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第6話 袖にとどむる香のまにまに(後編)


障子の外で、水がひとしずく落ちた。

夜の深みを破らぬほどの音。それだけで庭の白砂は月色を濃くし、家そのものが息を潜める。宗像の奥井戸――かつて王たちの瘴を削いだ封じの泉は、今宵、空の白と月の核をまるごと孕み、誰の影も寄せつけない清冽で満ちている。


水面の上で、志貴の髪がほどける。

細い身体は男の腕に支えられ、泉の白へゆるやかに沈む。その境目にだけ温度が灯り、触れた水が赤を喰み、灰を溶かし、皮膚の下に貼りついた夜の屑を順にほどいていく。


男の影は白光を裂くほど濃く、黒衣の裏地の金糸がひと筋だけ瞬いて、すぐ闇に呑まれた。

彼は沈黙のまま抱き、足下に波ひとつ起こさず泉へ降りる。


結界の紋は目に触れぬ角度で組み替えられ、水は拒まず、風は止み、香だけが凪ぐ――理そのものが、彼の呼吸に歩調を合わせて身を伏せた。


掌を志貴の白い喉に添え、脈を読む。熱はまだ抜けない。

彼はその熱を胸の奥で受け取るように抱き寄せ、薄い衣越しの温度を骨へ、血へ、芯へと移していく。移ろう熱を逃すまいと腕にひそやかな力が籠もり、同時に、これ以上は越えないと告げる意志が肘の内側で微かに震える。奪う抱擁ではない。ただ、世界から他のあらゆる香を退けるための抱擁だ。


この泉は、いまはもう彼だけのものだった。

かつて王たちが順に潜った道は、結界の勘と香の理で組み替えられ、鍵をひとつに絞られている――彼以外の手では開かない路。肌に付くのは、泉と月と、彼の香だけ。誰の手も、祈りも、薬も、いらない。志貴に触れて許されるのは、水と光と、この胸だけ。彼はそれを赦しではなく責務として引き受ける。


息が交わる。音はないのに、世界が鼓動を思い出す。

志貴のまぶたの裏で夢の影が淡く燃え、黒の気配が彼女の“紅”に触れて細い光柱を立てる。赦しと死、灯と闇――境はここでやわらぎ、輪郭を分け合う。触れれば砕ける均衡を、彼は掌で支えた。欲の重みは喉奥で丸めて沈め、腕に残したのは保護のかたちだけ。


名は呼ばない。呼べば、いまが壊れる。志貴の中の魂がこちらを見てしまう。

濡れた頬を親指で拭い、唇にかかった一筋の髪をどけ、二度と触れられぬものの扱いで温度だけを確かめる。腕の内で志貴の呼吸がひとつ乱れ、すぐ整う。泉の光がふっと沈み、音が止んだ。結界は完全に閉じ、誰の干渉も及ばない世界がここにできあがる。


志貴の指が小さく動く。

眠りの底の反射のように、男の頬を掠め、そのまま右の瞼へ。羽根より軽い触れ。けれど、そこは誰の手も届かぬ禁域だった。男の肩が、びくりと震える。


「……そこは」


言葉は途切れ、指先が静かな熱を分け与える。彼は目を伏せ、苦く、しかし穏やかに笑った。


「やはり、あなたにしか触れられない」


その瞬間、泉の底で光が反転する。

志貴の胸から、八つの細い光が立ちのぼった。稲妻ではない、香のような雷。世界を焼くためではなく、理を縫い留めるために生まれた八つの魂。白、藍、朱、翠、琥珀、紫、墨、そして淡い金――雛のように志貴の周を巡り、名もなく呼吸を始める。古い神話の譜をなぞるように、穢れは命へと書き換わった。


彼の睫が、わずかに陰る。


「……戯れがすぎる」


低い声が水底に落ち、金の環のように広がった。


「静やかに在れ。呼ばれるまでは、何もしてはならない」


言葉に従い、八つの雷は志貴の肌際へ降り、光の糸となって溶け消える。

余韻だけが薄い輪紋として胸の上に残り、鼓動と重なってやがて見えなくなった。


彼は額に唇を置かない。かわりに、ひと息だけ吹きかける。

その息が光に変わり、焼け跡を静かに閉じた。痛みの名が薄紙のように剝がれ、皮膚の下のざらつきが消える。彼の胸には逆に、彼女の熱が残る。その熱を手離せば衝動が牙をむくと知っているから、彼はあえて持ち続けた。抱き尽くすことではなく、他の何も纏わせないこと――それが、彼に許された偏愛である。


月が頬を照らし、そこにわずかな紅が返る。

それは彼女の色ではなく、彼の胸に灯った余熱だ。衣の裾を払い、ほどけた髪を梳く。指のあいだから小さな光が生まれては消え、香のように空気へ滲み、誰にも見えない祈りだけが残る。触れているのは髪と光と息――それ以上の何かに手が届く前に、自らを止め続ける。


世界が息を止めた。

胸の奥から黒い香がひと筋、静かに昇る。死の香であり、再生の香――紅を赦し、紅を焦がす矛盾の光。泉がひときわ明るみ、志貴の身に絡みついていた穢れが、記憶の書式だけを差し替えるように消えていく。


男は抱いたまま待つ。この魂がまた世界に馴染むまで。世界がもう一度、彼女を受け入れ直すまで。


やがて光は落ち着き、水音が戻る。

彼は一歩踏みしめ、立ち上がった。白衣が水中で揺れ、裾から落ちる雫が月を裂く。一滴ごとに、夜が呼吸を取り戻していく。頬にかかる髪を払い、声にならない言葉を置く。


――おかえり。


音のない輪が水底へ沈む。志貴の睫がわずかに震え、唇がかすかに動く。

彼はもう一度だけ息を送り、光を胸へ戻した。輪郭は霧のように薄れ、次の瞬間、志貴は元の寝所にいる。頬にはまだ、泉と月と、ひとりの香だけが確かに残っていた。


月は高く、夜は深い。

見届けるだけの光が、二人の名を知らぬまま、長い邂逅の余熱を白砂に落としていった。


***


宗像本邸の奥、障子の隙間に月が細くささっていた。

白砂には、さっきの水の気配が薄く残る。風はなく、音もない。ただ空気の底に、香炉ではない“香”が、ごく薄く沈んでいる。人の理から零れた、誰かの残滓。


公介は、その匂いを嗅ぎ分けられる数少ない男だった。


「……また勝手に、動いたか」


落とした声が板目に吸い込まれる。苦々しさというより、安堵に近い温度。

長椅子の前の卓に、小さな瓶がひとつ。中で泉の水が淡く光る。


月を透かすと、瓶の底に金の輪がゆらぎ、ゆるやかに形を変えた。


「昔みたいに……置き土産をよこすとはな。ほんま、律儀な男やで」


かすかな京都訛りが滲む。

当主の貌を外せるのは、こういう時だけだ。


蓋を外し、掌に一滴。月光が肌の上でゆるく紅に転ぶ。

公介は眉をわずかに動かし、喉へ落とした。胸の奥に温度が差し、痛みが引く代わりに、何かが深く沈む。それは彼にしかわからない“応答”。


「……約定は、まだ息しとるんやな」


独り言のように。祈りでも悔恨でもない。

ただ、かつて泰介と並んで結んだ理が、今も働いているという手応え。


「紅の灯が宗像の最後の境を護る、やて……よう飲み込めん理屈やったが、いまや、それがすべてとはな」


苦く笑い、瓶を卓に戻す。反射した月に、紅い紋が一瞬だけ浮いて沈む。

符でも術でもない。彼だけの“返事”。


――そのとき、障子の向こうで衣擦れがさざめいた。

息の音が、紙を撫でるように近い。


「――狐が来る」


低い声。名は呼ばれない。

部屋の温度が一段下がり、瓶の光が音もなく消えた。


公介は目を細める。

「……なるほど。そういう段取りか。えげつないなぁ」


口の端に笑みがのぼる。

癒しではなく指令、助けではなく準備。昔から、あの男の“贈り物”には必ず裏があった。


「次から次へと……。俺は怪我人やぞ」


障子越しの気配が、かすかに笑った気がした。

言葉にはならない。それでも、息の調子だけで伝わるものがある。


「――境は守った」


「知っとる。せやけど、あの子はまだ“子ども”や」


短い沈黙。月が障子紙の繊維を透かして揺れる。

境は一枚。だが、その向こうとこちらで、呼吸の拍は同じだった。


公介は低く息を吐く。

「筋書きまで守らなあかんのも……約定のうちか。ほんま、厄介な契りやで」


返事はない。代わりに、香がひと筋、黒く沈む。

同意とも、警告とも取れる静けさ。


公介は立ち上がり、瓶を袖へ滑らせた。光はもう動かない。

それでも、その小さな重みの中に、確かな気配が息づいている。


「狐の前に顔出すとは……手ぇ早いわ、ほんま」


ひと息、余計な力を吐き出す。声は低いが、底に刃の線がある。


「綻び一つ、許さへん」


障子の外で、風がふっと止む。

それきり気配は溶け、残るのは沈黙だけ。たしかに“了承”の温度を含んでいた。


紙がわずかに揺れ、月が差す。狐が現れるまでの、ごく短い間。

公介は、誰にも聞こえないほどの声で置く。


「……心得てる」


月明かりが横顔の影を深く彫る。

宗像の当主の貌に戻ると、公介はひとつ息を吸い、襖へ向かった。


***



志貴はまだ、まぶたの奥に水の残滓を見ていた。

身体は軽い。けれど、心だけが置き去りのまま。

夢と現のあわいを、いまだ歩いている。


あの夜の気配も、香りも、声も――どこにもない。

ただ、空気の底にだけ、焼けた木の香と、鉄の匂いが薄く残っていた。


……その匂いが、ふいに変わる。


冷える。

空間が一段――いや、二段、沈む。

湿りのない冷気。世界が静かに書き換えられていく。


そのとき、襖の前で“足音のない気配”が止まった。


「お目覚めですね、お嬢」


柔らかく、よく通る。だが、温度のない声。


襖が音もなく開き、黒に近い濃紫の衣をまとった男が入ってくる。

肩口に金糸の梅。髪は淡金に結い上げ、瞳は氷を溶かしたような淡い青。

香水ではない――室内に満ちるのは伽羅でも花でもない、夜そのものの香だ。


一歩ごとに畳の目が逆撫でされ、空気の密度が変わる。

光の重心が、彼の輪郭へ寄っていく。


怖い、と本能が告げた。

威圧ではないのに、場の理そのものが膝を折る。


男は一礼し、静かに名乗る。


「――望と申します。お父上・宗像泰介さまの代にお仕えしておりました。こうして顔を合わせるのは、十年ぶりでございましょう」


滑らかな声音。口元に微笑。だが、目は笑っていない。


彼の視線が、志貴の右肩をかすめる。

痣の奥が、かすかに疼いた。


望の視線が髪から瞳、肌へと順にとどまる。


「……闇より深い黒髪。月を映す琥珀の瞳。白磁の肌」


礼の調子でありながら、試す色が混じる。


「血筋も姿も、宗像の王にふさわしい。――それが、よりによって紅の雛とは」


微笑がわずかに歪み、空気が冷たく沈む。

志貴は無意識に布団の端を握りしめた。


「眠られてばかりで、魂が戻るのを拒んでいたのでは――と」


「……余計なお世話や」


自分でも驚くほど低い声。

その余韻に、望の瞳が細くなる。懐から小瓶と盃が取り出された。


「薬湯です。泰介さまがよく召し上がっていたもの。目覚めには、これ以上ありません」


湯気は甘く、懐かしい――けれど違う。

喉が反射で拒む。望は眉をわずかに動かし、盃を静かに引いた。


「では、こちらに」


和紙包みの飴。形も包みも、“あの人”のものに酷似している。

だが、香りが違う。

指先が触れた瞬間、包みはするりと落ちた。


望は拾い上げ、目だけで微笑む。

「これを口にできない宗像はいないはずですが?」


声音の奥で、薄い氷が鳴った。


「……檻の中では、王は育ちません」


ぽつりと落ちる。

志貴は眉を寄せた。


「檻……?」


「そのままの意味です。あなたが今どこに囚われているのか――お気づきであればよいのですが」


望は立ち上がり、志貴の髪を視線でなぞる。

闇より深い黒が一本一本に宿るのを、確かめるように。


「黒の理を宗家に混ぜた時点で、宗像は“穢れ”を孕んだ」


胸の奥が、わずかに波打つ。言葉が何かを掠めた。


「……黒?」


名を思っただけで、熱が走る。

望はその反応を逃さず、目尻を細める。


「おや、やはり――まだ香りが残っている」


志貴が息を呑んだ、その刹那。


「――そこまで」


襖の向こうから、低い声。

こめかみに鈍い痛みが走り、志貴は一度だけ瞬く。

空気がぴんと張り、望は微笑の形を整えた。


「宗像の当主。……お久しゅうございます」


障子がわずかに開き、公介の影が射す。

望は穏やかに頭を下げた。


「礼はいらん。子ども相手に、何をしている」


「教育とは、常に痛みを伴うものです」


「理屈を教える前に、人の呼吸を奪うのが教育か?」


静かな声。底に刃。


望の微笑が、ひとかけら薄くなる。

「情は、宗家を腐らせますよ。紅の灯は、いずれ理を崩します」


「理だけで、この家は護れん」


一拍。

月が障子紙の繊維を透かして揺れる。

境は一枚――だが、向こうとこちらの呼吸の拍は、同じだった。


望は視線だけで志貴に触れ、言葉を落とす。

「あなたも、泰介さまも――甘い」


「甘いと言われてもな。俺が当主だ。好きにさせてもらう」


空気が鋭く張る。望の瞳に微かな光。

次の瞬間、すべてが引いた。


「お好きに。満ちた月のあとは、かならず欠けが訪れます。それが世の理です」


そして、軽く、わざとらしく。

「……器なら、他にも在りますので」


衣の裾がすっと揺れ、室内の温度がもう一目盛り下がる。


「望。――次は俺を通して来い」


呼び止める声に、望は肩越しに笑みだけを残した。

「ええ、当主。あなたが紅を護る限り、私は“敵”でおりましょう」


障子が閉じる。音はない。

香だけが、ゆっくりと別の位相へ移っていく。


志貴は、まだ息を整えられずにいた。

公介は袖の内で拳をひとつ握り、吐息を落とす。


「……狐は、誰にでもあんなもんや」


一拍置いて、声をやわらげる。


「あいつの言葉、真に受けたらあかんで」


志貴は小さく頷く。

胸の奥の冷気は、なお消えない。


――望。その名が、脳裏に薄い刃のように残った。

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