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第6話 袖にとどむる香のまにまに(後編)

障子の向こうで、水の音がした。


小さな、波紋のような音だった。だが、それは明確に――“何か”を浄化する音だった。


志貴はまだ目覚めない。


痣の疼きも、焼けつく熱も、いまだに身体の奥に燻っている。 


その身を、誰かがそっと抱え上げていた。


白く光る泉の中。結界によって封じられた、宗像の奥井戸。

かつて王たちの瘴気を流すために使われた、清廉の水。


その水面に志貴の手足が浸かるたび、わずかに灰色の気泡が浮き、淡く弾けた。


……瘴気。


まだ抜けきっていなかったのだ。

あの夜、解放された“何か”の爪痕が、志貴の体内に残っていた。


「……こんな身体で、出すなど」


男の声が、低く落ちた。


怒りではない。悲しみでもない。


ただ、ひどく静かな、痛みだった。


「脆い」


その一言には、あらゆる想いが沈んでいた。


志貴の細い指先が、ひたり、と泉に沈む。


男は、そっと彼女の額に手を添えた。まるで、何かの祈りをなぞるように。


けれど、名は呼ばない。指先も、過度に触れない。

志貴がまだ、それを“受け入れられない”と知っているからだ。


男は、志貴を泉から上げると、静かに衣を整え、濡れた髪をそのままに、元の布団へと抱いて戻した。


何も語らず、何も残さず、ただ――寝かせる。


まるで、夜が夜に還るように。


その背には、狼の面もなければ、香の気配もなかった。


 


* * *


 


一方その頃、公介の枕元には、小さな瓶が置かれていた。


中には、泉の水が少しだけ。


清澄な、それでいてただの水ではない。魂の層まで届く、宗像の“深”。


公介は、薄く目を開ける。


「……お前か」


声をかけたつもりだった。けれど、すでにその気配はなかった。


彼は、何も告げずに去っていた。


まったく、昔からそういう男だ――と、公介は小さく息を吐いた。


彼は、そっと瓶を持ち上げ、光にかざす。


中で揺れる水は、なぜか懐かしく、どこか切なかった。


「……一心」


その名を、誰もいない空間に落とす。


公介は、瓶の水を一息に飲み干した。


喉が、火照るように震える。だが、それは癒しだった。


「高級な薬をいただいたもんだ」


瓶の内側には、誰にも見せられないような“紅い符”が、ひときわ淡く浮かび、そして消えた。


「行かねばならんか……そろそろ、動くかな」


片腕になった左肩に、布を巻きなおす。


戦えるかどうかなど、問題ではなかった。


宗像の名を継ぐ者として、王のために、なすべきことがある。


公介は、立ち上がる。


最後に、眠る志貴のもとへと歩み寄る。


膝をつき、そっと、彼女の髪に手をやる。


撫でる指は、穏やかだった。


「……宗像の根性、見せてやれ」


囁くように告げる。


それは、命令でも、遺言でもない。


ただ、一人の“師”として、一人の“家族”として。


振り返らずに、立ち上がった。


出て行く間際、背中越しに、ぼそりと一言。


「俺がいない間――何を言われても、王の背筋、折るなよ」



それは、信頼だった。


重ねた日々の、重ねた声の、約束だった。


襖が開き、静かに閉じられる。


志貴の部屋には、再び深い眠りと、泉の香だけが残っていた。







 眠りの底から、ゆっくりと引き上げられるようにして――志貴は、目を開けた。


 


 ――五日。


 


(……こんなにも治りが遅い。王だなんて、ただの肩書じゃないか。一つも良いことなんかない)


 


 「宗像は二日ありゃいけるのに、五日なんて珍しくくらったね」


 


 富貴がそう言っていた。

志貴は意識は戻らず、ほとんど何も口にしていなかったらしい。


 


 公介の助言で、“一心の飴”を白湯に溶き、富貴が与え続けていたという。


 


 「体調悪いときは、それしか食わんからいけるやろ」と、彼は笑っていたらしい。


 


 その公介も、今はもう出払っていた。


 


 隣の布団は、すでに冷えきっていた。


 気配も、声も、香りも――もう、どこにもない。


 けれど、まだどこかに“痕跡”だけが残っていた。焼けた木の香、微かな血のにおい。誰かの気配の名残。


 


 ……その残り香が、ふいに変わる。


 


 ――冷える。


 


 夏でもないのに、空気が一段――いや、二段、下がった。


 湿度のない冷気。まるで空間そのものが、静かに“誰か”の領域に書き換えられていくようだった。


 


 そのとき。


 


 襖の前で、“足音のない気配”が止まった。


 


「お目覚めですね、お嬢」


 


 低く通る、けれど柔らかな声。


 


 襖が、音もなく開いた。


 


 踏み入ってきたのは、黒に近い濃紫の衣を纏った男だった。


 肩口には金糸で織られた梅の文様。髪は淡金に結い上げられ、瞳は淡い氷のように澄んでいた。


 香水はつけていないはずなのに、室内に満ちていくのは“夜の香り”。


 伽羅でも花でもない。ただ夜そのもの――そう形容するしかない、静かで濃密な気配。


 


 一歩ごとに、空気の温度が変わる。


 畳の目が逆撫でされ、空間そのものがゆるやかに異界へと変貌していく。


 


(……この人は)


 


 怖い――志貴の本能が、そう告げた。


 


 敵意も威圧もない。けれど、空気が膝を折らされている。


 彼を中心に、場の重心が傾いていた。


 


 その男の姿には、覚えがあった。


 


 ――狐。


 


 幼い頃、父・宗像泰介の傍らに、常に控えていた男。


 名も役目も思い出せない。ただ、泰介の隣にいた光景だけが、焼きつくように残っている。


 


「十年ぶりですね。こうして顔を合わせるのは」


 


 男は一礼し、滑らかに膝を折った。その所作に無駄はなく、まるで“儀式”のように洗練されていた。


 


「本当は、もっと早く戻ってくるつもりでした。ですが……少々、手間取ってしまって」


 


 やわらかな声音。けれど、そこに体温はなかった。


 


「三日三晩、眠っていたと聞きました。魂が――戻るのを拒んでいたのではと、心配しましたよ」


 


(……五日、のはず)


 狐の視線が志貴の右肩に一瞬だけ向き、志貴が反射的に布団を引き寄せる。


 志貴は眉をひそめた。狐は気づかぬふうを装い、懐から小瓶と盃を取り出した。


 


「薬湯です。泰介さまがよく召し上がっていたもの。目覚めには、これ以上ありません」


 


 立ち上る湯気は甘く、懐かしい匂いを含んでいた。けれど、違った。


 


(……これは、違う)


 


 “あの人”の香りではない。


 


 志貴の喉が、反射的に拒絶する。身体の奥が、それを受け入れてはならないと、告げていた。


 


 志貴は手を止め、静かに首を振る。


 


「……そうですか。嗜好が合わなかったようで」


 


 狐は微笑を崩さず、盃を引き戻す。その声の奥に、わずかな棘が宿っていた。


 


「仕方ありません。……まだ、その器ではなかった、ということにしておきましょう」


 


 続いて差し出されたのは、和紙に包まれた飴。包装も、形も、“あの人”のものに酷似していた。


 


 けれど、香りが違う。気配が違う。


 


 指先が包みに触れた瞬間――それは、するりと落ちた。


 


 狐は黙って飴を拾い上げた。けれど、その指先には、僅かな強張りが走っていた。


 


「……惜しいことです。待つ身というのは、どうにも落ち着かない」



 


 狐は微笑みながらも、指先だけが微かに震えていた。


 


「……檻の中では、王は育ちません」


 


 ぽつりと、誰に言うともなく零された言葉。


 


「檻……?」


 


 志貴の問いに、狐はやわらかく笑った。


 


「そのままの意味ですよ。お嬢が今、どこに囚われているのか。

 それに、気づいておられるといいのですが」


 


 狐は立ち上がりかけ、ふと、志貴の横顔を見つめた。


 その視線は、探るようでも、惜しむようでもあった。


 


(やはり……近い。あの魂に、色は似ている)



 足りないのだ。“王”としての何かが。


 


 本来なら努力など要らない。“王”は、ただ在るだけで他を圧倒するもの。


 痣の火力も、爆発的な王格も、回復速度も。宗像の王とは、そういう存在のはず。


 


 泰介は言った。志貴は“例外”だと。


 


 だが――遅すぎる。回復は遅れ、術も力も不安定で、矛は意志と結ばぬ。


 王にあるまじき“努力”と“戦略”にしがみつく姿。それはまるで――本能を、誰かに剥ぎ取られたかのようだ。


 


 ――何か、仕組まれている。


 


 狼だけではない。泰介もまた、何かを封じていた。


 


 この魂は、ただの宗像の王ではない。


 


 脳裏をよぎるのは、数千年に一度しか生まれない、禁忌の魂の色。


 


 なのに、なぜ――こんなにも、脆い。


志貴をわざと小物になるよう仕組んだかのような現実。


 志貴は小さい。

まるで小動物だ。

今も言葉一つで縮こまってしまう。


「百獣の王がまるでうさぎだ」



 志貴の表情に、わずかな陰りが差した。


 


(痣が焼けるたびに、何かが壊れていく気がするのに。……私は、何も変われていない)


 


 狐は、呆れたように微笑んだ。


 


「……“狼”というのは、ね。王の傍に在るには――少々、強すぎるのですよ。存在そのものが」


 


 志貴の胸に、何かが引っかかった。


 


(……一心、みたいな)


 


 瞬間、思考が自動的に“あの人”を描いていたことに、自分でも驚く。


 


「……“強すぎる”んですよ、あれは」


 


 まるで毒にも薬にもならない冗談のように、狐は微笑んだ。志貴の中に、“何か”がかかる。


 


「檻としては優秀すぎる。王が、“王”でいられなくなる」


 


「本当に“強すぎる”あの人を、知らない?」


 


 ――宗像一心。


 


 ただ名を思っただけで、胸の奥に熱が走る。志貴の視線が、ふと揺れる。


 


「え? なんで……」


 


 一瞬、志貴が何かに気づきかけた。


 


 けれど――その刹那、まるで見えない手が、彼女の意識を遮った。


 


 こめかみに走る鈍い痛み。脳裏にざらりと引かれる鉤爪のような違和感。


 


 “誰か”が、意図的に仕掛けた――思考の結界。


 


 それは、“狼”が仕掛けた保護だった。


 


 志貴の中に、自らの存在が“拒絶”として立ち上がらないよう。


 


 まだ受け入れられない今、名も与えず、姿も見せず、ただ――香だけを残している。


 


 王を守るために、狼は己を閉ざしていた。


 


 王に牙を向けぬために、己に牙を向けていた。


 


 志貴は、ふと、鼻先に残る香りに気づく。


 香をたどるように、ひとつ息を吸い込んだ。

枕の下から一心の飴がでてくる。


ーーずっと、ここにあったのか。気づけなかっただけで。


右肩の奥で、梅の痣がじくりと疼いた。

まるで、魂がそこだけ熱を持っているよう。


ーー呼んでしまったら、もう終わりだ。

本能で理解していた。


無意識に涙がこぼれ落ちた。

一心の飴に手をのばし、迷いなく口にふくむ。



 


「……甘いですね。強すぎるくせに」


 


 狐は、小さく嗤った。


 


 志貴の眉が、わずかに動いた。


 


 その反応すら、狐には苦々しかった。


 


 ――志貴はまだ、“狼”という存在に出逢っていない。


 


 それなのに、あの男だけが、こんなにも深く入り込んでいる。


 


 それが、何よりも――


 


(……不快です)


 


 狐の足はすぐには動かなかった。まるで、最後にひと押しすべき言葉を、どこかから掬い上げようとしているようだった。


 


「また参ります」


 


 その声は、変わらず優しい。


 


 けれど、次に紡がれた言葉の色だけが――変わっていた。


 


「……いえ、あなたの方が――呼ぶことになるかもしれませんね」


 


 志貴が、わずかに眉を寄せる。


 


 狐は、その表情すら待っていたかのように、目を細めた。


 


「魂が喉元で震えるとき。孤独が眠りを裂くとき。

 あなたが、“あの香り”の意味を、本当の意味で“思い出す”とき――」


 


 そのときこそ、我を呼ぶときだ。


 


「……どうか、その時に間に合いますように」


 


 その一言は、祈りというにはあまりに鋭く、予言というにはあまりに冷たかった。


 


 狐は踵を返し、音もなく歩き出す。


 


 その背に残るのは、香ではなく、“予感”だった。


 


 障子の前に立ち止まり、まるで余談のように、もう一言だけ落とす。


 


「……“狼”が、どれほど強すぎるか。あなたはまだ、ご存知ない」


 


 障子が、すっと開き、すっと閉じる。


 


 何も残っていない。


 


 けれど――志貴の世界の輪郭だけが、確かに、変わっていた。


 


 志貴は、ただ布団の中で丸まった。


 あの香りが、まだどこかに残っている。それだけで、心がやっと形を保てる気がした。


「嫌だ、一心」


 ――狐は味方ではない。けれど、敵の顔もしていなかった。


その曖昧さが、どんな悪意よりも――ゆっくりと、確実に。志貴の芯を蝕んでいった。

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