第64話 春待たで 黒は抱きゆく 灯の内を
結界の鳴りは、まだ止んでいなかった。
空は晴れているのに、庭へ落ちる月の光は薄く濁っていた。白砂の上には松の影が短く沈み、石灯籠の縁だけが冷えた銀を宿している。奥殿へ続く渡り廊下の板は夜露を吸って黒みを増し、柱の朱は灯に照らされるたび、乾いた血のような色を返した。
中庭の空気は静かすぎた。虫の音も枝擦れの音もあるのに、そのどれもが一枚薄い膜の向こうで鳴っているようで、宗像の内側だけが別の夜へ沈み込んでいた。息を吐けば白くなるはずの冷えなのに、喉の奥には熱を呑み込んだあとのような乾きが残る。
奥井戸の水は月を映さず、底の石だけが青白く沈んでいた。その青が、結界の鳴りに合わせるようにごくわずか揺れた。
耳に届く音ではない。だが公介には分かる。石畳の下を這う理が、どこかでひと筋ずつ削られている。夜気は冷えているのに、庭木の葉先だけがわずかに粟立ち、奥井戸の水面は風もないまま細かく震えていた。宗像の内と外とを分ける縫い目が、見えぬ爪で撫でられ続けている。
中庭の向こうでは、火が走っていた。
咲貴の火だ。紅とも蒼ともつかぬ、いまの咲貴にしか出せぬ色が、薄く夜を裂いている。咲貴が払ったはずの箇所へ、次の影は間を置かず噛みついていた。
そのさらに外、灯の届かぬところで、赫夜の気配が断続的に沈んでは現れた。赫夜を公介も知らぬわけではない。冥府の奥に座し、軽々しく口にできぬ名だ。だからこそ、こうして前へ出る姿を見るのは初めてだった。
影を裂くのでなく、綻びそのものへ指を入れて潰す。あのやり方が、公介のよく知る男にひどく似ている。
宗像との古い約定に従い、耀冥が一心としてこの家に在ることを、公介は知っている。
兄弟だから似る、では済まない。赫夜もまた、黒の不在を埋める側に立つのだと、その時ようやく腑に落ちた。
もちろん、赫夜が宗像のためにここにいるはずもない。
ならば、赫夜をここまで前へ出させている相手が、外にいるということだ。Veilmakerに連なるものでもなければ、こうはならない。
乱れ切ったこの場で、咲貴だけが宗像の側に立っていた。
公介は中庭の中央に立ち、奥殿の方を見る。
白い灯が、細く、長く息をしていた。
百日のために重ねた層はまだ生きているが、昨夜までとは違う。守りがそこにあることと、それが同じ意味を保っていることとは別だ。
今夜の静域は、壊れてはいない代わりに、どこか別のものへ組み替えられた気配を帯びていた。
帳の向こうにあった香が、ふいにひと段、深くなる。
次の瞬間、灯の内から人影が現れた。
公介は息を止めた。
先に見えたのは腕の中の白い顔だった。志貴は瞼を閉じたまま、頬の力が抜けている。苦しんでいる顔ではない。熱に浮かされてもいない。肩口へ額を預けるようにして、浅くもなく、乱れもない呼吸で眠っている。
それを抱いている男を見た時、公介の背に、昨夜とは別の冷えが走った。
一心の顔をしている。眼帯をしているが、黒い衣はそのままだ。けれど立ち姿が違う。肩へ落ちる白銀の髪が夜気にわずかに揺れただけで、場の灯がひと息遅れたように見えた。覇気を放っているわけではない。ただ、そこにいるだけで、王だと分かる。
宗像の内側へ体重を預けぬまま、静かに立っている。敵意を露わにしているわけでもないのに、周囲の気配が勝手に退いていく。見えている片眼の色は、夜を深く溶かしたような瑠璃で、美しいと思うより先に、底のなさだけが伝わった。宗像の石も、灯も、結界も、この男を自分の内へ数えることをためらっていた。
そして公介は、喉元に目を止めた。
衣の合わせからのぞく首筋に、淡い光を含んだ紋が浮いている。傷ではない。穢れでもない。熱を持つでもなく、ただ消えずに在るその形を、公介は見間違えようがなかった。
番の証だ。
番の魂、あるいは真名に触れた時にのみ刻まれる確定印。名の通り道であり、命の急所であり、番の鎖。その紋が、はっきりと首筋にある。
それだけでは終わらなかった。腕の中の志貴は、その証を刻んだ相手に甘えるように身を預け、何の疑いもなく眠っていた。
公介の喉が詰まる。あれほどのものに身を預けてなお、志貴は怯えない。そこだけが、己の眠るべき場所であるかのようだった。
咲貴の火が、中庭の端でひとつ跳ねる。姉を見つけたのだろう。だが駆け寄るより先に、外縁の影が膨れた。
外縁の結界へ貼りついていた影は、ただの悪鬼ではなかった。形を持たぬまま、縫い目の薄い箇所だけを探り当て、そこへ細い嘴のような先端を差し込んでくる。押し破るのでなく、綻びだけを広げるやり口だった。
咲貴が火を走らせる。紅に寄りきらぬ焔が石畳を舐め、最前の影を払う。だが払われた端から、後ろの影が形を変える。獣の脚のようだった輪郭が、今度は細長い腕へ崩れ、裂け目へ指を入れようと伸びた。
ただの悪鬼の寄せではない、と公介は察した。崩れ方に統一がありすぎる。散らばるはずの影が、ひとつの癖へ従って形を変える。
その奥にいるものは、耀冥が置いた四天王の型と噛み合わない。外套に残る色だけが、それを秋だと告げていた。
赫夜は別角度から踏み込んでいた。影の濃い箇所へ手を差し入れるようにして、侵入口そのものを潰していく。ひとつ沈めるたび、夜気がひやりと痩せた。
だが、消したはずの箇所へ別の揺らぎが生まれる。影が湧いているのではない。もっと奥から、同じ綻びを別の指がなぞっている。赫夜が噛んでいるのは残り滓ではなく、その向こうで糸を引く側だと、公介にも分かった。
咲貴の火と赫夜の動きは、同じ場にありながら、向いている敵も立っている理由も違って見えた。
結界の内と外、宗像の王と冥府の影。そのどちらにも従わぬ残り滓だけが、執拗に志貴の眠る方角を探っていた。
公介も前へ出かけ、そこで止まる。
志貴を抱いた男は、こちらを見なかった。
視線は下へ落ちている。腕の中の志貴ではなく、志貴の眠りを乱すものがどこから来るか、それだけを測っているのだと、公介は読んだ。
その瞬間、外縁の影が沈んだ。
這い寄っていた輪郭だけではない。綻びを探っていた癖そのものが、ふいに途切れる。咲貴へ噛みついていた秋の手も、赫夜が噛んでいた向こう側の指も、同時に足場を失ったようだった。
咲貴の足が止まる。
赫夜が、珍しく何も言わずに目を細めた。
公介は、喉の奥に苦いものが込み上げるのを呑み込んだ。
助かったのでも、宗像が守られたのでもなかった。志貴へ届くものだけが、消されたのだ。
男はなお、志貴を抱いたまま一歩、中庭へ出る。志貴の身体は軽いはずなのに、その一歩ごとに場の重心がそちらへ引かれた。白い灯の内側に留まっていたはずの静けさが、志貴ごと運び出されるようで、公介は無意識に歯を食いしばる。
外縁ではまだ咲貴の火が走り、赫夜の影が綻びを噛んでいる。結界の鳴りも止まっていない。宗像が今なお、崩れかけた盤の上にある。
それでも男は足を速めなかった。乱れを鎮めようとも、急いで片づけようともせず、ただ志貴を抱いたまま中庭へ降りてくる。周囲がどれほど切迫していようと、自分が抱えているものより先に扱う気はないのだと、その歩みだけで分かった。
赫夜は、外縁に残った気配を片づけながらこちらを振り向いた。
最後の影を沈める動きに、わずかな遅れがあった。それは、ただの見誤りではなかった。兄が出てきたと知った途端、戦いの重心が外敵から中央へ移ったのだと、公介にも分かった。
赫夜の口元には、笑いとも呆れともつかぬ歪みが浮かんでいた。安堵だけではない。ようやく盤を返せる緩みが、そこにはあった。
「遅い」
赫夜は言い、半歩退く。その仕草だけで、公介には分かった。ここから先、赫夜は前に出る側ではない。兄が前へ出た盤で、自分の立ち位置を引き直したのだ。
「……まずい」
一心でいてくれたなら、まだ宗像の理屈で引き留められた。志貴が宗像にいる限り、この男もまた宗像の内側に立つほかなかった。そう信じたかった。だが、おそらくもう違う。志貴がその腕の中であれほど安らいでいる以上、宗像は楔にならない。
宗像を支えていたのは、約定でも、血でも、当主の采配でもなかった。ただ一人へ届くための執着だけだったのだと、公介はようやく腹の底で理解した。
その執着が、今、あの腕の中に在る。ならば、この家を支える理由は、もうどこにも見当たらなかった。
中庭の石の上で、公介はそっと息を吸った。肺へ入った夜気がひどく薄い。
咲貴はすでに、王の火を手にして宗像の前へ立っている。姉の代わりを引き受けられる位置に、もういる。
それが何を意味するか、公介には痛いほど分かった。
咲貴が王として据わるほど、志貴は宗像に留まる必要を失う。その盤を最初から見ていた者がいるのだとしたら、これほど悪い冴え方はない。
男はなお、何も言わない。
志貴の額へ落ちかかる髪を、指の背で一度だけ払った。指先はそのまま頬の脇をすべり、首と肩の境で止まる。
そこにも紋があった。髪の影と衣の合わせに半ば隠れながら、鎖骨へ落ちる手前に淡く咲くような光。耀冥の首筋にあるものと寸分違わぬ、番の証だった。
耀冥はその形をなぞるように、そっと指を這わせた。確かめるというより、最初から知っていたものへ触れるようだった。
次いで、口づけるほどの近さまで顔を寄せる。だが、唇は落とさない。首と肩の境に灯る光へ、ごく浅く息だけを触れさせる。
それでも志貴は目を覚まさなかった。拒みもせず、甘えるように喉をゆるめ、いっそう深くその腕へ身を預ける。
公介の背を、冷たいものが這った。あれほどの王の証を前にしてなお、志貴は眠りを深くする。耀冥そのものより、その受け入れ方の方が恐ろしかった。
だが、目を逸らしたところで盤は止まらない。
公介はようやく口を開いた。喉が乾いており、夜気を吸っても肺の内側ばかりが冷えた。
「まだや」
男は顔を上げない。志貴の重みを量るように抱いたまま、指先ひとつ動かさなかった。その無反応が、公介には却って堪えた。聞き流したのではない。最初から、宗像の都合を返す気がない沈黙だった。
公介は半歩だけ前へ出る。これ以上詰めれば、咲貴が動く。赫夜も止めぬだろう。分かっていて、それでも退けなかった。
「約束の春には、まだ早い」
そこで初めて、男の視線が上がる。
一心なら、ここで宗像を見る目をした。家の内側へ立つ者の、抑えた苛立ちと義理があった。だが今、公介へ向けられた眼差しには、そのどちらもなかった。
宗像当主としてではなく、志貴へ届くまでの間に立つものとして見られている。
公介は足裏に力を込めた。石は冷えているはずなのに、立つ場所だけが頼りない。背に嫌な汗が伝う。この男は、宗像を量っている。
宗像は今、敵を前にしているのではない。
志貴を得たことで、この家に留まる理由を失いつつあるものを前にしている。
その事実が、どんな刃より深く、公介の胸へ沈んだ。




