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第65話 うつせみの 名を欺きて 瑠璃は来る(前編)

黒の宮は、灯の色まで冷えていた。


炎そのものは揺れているのに、照らし出される石も、壁に沿って積まれた箱も、光を受けて温む気配がない。長いあいだ閉ざされていた部屋の匂いとも違う。湿りはなく、埃も積もっていない。ただ、時が抜け落ち、その形だけが残っているような静けさがあった。


床に敷かれた黒い石は磨かれていたが、踏むたびに足裏へ返るのは艶ではなく、乾いた冷えだった。


書架の列は整い、封の札も乱れていない。名入れの書があるならこの先だと、明熾は踏んでいた。空茫の図面に記されていた配置と、実際の構えに齟齬はない。だからこそ、奥の一角へ真っ直ぐ歩いていく細い背を見た瞬間、胸の内側で収まりの悪い音がした。


そこにいたのは、春だった。


外套の色は暗がりの中でも沈まない。血を乾かしたような深い緋が、黒の宮の冷えと噛み合わず、異物として立っている。四天王の理は確かにそこにあった。春の座にある者の輪郭も、力の癖も間違えようがない。


四天王どうしで向き合ったときの返りは、たしかにあった。座がぶつかり、決着を拒む、あの息の詰まる感触はある。


だが、その奥にあるはずのものだけが返ってこない。耀冥に連なる者へ触れたとき、骨のどこかで先に知る黒の縛りが、春にはなかった。切れたのではない。最初からそこだけ抜かれているような、不自然な空白だった。


赫夜なら、このずれの正体を、もっと速く、もっと正確に言葉にしただろう。


明熾は唇の内側を噛んだ。だが、いまここに赫夜はいない。読むのも、止めるのも、自分しかいなかった。


冬馬が半歩遅れて立ち止まる。呼吸は浅くない。足運びも崩れていないが、再構成を終えたばかりの名は静かすぎた。宗像側へ引かれるでもなく、冥府へ沈むでもなく、余計な抵抗だけが削ぎ落とされたように整っている。その均され方が、いまだに明熾の不安を静かに煽る。


春は振り返らなかった。明熾たちが来ることも、そこで足を止めることも折り込み済みで、黒塗りの箱へ指を伸ばしていた。


ここは、名入れの書が収められている区画ではない。王の記録でも、官の禁書でもなく、個に属する封の置かれる場所。明熾の指先に冷たい汗がにじんだ。


「明熾」


冬馬が低く呼ぶ。意味を問う声ではなく、何かがまずいと察した時の声だった。


返すより早く、春の白い指が箱の蓋を開く。中から現れたのは、紙でも冊子でもなかった。暗い色に沈んだ紐の先、小さな瑠璃の勾玉が灯を受けて鈍く青を返した。


その瞬間、明熾の中で優先順位が反転した。


兄が黒の宮の奥へ隠したものだと、頭より先に身体が知っていた。捨てることも壊すこともできず、目の届かぬところへ押し込めたのだと分かった。


あれを兄の前へ持ち出させるわけにはいかない。


明熾は春の手から首飾りを奪い返そうと踏み込んだ。


その一手で、春の目が初めて明熾を見た。


そこで読まれたのだと、明熾は次の瞬間に知った。あれが本物かどうか、自分の踏み込みで教えてしまったのだ。


「やはり」


春の声は低く、柔らかかった。嘲りではない。ただ、確認が済んだ者の静けさだけが、黒の宮の冷たい空気へ細く落ちた。


明熾の手は首飾りに届く寸前で滑った。滑らされたというより、四天王の理そのものに腕を逸らされたような不快な感触だった。


「それを持って行くな」


明熾の声は低く落ちた。


「貴方がそこまで焦るなら、なおさら手放すものですか」


明熾は次の一手で進路を断った。春そのものへ刃を向けても意味は薄い。通り道だけを切る。黒の宮の柱と書架の間、灯が届かず陰の沈む狭い導線へ身を差し込み、春の前へ立つ。


春は止まらない。外套がわずかに翻り、その細い体から信じがたいほど無駄のない力が滑り出る。真正面から押し返すのではなく、明熾が切った線の際だけをなぞり、決着不能の縁を使って抜けようとする。黒の手綱を切られたまま、勝ち筋だけを残した獣の動きだった。


冬馬が横から踏み込む。考えて動いたのではないと、明熾には分かった。首飾りから滲んだ古い匂いに、無意識に反応したのだ。夏の冠の熱が押し出され、春の流しをわずかに乱す。


春は首飾りを守るように手首を返した。紐の端が揺れ、繊維の奥に沈んだ古い染みが灯の下でわずかに色を返す。


「何や、それ……」


冬馬の顔色の変わり方だけで十分だった。あれが志貴に無関係ではないと、身体の方で掴んだのだと知れた。


春は冬馬の変化まで見逃さず、目を細めた。


「宗像の子にまでそれと知れるとは。やはり本物でしたか」


「迦謡」


背後から、乾いた笑いを含んだ声が落ちた。


黒の宮の入口近く、影の縁に凭れるようにして迅羽が立っていた。相変わらず人を食った顔で笑っているのに、眼の奥だけが少しも緩んでいない。


「いよいよ古傷ほじくり返しやがるか」


春は迅羽を見もしない。古参どうしにしか通じない名が、黒の宮の冷えた石へ落ちる。明熾はその一瞬で、足場がさらに悪くなったことを知った。


「知っているのか」


明熾が背後へ視線を向けると、迅羽は軽く肩をすくめた。


迅羽が迦謡と呼んだ。明熾の知らない、もっと古い盤の名だった。それだけで足りた。目の前にいるのが、ただの《春》ではないと知れた。


「残念なお知らせがもう一つだ。現世も派手にやられてる。人が減ってるのに、誰も減ったとわからねぇ。席が空いても、最初からそこに誰もいなかった顔で呑んでやがる。二次的に冥府も荒れるってことだ。最悪だぜ、皇子様」


明熾は次の一手を即座に決め直した。


春に首飾りを持ち出させるわけにはいかない。だが名入れの書まで捨てれば先が細る。冬馬の名も、どこで均衡が崩れるか読めない。現世の乱調まで押し寄せてきたならなどと考えたくもない。ひとつでも手が足りないのに、それが一度に重なった。


迦謡は、もうこの場で打ち合う気がないと分かる動きで半歩退いた。決着がつかないことまで含めて、目的物だけを持ち出す構えだった。


明熾は短く言った。


「春は逃がせない。迅羽、お前は名入れの書を探せ。あとは、いつも通りだ」


「はいはい。面倒ごとは分けた方が賢明ってヤツだな」


軽く返しながらも、迅羽の目は書架の奥へ向いている。


場の切り分けはできた。だが、それ自体が春の狙いの中にある気がして、明熾は奥歯を噛み締めた。


迦謡が動いた。明熾は追い、冬馬が続く。背後で黒の宮の静けさが閉じていく。暗がりの中でも、首飾りの瑠璃だけは消えなかった。




***




宗像の中庭から、結界の鳴りはまだ消えていなかった。


月は高く、白砂は静かに光を返している。だが、その明るさは安堵を与えない。


石灯籠の火は整い、松の影も乱れていないのに、庭全体が薄い膜の向こうへずれたような違和感だけが残っていた。奥殿へ続く渡り廊下には夜露が下り、板の黒みが一段濃い。風は不気味なほど止んでいた。それでも、公介には場の空気が何かを待っているように思えた。


耀冥は志貴を抱いたまま立っている。白銀の髪が月の光を鈍く受け、黒衣の肩口に志貴の眠る顔が埋まっている。その寝顔が深く安らいでいることが、かえって公介の胸を冷たくした。


宗像の外では、現世の報せがおかしくなり始めている。姿を消す者の数は増えているのに、騒ぎが大きくならない。昨日まで確かにいたはずの名が報せの紙から抜け落ちているのに、読んだ者は誰ひとり眉をひそめない。欠けたはずの席に、最初から誰も座っていなかったような会話ばかりが残る。数だけを拾えば異常だ。だが、その異常を異常として皆が掴めない。紙に残る筆跡だけが、その欠けた名の分だけ妙に新しかった。


結界の綻びが現世へ滲んでいるのか。Veilmakerの手が表まで出ているのか。公介にはまだ断じきれなかった。目の前の庭を見つめたまま、結論だけが出なかった。


そのとき、いままでの鳴りとは違う音が混じった。


結界を削るときの、押し潰すような軋みではない。紙でも木でもないのに、何か薄いものどうしが擦れるような、乾いた音。終わったはずの記録の端が、無理にめくられようとする時のような不快な音だった。


公介は息を止めた。


赫夜も気づいていた。月の光の下で、ほんのわずかに視線が動いた。咲貴はまだ、何が来るかまでは読めていない。ただ、肌の上に嫌な冷えが走ったのか、火を持つ側の身構えが自然に立った。


耀冥だけは、誰より先にその異音を捉えていた。公介にはそれが分かった。


顔色が変わるわけではない。だが、抱いた腕の据わりが、見逃せないほど微かに張った。志貴を抱く手の位置が、守るものへ先に寄る。


公介はそこで初めて、来るものがただの敵ではないのだと悟った。


白砂の上に、影が落ちた。


結界の裂け目から滲み出るのとも違う。もともとそこに何かが眠っていて、輪郭だけがゆっくり浮き上がってくるような現れ方だった。


人の形をしている。だが、まだ顔はよく見えない。月光の当たり方だけが妙に白く、庭の明るさに馴染まずに立っている。


公介の視線が、その喉元へ引かれた。


細い紐の先に、小さな瑠璃の勾玉がひとつ、落ちている。


その青は、夜の底から汲んだ色のように暗く、なのに目を離させなかった。見覚えがあるかと問われれば、公介は即座に答えられない。けれど、あれがただの飾りではないことだけは、理屈より先に分かる。


その瞬間、耀冥の気配が変わった。


ほんのわずかだった。抱いている志貴の重みが変わったわけではない。姿勢も崩れてはいない。


けれど、公介には見えた。


耀冥の腕に入る力の質が、ごく浅く変わる。守るために据わったはずの腕が、もっと古い何かを前にして、一瞬だけ別の緊張へ触れかけた。


その違和の中へ、背後から足音が雪崩れ込む。


渡り廊下の影を裂いて、二つの人影が庭へ入った。先に踏み込んだのは明熾。すぐ後ろに冬馬。二人とも息を乱してはいないが、走ってきたのではなく、ここまで切り詰めて、追ってきた顔だった。


公介が振り返るより早く、明熾の視線が白砂の上の影を射抜く。冬馬も同じものを見た。二人が追ってきたものと、いま目の前に立ち上がっているものが、ここで繋がったのだと、公介にも分かった。


月の光が、喉元の瑠璃をもう一度だけ鈍く照らした。その青に、耀冥の視線がごく浅く止まった。

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