第66話 うつせみの 名を欺きて 瑠璃は来る(後編)
宗像の中庭へ踏み込んだ瞬間、明熾は足を止めた。
喉元の瑠璃は、もう見えていた。黒の宮で春が持ち出した首飾りと、同じものだった。見間違えようがない。暗がりの奥で見たときよりも、月の下のほうがなお悪い。小さな勾玉が、白い喉のくぼみに触れる位置まで、ひどく正確だった。
問題は、その瑠璃を喉元に掛けて立っているものだった。
人の形をしている。衣の合わせも、細い首も、痩せて長い指先も整っている。顔立ちはまだどこか曖昧なのに、寒気がするほど特定の人物を思わせた。白砂を踏む足の重みがなく、月の下へ影だけを降ろしたように立っていた。
目が合った瞬間、違和がさらに深くなる。こちらを見ているはずなのに、いま初めて捉えた気配がない。視線だけが、正しい位置へあらかじめ置かれているようだった。
香もそうだった。志貴に通じる香で、筋は違わない。だが、鼻へ入ってきた瞬間に身体が拒んだ。
志貴の香は、冷えていても息を詰まらせない。胸の奥へ落ちてきても、どこかに逃げ場を残す。目の前のそれは、似た香をまとっているはずなのに、吸うほど喉の奥が乾いた。懐かしさより先に、近づくなと身体が言う。同じ香であること自体が、かえって気味が悪かった。
冬馬が半歩後ろで止まっているのが気配で分かった。だが、黒の宮で首飾りの紐に残った古い染みを見たときと同じ種類の嫌な緊張が、まだ身体のどこかに居座っていた。
耀冥は動かない。志貴を抱いたまま、ただ静かに立っている。だが、立ったままだからこそ分かる変化がある。視線が場全体ではなく、一点へ縫い留められていた。喉元の瑠璃から外れない。
明熾はそこで、盤が最悪の順番で閉じようとしているのを知った。
ただの遺品を見る目ではなかった。
白砂の上の影は、まだ定まりきっていない。似ていると言い切るには輪郭が足りず、違うと言い切るには細部が揃いすぎている。喉元の瑠璃だけが本物で、それが、足りない形へ重みを与えていた。
志貴と見紛うように、必要なところだけが過不足なく揃えられている。そのことが、明熾にはどうしようもなく気に入らなかった。
月が雲から抜ける。瑠璃の青が、ほんの一度だけ深く濃く見えた。
そのとき、耀冥の抱く腕がわずかに硬くなった。
肩も揺れない。顔色も変わらない。ただ、志貴を抱く腕だけが、守るための強さとは別の緊張を帯びる。足も、踏み出してはいないのに、踏み出す寸前の張りを持つ。
兄の中で、「希詠」の名が起きたのだと、明熾にはそれで分かった。
目の前の輪郭が、そこで形を定めた。
白かった喉の線が、ただの線ではなくその人の首筋になる。顔の角度が定まり、曖昧だった輪郭が記憶の中のひとつへ寄る。指先の曲がり方が整い、髪の落ちる位置が揃う。襟元の見え方まで、記憶に従ってぴたりと収まる。
その変わり方は、目の前で整っていくというより、足りなかったものへ内側からぴたりと嵌まる感じに近かった。誰かが外から形を足したのではない。すでにあった輪郭へ、最後の一片だけが戻ってきたのだと分かる。静かなのに、ひどく気味が悪かった。
あれは希詠そのものではない。だが、耀冥が起こした名に触れた途端、目の前のそれは、兄の記憶の中にある希詠の形へ寄った。
そして、その負荷は耀冥ではなく、先に志貴へ出た。
腕の中の志貴の呼吸が、ほんの一拍だけ乱れる。深く眠っている者の身じろぎとは違う。胸の上下が合わず、抱かれた重みが一度だけ遠のく。次いで、首筋の痣が、月の下で一段濃く見えた。皮膚の上ではない。もっと奥で、痣そのものが締まるようだった。
志貴は目を覚まさない。ただ、眉がかすかに寄る。喉が浅く上下し、息が細くなる。
明熾の喉が、そこでようやくひとつ強ばった。
志貴の首筋に浮いた痣の色は、月の下で見るには濃すぎた。呼吸の乱れも、ただ苦しんでいる者のものではない。
明熾は奥歯を噛む。
兄が揺らぐだけなら、まだ外へ向いた盤で済む。だがこれは違う。志貴には希詠としての記憶も、還りの形跡もない。魂だけが確かにここにある。だからこそ、その空白へ、魂のない記憶が入り込もうとしている。
影が志貴のほうへ顔を向けた。その動きだけで、狙いがどこにあるかは分かった。
月の光が唇の縁だけを白く拾っているのに、そこに生きた血の気が見えない。逢いに来た者のためらいではなく、記録の続きをそのまま読んでいるような口元だった。
庭に残る結界の鳴りを割るでもなく、声はすべるように落ちた。
「足りない」
耳に馴染むはずの声だった。だが、熱がない。生きた喉を通ったのではなく、正しい順に並べられた音だけが落ちてくる。
志貴の喉が、浅くひとつ詰まった。
「このままでは、還れない」
首筋の痣のあたりが、もう一段きつく締まったのが見えた。髪に落ちていた志貴の香の輪郭が、一瞬だけ薄くなる。消えたのではない。いまここにある匂いの上へ、別の記憶が重なりかけた。
「返して」
その言葉に合わせて、志貴の指先がわずかに震えた。黒衣を掴んでいた力が、ほんの一瞬だけ緩む。
明熾の背がひやりと冷えた。このまま押し切られれば、痛むだけでは済まない。志貴の中にないものが、残る。
次の瞬間、細い指が縋るように耀冥の胸元を掴み直した。
苦しさの中で何かを探るように、黒衣を寄せる。強くはない。爪を立てるほどでもない。だが、離れない。その小さな力で十分だった。耀冥が唇を強く噛んだのが、抱く腕の張りの変わり方で伝わった。
そこで明熾は待たなかった。
白砂を蹴る。乾いた粒が足裏にひとつ噛む。考えるより先に身体が出ていた。兄と影のあいだへ、志貴へ伸びるものを断つ位置へ、斜めに身を差し込む。衣の裾が浅く鳴る。刃のためではない。兄の前へ入る、その一点だけを狙った踏み込みだった。
春が目を細めたのと、赫夜の気配が横から差したのは、ほとんど同時だった。
ただ、そのどちらよりも明熾の踏み込みがわずかに早い。
「馬鹿たれっ」
赫夜の声が裂けた瞬間、耀冥の黒が返った。偽りの輪郭へ向いていたそれが、兄の前へ割って入った明熾へ流れた。本来なら胸を裂いていたはずの筋を、赫夜が横から差し入れた理がかろうじて逸らした。逸れきらなかった黒は肩口をかすめ、そのまま腕へ走った。肉を裂く痛みより先に、骨の内側へ深い冷えが噛みつく。
息が詰まる。肩口から腕にかけて、肉だけでなく名の結び目まで薄く削られたような痛みが走った。
その瞬間、冬馬が動いた。足が先に白砂を噛んでいた。半歩ぶん荒く踏み込んだ音が乾いて鳴り、押し殺した息が喉の奥で詰まる。
「動くな、冬馬」
耀冥もまた、そこで初めて明熾を見た。返った黒が明熾を裂いたと知った瞬間、志貴を抱く腕が深く締まる。踏み出しかけた足が、白砂の上でかろうじて止まった。
視線が一瞬だけ明熾の傷へ落ち、すぐに戻る。
その硬くなり方だけで十分だった。兄にそのつもりがなかったことだけは、明熾にも分かった。
明熾は膝をつかない。傷口を押さえもしない。
「あんなもの、希詠じゃない」
声を落とした瞬間、自分の傷口より先に、冬馬の気配がさらに前へ出るのが分かった。止まっているつもりでいるのは冬馬だけだ。明熾が言葉で割らなければ、次は理屈抜きで飛び込む。そうなる前に切らねばならない。
「あなたが思い出した形を、あれが着ているだけだ。中にあるのは魂じゃない。記憶だけを抱えて立っている」
影の輪郭に、薄くひびが入る。
「希詠なら、こんな風にあなたの前へ現れるはずがない」
一拍置いて、明熾は低く足した。
「少なくとも、俺はそう思います」
志貴の呼吸が一拍だけ持ち直す。完全ではない。それでも、さっきまで希詠に似せた声だけで押し切られかけていた場の傾きが、わずかに戻るのが分かった。
赫夜はそこでようやく手を引く。致命をずらすために差し入れていた理を静かに収め、残ったのは明熾の肩の傷だけになる。
赫夜の視線が一度だけ明熾へ落ちる。傷の深さを見る目ではない。春の狙いも、そこへ飛び込んだ明熾の速さも、まとめて面倒がっているような冷えた目だった。そこまでして兄の前へ入るのかという呆れが、言葉にならないまま視線の温度だけで残る。
冬馬は、もう止まれていなかった。
明熾が傷を受けたと知った瞬間、冬馬の肩がわずかに前へ落ちた。制しようとするより先に、明熾を庇う身体の方が動いていた。白砂を踏む音が、それを明熾へ伝えた。
冬馬は明熾を後ろへ庇うように立ち、志貴を抱く耀冥の方へ噛みつくように一歩だけ出た。
「何してんねん」
怒鳴らない。だが、抑えているからこそ危うい声だった。明熾が黒を受け、志貴の呼吸まで奪われかけて、なお静かに立っていられるほど冬馬の身体は鈍くない。
「志貴がおるやろ」
それだけで十分だった。
冬馬は目の前にいる悪夢を論じない。ただ、いまここにいる志貴を場へ置く。腕の中にある生身の重みを、誰よりも乱暴なくらいまっすぐ指す。そこにいるのは過去ではなく、いま苦しんでいる志貴だと、耀冥へ突きつけるような声だった。
影の視線が、初めて冬馬へ向く。そこに乗っているのも、記録の正しさだけだ。生きている者の迷いも、揺れもない。そのことがかえって、冬馬の顔を険しくさせる。
志貴の指は、まだ耀冥の胸元を掴んでいた。
耀冥の腕の位置がわずかに変わる。抱き直したと言うほど大きくはない。だが、揺れていた腕が、いまここにいる志貴を守るための位置へ戻る。戻り方は静かだったが、焦りまで消えたわけではない。志貴の呼吸と、明熾の肩から流れる血と、その両方を同時に抱え込んだまま、足場だけを無理やり取り直したような張りが残っていた。
目の前の姿を見ていた眼差しが、その奥へ向いた。偽希詠そのものではなく、それを立たせているもの、その輪郭を支えている記録の底、そのさらに後ろにいるものへ届く冷えた見方だった。
「希詠を使うな」
声は低い。怒鳴らない。その静かさのほうが重い。
黒が立つ。
爆ぜるようには広がらない。志貴を抱いたままの耀冥から、音もなく起こった黒が、偽希詠の輪郭を通り越して、その姿を希詠たらしめている記録の底へ沈んでいく。
その瞬間、影が初めて大きく軋む。
喉元の瑠璃だけが本物として残り、その周囲へ着せられていた“希詠らしさ”が皮一枚ずつ剥がれる。閉じきっていた顔の線が遅れ、指先の形がずれ、髪の落ち方が記憶どおりではなくなる。偽希詠そのものを壊したのではない。その姿を支えていた記録のほうへ、黒が触れたのだと明熾には分かる。
春の笑みが、そこで初めて消えた。
Veilmakerの気配も、記録の底で一歩退く。愉しんでいた側が、初めて本気で警戒した退き方だった。
それでも、あれはここで終わる気配ではなかった。崩れた輪郭の奥で、まだ何かが引いていく。明熾は背筋の冷えだけで、それを知った。
耀冥はもう、目の前の姿を見ていない。過去を使ったものへ怒りを定めている。その横顔を見て、明熾はようやく息を継ぐ。
腕の中の志貴の呼吸が、かすかに整う。白砂の上を渡っていた緊張が、そこで初めてひと息ぶんだけ緩む。
月は高く、石灯籠の火も揺れていない。崩れた輪郭は白砂の上から静かに遠のき、喉元の瑠璃だけが、もう一度鈍く青を返す。




