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第63話 うつし世に なお君を識る 灯のもとに


白い灯は、昨夜と同じ位置にあるはずなのに、明るさの届き方だけが違っていた。


一心は帳の外に座したまま、指先を膝に置いていた。畳の目は乾いている。灯の熱も、風の入りも変わらない。八雷の気配も、薄布の向こうで静かに沈んでいる。それでも、静域そのものがひと晩で別の器に入れ替わったように、細部の噛み合いだけがわずかにずれていた。


帳の内には志貴がいる。


もう、覚醒へ向かう途中の眠りではない。


眠りの底へ沈んだ重さはあるが、昨夜のような危うい揺らぎはなかった。香も落ち着いている。紅の熱は皮膚の下で静まり、時折、ごく細く灯り直すだけだ。


志貴が休めているなら、それでよかったはずだった。


一心はそっと息を吐き、薄布へ視線を落とした。以前なら、これで足りた。帳の向こうの呼吸を拾い、律を合わせ、香の流れの乱れを先回りして均せば、朝までは凌げた。志貴が眠っているあいだだけは、何も起こさせずに済んだ。


だが今夜は、それがうまく噛み合わない。


合わせたはずの呼吸が、ほんのわずか遅れる。遅れを埋めようとすると、今度は近づきすぎる。志貴の香を拾おうとすれば、表面をなぞる前に深いところまで沈み込み、必要のない熱まで抱え込んでしまう。右目だけの熱では収まらなかった。目を閉じていても、背骨の芯から重さが立ち上がってくる。


気づかれぬよう、指先に力を入れる。


何もかも落ち着いているのに、自分だけが落ち着かない。


昨夜までなら、一心の手つきで届いた。志貴を怯えさせぬよう、余計な色も、余計な深さも、見せずに済むところで止めてきた。手を伸ばす速さも、声の落とし方も、視線の伏せ方も、全部そのために覚えた。近くにいる時ほど、近づきすぎぬようにしてきたのに、今夜はそれが一つとして噛み合わない。


志貴の眠りは静かなのに、それに触れようとするたび、別の黒が底から浮き上がってくる。喉の奥に冷えた鉄の味が残った。舌先で押し殺しても、消えない。


帳の内で、志貴の指先がわずかに動いた。


一心は顔を上げる。


薄布の向こう、髪の影がかすかに揺れただけだった。寝返りとも呼べぬほど小さな動きだったのに、胸の内が不意に強く引かれた。昨夜、右目へ返された熱がまだ完全には馴染んでいない。そう分かっていても、それだけでは済まない引かれ方だった。


手を伸ばせば、たぶん静まる。


これまで何度もやってきたことだ。額へ触れるだけで足りる。あるいは指先に律を合わせるだけでも済む。実際、伸びかけた手は、布一枚の手前まで上がっていた。


そこで止まる。


布一枚を隔てた向こうにある熱が、今の自分にとって近すぎた。


触れたら何が起こるのか分からない。傷をつけるとは思わない。怯えさせるとも、今はもう思えない。昨夜のあれを経てなお、そうではないと知っているのに、手だけが進まない。


一心は静かに手を戻した。爪が掌へ食い込む。痛みで熱を押し留めようとしたが、効かなかった。


その時、外の気配が変わった。


結界の向こう側を這うような、湿ったざらつきがひと筋、皮膚の上を撫でていく。昨夜まで静域を噛んでいた細い糸とも違う、嫌に生々しい気配だった。裂け目を見失った何かが、なお諦めきれずに縁を探っていた。


一心は帳を振り返る。


志貴は眠っている。呼吸は変わらない。薄布の内側に差す灯の色も安定していた。


今なら離れても支障はない。


立ち上がりながらそう思ったはずなのに、胸の底では別のものが先に動いていた。


外へ出る前に、もう一度だけ帳を見る。


薄布の際からのぞいた志貴の指先が、何かを探すようにごく浅く動いていた。


一瞬だけ、足が止まった。


今は、いつも通りを渡してやれる気がしない。


目を伏せて、一心は静域と外の境界へ出た。


白い灯の輪から一歩離れただけで、空気の冷え方が変わる。結界の層は閉じている。だが閉じた面の外側に、爪でこすったような細い濁りが残っていた。音もなく、気配だけが地を擦って寄ってくる。数は多くない。どれも形を保ちきれず、影の輪郭だけで這っている。


矛を抜くまでもない。


一心は手を下ろしたまま、ゆっくりと息を吸う。喉を通る空気に、昨夜の残りがまだ混じっている。白い灯の外へ出ても、志貴の香はなお背にまとわりついていた。


影のひとつが、静域の方角へ首を向ける。


その瞬間、足元の影が沈んだ。


一心はまだ、何も命じてはいなかった。


それでも、影は足元から沈み始めた。


濡れた土が色を失うのではない。白い灯の届かぬ地面に落ちていた夜の濃さが、そのまま底へ抜けていく。輪郭だけを保っていた悪鬼のひとつが、前脚の形をしたものを持ち上げたまま動きを止めた。逃げようとしたのか、掻こうとしたのかも分からない。影と地との境目が、先に溶けた。


いつものように、喉を落とし、核を断ち、片づけるつもりでいた。志貴の眠りへ触れさせぬよう、なるべく音を立てずに済ませるはずだった。


だが、黒はその手前で動いた。


悪鬼が一歩、静域へ寄る。その向きだけで十分だった。喉の奥がひどく冷え、次の息がうまく入らない。志貴へ向いたものだけを選り分ける気配を、理屈ではなく身体が先に知った。


残る悪鬼達もほぼ同時に足を取られた。


地面に黒いものが広がっているわけではない。ただ、そこに立っていられるはずの足場が失われていく。掴む場所がない。沈んでいるのか、ほどけているのか、見ているだけでは判別がつかない。それでも、何が起きているかだけは分かった。


昨夜、静域を食い破ろうとした帳より、なお深い。


あれは境を覆っていた。だがこれは違う。境そのものが足元から喰われていく。白い灯の外でだけ開く、底のない黒だ。


悪鬼のひとつが低く軋む。声になり損ねた擦れた音が、濡れた石を擦るように耳へ刺さる。その音がもう一歩、志貴の眠る方へ向いた。


一心は呑み込もうとした。だが間に合わない。喉までせり上がった言葉が、そのまま落ちた。


「汝ら、鎮の憶那となれ」


低く落ちた声は、怒鳴りも響きも持たなかった。静かなのに、言葉だけが地面の深いところへ届いていく。自分で言った感覚はあった。けれど、言うと決めた自覚がなかった。


悪鬼の影が、音もなくほどける。


先に消えたのは輪郭だった。次に香が失せる。腐臭とも湿りともつかぬ気配が、ひと息遅れて地面へ吸われる。最後に残ったのは、そこに何かがいたという痕跡だけだったが、それも長くは持たない。黒の底へ沈むと、跡は土の色と区別がつかなくなった。


一心はその場に立ち尽くした。


あまりにも静かすぎて、処理が終わったのだと頭で理解するまでに一拍要った。息も上がっていない。それなのに、胸の内側だけが激しく掻き乱されている。


右目の奥ではなかった。肋の裏、喉の下、腹の底。押し込めてきたものが、志貴に向かう刃を見た瞬間だけ、いともたやすく前へ出る。その事実が、一心にはたまらなく不快だった。


千年以上、こんなふうに喉から落ちたことのない言葉だった。


昨夜、志貴に返された熱が核へ触れた時から、いずれこうなることはどこかで分かっていた。だが分かっていることと、実際に自分の口からあの言葉が落ちることは別だ。しかも志貴の眠る場所から、ほんの数歩のところで。


一心は足元を見下ろした。影はもうない。黒の帳の気配も消えている。痕を探しても、土の冷えしか拾えなかった。


「……最悪やな」


独り言は思ったより掠れていた。


言いながら、一心は掌を握る。爪が食い込む。痛みはある。だからまだ一心の身体なのだろう。そう思った瞬間、自分で自分に苛ついた。


胸の底に、鈍い嫌悪が広がる。


志貴は守れた。そこに間違いはない。だが斬るより先に前へ出たのは、一心ではなかった。自分が最も嫌っているものに、志貴を護らせた。その事実が苦かった。


志貴を、誰の手にも届かぬところへ上げてしまえばいい、と本気で動いたことがある。触れられも、奪われも、呼ばれもせぬ場所へ。護りだと言い張って踏み込んだ先で、志貴に弾かれた。あれは怒りだった。置いていくなと、勝手に決めるなと、全身で噛みついてくる拒絶だった。痛かった。だが、あの痛みの奥には、まだこちらへ伸びる熱があった。


希詠が心底怯えた目をして見た、あの一度。声も荒げず、取り乱しもせず、ただ静かに見せた拒絶。


千年、あれを恐れだと思ってきた。自分が見せたものに怯えさせたのだと、それだけを傷にして抱えてきた。


だが、志貴を知った今になると、あの静けさだけがどうしても馴染まない。


志貴は耐える。けれど、耐えて終わる魂ではない。痛ければ顔に出る。腹が立てば噛みつく。好きなら隠しもせず手を伸ばしてくる。泣くまいとしても、どこかで溢れる。眠りの底ですら、欲しいものを探して指をさまよわせる。


それを知ってしまった今では、希詠だけがあそこまで静かだったことの方が、よほど異様だった。


どうして、あれほど何も見せなかったのか。どうして、いつも半歩退いていたのか。何か言いかけては呑み込み、こちらが追いつく前に先へ回っていた。何が起きるか知っている者のように動き、自分の傷より先にこちらを庇ったことがあった。


今更ながら、ようやくあの不自然さの意味が分かった。


そう思った瞬間、千年抱えてきた傷の形が変わる。


怯えさせたのだと思っていた。だが本当は、見抜かれていたのかもしれない。また同じことをするのかと、最後まで静かに止められていたのかもしれない。


たった一度向けられたあの目が、千年経っても底へ沈まない。忘れたことなど一度もなかった。忘れていないからこそ、一心でいるしかなかった。


だからこそ、志貴の傍では、あれを出したくなかった。


あれさえ見せなければ、同じことにはならずに済むと思っていた。そう思わなければ、一心でいる意味が保てなかった。


一心は顔を上げる。静域の白い灯は、さっきと同じように静かだった。何事もなかったように、薄布の向こうを静かに照らしている。


だが、自分の内側だけが違っていた。


このまま外に立っていても、もう何も来ないだろう。来たとしても、同じことが起きるだけだ。そう分かることが腹立たしい。自分の手が要らないほど、黒は志貴へ向いたものを速く、深く処理する。それは頼もしいのではなく、一心の居場所を削る類のものだった。


一心は静域へ戻った。


白い灯の輪へ足を入れた瞬間、空気の温度がひとつ変わる。黒の気配が後を追うかと思ったが、帳の近くでは不思議なほど静かだった。帳の外に座し直し、呼吸を整える。昨夜までなら、それで足りた。だが今夜は、整えようとするほど、表層の下に別の流れがあると知れてしまう。


薄布の向こうで、志貴がかすかに身じろいだ。


一心は反射で視線を上げる。


呼吸は乱れていない。熱も上がっていない。ただ、眠りの浅瀬を一瞬だけ撫でたような小さな揺れだった。ほどなく収まるはずなのに、志貴の手だけが薄布の端を探した。何かを掴み損ねるように指先が空を切る。


幼い頃から変わらない癖だった。


今夜も同じだった。


一心はしばらく動けなかった。帳を隔てた向こうで、志貴は眠ったまま手を探らせている。昨夜のことなどなかったように、以前と同じ癖のまま、自分のそばの布を探していた。


触れれば、落ち着く。


そう分かっているのに、今はその一歩が遠かった。


しばらくして、一心は袖口をわずかに差し出した。布越しに、志貴の指がそれを捉える。探していたものをようやく見つけた子どものように、ぎゅ、と力が入った。


その瞬間、肩のこわばりが抜けるのが分かった。薄布の向こうで頬がわずかにこちらへ寄る。何も見えていないはずなのに、いつもと同じように、一心のいる場所へ身体が向いた。


そして、ごく小さく、笑った。


眠ったままの笑みだった。ほんの少し口元がゆるんだだけの、子どもの頃から変わらぬ無防備な顔。起きている時には滅多に見せない、力の抜けた安堵の形だった。


一心の喉がひくりと動いた。


「……これが、お前やったんやな」


少なくとも、志貴の身体はそう言っていた。香の深さが違おうが、気配の沈み方が違おうが、眠りの底では関係がないとでもいうように、志貴はいつも通りに掴み、いつも通りに安らいだ。


一心の胸の内で、安堵より先に荒いものが立つ。


志貴を怯えさせないよう、どれほど自分を変え、一心であり続けようとしてきたことか。口の利き方も、手の伸ばし方も、庇い方も、全部そのために覚え直したのに、志貴はそれを大きな違いとして受け取っていない。


だったら、何のために一心でいたというのか。


そう思った瞬間、一心は自分にうんざりした。


志貴は悪くない。何も悪くない。分かっているのに、苦い。平気な顔で眠るなと、理不尽なことを胸のどこかが言う。怯えもせず、嫌がりもせず、いつもの癖で寄ってくるなと、言いがかりのような苛立ちが喉元までせり上がる。


だが、その袖を引き抜くことはできない。


一心は掴まれたままの袖を見下ろした。細い指だった。力は弱い。振り払おうと思えば一瞬で外せる。それでも、指一本ほども動かせなかった。


志貴は前から知っていたのかもしれない、と一心は思う。


いつだったか、冥府の下街で隠していた色がこぼれた時、志貴は変装できるのかと問うてきた。


目の色が違うことも、髪の色が違うことも、声の底が不意に深くなることも、前から拾っていて、それでも嫌がりもしていなかったとしたら。


馬鹿みたいに自分だけが怖がっていたことになる。


一心は静かに目を閉じる。


耀冥に戻れば、宗像へ残る理由はない。宗像そのものを好いたことなど一度もない。焼かなかったのは、希詠が還る血だったからだ。今も同じだ。志貴がいなければ、ここに立つ意味はどこにもない。


連れて出ればいい。


その考えは、驚くほど自然に胸へ入ってきた。宗像を見捨てることに、ためらいはない。望を遠ざけ、宗像のしがらみごと切り離し、志貴だけ抱えて出る。それだけならできる。


だが、帳の向こうの呼吸がそれを止めた。


志貴はまだ宗像を捨てていない。


咲貴も、冬馬も、宗像で重ねてきた時間も、まだ志貴の内に残っている。耀冥として立てば宗像を切り捨てられる。けれど、志貴はまだそこまで行っていない。


それが分かるから、今は連れて出られない。


一心は薄く目を開けた。


白い灯は変わらず静かだった。掴まれた袖の重みは、ひどく軽いくせに、身動きが取れぬほど深く食い込んでいる。


薄布の向こうで、志貴は眠りの底に沈んだまま、静かに息を継いでいた。

その静けさだけが、灯の下に確かに残っていた。

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