬくもり好き”は胸のあたりで丸くなり、“蜜好き”は桃の蜜を指につけて遊んだ。
くすぐったくて、志貴は小さく笑う。
狐の血で冷えていた身体が、わずかに温まっていく。
八雷は、志貴がわずかしか口にできない桃を代わりに食み、その“香”を彼女の理へ返していた。
志貴は気づかないまま微笑む。八雷のひとつが頬を撫で、光の粒を残した。
「……ありがとう」
やわらかな志貴の声に、八雷たちは嬉しそうに頷いた。
香袋を胸にのせると、八雷がひとつ、そこへ頬を寄せた。
ほんの少しだけ、蜜の甘さが混じった紅の香がふくらむ。
志貴の呼吸が、その香の拍に合わせて浅く、ゆっくりに変わっていく。
***
障子が静かに開く。風の匂いが一瞬だけ変わる。
「――また、食べてないらしいやん」
冬馬だ。
部屋を一瞥し、目を見張る。
膝で丸まる小鬼のような光たち。桃の欠片を取り合い、まるで生き物のように笑っている。
「……なんやこれ……妖精の宴か?」
声に、八雷たちがぴたりと動きを止める。
そのうちの一体が、おそるおそる冬馬を見上げ――するりと肩に飛び乗った。
「おいおい、俺んとこ来るんか」
光はくすくすと瞬き、桃の欠片を指さす。
「……もしかして、俺にもくれんのか?」
言えば、嬉しそうに頷いて小片を押しつけてくる。冬馬は苦笑して受け取った。
「ありがとな。……けど、主が先や」
志貴へ視線を戻すと、八雷たちは言葉を解するかのように志貴の方へ戻っていった。
「……これが、“香の護り”か」
冬馬が低く呟く。
「護り……?」
首をかしげる志貴に、なんでもないとだけ返す。
卓の上の包みを見て、冬馬は微笑んだ。
「食べきれんほど、とは……さすがやな」
志貴は意味が取れず、目を瞬く。
八雷は膝の上で嬉しそうに転がり、光を散らしながら、飽かずに桃を食べていた。
「十日後、一心が来るで」
冬馬の声がやわらかく落ちる。志貴の瞳がゆっくり動いた。
「……ほんまに?」
「あの人が“来る”言うたら、来る」
志貴は香袋を取り、胸に抱きしめる。
八雷の小さな光が、その香に惹かれて寄り添った。狐の毒が薄れていくのを、冬馬は確かに感じ取る。
「楽しみにしとき」
極度の緊張がほどけたのか、志貴はまどろみはじめた。
光と香に包まれた彼女が目を閉じるのを見届け、冬馬は八雷たちを撫でる。
「ありがとうな。あんたらのおかげや」
八雷たちは冬馬にじゃれて、にこりと笑った。
***
障子の外、闇に溶けた香の奥で、望が立っていた。
雲間がほどけ、廊の白木に月の輪が落ちる。望は一歩だけ輪から外れ、光を踏まない。
「満ち行くうちは、こちらの番だ」
低く笑うと、影が影を呼んで延びた。
「……私を毒扱いとはね」
唇がゆっくり歪む。
「宗像の王たちは代々、私の血で延命してきた。それを拒むとは――“後継殿”はずいぶん傲慢だな」
室内から流れ出る紅の香が、狐の香を押し返していく。
望は目を細めた。
「満ちる月は誰のために照ると思う? 宗像の王のためだよ。でもそれを拒めば――月は、価値なき者を焼く」
風が、望の衣を揺らす。
月光の輪の中で、彼の影だけが揺らめいた。
「次は、嫌でも喰らわねばならぬほどの敵でも置いてやろうか。――朔の夜に、それが護れるかどうか」
言葉を夜が飲み込む。望の姿は闇にほどけて消えた。
***
志貴の寝息は穏やかだった。
桃の香と八雷の灯。
冬馬の残した言葉が、胸の奥で静かに溶ける。
夜の底で香がゆるやかに交わる。
紅が毒を赦し、毒が紅を試す。
その理のあわいで、志貴はほんの少しだけ、確かなぬくもりを取り戻していた。




