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第60話 灯ともらば 名を持たぬままに 夜ぞ来る


薄暮が住宅街に滲みはじめる頃、校門を出た生徒たちは当たり前のように列を作って歩いていた。笑い声が混じり、靴音が重なる。誰も急がず、誰も立ち止まらない。帰り道の流れは、決まりきった水脈のように滑らかだった。


咲貴は校舎の屋上にいた。フェンスの上に腰を下ろし、その列を見下ろす。


生きた人間の目には、黄泉使いの姿は淡く滲むだけで、像を結ばない。


流れの中に、引っ掛かりのない影があった。


特別なことは何も起きていない。押されてもいないし、避けられてもいない。輪から弾かれているわけでもない。


ただ、呼ばれない。視線が留まらない。


肩が触れても、音としての呼びかけが立たない。返事をしたはずの口元が動いても、その声は誰の耳にも残らず、会話の向きが次へ滑っていく。


咲貴は目を細めた。


知っている顔だった。点呼のとき、担任の声に一拍遅れて返事をしていた生徒。


咲貴の脳裏には、生徒を形づくる名の文字列が確かにある。声にして確かめるだけでいい。そう思った瞬間、背後の気配が空気を冷やした。


「呼ぶな」


望の声は低く、短い。叱責ではなく、遮断だった。咲貴は息を呑み、音を噛み殺す。


「生きた魂に名を投げるな。返りは必ず、お前に来る」


言葉は平板で、間がない。


「……このままじゃ」


「このまま、だ」


望は動かない。視線は下の列ではなく、咲貴に向いている。


それで終わりだった。咲貴は言い返せない。


形にならないものを抱えたまま視線を戻すと、列は住宅街へ入っていくところだった。道が細くなり、ブロック塀が視界を切る。家々の影が夕暮れの中で長く伸びる。


咲貴はフェンスを越え、街路樹の枝に移った。枝葉の間から見下ろすと、制服の色が夕暮れに溶けはじめているのが分かる。空はまだ明るいのに、日向と日陰の境が伸び、住宅街の入口に影を落としていた。


信号で列が止まった。赤の灯が点り、全員が足を揃える。笑い声が途切れ、スマートフォンの光が瞬く。その短い間に、呼ばれない生徒の位置だけが、わずかにずれた。


誰も振り返らない。遅れたとは、誰も思わない。


信号が変わり、列は動き出す。呼ばれない生徒は横断歩道に踏み出さなかった。


その子は踏み出せなかったのではない。踏み出す理由が抜け落ちたように、足が止まったのだ。周囲の流れだけが先へ行き、背中が遠ざかっていく。


咲貴の胸の奥に、嫌な匂いが立った。血でも腐臭でもない。生きているはずの場所に、生きていないものが混じるときの匂い。名が削られ、輪郭だけが残った魂の乾いた匂いだ。


「……やられる」


咲貴は唇を噛んだ。望に掴まれた右腕が、骨の奥で呻いた。


街灯がひとつ点った。薄橙の光が舗道に落ち、電柱の影をくっきり切り取る。もうひとつ、またひとつ。灯が増えるたびに影の質が変わる。生徒の足元で影が沈み、地面に貼り付いた。


「せめて、悪鬼を狩る」


咲貴は飛び降りた。音を立てず距離を詰める。悪鬼の気配が、すでに近い。


影が足首に絡む。引きずるほどの力はない。ただ、立つ位置を奪うだけの重さ。生徒は振り返ろうとして動きを止めた。口が開く。だが声が出ない。助けを求める音にすら、ならない。


塀際の影が揺れた。人の背丈ほどの濃さが、壁に貼り付くように動く。


悪鬼だ。すぐには伸ばしてこない。まだ届かない距離で、角度だけを測っている。落ちる瞬間を待つ獣の息遣いが、空気に滲む。


咲貴は刃を抜いた。迷いなく振るう。影が裂け、黒い気配が散る。ここまでは宗像のやり方だ。咲貴はさらに斬る。二度、三度。闇は薄くなる。だが、終わらない。影の底がまだ生徒に吸い付いている。


咲貴は手を伸ばした。生徒の腕を掴む距離まで詰める。指先が触れる直前、襟首を掴まれ、引き剥がされた。


またか、と喉の奥で思う。数える気にもなれない回数を、身体が先に覚えている。意味が薄いと分かっていても止まれない。


溢れ出る悪鬼を削り続ける。可能な限り、生徒の足元の影を薄くする。


だが、名が戻らず、生徒の膝が折れた。


倒れた音はしない。そこにあったはずの重さが抜け落ちる。輪郭が薄れ、薄れ切ったところで、世界がそれを受け取らない。


数秒遅れて、悪鬼が現れた。喰らう動作は短く、慣れている。咲貴は最後まで見た。目を逸らせなかった。


周囲の窓が明るくなる。カーテンが揺れ、人の影が映る。夕餉の匂いが遅れて風に乗る。


誰も気づかない。そこに誰かがいたことも、消えたことも。


咲貴はその場に立ち尽くした。


いくら悪鬼だけ削っても、結果は変わらない。刃先に残る感触が消えないまま、鞘へ戻す。


背後の夜気が、ふっと軽くなる。


「それで、何か変わったか」


望の声は責めてはいない。それが余計に刺さる。


咲貴は視線を落とす。さっきまで誰かが立っていた場所には、何の痕跡も残っていない。世界は綺麗に整っている。最初から欠けていたように。


「……悪鬼は減った」


「そうだな」


望は頷く。それ以上も、それ以下もない事実として。


「宗像ができるのは、そこまでだ。生きた人間の名には触れない。約定だ」


咲貴の肩がわずかに強張る。分かっているから、喉が詰まる。


「これでいいとは思わない」


声が少し荒れた。


望はしばらく黙っていた。街の方を見たまま、夜の匂いの中に沈めるように口を開いた。


「いい、悪いの話じゃない。宗像の最優先は、お前が無事であることしかない」


咲貴は顔を上げる。


「それ以外は切り捨てる」


感情は乗っていない。だからこそ逃げ場がない。


「名を持たず、役割に寄りかかる魂だ。世界の側から見れば、腹は痛まない」


咲貴の胸の奥で、何かが冷えた。


「それでも、生きてた」


言葉は震えないように、腹に力を入れて押し出す。


「帰る途中だった。明日も、たぶん同じ道を歩くはずだった」


望の視線が一瞬だけ逸れる。


「先に言う。ここで志貴を持ち出すのは、やめておけ」


声が低く鋭く、咲貴は反論を飲み込んだ。これを越えれば取り返しがつかない線がある。


「お前は志貴じゃない」


志貴は、黄泉使いでは手が出せないからと、陰陽師に投げたことがあった。それでも足りず、今度は黄泉使いでも王でもなく、ただの高校生として前に出た。


名を削られたまま放っておけば、何が起きるのか。それを言葉にして、教室で話したことがある。笑い声が返ってきた。その記憶だけが、妙にはっきり残っている。


それでも、志貴は止まらなかった。


咲貴は、その背中を思い出す。


「わたしは……何回、見逃すんだ」


問いは独り言に近かった。


「何も残らないのを確かめるしかないのか?」


望は答えない。代わりに冷たい事実を置く。


「いずれ、悪鬼に喰われ終わる。名を失った魂は例外なくそうなる」


咲貴は拳を握った。爪が掌に食い込む。


そのとき、街灯の列の向こう、影の薄い縁がひとつ、ゆっくり動いた。咲貴の目がそちらへ吸われる。名が抜けたあとに残る、かすかな引っ掛かり。追えば必ず行き着く場所がある。なぜか、いつも引き寄せられる。


咲貴が足を踏み出そうとした瞬間、望が低く言った。


「戻れ。今は宗像の内側にいなければならない」


咲貴は止まれなかった。何も考えずに済むように、無心に駆けた。


夜が完全に落ち切る前、薄い縁の向こうから声が届いた。


「また、お前か」


赫夜の声だった。境界の縁に腰を下ろし、こちらを見もしない。


咲貴は息を吐いた。助けられなかった空白が、まだ喉に残っている。


「……助けられなかったんだ」


赫夜は肩をすくめる。


「俺に慰めてほしいのか。面倒だな」


赫夜は笑わなかった。腰を下ろしたまま、薄い膜の外側にある住宅街の方へ顎を向ける。灯りの粒が連なり、窓の向こうで生活が動いているのを見ていた。


咲貴は黙り込んだ。何か言葉を返せば、その言葉が軽くなる気がした。


「狐にでも止められたか」


赫夜の声は軽い。揶揄でも慰めでもない。見慣れた結果を、そのまま置くだけの調子だった。


咲貴は視線を上げる。赫夜の輪郭は夜に溶けるのに、目だけが薄く光っている。灯りを嫌うように、光の外側に座っていた。


「見殺しにした」


咲貴は事実だけを口にする。


「生者の核に触れたなら、跳ね返りが来る。狐は正しい」


赫夜はあっさり言う。正しさの中身に興味がないように。


咲貴の喉が詰まる。正しいからこそ、今夜の苛立ちと痛みが消えない。


「……あれが、正しいと言うのか」


咲貴の声は低い。怒鳴れば楽になるのに、怒鳴るだけの余裕もない。薄暮の端で見たものが、まだ目の奥に残っている。


赫夜は一度だけ息を吐いた。長くはなかった。笑いに似た形にもならない。


「見殺しに見えたのなら、お前は何も分かっていない」


咲貴は眉を寄せる。


「お前が触れても、魂は壊れる。結局は同じだ」


赫夜の返しは早い。


咲貴は歯を噛んだ。望の声が頭の底で反芻する。


「……じゃあ、誰なら助けられる」


咲貴の問いは境界の闇へ落ちる。答えが返らないと分かっていても、投げずにはいられない。


赫夜はようやく咲貴を見た。真正面からではない。少し斜め、灯りの縁で揺れる影越しに。


「誰もできない」


咲貴の胸が冷える。


「己で救えないのなら、終わりは変わらない」


赫夜の表情はぴくりとも動かない。


「じゃあ、Veilmakerは何がしたくてこんなこと!」


咲貴が名を口に出すと、空気が一段薄くなる。境界が少し近づく感触がある。皮膚の上を、見えない指が撫でたような冷えだった。


赫夜は目を細める。


「淘汰」


咲貴は黙る。赫夜の言葉の続きを待つ。


「簡単に消せる魂から消す。お前が今夜見たのは、まさにそれだ」


赫夜の視線は住宅街へ戻る。あの道。街灯が点いた瞬間に影が沈んだ場所。


「誰かに呼ばれなければ、自分の形を保てない。役割が外れた瞬間に薄くなる。怒られても、褒められても、他人の声でしか自分を組み立てられない」


咲貴は唇を噛む。否定はできなかった。


学校で毎日見ている。名前ではなく係で呼ばれ、役割で立ち、外れれば空席になる。そこに座っていた顔が残らない。


「そんな魂は淘汰されやすい」


赫夜の声が少し低くなる。


「消えても世界が揺れない。だから、まずそこから削る。意味のある選別じゃない。壊しやすい順に手をかけさせる。魂自身に壊させるやり方だ」


咲貴の胃の奥がきりきりと痛んだ。


「名が魂から剥がれたなら、生きたままでも死んだのと同じことだ。悪鬼の爪が掛かる。悪鬼が喰えば魂は消える。冥府になだれ込む魂の数が雪だるま式に増えない理由が、これで分かるか」


咲貴は奥歯を噛み締めた。


「Veilmakerはそこまで計算してるとでも?」


「さあな」


赫夜は肩をすくめる。


「黄泉使いは悪鬼を削る。削られたぶんは別の場所から湧く。お前たちすら、循環の中で回っているだけだ。だから結果は変わらない」


咲貴は拳を握る。宗像ができるのは、生身の人間に悪鬼が手を伸ばせないようにすることだけ。それがまるで意図された歯車のように思えてならない。


「馬鹿にされてるみたい」


咲貴の声は掠れる。


赫夜は「そうだろうな」とだけ言った。そこには慰めも、叱責もない。


「なら、千年王を壊したい理由は?」


咲貴は言い直すように問いを重ねる。


赫夜の目が一度、遠くを見る。住宅街ではない。境界のさらに向こう、名の筋が消える側へ。


「千年王は、対局にいる」


その一言が、咲貴の胸に重たさとして落ちた。


「人の寿命から切り離され、名は畏怖され、残る」


赫夜は淡々と続ける。ただ、事実としての厄介さだけがある。


「世界を軽くしたい連中にとってな」


赫夜は灯りの外側を見たまま言った。


「千年王は、重すぎる」


咲貴は息を呑む。残るから、世界が繋がる。繋がるから、淘汰の手順が崩れる。


「だから、最優先で壊したいだけだ」


赫夜は言い切る。


その言葉を聞いた瞬間、咲貴の背中に薄い冷えが這った。


「……宗像が、なんで全てに絡むか、分かるか」


赫夜が不意に問いを投げる。


咲貴は黙った。答えを知っているのに、口に出すのが怖い。名を口にすることは、境界へ指を突っ込むことに似ている。


赫夜は咲貴の沈黙を許したまま、言葉を続けた。


「宗像が宗像である理由、もう知らないふりはできないはずだ」


咲貴は右肩から腕に絡みつくようにある痣を抱きしめた。宗像の血は、名の重さを固定する根であるということだ。崩したい側が、そこを放っておくはずがない。


「お前、冥府なら生きた人間の魂に触れられるとか考えただろ」


「違うの?」


「触れるわけがない。魂の筋書きは不可侵だ。どんな偉人でも、どうしようもできない」


咲貴は言葉を失う。胸の内側で、さっきの影が沈む。


「じゃ、あんた達は何をしてるの?」


赫夜は鼻で息を吐いた。笑いでも諦めでもない。


「冥府がどうとか、期待するな」


声が乾いている。


「俺たちは、救う側じゃない。記録して、終わりを見届けるだけだ」


咲貴は唇を噛む。


「それじゃ、何も変わらない」


「変わらないから、ここにいる」


吐き捨てるほどの強さもない。淡々と置かれた言葉が、余計に刺さる。


しばらくの沈黙ののち、赫夜はまた住宅街の灯りへ視線を戻した。


「昔はな」


それだけ言って、言葉を切る。


「蒼と白で収めた時代もあった。黒が引き取ったこともある。宗像が前に出たことも、確かにあった」


事実の羅列なのに、どれも遠い。赫夜は年号を言わない。


「毎回、やり方が違っただけだ。終わらせた理由は同じでもな」


咲貴は、それ以上を聞かなかった。聞けば、戻れなくなると分かっていた。


「もう帰れ」


赫夜がそう言うと、夜に溶けるように姿が薄くなる。境界の縁に残ったのは、声の温度だけだった。


咲貴は頷いた。


「戻る」


口にしたのは宗像への帰路だった。逃げではない。宗像の中でしか守れないものがある。


志貴の眠り。咲貴自身の身体。宗像の約定。そのどれも壊していい理由はない。


宗像へ戻る道で、街灯の下を何度も通り過ぎた。灯りは点き、家々は静かだ。笑い声も、テレビの音も、夕餉の匂いもある。その中で、欠けた名だけが戻らない。戻らないことを、誰も知らない。


「ごめんね。わたしは、神様じゃないから」


懺悔にもならない詫びの言葉しか出ない。


宗像の結界に近づくと、空気の密度が変わる。香の筋が整い、地が静かに重くなる。守りの匂いが、咲貴の皮膚に薄く膜を張った。


結界の内側では、足を取られる感触がない。名の輪郭が、どこにも削られていないと分かる。


門前を通り抜けた当直の者が、軽く会釈をした。声はかけない。足も止めない。それでも、咲貴が通り過ぎるまで、進路は自然に空いていた。


忙しさも焦りもない。名を奪われずに、今日も無事に終わったという顔だ。


咲貴は足を止めかけ、やめた。ここで声をかける必要がないことを、皆がもう知っている。


悪鬼は減った。命を奪い合うような被害報告も上がっていない。一般人に関する件は、宗像の管轄外。それで終わりだ。


帳場に入ると、公介が机に向かっていた。帳面は広げられているが、書き込みは少ない。


「戻ったか」


公介は顔を上げずに言う。咲貴は一歩だけ内へ進んだ。


「一般人が消えました」


公介の筆が一度止まる。


「十三名も、です」


公介は墨を含ませ、淡々と書く。


「どうしようもないことだ」


現状にそれ以上の評価はないと、公介は息を吐いた。


「次から次へと、名を奪われかけている人がいました」


やはり、公介の手は止まらない。


「見えているのに、何もできない」


公介はそこで初めて筆を置いた。咲貴を見る。責めるでも庇うでもない目だった。


「手を出せばいいわけじゃない」


静かな声が、理としてそこに置かれる。


咲貴は俯いた。


「……分かってます」


公介はもう何も言わなかった。その沈黙が答えだった。


宗像は動かない。役割に忠実であり、外で起きることまでは引き受けない。分かっていても、胸の奥に重たいものが沈んでいる。


呼べなかった名。消えても誰も気づかない空白。悪鬼を削った手触りだけが残り、救えたものなど何ひとつない。


咲貴は境界の方角を見た。道反の向こうには、名が薄くなる場所がそこかしこにある。


いずれ、また見に行く。止められても、戻されても。今夜見たものを、見なかったことにはできない。見なかったことにした瞬間、自分の名が軽くなる気がした。


宗像の灯を背にしたとき、咲貴はもう一度だけ、薄暮の住宅街の街灯を思い出した。灯りが点いた瞬間に沈んだ影。声が出なかった口。誰も気づかなかった窓の明かり。


喉の奥で、言葉にならない熱が生まれる。


ここでは、名は失われない。

それでも、救われたわけではなかった。


王玉をこの身体に抱いたくせに、何も変わらない。


咲貴は掌を見た。


王でいる限り、失われないものがある。


それを知ってしまったからこそ、王でいるだけでは、足りないと分かる。

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