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第59話 隔てつつ 白き灯のもと 名はとどむ


宗像にある静域の最奥は、あらゆる意志を拒むため、泉の水によって幾重にも膜が張られている。水は澄んでいるのに、底の石が遠い。膜が重なった分だけ距離が増え、視線が届く前に削がれていく。


石畳と泉しかない空間に、異色な一角がある。四方と四隅に帳を垂らし、天井には明障子を置く。帳台の内には几帳と畳を敷いた浜床があり、柱や鴨居は帳と明障子に隠れて見えない。仮設の造りのはずが、ここだけは長く使われた布の匂いが落ち着いている。新しい麻が持つ青さではなく、何度も湿りと乾きを繰り返した繊維の乾いた匂いだ。


帳の内側にある白灯が、夜でも昼でもない明るさを保っている。灯は広がらず、面に残る。帳の影が濃くならないのに、輪郭だけが浮く。


畳の中央よりわずかに奥へ、低い寝台が置かれている。敷布と掛け布は新しいが、枕元の黒漆の盆は古く、盃の縁に小さな欠けがある。濡れ布を載せた皿の裏には、指でなぞれば分かる細かな傷が走っていた。ここで幾度も同じ手順が繰り返されてきたことを、道具だけが知っている。漆の艶の剥げ方が、触れた指の数を語り、欠けた縁が口をつけた唇の回数を黙って数える。


志貴の呼吸は細い。深く吸い、短く吐き切った先で一瞬だけ間が空く。その間、掛け布の上から胸の動きが消える。戻るまでのわずかな時間、部屋の重さが変わる。帳の布が空気を抱き直すのが分かるほどだ。その変化を、一心は見て受け止めるほかなかった。手を伸ばせば届く距離にあっても、伸ばさない。触れた瞬間に、ここにあるものが別の形へ動いてしまう。


一心は寝台の脇に寄らず、帳の外に座していた。膝の上で掌を重ね、力を入れずに保つ。力が入れば血が集まり、皮膚が温む。それが寝台へ届けば、志貴の呼吸はそれを拾ってしまう。


志貴の指が、掛け布の縁を探る音がした。掴みきる前の、布が擦れるだけの音だ。織りの目が小さく鳴り、すぐに帳の内へ吸われる。


盆の陰、寝台の脚の陰、几帳の縁の陰に、湿った金属に似た匂いが寄る。雨に濡れた刃を拭う前の匂いに近い。一心は声を出しかけ、喉で止めた。息に乗せれば、志貴が拾う。帳の内側の気配が一度だけ寄り、すぐ引く。匂いが薄れ、志貴の指は布を離す。呼吸は途切れずに続き、底へ沈み直す。掛け布の皺が戻る速さだけが、静かに遅い。


結界の外で、地が沈んだ。足音はないが、座した重みが床を通して伝わる沈み方だった。一心は顔を上げずに言う。


「そこから」


今夜は結界を開かなかった。ほんの微小な揺れでも、今の志貴では反応してしまう気がした。


わずかに緩めた隙から紙片が滑り込む。畳を擦る音すら出ないように落ち、一心の手前で止まった。


一心はすぐに触れない。志貴の息が戻るのを待ち、指腹だけで紙片を引く。香の濃淡が繊維に染み、撫でれば内容が分かる。


【猶予が削れている。春と秋が動き始めた。宗像の対策は進行中。香の筋、途切れなし】


香の筋は紙の端で乱れず、指に引っかかりもない。必要な事実だけが均され、余計な言葉が一つも置かれていない。


紙の匂いが淡い。墨ではなく、香だけが薄く残る。濃くもならず、遠ざからない。


指先が、最後の行へ滑って止まる。


冬馬に拒絶は出ていない。


紙面はそう告げていた。だが、その文は吉報として胸に落ちない。拒絶がないこと自体より、拒絶がないままこちらへ届いてしまっている“静けさ”が先に来る。香の筋も、行の幅も、均し方が整いすぎている。


一心は紙片の表面をもう一度撫でた。最後の行のあたりだけ、繊維が寝ている。そこで一度だけ指が止まったように、紙の面が均されていた。折り目をつける手前で止め、紙片を畳に伏せる。


盃の水面は揺れていない。欠けた縁の影だけが固定され、白灯の明るさがそこをなぞって戻る。結界の外で人が動いた気配はあるのに、その動きが帳まで届かない。


結界の外縁で触れ合うはずの名が、張り合わない。


本来なら、宗像へ引く力と冥府へ沈む力が同時に立つ。勝つ負けるではない。ぶつかり合いの最初の擦れは必ず起こるはず。


今夜は、それが来なかった。


冬馬の名は揺れないまま、冥府側の気配と重なる。境界の縁で、きれいに整えられている。


救済に出るのが赫夜か明熾か、その二つしかないのは最初から分かっていた。動ける者は限られる。香の筋の運び方が、手順を外していないことだけを淡々と告げている。


一心はそこで、ようやく口元を動かした。乾いた息が一度、漏れただけだった。


拒絶がないまま、名が重なる。それがあり得る形を、一心は一つしか知らない。


「拒絶がないのは、番だけや」


冬馬が番を持つなら宗像側で生じるはずだった。宗像の匂いの中で、宗像の手順に沿って、宗像の理の上で結ばれるはずだった。冥府の皇子がそこへ立つとは、想定にない。


紙片の香の筋が乱れていない。誰かが駆けずり回って修復した痕もない。むしろ整えすぎているのに、押し付けがない。境界の縁で張り合うはずのものが張り合わない。


冬馬の名は、押し戻されても、押し出されてもいない。


ただ、止まっている。冬馬の名に、誰かの手が触れた痕がある。触れて、拒絶を出させない形へ寄せた痕だ。


冬馬に拒絶が出ない。その事実だけが、帳の外に残る。


一心は視線を上げない。掌の重なりをわずかに変え、膝の上で熱を沈める。


この調子なら、冬馬は自分の足で宗像へ戻る。何事もなかったような顔をして、戻って来ることだろう。


それでも、一心の胸の奥に残るものがある。


番が成立するときにあるはずの、裂けるような手触りが来ない。愛おしいがゆえに選ばねばならない重さが、最初から薄く均されている。


その瞬間、過去が遅れて形を持つ。


「……これが、言いたかったのか」


互いの違いが立たないまま揃えば、引っ掛かるはずのところが引っ掛からず、ただ残る形になる。


あのときの言葉が、いま夜の静けさに遅れて刺さる。


『魂が惹かれ合う糸を、あなた自身に切らせるようなものです』


一心は脳裏に呼び起こされた声を振り払うように首を振った。両手で耳を塞いでも、まだ声がする。唇を噛んで、一心は目を閉じた。




***




「希詠、来るんだ」


灯を落とす必要がなかった。帳の内側に据えた白灯は、夜でも昼でもない明るさを絶やさず、影を深くしない。暗がりが沈まない代わりに、輪郭だけが残る。その中で、薬の香だけが冴えて立っていた。


「こうするしかない。聞き分けろ」


浜床の上に、二つ分の布が並べられている。厚さも織りも同じで、端を揃えれば一枚に見紛う。耀冥は布の縁を撫で、指先で重みを確かめる。どちらにも差はない。差があるとすれば、それは布ではなく、今ここにいる者のほうだ。


「冷えるから、来い」


短く言うと、耀冥は希詠の腕を取り、そのまま帳の内へ引き入れた。躊躇いが生まれる余地を残さず、布で身体ごと包み込んでしまう。


希詠は拒まないまま、布の端を掴み損ねた。指が届かず、掌が空を切る。いつもとは違う、ほんの小さな誤差だ。耀冥は、あえて触れずに流した。


「耀冥様、私は……」


言いかけた声を追い越すように、白い陶の薬皿を持ち上げる。淡く色づいた液が揺れ、香がわずかに立ち上る。


「同じにすれば、侵食されない」


耀冥の声は低く、揺れがない。希詠はその言葉を聞いて、まぶたの裏の暗さへ逃げた。


「息をしていろ」


命令だった。冷酷に切り落とされた語尾なのに、言い捨てにはならない。祈りに似た硬さが残る。


希詠は布の端を掴み直し、そのまま言葉を押し出した。


「陪終だからですか?」


希詠は視線を外し、白灯の縁を見る。


「私も貴方もなくなるのに」


希詠の声は静かだった。静かなまま、布の匂いの奥へ沈んでいく。


「それでいい」


耀冥の声は低い。真の想いは届いたはずなのに、希詠の目は耀冥を見ない。


白灯の輪郭だけが、二人の間に残る。希詠の指が布の端を掴み直し、その指先が、わずかに震えた。


この夜以降の記憶は、思い出そうとすると、どこから手をつけていいのか分からない。




***




「生きてる、よな……」


一心は帳に指を当てたまま、声を落とした。布越しに伝わる冷えが、指の腹に残る。内と外を隔てるだけの薄さのはずなのに、今はそれ以上に遠い。


息をしているか。ただそれだけのことが、これほどまでに怖い。確かめる術はある。だが、確かめるために踏み込めば、守ってきた静けさを壊し、二度と同じ形では戻らない。


胃の奥が強く捻れ、吐き気が込み上げた。一心は口元を押さえ、膝に体重を預ける。汗が一気に噴き出し、背中を伝う。寒いわけではない。身体の内側だけが、勝手に冷えていく。


何かが欠けている。

だが、それが何かは分からない。


「眼は……使ってないはずや」


言い聞かせるように呟く。


未来は、ただでは覗けない。何を奪われるかは術者ごとに異なるが、一心の場合は大切な記憶から削がれていくと分かっていて、軽々しく眼を使うような真似はしていない。少なくとも、そう信じてきた。


「……わからん、か」


疑うべきは外ではない。疑いは自分へ戻る。


護るものがなかった頃なら、眼はもっと軽く扱えた。失って困る記憶も、人も、あの頃の自分にはなかった。だから削がれても、見落としても支障なかった。


「志貴」


帳の内側に横たわる名がある。触れず、呼ばず、それでも確かに在ると分かる重みがある。その重みを、賭けに使うことはできない。


「使わない」


声は低く、ほとんど吐息に近い。先を見極める衝動より、いまを守る選択を優先しなければならない。


それでも、胸の奥で何かがざらつく。


「ここには、志貴がいる」


ぽつりと落ちた声は、喉の奥に乾いたまま残った。忘れることは逃げではない、と言い聞かせる。生き延びるための手段として、そう扱うしかない。


「陪終……番に対する呼び名にしては、あまりに酷やろ」


番を持つことは弱みを持つことと同意故に、王の終わりに陪する者と冥府では揶揄される。


だから、古の宗像での番の扱いを好む。番は力を護り、包み込む者として神籬と称されるからだ。


帳の向こうに、志貴がいる。

こちらを見て、自分の意思で選んだ存在がいる。過去より、いま守るべきもののほうが、はるかに重い。


一心はゆっくりと背筋を伸ばした。指を帳から離し、膝の上で両手を重ねる。震えはない。残るのは、決めたという手触りだけだ。


「まだ、動くんやないで」


結界の外にいた気配がそっと消えた。

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