第62話 可惜夜に 耀ひ出づる 黒の香(後編)
白い灯は揺れていないのに、明るさだけが一段、沈んだ。
一心は帳の外に座したまま、畳の目を指の腹でなぞった。湿りも冷えも変わらない。薄布へ吸われる光の角度がわずかに狂い、帳の影が一筋だけ濃くなっている。その一筋が、静域の層の綻びを知らせていた。
先ほどまで軋んでいた結界の層は閉じている。けれど皮膚の内側に、外から触れられた感触だけが消えずに残っていた。理の綻びに沿って、見えない指がゆっくりと這っていく。押し潰すのではない。厚みを量り、薄い箇所だけに爪を立てる。どこを削るか吟味する手つきだった。
赫夜は帳の外側、暗がりの奥に立っている。灯を避ける癖のまま、近すぎない距離を保っているのに、気配の輪郭だけは妙に明瞭だった。言葉を落として場を乱すことに躊躇のない男だ。だが今は、先ほどから口を閉じたまま動かない。
帳の内側で、志貴の呼吸が乱れた。吸う間合いが短くなり、吐く息が追いつかないまま喉の奥で折れていく。
一心は帳のあわいから手を差し入れ、志貴の額に触れた。生きた身体の熱ではなく、内側から削り取られていく摩耗の余熱だ。芯が先にすり減り、皮膚の上の温度だけが取り残されている。
「……まだや」
低く言い聞かせる。志貴へ向けた声であり、自分へ向けた声でもあった。
百日を閉じたまま積み上げてきた層が、いま指先ほどの隙から削られている。ここで綻べば、帳の内の温度も呼吸も、そのまま外へ渡る。渡った先で何に触れられるかだけは、考えるほど喉が固くなった。
志貴の指が、衣の袖を掴んだ。
「……嫌や」
かすれた声が漏れた。瞼は閉じたまま、喉だけが働いている。
「置いていかれるのは……嫌や」
一心の息が詰まる。眠りへの拒絶ではない。自分が志貴から遠ざかろうとしていることへの拒絶だと、すぐに分かった。守りの手順であるはずの百日が、志貴には置き去りの形に見えている。
「……志貴のためや」
言いかけた言葉が、喉の奥で折れた。言葉を口に乗せた途端、志貴の呼吸がもう一段細くなる気がして、続きを飲み込む。
志貴の瞼がわずかに震えた。閉じたまま滲んだ涙が、頬へ落ちる前にまつげの先で留まり、灯を受けて光る。
言葉だけが真っ直ぐに、見えていないはずのものを言い当てる。
「あなたは、傷ついてる」
その一言で、右目の奥が灼けた。眼帯の下に縛りつけてある名残りが呼応し、鈍い脈を打つ。痛みではない。引き戻されそうな衝動が熱に変わり、眼窩から側頭部へ走り抜けた。
「だから、わたしがおる」
志貴の指が胸元の衣を引き寄せる。弱っているはずの身体が一心の首へ腕を回し、抱き寄せた。腕の力の強さそのものより、離すまいとする執拗さのほうが際立っていた。
一心は肩へ手を添え、押さえて寝かせたはずなのに、志貴の身体は起き上がってくる。縋りつくように、重心ごと寄せてくる。
その瞬間、理が外側から圧された。蝕みとは異なる力だった。百日の縁が内側から薄れていく。帳は破れていないのに、静域の周縁だけが薄皮を剥ぐように崩れた。灯の輪郭だけが浮き上がったまま、周囲の空気が戻り切れない。
一心の声が荒くなる。
「やめろ……起きるな」
崩れた瞬間に何が先に届くかだけは、想像ではなく手触りで知っていた。
帳の内側にある炎が、外へ向けて露わになれば、次に削られるのは層ではない。志貴の呼吸のほうだ。
一心は喉の奥で息を噛み、志貴の指をほどけないまま押さえた。
志貴は涙で濡れた睫毛を震わせたまま、すぐ近くの距離から言った。
「一人にしない」
その声は志貴の声であり、希詠の残響でもあった。二つの音は重なりながら混じり切らない。境目が残るからこそ、余計に胸を抉る。
右目の縛りが軋んだ。黒の核は志貴の魂の奥底で脈を打っている。沈めたはずのものが、志貴の言葉に呼応して起き上がろうとしている。
喉の奥が鳴り、一心は眼帯の上から右目を押さえた。掌の下で脈打つものを封じるように、指に力が入る。
静域の外側で、空気が一度だけ擦れた。足音でも衣擦れでもない。香の筋が空気を擦る微かな音だった。人が結界を抜けるときの音ではなく、結界のほうが人を通してしまったときに生まれる、あの奇妙な響きに近い。
赫夜の視線が一瞬だけ上がった。同時に、一心の右目の奥が疼いた。眼帯の下で重いものが小さく脈を打ち、押し返す力が動いた感触が骨を伝う。
「……来る」
赫夜が短く告げた。
それだけで十分だった。静域の層がひとつ、紙一枚ぶん削がれたような気配がある。剥がれたのは帳ではない。帳の外側、空気の密度そのものが変わったのだ。灯の白がわずかに引き、畳の表面にまとわりついていた湿りが、急に冷たさを増す。
白い灯のもとに、影が落ちた。影は人の形をしている。だが身体の輪郭が整いすぎていた。人間の持つ癖がない。重心が揺れない。呼吸の余白がない。生きた肉体が無意識に見せるすべてのゆらぎが、その影には欠けていた。
一心は立ち上がらなかった。志貴の指を離さないまま、空いた掌だけを畳へ深く置く。首筋に残る熱で身体は縛られているが、志貴の温もりを支えられる位置だけは崩さない。
影が一歩、帳へ寄った。
赫夜が前へ出る。灯の届かない位置へ身を滑らせ、影の進路を塞ぐように立った。手に刃はない。刃の匂いもしない。それでも赫夜が立った場所には、越えてはならない線が引かれた。
影が止まったまま首だけが僅かに傾く。人が相手を見る動きではなかった。物を確認するときの、あの無機質な首の角度だ。
「宗像静域。百日の縁。照合、合致」
声がした。
帳の向こうで鳴ったはずの声が、畳の下からも響いた。どこから鳴ったか定まらない。喉を通った音でもなかった。
赫夜が短く息を吐く。
「……消滅者か」
影は黙った。答える必要がない、という沈黙だった。
その沈黙のまま、影の背後で別の気配が生まれた。
静域の縁に、いくつもの小さな影が揺れる。人の匂いが混じっていた。汗の匂いも衣の匂いもする。けれど、どの影も目が合わない。視線が虚空の一点を向いたまま、歩幅だけが揃っている。
宗像の内側にいるはずの者たちだった。門弟の衣の色、足袋の擦れ、手の甲に残る痕。どれも見覚えがある。だがその動きには生気がない。身体だけが別の意思に使われている。
赫夜が唇を歪めた。
「傀儡まで寄越すか。人を道具にする。相変わらず、趣味が悪い」
影が指先を上げた。指先は結界に触れない。触れないまま、空気の層に文字のようなものが浮かぶ。墨の匂いが混じった。古い紙の匂いが灯のなかに差し込んでくる。
一心は喉の奥で息を呑んだ。
あの匂いには覚えがある。冥府の官吏府、その記録室と同じ匂いだ。香ではない。香のふりをした記録の匂いだった。
影がまた指先を動かした。灯の輪郭が削れ、帳の白が頼りなくなる。志貴の息が、胸の内側へ引っ込む。
布越しの温もりが、指の腹から膜を剥ぐようにすっと離れる。
一心は志貴の指を握り直した。強く握るつもりはなかったのに、手に力が入る。志貴の指が弱い力で握り返してくる。その返しのなかに、必死さが滲んでいた。
赫夜が滑るように動いた。足音が立つ前に影の前へ身体を差し入れ、掌を胸元へ突き出す。空気の層が一度だけ撓み、影が半歩退いたように見えたが、赫夜の手前で、影の輪郭がわずかに揺らいだだけだ。
「耀冥。戻れ、黒なら弾ける」
赫夜が振り返らずに呼ぶ。
「そのままでは勝てない」
一心は答えなかった。答える余裕がないのではない。口を開けば、志貴の温もりがもう一段遠のく気がした。
影の背後で、傀儡たちが動いた。整列するように帳の周囲へ散り、灯の外側に回って帳の縁へ触れようとする。触れる前に結界の層が弾くはずだった。だが弾く前に層が薄い。薄いまま、反発が遅れる。
赫夜が舌打ちした。
「宗像の人間に、内側からほどかせたのか」
傀儡のひとりが膝をつき、畳へ額を押し当てて、祝詞に似た声を漏らした。宗像の言葉ではない。だが宗像に古くから伝わる文言の節回しだけを、精巧に模している。巧みであるぶん、層は拒み切れない。灯がかすかに揺らいで受け取ってしまい、その分だけ明るさが削れる。
一心は志貴の手を引き寄せるように支えた。布越しに手首へ触れるだけで、結界の層が軋む。触れるなと自分に言い聞かせてきたが、目の前の現実に押されて揺らぐ。
赫夜が低く言った。
「お前を戻したい奴があちらにもいるらしい」
一心は赫夜を見ないまま、短く息を吐いた。
「……結局、こうなるか」
自分の声が思った以上に冷たく落ちた。押し返してきたはずの線が、外からの圧でゆっくりと指先へ寄せられてくる。
赫夜の返事は即座だった。
「こんなやり方では、お前は戻りやしないのに」
その言葉が落ちた瞬間、影が指先をもう一度動かした。空気の層に浮いた文字が灯の輪郭へ絡みつく。絡んだまま、明るさだけを削り取っていく。光の届く範囲だけを狭め、守りとして機能する力だけを、細い糸のように引き抜いていく。
志貴の指がまた強く絡んだ。帳の内側から、掠れた声が漏れた。
「……一心」
名を呼ばれた途端、胸の奥がひどく痛んだ。痛みの理由を辿る余裕はない。志貴の呼吸が細くなる。温もりが遠いまま、指だけが必死に掴んでいる。
一心は志貴の手を離さなかった。
影が一歩、帳へ寄る。
赫夜が踏み込んだ。袖が翻り、灯の外側を黒い刃のような影が薙ぐ。赫夜の術式だ。空気の層が裂け、影の輪郭が一瞬だけ乱れた。だが影は崩れなかった。乱れた輪郭がすぐに繋がり直し、逆に赫夜の腕を掠めた。衣の袖口が焦げ、赫夜の足が半歩下がる。赫夜が退いたのを、一心はこれまで一度も見たことがなかった。
「厄介だな」
赫夜の声に苛立ちではなく、純粋な警戒が滲んでいた。
影の背後から、新たな気配が滑り込んでくる。
冷たいものが混じった。霜でも鉄でもない。理そのものを断ち切る刃を鞘から抜いたときの、あの肌が粟立つ気配だ。
赫夜が息を呑んだ。静域の外側で、結界が弾けた。
弾けたのは音ではなかった。畳の表面が一瞬で乾き、灯の白さが大きく揺れ、空気の密度が崩れた。守りが外側から叩き込まれ、静域の縁が一度だけ大きく歪む。それとほぼ同時に、静域の内側へ人が吹き飛ばされてきた。
咲貴が畳の上を転がり、公介が柱へ肩をぶつける。咲貴の髪は乱れ、息が荒い。公介はすぐに体勢を立て直そうとしたが、足元の畳が一度だけ沈んだ。静域の層が揺れた余波だった。
咲貴が顔を上げる。視線が一心へ突き刺さった。
「……志貴は、無事?」
一心は答える代わりに帳の内側へ視線を落とした。志貴の呼吸は浅いまま続いている。途切れてはいない。それだけを確かめ、咲貴へ短く頷いた。
静域に立ち上る湿気が変質していた。先ほどまでは水気を含んだ重い湿りだったものが、乾いた冷気に入れ替わりつつある。壁に亀裂が走り、外気が染み込み始めていた。
その冷えが足裏から脛へ昇りきる前に、静域の入口に背の高い影が立った。
灯を避けるでもなく堂々と踏み込んでくる。仮面の輪郭が灯のなかに浮かび上がった。
柔らかい匂いのまま、殺意を帯びている。
「今は、そんななりをしているわけか。久しいね、耀冥」
視線は一心にしっかりと向いていた。
一心は舌打ちした。
その名が喉の奥へ先に落ちる。
「織師」
ここまで揃えば、黒の千年王に戻れと言われているようなもの。戻りさえすれば、改竄の匂いも人の傀儡もすべて押し潰せる。容易いからこそ、手が動きかける。だが、志貴の指が掴んでいるその手だけが、今の自分にとって唯一の現実だった。
「うまく隠れていたものだよ」
一心は息を吸い直した。覚悟という言葉でまとめたくはなかった。自分がいましようとしているのは、選び直しだ。守りの形を保つか、守りの意味そのものを変えるか。
その選びが形をとるよりも早く、志貴の掌が帳の内側から灯に触れた。触れた瞬間、灯の芯が跳ねた。
「頭が、痛い……」
帳が波打ち、紅の焔が飛び出した。異様なほどに甲高い音がした。神鏡が割れる音だった。
空気が裂けた。轟くというより、耳の奥の膜が押し広げられ、音が遅れて追いつく。灯がいちど翳り、畳の湿りが瞬間、抜けた。そこに冷えが残り、床が沈んだ分だけ、押し返しが鋭く返ってきた。
一心と志貴のほかにあるものが、残らず弾き飛ばされた。
咲貴と公介、赫夜は押し返しに弾かれ、静域の外へ転がった。
傀儡たちは地に叩きつけられ、唱え声が途絶えた。
消滅者と織師を紅の焔が執拗に追い、闇に姿を溶かして消えた。
静域の中心だけが静まり返った。
灯は落ちていない。それでも、場の重さが変わっている。畳の下から支えていた密度がわずかに抜け、空気が薄くなったように感じられた。帳も結界も形は保っているのに、閉じていれば保たれるはずの均衡が、内側からひとつ外れている。
一心は掌を畳へ押し当てた。返ってくるはずの脈がなく、指の腹が空を撫でたように滑る。結んでいたはずのところだけが抜け落ち、閉じた内側で噛み合わせがずれていく。守りの芯が、そこだけ欠けていた。
一心は畳の目を辿って指を滑らせ、帳の縁へ力を集め直した。指の間から抜ける冷えが、層の欠けた場所を正直に教えた。
腕の中にいる志貴の指が、一心の髪に絡んだ。
右目の奥が、じり、と熱を持った。眼帯の下で重いものが小さく脈を打ち、志貴の胸の底へ沈めた重みと同じ拍を返してくる。
一心は志貴の指を握り直しただけなのに、畳の冷えが指の隙間から入り、志貴の呼吸が一拍ぶん遅れる。この遅れが続くぶんだけ、外が近づく気がした。黒の核だけは動かしてはならない、と言葉にする前に、喉が勝手に固くなった。
一心は志貴の手を取り直し、帳の内に横たえさせた。額の汗を袖口で拭う。呼吸はまだ続いている。細く、けれど途切れず。その律動だけを頼りに、崩れかけた結界の残りへ手を伸ばした。
しばらくは志貴も動かないだろう、と思った。
帳の内から伸びた指に袖を掴まれたのは、その直後だった。
頭では分かっているのに、指に掴まれた袖の温もりが、積み上げてきた理屈をひとつずつほどいていく。
「……わたしのために選んでいい」
声は小さい。けれどはっきりと耳に届いた。ぞくりとするほどに、意思を乗せた声だ。
首筋に、唐突に歯が沈んだ。
「何して……」
皮膚を裂く寸前で止まる圧だった。けれども一点から広がった熱が背骨の内側を這い上がる。横たえたはずの志貴が背後にいて、首に腕を回している。その事実を、一心は遅れて噛み合わせた。
細い腕は力任せではなく、確実に逃げ場を消す角度で締められた。無意識の抱きつきではない。こちらを動かさないための、正確な位置取りだ。
「……志貴」
声が擦れた。呼びかけた瞬間に歯がわずかに深く沈む。痛みは増えないまま、押し返す意志だけが強まる。吐息が傷口に落ち、湿った熱が肌に残った。その名残が志貴の体温の薄さを逆に際立たせる。
腕を掴み、傷つけぬよう加減しながら引き剥がす。抵抗は意味をなさないのに離れまいとする意志だけが粘る。歯が離れた瞬間、首筋に熱い息が落ち、指先が噛んだ跡を撫でるように滑った。
振り向く間もなく、志貴の身体が前へ回り込んだ。白い裾が畳を擦る乾いた音が近い。視界が傾き、背中に畳の硬さが走る。
押し倒されていたのは自分だった。
志貴が跨がる。膝が腰の両脇に落ち、細い身体が上から影を落とした。白銀に寄りかけた髪が灯に透け、頬へ流れ落ちる。半覚醒の瞳は焦点が合っていない。それでも確実に一心だけを捉えていた。逃がさないという目だ。
喉に触れた指が、噛んだ場所をなぞった。冷たい指先が喉仏の下へ滑り、しっかりと掴む。力は強くない。それでも外す気がないと分かる掴み方だった。
「じっとしてて」
掠れた声が胸の上に落ちた。
「するわけないやろ」
肩を押せば退くはずの身体はびくともしない。退かないまま、志貴の顔が近づく。
唇が触れた。志貴の身体は触れても冷えが先に立つのに、口もとだけが妙に熱い。浅く重なるだけのはずが、すぐ角度が変わり、息の通り道が塞がった。
一心は一度、呼吸を取り戻そうとして、失敗した。鼻から吸った空気が胸まで降りず、喉の奥で止まる。そこへ、志貴の吐息が重なる。湿りが皮膚に残り、噛み跡の熱がぶり返した。
その熱に引かれるより先に、別の冷えが来た。舌の先が触れた瞬間、甘さではなく、削る圧が入り込む。唇が重なるほど、内側の膜が引かれていく感触が増え、志貴の奥のどこかが鳴った。剥がされている。
一心は志貴の肩を掴んだ。押し返すつもりで力を入れたはずなのに、指が逃げ場を探すように滑る。志貴の身体は軽い。軽すぎて、押し返したぶんだけ壊れそうで、力の行き先が定まらない。
外で、畳が一枚きしんだ。誰かの足ではない。静域の縁が、戻りきらないまま擦れる音だった。ここで手を緩めたら、外の指が届く。
一心は歯を食いしばり、志貴の唇を引き剥がした。志貴が息を吸い切れないまま咳き込む。喉の奥に赤い匂いが立った。
「志貴っ」
呼びかけた声が自分でも荒いと分かる。そのせいで、志貴の瞼がわずかに揺れたが、焦点の合わない目は一心だけを捉えたまま離れない。
一心は志貴を畳へ仰向けに倒した。髪が散り、白い裾が畳の目を擦る。体勢を入れ替え、上から押さえ込む。両手首を畳に縫い止めた瞬間、志貴の指先が震え、喉が小さく鳴った。
一心の腕が軋んでいた。志貴の手首を押さえる力を、自分で制御できていない。強すぎると分かっているのに緩められない。
畳に押しつけた膝が重い。志貴の身体の上に自分の体重がかかっていることへの違和感と、離せばまた手を伸ばされる恐れとが、交互に喉を締めた。
志貴の胸が上下している。襟元がわずかに開き、灯が喉の細さを照らしていた。
ふいに無防備な肌が視界に入った途端、怒りと、別の衝動が同時に舌先まで上がってきた。どちらを口にしても志貴が遠のく。
「何考えてるんや」
冷たい声が自分の喉から出た。志貴にこの声を聞かせたのは初めてだった。
「いらない」
志貴が息だけで言う。
「いる」
喉へ手をかけた。細い頸の骨が掌に当たり、脈が指先を押し返す。力を抜けば、志貴の身体が起きる。入れすぎれば、この熱が途切れる。どちらも許されないのに、呼吸だけが先に詰まった。意識を底へ押し戻さなければならない。
志貴の首の皮膚が白くなり、次いで赤みが差した。それが視界に入った瞬間、指の力が緩んだ。止めたいだけなのに、触れている自分の手がいちばん危うかった。
志貴の睫毛が震え、涙が零れた。一滴が頬を伝い、一心の指に触れた。その温かさが刃のように刺す。
「あなたのや」
囁きが息とともに溶ける。声が胸の奥へ沈み、沈んだ場所から鈍い共鳴が返ってくる。
「返したい」
志貴が咳き込んだ。唇の端に赤が滲み、口角から滑り落ちた。灯の下でその色が異様に鮮やかで、一心は目を逸らせなかった。
「痛い……」
その声と同時に、胸の奥で何かが裂けた。志貴の魂の内側で防壁がさらに剥がれる。その感覚が番の結び目を通じて一心の臓腑を掴んだ。
「やめろ言うてるやろ。俺はええ。お前は動くな!」
志貴が首を振った。涙が頬を伝い落ちる。
「一人にしない」
その言葉が胸を裂いた。
「お前が傷ついたら、俺は耐えられへん!」
叫んだ喉が焼けた。自分の声がこんなに荒いのを、いつぶりに聞いただろうと思った。志貴を傷つけまいとして引いてきたはずの距離が、いま志貴を傷つけている。その矛盾が、胸の底で鳴っていた。
志貴の唇が、血の赤を残したまま動いた。
「番やないって言うてくれたら、もう邪魔せえへん」
まさかの言葉に、視界が揺らいだ。
志貴の瞳に、本気で折れかけた光が浮かんでいる。折れる寸前の光を見せつけられるのは、暴れる炎に焼かれるより痛かった。
「眠れ言うなら、二度と目ぇ覚まさん」
その言葉が落ちた瞬間、理性が裂けた。志貴にそれ以上を言わせたくなかった。
反射のままに引き寄せた。遠ざけるために避けてきたはずの口付けが、深くなった。そばに居るのに、志貴の温もりが遠のく気がして、抱き留めることに必死になる。そんな短絡を認めてしまった。
志貴の腕が首に回り、さらに身体が密着した。衣越しに伝わる体温は冷たいのに、触れ合う面積が広がるほどこちらの身体に熱が溜まる。自分の核が目覚めようとする熱だとわかるのに、離れられない。
「やめんと……ならんのに」
喉の奥が焼ける。志貴の魂が最後の力で黒の核を押し出そうとしているのが分かった。
縋りつきは恋情ではなかった。己の奥深くにある盾を剥がすための手つきが痛いほど真っ直ぐだった。
志貴は一心に身体を預けた。その動きが子どものように無防備で、あまりに危うい。腕の中で消えてしまいそうで、腕が勝手に強く抱き締めた。
志貴は掠れた息を吐いた。半眼のまま、口だけが確かな形で言葉を刻む。
「吾、汝が荒御霊、この身に結び据える」
一心の背筋が凍った。この誓式を志貴に教えた覚えはない。
耳に触れた瞬間、記憶の底で同じ文言が炎を上げた。希詠の口から聞いたあの夜の息遣いまでもが一緒に蘇りかけて、慌てて歯を食いしばった。
身体が硬直して動けない。
志貴の指先が右目に触れ、眼窩の奥が焼けるような熱を帯びた。眼帯が焼け落ちる。喉の奥から胸骨にかけて、鋭い痛みが走り抜けた。
「汝、吾が荒御霊、その身に結び据えよ」
一心の視界が白く飛んだ。志貴の輪郭が、灯の向こうへ抜け落ちる。抱えているはずの重さだけが残り、次の瞬間に、息と体温が戻ってくる。志貴の内に沈めていた黒の核が、志貴の意思によって完全に拒まれたのだ。
「あなたの色を、返す」
黒の核が叩き返された。
志貴が触れた右眼には新たな眼帯があたる。それに熱が定着し、脈が深く落ち着いていく。
一心は息を詰めた。志貴の瞳の色が変わっていた。右に紫水晶の光が宿り、左に瑠璃が沈む。
「俺の、色やないか……」
志貴の頬を掌で包み込む。あまりに頼りなく笑う志貴に、一心は項垂れた。
志貴が掠れた声で言った。
「離してあげられない」
それだけだった。言い終えた途端、志貴の身体がふっと力を失った。志貴が一心の胸へ崩れ落ち、額が鎖骨に当たる。髪が頬を撫で、冷えた体温が布越しに伝わった。志貴は眠りに落ちた。
一心はしばらく動けなかった。右眼に熱が残り、身体中の筋が硬く、思うようにならない。腕だけで志貴の身体を支えながら、呼吸を数える。
外側で誰かが呻く声がした。咲貴か、公介か、赫夜か。声は遠い。今の一心には届かない距離にある。
志貴の髪を指先で払った。白銀に寄っていた色が、少しずつ黒銀へ戻りつつある。あれほど薄くなっていた輪郭が、穏やかな呼吸とともに戻ってきていた。
黒い重みが、千年ぶりに遠い底から引き上げられるようにして、戻ってきた。
右眼の奥に、遅れて熱が据わる。脈が一段、深く落ちた。眼窩の内側がじり、と焼けたまま静まる。
一心は志貴の髪を撫でた。指先に触れる髪は冷たいのに柔らかい。撫でる手が震えた。それは怒りでも恐れでもないはずなのに、どちらとも言い切れなかった。志貴は腕の中で安らかに眠っている。先ほどまでの必死さが嘘のように、無防備だ。寝顔は可笑しいほど憎らしい。
「……ほんま、思うようにならん」
声は低く、灯に吸い込まれた。志貴への不満ではなかった。志貴の指先ひとつで、自分が引いてきた距離があっさりへし折れることへの苦笑だ。
黒を沈めていれば押し返せる。触れる手の筋道が決まっているなら、遮る層も決まる。静域を閉じ、百日を積み重ねれば、邪な手は二度と届かない。そう信じていた。
きっと目覚めれば覚えていないのだろう。
一心は志貴の額に唇を寄せ、触れるだけで離した。長く触れれば、また志貴の内側が軋む気がした。
頬を伝うものがあった。涙かどうかは分からない。ただ濡れた感触だけが残り、皮膚の表面がひどく冷えた。
「……戻るつもり、なかったのに」
かすれた声が漏れた。あの熱が右目の奥から、また全身に回る。動けば、いま外で鳴っている刃の音も、墨の匂いも、季節の冠の気配も、まとめて静かになる。だが、狙いは次から次へ、志貴のほうへ寄る。
それが嫌で、幾重にも策を弄してきたのにと長い息を吐いた。
「……参ったわ」
志貴の呼吸が胸に当たる。その一定の温もりが、いまの現実だ。
「お前が凶悪なこと、忘れてたわ」
肝心なところで、こちらの逃げ道を言葉ひとつで塞いでくる。
好き放題して、自分だけ眠りに落ちてしまう。その落ち方があまりに無防備で、守るという行為そのものを否応なくこちらに託してくる。
一心は片腕で目を覆った。喉の奥が詰まり、息がうまく通らない。むせる音を殺した。
外側の気配がまた動き始めていた。結界の層が軋み、遠くで刃が鳴る。退いたふりをして、また薄い箇所に爪を立ててくる。
一心は顔を上げないまま低く息を吐き、志貴を抱き直した。軽い身体が胸に確かな重みを残す。もう隠れてはいられない。
「……真っ向からやるしかないやないか」
笑みは乾いてはいなかった。喉の奥に湿りを残したまま、歯を食いしばるときの苦さが滲んでいる。
灯が一度だけ細く痩せた。外の気配が、もう一層、近づいていた。




