第61話 可惜夜に 耀ひ出づる 黒の香(前編)
宗像の結界が鳴ったのは、夕刻を過ぎた頃だった。
鳴った、と言っても耳に届く音ではない。廊下を歩いていた咲貴の足裏に、最初の異変が伝わった。板のきしみが半拍遅れ、空気がわずかに痩せる。庭の砂利が底から鳴り、奥井戸の水面がひと呼吸ぶん持ち上がり、静かに戻った。
結界そのものは保たれている。だが外縁へ、押し潰すのではなく、厚みを測るような力が触れているのを、咲貴は感じ取った。
歩調を速めるが、その場の空気を乱さないよう慎重になる。王の揺れは、宗像の揺れになる。
庭へ出た瞬間、空気の層が違っているのが分かった。昼の残り香が押しやられ、乾いた冷気が混じる。枝の擦れる音が硬い。門の向こう側だけ、季節が一歩ずれている。
門外に立つ男を見た瞬間、咲貴の呼吸はわずかに浅くなった。
立ち姿に隙はなく、武器も抜いていない。それでも、結界の縁へ触れる指先の動きが、あまりに静かだった。力任せにせず、結界の“戻り”を測っているようだ。縫い目の癖を覚え、補修の速度を測り、次に触れる位置を決めている。
宗像の門前に立てる者は多くない。結界の縁へ触れたまま、押し返されずに立っていられる者は限られる。
咲貴は門の内側に立ったまま、声を投げた。
「名を名乗れ」
男は視線だけを上げる。
「名を問うほどの余裕があるとは思わなかった」
その瞬間、結界の表面が細かく波打った。
咲貴は掌を上げ、空をなぞる。宗像の理が再配置され、縫い目が組み替わる。男の指が弾かれ、わずかに離れた。
男の瞳が細まる。
「王の質が、変わったな」
咲貴は答えない。男の言葉を否定する材料が、自分の内側に見当たらなかった。
志貴にあった重みが、いまは自分の身体の芯へ落ちている。
王玉が熱を帯び、呼吸と同じ間隔で脈打つ。その拍に合わせるだけで、結界の弱い箇所が見える。流すべき量、止める位置、削る向きまで、脈の拍が定める。刃を握る指が、遅れなく角度へ収まっていく。
相手の重心が傾くより早く、軌道が解ける。どこを削れば半歩退くか、どこを焦がせば理が乱れるか。理屈より先に、掌の中で決まっていく。
数日前は、刃を振るたび熱が跳ね、焦げた匂いが庭に広がった。周囲を巻き込む危うさが、腕の内側に噛みついていた。だが、いま咲貴の内側で動く力は暴れない。狙いを定めた一点へだけ、静かに落ちていく。
刃を握る手が、震えない。かつて熱が噛みついた掌が、いまは水を掬うように軽い。斬る前に、すでに刃先の着地点が見えている。その見え方が怖いのではない。その“怖い”という反応すら湧かないことが、背中を冷やした。
男が一歩踏み込むと、結界が軋んだ。
咲貴は門を背にせず、真正面へ出る。
「立ち入ることは許さない」
男は応じず、手を振る。結界の一部が薄く削られた。
だが、削れた箇所へ流れ込む理が、咲貴の意識より早く縫い目を閉じる。指を動かした感触より先に、地の底が押し返してきた。
男の視線が咲貴の右肩へ落ちる。衣の下にある王の痣を見ている。
「なるほど、こちらも本物とはな。厄介なことだ」
「黙れ」
声が冷えているのが、自分でも分かる。
その瞬間、男の背後の影が立ち上がった。悪鬼より整った形をしている。命令を待つ兵のように、輪郭だけを保っている。
咲貴は刃を抜き、門を越えた。
宗像の外気に足を置く。力が落ちる感覚はない。むしろ輪郭が鮮明になる。
影が動く。
咲貴は踏み込み、斬る。影の中心を裂くと、黒い塊が煙へ崩れた。男は半歩退き、衣の端が裂ける。金属音が庭木を震わせる。
刃と刃が噛み合った瞬間、肘の奥が軋んだ。受けた衝撃が骨を通り、肩口まで震えが抜ける。それでも、振りは止まらない。
重さを受けた分だけ、軌道が研がれていく。内側の理が軌道を補正し、無駄を削り、振りは迷わない。
男の目がわずかに沈む。
「……赫夜」
その名は、目の前の咲貴へ向けたものではなかった。男の目は刃の軌道のさらに奥を追い、確かめるように細まった。
その名が落ちた瞬間、咲貴の背筋に冷たい感覚が走った。
赫夜の名を、なぜこの場で出されるのか。その理屈が掴めないまま、胸の奥がわずかに軋んだ。
「どういう意味?」
咲貴は踏み込み、男の肩口を割る。血が飛び、斬り込んだ手応えはある。刃は確かに肉を裂いている。だが芯へ沈まない。切り込んだはずの最奥だけが、縫い戻されるように閉じている。致命にならない感触が、相手が通常の敵ではないことを、静かに告げる。
男が距離を取った。
奥殿の方角で、帳の縁が一瞬だけ白く焼けた。次の瞬間、奥井戸の水面が波紋もなく沈み込み、底の石が露になる。
咲貴の胸が強く締まる。
破られたわけではなかった。縫い目は残り、帳も崩れてはいない。奥殿を包んでいた重みが、指先ほど薄くなっている。
触れれば守りはある。
だが、掌で押せば、底がわずかに逃げる。
重ねてきた層のひとつが、音もなく抜かれている。百日のために積み重ねた厚みが、指先ほど薄くなっていた。
「何をした?」
問いは男へ向けたものでもあり、自分へ向けたものでもあった。
男の口元がわずかに歪む。
その瞬間、咲貴の視界が澄んだ。
奥殿へ向かう力の筋が見える。
もっと遠い位置から、形を壊さず、覆いだけを削る手つきが伸びている。目の前の男の手つきではない。縫い目の裏側から、別の針が入っている。形を壊さず、厚みだけを奪うやり口。あの編み目の癖を、身体が覚えている。
咲貴は刃を振るい、男の脇腹を裂く。血が地へ落ち、男が膝を折る。
「宗像の王は気が抜けないな」
男はゆっくり立ち上がる。
「その力、どこから来ている」
咲貴は答えない。胸の奥で、志貴の拍がずれずに鳴っている。
男は影へ溶けるように後退する。
「今日は退いてやる」
退いたのは敗れたからではない。押し切れないと判断したのか、それとも測るべきものを測り終えたのか。咲貴にはまだ断じきれなかった。
空気は静まりきらない。遠くで何かが編み直されている。
咲貴は奥殿を見る。結界は保たれている。だが確実に薄い。
中庭の真ん中で、公介が立っていた。
「来なかったな。本命が」
公介は結界柱の根元へ膝をつき、掌を地へ当てる。いつもなら触れた瞬間に香の流れが整う。だが今日は、地の奥で細い震えが残っている。
「古の庇護が、痩せている」
「さっき、何かされた?」
「いいや」
公介は地を押さえたまま、視線を上げない。
「奴らは、触れられる範囲だけを削った。壊せば、こちらも応じるからな」
結界柱の根元の砂が、指先で崩れる。低く息を吐く。公介は土を握り、掌の上で崩した。
「届かないものは、盤に乗らない」
その言葉は理屈ではなく、盤面を読む者の独り言だった。
「攻めた形を作る。それで十分だ」
公介は自問の形で止め、視線が一瞬だけ奥殿へ向く。その意味を咲貴は測りかねる。
「志貴が、納得するとは思えない。……わかっていて、それでも、やるつもりか」
誰へ向けた言葉か、咲貴には分からない。
夜風が庭を渡るたび、最奥の帳がかすかに鳴る。呼吸がひと拍だけ遅れた。その音を聞けるのは、いまは咲貴だけだった。
***
さっきまで庭を渡っていた乾いた冷気は、ここへは届かない。帳の手前で途切れ、音も匂いも薄布一枚の外へ押し戻されている。
白い灯は、昼にも夜にも属していなかった。
帳の内側に吊られた灯は、火の匂いを帯びず、煙も生まないまま、一定の明度を保って静かに揺れている。静域の空気は澄みきっているが、その澄み方は冷たい。息を吐けば、自分の体温だけが薄く白く浮いて、すぐにほどける。畳の縁へ指を置くと、わずかな湿りが返った。
香の筋はこの一帯だけ別の密度で組み替えられ、外界と切り離す層を重ねているはずなのに、どこかの縫い目が一拍だけ遅れて戻る。触れた感触が、薄い違和のまま告げていた。
一心は帳の外に座している。背は伸びているが、緊張で固めているわけではない。肩を落としているわけでもない。ただ、長時間同じ姿勢を保ち続けた者の静かな形になっている。膝に置いた両手は、指先だけがかろうじて熱を残し、掌は冷えきっていた。
帳の向こうで眠る志貴は、確かに息をしている。布越しにも分かるほど呼吸は安定しており、深く、規則正しく胸が上下している。その動きが、この場の時間をかろうじて留めている。
帳の縁から零れた髪に視線を落としかけ、一心はそこで止めた。黒銀であるはずの色が、わずかに淡く見える。見間違いではない。灯の明度も、角度も変わっていない。変化しているのは志貴の髪そのものだ。色が抜けるというほど急激ではないが、確実に、白へと寄っている。
一心はそれを直視しない。
視線を向ければ、触れたくなると分かっているからだ。
右目の奥に鈍い圧が生じる。刺すような痛みではない。眼帯の下で、眼球が自分のものではないように重く沈み、内側から押し上げられる感触がある。かつて何度も経験した兆しと同じだ。
帳の内側から、かすかな音が漏れた。
衣擦れでもない。灯の揺れでもない。志貴の喉が、呼吸とは別の震えをひとつだけ帯びたのだ。眠りの底で言葉の形を整えるほどには覚醒していない。それでも、喉の奥から押し出された名だけが、布を透り抜けて届く。
「……一心」
掠れた声だった。子どもが夢の中で無意識に呼ぶ声に近い。自分が呼んでいると自覚していないような、細い響き。
一心の指先が動く。膝の上でわずかに開き、帳へ伸びかける。だが、そこで止まる。奥歯を強く噛み、衝動を抑え込む。
名を呼ばれるたび、胸の内側が静かに削られていく。
ここにいるのに、と喉が言いかける。
大昔、希詠も同じ言葉を口にしたことを思い出した。
あの夜、希詠は目の前に立っていた。言葉を選ぶときはいつも慎重で、こちらを見上げながら、視線が合えばすぐ逸らす。その小さな癖まで、はっきりと思い出せる。
血の匂いが蘇る。衣に染み込んだ赤は乾ききらず、鉄の味が喉の奥に残っていた。腕の中で伝わっていた体温が、次第に抜け落ちていく。温かさが消えていくのを、掌が確かに覚えている。
一心は強く目を閉じた。
いま目を開けば、志貴の髪の色を正面から見てしまう。希詠の最期と、重ねてしまう。
帳の外で、空気の密度がわずかに変わった。
裂けるというほどの破綻ではないが、結界を張り巡らせている香の筋が一瞬だけ歪む。直後、細く低い振動が走った。遠雷が地を這うような音に近い。守りが侵入を感知し、即座に収束する。
一心は顔を上げない。
足音が近づく。重心が軽い。人の足取りではない。歩みはためらわず、結界の層をいくつか踏み越えたことを隠そうともしない。
帳の外側に落ちる灯の明度が、わずかに痩せた。光を受け止めるはずの空間が、一部だけ吸い込まれるように暗む。
「簡単に侵入される結界しか張れないほどとはね。何をしてる」
赫夜の声が響く。感情を乗せず、事実だけを置く声音だった。
一心は身構えない。胸の奥に走った緊張をそのまま押し殺し、ゆっくりと息を吐く。
「帰ってもらおか」
声は低く、押しつけるような怒気は含まない。それでも拒絶の意図は明確だ。ここは宗像の内側であり、白い灯が落ちる場所だ。外から持ち込まれる気配で乱されることを、本能が許さない。
赫夜は答えない。
石畳の縁を踏む足音が、はっきりと近づく。結界を越えていることを隠そうともしない歩みだ。許可を求めるそぶりはない。
やがて赫夜の影が帳へ落ちた。灯を受ける角度が変わり、布の表面に濃い影が重なる。光を避ける癖のまま立っているが、距離は確実に詰めている。
「俺は、届くぞと伝えたはずだ」
その言葉に、一心の眉がわずかに動く。しかし視線は帳から外さない。赫夜を見れば、揺らぐものがあると分かっている。
「赫夜。……次は、許さへん」
抑えた声音の奥に、わずかな硬さが混じる。
赫夜が息を吐いた。その吐息に夜風の匂いが混ざる。ここには存在しないはずの空気だ。結界のどこかに、薄い継ぎ目が生まれている証拠でもある。
赫夜の視線が帳へ向く。その一瞬で十分だった。志貴の髪が白銀へ寄りはじめていることを、見逃していない。
赫夜の声が低く沈む。
「お前の顔、死人みたいだぞ」
一心の指が畳へ深く沈み込む。畳目が指の腹に食い込み、皮膚の感覚をはっきりと伝えてくる。自分がここにいることを、痛みで確かめるように。
「そのへんにしとき」
抑えた声音だった。
「黙るなら、はなから来ない」
赫夜は笑わない。目も逸らさない。
「四天王を振り回し、冬馬を動かし、壮馬も登貴も使い、冥府ごと投げることすら、お前には造作もないのに」
言葉は速いが乱れてはいない。怒鳴っていないにもかかわらず、圧だけが増していく。赫夜の声には、冷えきらない血の温度がある。
「ここだけ、詰めが甘い」
その一言が落ちた瞬間、一心の胸の奥で軋む音がした。実際に音が鳴ったわけではない。だが、抑え込んでいたものにひびが入る感触がある。
赫夜が一歩、帳へ寄る。
それより早く、一心の身体が動いた。膝を立て、立ち上がる。
「ここから先は、許さへん」
次の瞬間には、赫夜の胸ぐらを掴んでいた。布を握る指に力がこもる。自分の想像よりも強い。腕に滲んだ力が、黒の性質を思い出していると気づき、一心は奥歯を噛み締めた。
「俺の侵入に気づけないほど、何に気を取られていた」
赫夜は抵抗しない。掴まれたまま、わずかに顔を近づける。灯の明かりが届かない位置に立ちながら、その瞳だけが淡く光を帯びる。揺らぎのない目だ。
「志貴に、寄るな」
声は低い。
「笑わせる。遠ざけようとしているお前が言うのか」
その言葉が、まっすぐ喉へ刺さる。
一心は無意識に襟を握り直す。布が軋み、指の節が白くなる。力を込めている自覚が遅れて追いつく。
赫夜は掴まれたまま、帳の内側へ視線を向ける。その動きが、一心の神経を逆撫でする。
「どうした。言い返せよ」
煽りだと分かっている。昔から、そういう男だった。相手の奥に押し込んだものを、わざと掘り起こす。
「未練たらしく、あの磐に連れてきて、俺に見つかった癖に。何がしたい。わからないなら、言ってやろうか」
「もう、そこまでや」
掠れた声が、帳の布を震わせる。
その直後、志貴の喉が震えた。
「……一、心」
眠りの底から、名がまた浮かび上がる。
赫夜の目がわずかに細められる。怒りでも哀れみでもない。あの夜と同じ目だ。血に濡れた床に座り込んだ自分を、静かに見下ろしていたときの視線。
一心の掌が震える。掴んだ布越しに、わずかな揺れが伝わる。
赫夜は低く、しかし明瞭に言った。
「聞け。希詠を殺したのは、お前じゃない」
その言葉に、一心の指が緩みかける。襟を握る力が一瞬ほどける。だが、いま手を離せば、自分の内側で支えている軸が崩れると分かり、再び力を込める。
赫夜は目を逸らさないまま続ける。
「思い出せ。喉を突いたのは、希詠だ」
淡々とした声音だった。感情を混ぜないからこそ、虚飾がない。
「いつまで自分でかけた呪いに絡め取られるつもりだ」
呼吸が浅くなる。
血の匂いが鮮明に戻る。温かかったはずの血が、急速に冷えていく感触。喉から漏れた希詠の音。腕の中の身体が、驚くほど軽くなっていたこと。軽いのに、手を離せなかったこと。
掌の内側が、その重みを覚えている。
赫夜は、間を置かずに続ける。
「お前は、楽にしてやっただけだ」
一心の喉がひくりと鳴る。声にならない。否定の言葉も、肯定の言葉も、どちらも出てこない。
赫夜は掴まれたまま、わずかに首を傾ける。その仕草に嘲りはない。
一心は初めて赫夜を見る。視線が正面からぶつかる。赫夜の瞳は揺れず、灯の明かりを外した位置にありながら、まっすぐ射抜いてくる。
「お前以外で、あの場に居たのは俺だけだ。誰も見ていない。誰も知らないんだ」
言葉が重く落ちる。白い灯の明かりよりも、はっきりと胸に沈む。
胸の奥で、支えていたものが崩れる。
希詠の亡骸を抱えたまま、動けなかった自分。背後から抱き上げられた感触。血に濡れた肩を引きずりながら戻った道。夜がいつまでも明けなかったこと。あのときの顔を、赫夜だけが見ていた。
「宗像なら紅が還るかもしれないと、俺が言った。覚えているか」
忘れていない。だからこそ、ここにいる。唇の内側を噛み、血の味を確かめる。
「お前を縛ったのは、俺だ」
その声が、わずかに揺れる。赫夜が揺れることは稀だ。
視界が揺らぐ。眼帯の下で右目が疼く。怒りがこみあげたわけではない。内側から引き戻そうとする力の脈動だ。
「俺が、お前を生かしたかった。だから、繋いだ」
低く抑えた声音だったが、はっきりと耳に届く。逃げ場を与えない言い方だ。
「お前の手は、ちゃんと届いたんだ」
その言葉に、一心の指がわずかに動く。自覚のないまま、帳の縁へ伸びる。触れた薄布の向こうから、温度が伝わる。志貴の体温が、布越しに確かにある。
いつの間にか、赫夜の襟を掴んでいた手は離れている。赫夜が整えた布の音で、ようやく気づく。自分の身体が、赫夜よりも帳の内側へ引かれていたことを。
赫夜は帳から目を逸らさない。白い灯の下で変わりつつある色を、見届けるように。
「触れられないものには干渉できない。……だがな」
その言葉に、一心の喉がわずかに動く。反論を探すが、すぐに出てこない。
「届かない場所に置く。それは、盤から外すということだ」
帳の内側で灯が揺れる。わずかな揺らぎが、場の均衡を崩す。
「今日の削り方を見ただろう。急かしたいだけだ」
結界の層が薄くなっていることは、一心自身が感じている。だがそれを他者の意図として突きつけられると、頭が痛い。
白い灯の輪郭が、わずかに痩せる。
「百日を、お前が待てなくなると読まれている」
その可能性は、すでに自覚していた。口にされることで、現実味を帯びる。
志貴の指を握る手に、力がこもる。無意識に強くなっている。
「お前、舐められているんだぞ」
言い返す言葉が出てこない。
百日の眠りが明ければ、すべての干渉は遮断できる。それが正しい選択だと、頭では理解している。だが正しさは喉に張りつき、息を吸うたびに重くなる。胃の奥がひっくり返るような感覚が込み上げる。
「わかってても、やりきらなならん」
言うつもりはなかった。声が勝手に漏れ、自分でその響きに驚く。
赫夜が静かに息を吐く。
「本当の願いは、どこにある」
その問いが、正しさの上に重ねられる。
その問いを正面から突きつけられ、胸の奥が鋭く痛む。
帳へ手を入れかけて、止める。触れれば、引き戻してしまう。いま引き戻すことは、志貴を危険の中へ晒すことになる。
「どうしろと」
低く絞り出した声が、喉を擦る。
その直後、帳の内側で小さな音がした。志貴の喉が震え、眠りの底から声が浮かび上がる。
「……一心」
細い声と同時に、志貴の指が動く。帳の内で、空を探るように伸びる。幼いころと変わらない仕草だ。衣の端を探す指。
一心の手が、考えるより早く動く。
帳の布を押し分け、内側へ差し入れる。志貴の指先に触れた瞬間、絡みつくように握り返される。力は弱い。それでも確実に、離さない。
その接触だけで、右目の奥が熱を帯びる。
眼帯の下で皮膚が張りつくように重くなる。千年前に自ら施した縛りが軋み、内側から黒の核が押し上げる感触がある。
背後から赫夜の声が落ちる。
「ほら、見ろ。そいつの方が素直だ」
振り向かない。振り向けば、志貴の指から意識が離れる。離れれば、いまより遠くなる気がしてならない。
「千年、堪えたんだろ。もう、そろそろ俺の兄を、弱くするのはやめてくれないか」
声の調子がわずかに変わる。強くはない。だが芯がある。
喉が詰まる。言葉が出ない。
赫夜はあの夜の温度を知っている。血の匂いも、腕の中の軽さも。
「やりたいようにしかしてこなかったお前が、今更、改めるのか」
責めているのではない。ただ事実を並べるように言う。
「黒の千年王ともあろう者が、たかだか宗像の娘の世話役に成り下がってまで、何をしていた」
志貴の指を握り直す。無意識に力が強くなる。
灯の下で、志貴の髪はさらに淡く見える。黒銀の奥に白銀が混じり、色が薄く透ける。変化は緩やかだが、確実だ。より古い色へ近づいていると直感する。
それが安全な道だと理解している。それでも胸が痛む。
「お前、泣く子も黙る黒の千年王だぞ」
赫夜が続ける。
「番に呼ばれたい名前があるだろ」
肩がわずかに震える。
「耀冥」
名がはっきりと落ちる。
白い灯の下で、自分がどんな表情をしているのか分からない。ただ、志貴の指が確かにこちらを掴んでいる。その感触だけが、いまの現実だ。
「本当に呼んでもらわなくてもいいのか」
赫夜の声は低い。
「誰が兄上を護る」
問いが重なる。だが答えは出てこない。
「誰が兄上を愛する」
言葉の強さはわずかだが、逃げ場がない。
志貴の指を離せない。離せないまま、ただ握っているだけでは足りないと分かっている。
「兄上は、何のために千年待った」
その言葉が落ちた瞬間、白い灯がひときわ大きく揺れた。
志貴の呼吸が一度だけ深くなる。眠りの底で胸が大きく上下する。その動きに合わせて、指が一心の手の甲をなぞる。触れるだけだった動きが、何かを探す仕草へ変わる。
「一心、どこ……」
声に、わずかな震えが混じる。閉じたままの瞼の端から、涙がこぼれる。滴が布を濡らし、白い灯の下で小さな影を落とす。眉がわずかに寄る。
一心は息を止める。
志貴の指先を唇へ引き寄せそうになる衝動が走る。歯を食いしばり、抑え込む。
これ以上近づけば、黒の核が応じる。戻れば、庇護は外れる。宗像も冥府も揺らぐ。
それでも志貴の手は、確かにここにある。
喉の奥から、声が出る。
「これは俺が決めたことや。口挟まんといてくれ。その線を越えるなら、斬る」
「俺を斬ったところで、お前の迷いは消えない」
赫夜は笑わない。
「手放すなら、いま、手を離してみせろ」
志貴の指を、無意識に強く握る。
「触れられない場所に置くのではないのか」
答えない。
赫夜は一歩も動かず、視線も逸らさない。
「そいつは二度と、お前を呼べない。一人だけ安全で、何もかもから隔絶されて、笑えると思うなら、やりきればいい」
帳の内で、志貴の指がさらに絡む。弱い力なのに、確かに意志が滲んでいる。
「千年かけて辿り着いたのが、これか。笑えないな」
「お前に、何がわかる」
声が荒くなる。
「あぁ、何ひとつわからない。番なんて知らない。だが、お前が腑抜けになったのはわかる」
「……そこまでや、赫夜」
「Veilmakerと穂積壮馬は泳がせたまま。四天王は真っ二つで狙い通りとでも言うつもりか。お前、この先、何をする」
「お前に答える義理はない」
「可惜夜に浸る時間は終わりにしてくれ。根こそぎひっくり返されるぞ」
その声と同時に、志貴の指が強く絡みつく。
「一心、苦しい……」
灯の中で、志貴の髪がさらに淡くなる。白銀が増す。色が透ける。
一心の喉が鳴った。息がひとつ漏れ、肩がわずかに跳ねる。帳へ差し入れた手の甲に、志貴の指が食い込む。痛みより先に、体温が遠のく気配だけが伝わってきた。
思わず身を乗り出し、志貴を抱き寄せる。唇を強く噛み、血の味が広がるのも構わず、衝動を抑える。
「二度目は、ない」
「二度目か。……いいや、そいつには三度目だ」
赫夜が目を伏せる。
「何言うてる……」
意味が掴めず、赫夜を見る。
「一度目は、お前。二度目は、希詠が死んだ。三度目は、誰が死ぬのだろうな」
赫夜の視線が、逃げ場なく刺さる。
「わからないだろ」
赫夜は、そこで一拍置いた。
畳の目に沈んだ一心の指が、わずかに戻る。灯が揺れ、帳の布が、呼吸ひとつ分だけ鳴った。
「お前を生かすために、そいつが共犯に選んだのが、俺だったからだ」
その言葉の意味が、すぐには飲み込めない。胸の奥が裏返り、背に冷たい汗が流れる。
「何やと……」
思ったより細い声が出る。
「一心、寒い……」
振り向くと、志貴の唇の色が薄くなっている。触れている指先から、体温が遠のきはじめるのがわかる。
「そいつを手放したら、いけない」
赫夜の目に、押し隠しきれない哀しみがある。
「厄介な駒が消えれば、喜ぶのは誰だ」
右目の奥が強く脈打つ。結界の層が軋む音が、耳ではなく皮膚に伝わる。
帳の外で、八雷が飛び出す。白い灯の縁が一瞬だけ歪む。
破れではない。外側から、厚みを測るような圧が触れてくる。
雷光が帳の縁を走る。その瞬間、右目の奥で、ひびが入るような衝撃が走った。
右目の奥で縛りが軋む。鼓動に合わせて、視界の端が白く滲む。帳の向こうの温度が、指先から一段遠のいた。
引き戻せば、均衡が壊れる。離せば、志貴が遠ざかる。
選択の瞬間に、百日の縁がひと筋削られる。
音はしない。ただ灯の明度がわずかに落ちた。
雷光が再び走る。
志貴の指が、滑る。
その瞬間、八雷が叫ぶ。
「成立させるな……耀冥」
白い灯が大きく揺れ、影が壁に跳ねた。




