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第58話 黯の庵に 血ほどけつつ 名をとどむ


 窪地を抜けても、息は軽くならなかった。結界の縁を跨いだとき、皮膚の裏に残った薄い痛みが抜けない。身体の揺れが変わるたび、胸の内側のどこかがざらつく。名を削がれたわけではない。削がれる寸前の手触りだけが、ずっと体に貼りついたまま離れない。


 明熾は振り返らない。灯のある方角へ戻ろうとする気配を、背中だけで押し返してくる。市の匂いはまだ鼻に絡んでいる。脂と醤の甘さに炭の焦げが混じり、賑わいの湿りが喉の奥に残っているのに、明熾はそれを捨てさせる歩き方を選ぶ。冬馬は舌の裏に残っていた飴の甘味を噛み砕き、喉へ流し込んだ。甘さが落ちると胸の奥の熱がひと息だけ静まるが、静まった分だけ燃え上がる輪郭が整う。〈夏〉は消えず、沈んだ場所で火の縁だけが息をしている。


「……どこ行くん」


 問いは短いはずなのに、冥府の外縁の空気に吸われて薄くなる。明熾は足を止めず、代わりに低い声を落とした。


「声を出せ」


 叱責ではない。手順を踏めと言われているだけだと分かるのに、従わされる感覚が、喉の奥に引っかかった。冬馬は唾を飲み込み、喉を開ける。音に重みを乗せるには唇の形だけでは足りない。舌を起こし、胸の底から引き上げる。


「冬馬。飛雪」


 名がほどけずに前へ出た瞬間、胸の内側のざわめきが一段沈んだ。代わりに、束ねた根へ触れられたような薄い張りが残る。外気の冷えではない。指先で糸の端をつままれ、引かずに留められている。


「止めるな」


「冬馬、飛雪。飛雪、冬馬」


 言い重ねるほど、焼け痕の周りが締まるのに熱は鎮まらない。火勢が増すのではなく、燃えるための形だけが削られていく。冬馬は足元に力を残し、草履の踵が擦れる音をわざと立てた。音は地面に吸われたまま返らない。背中へ指を置かれたような落ち着かなさだけが残った。息を吐くと、その吐息すら置き場を選ばされる。慎重さが、肌の上ではなく内側へ染みてくる。


 市の灯は背後へ遠ざかり、角を曲がるたび明るさが細っていった。人の声は届かなくなるのに、足音だけが耳の内側へ返ってくる。石の上を歩いているはずなのに、壁が音を返さないせいで響きが宙に留まらない。沈み方が均一すぎて、他のものが消える。残るのは、道が逃げの形だけを先に見せる気配だ。


 道は外へ寄り、石畳が途切れて土が現れた。草の匂いが立たない土で湿りも薄い。身体の重さがかかった分だけ、砂が鳴る前に沈む。靴底の感触だけを吸い取る。風は吹いていないのに木々の影だけが揺れて見え、視界の端で黒いものが一瞬動いたように錯覚する。冬馬は袖の内側へ指を滑らせ、自分の皮膚の温度を確かめた。軍装は脱いでいる。それでも胸奥の焼け痕は動かない。捨てられないものがある、と身体が先に言い切ってしまうのが腹立たしかった。


 遠くで布が擦れた気配がした。音としては薄く、次の瞬間には消えてしまうのに、背筋が先に硬くなる。音が消えたはずの場所に、気配だけが残って追いついてくる。冬馬は息を押し込み、口の中で名を転がした。声にすれば糸が張り、掴む手が生まれる。止めれば、その糸がほどけて落ちるのも分かる。


 明熾の背中が止まった。木の間に、ひとつだけ庵があった。材が新しく、角が妙に正しい。人が寝起きするための整い方ではない。外から見たときに狂わないための線で組まれている。そこに立っただけで呼吸が浅くなる。


 戸は閉じていた。叩いても返事はない。明熾は戸へ手を伸ばさず、庵の脇へ回って地面の一点を見下ろした。冬馬もつられて目を落とす。土の色がわずかに違う。踏まれた跡がないのにそこだけ沈みが浅い。誰も通っていないのではない。通っても痕を残さない作りだ。


 明熾が指先を一度動かした。土の下で何かが噛み合う音がする。小さいのに耳ではなく腹へ落ちる音だった。板がずれ、暗い穴が口を開ける。


「……何や、これ」


「今回の入り口はこれらしい」


 明熾はそう言って先に降り、冬馬も続く。梯子の木は冷たい。降りるほど、金属と薬の匂いが濃くなる。どちらも不快ではないのに、肩が勝手に硬くなる。慣れない匂いが肺へ入るたび、呼吸の芯が細くなる。


 地下は広かった。天井は低いが奥が長い。壁には図面が貼られ、机が並び、道具が整列している。刃物、針、糸、歯車、骨のような素材。磨かれているのに温度がない。灯りはあるのに部屋が暗く感じるのは、生活の匂いが欠けているからだ。


 角の影が動いた。


 黒いフードを深く被った小柄な影が、机と壁の間から滑るように出てくる。顔は見えない。袖から出た指先だけが白く、節が細い。息の音が拾えないほど静かに立ち、明熾と冬馬を見上げるようにして止まった。


「空茫」


 明熾が短く名を落とすが、返事はない。その名が落ちた瞬間、冬馬の胸の焼け痕の周りが薄く攣れた。宗像で志貴の名が落ちるたびに起きた締まりを思い出す。あちらは香が絡んで空気ごと柔らかく引き締まった。ここで起きたのはそれとは別で、冷たい刃で端を揃えられるように余計な揺れが落ちる。


 空茫は言葉の代わりに机の上を指した。


 図面が広げられている。道反の地形が骨だけで描かれ、宗像と熊野と泰山へ伸びる線が交差している。その上に、さらに細工の線が幾重にも重なる。裂け目の縁に沿う仕掛け、結界の継ぎ目へ差し込む楔、時間を稼ぐための層。墨が厚く乗った部分は紙がふやけ、書き直しの跡が残っている。端の一角は均一に焦げ、火ではなく処理で焼かれた焦げ方をしていた。


 冬馬は息を呑んだ。線が整っているほど逃げ道が細い。細いまま、必ず通るように誘導されている。紙の上なのに、喉の奥が乾く。


 明熾が図面の端を押さえ、指で一箇所をなぞった。春と秋の線が、途中で一度重なり、そこから分岐している。重なりの位置には濃い印が付いていた。


「この仕掛けで、十日か」


 空茫は頷かない。机の端に置かれた小さな機巧を指で弾く。歯車が噛み合い、短い針が回り、そこで止まる。針の先が指しているのは七、八、九、十で、その先の刻みがない。


 十から先がない、と分かる作り方だった。


 冬馬は喉の奥を押さえた。十日があるから息がつけるのではない。十日で終わると身体が先に理解するから息が詰まる。十の先が空白であることが、想像を許さない。


 明熾の指が濃い印へ戻る。


「春と秋は、黯が仕掛けたものだと見破る。先は仕組んだのか」


 空茫は机の上へ別の薄い紙を置いた。端の焦げはやはり均一で、紙に触れた空気がわずかに苦い。紙には四天王の座と名が記され、春と秋の名の部分だけ墨が薄い。薄いというより、擦られた跡がある。名を削る、という言葉が紙の上で現物になっていた。


 空茫の指が紙の別の箇所を示す。黒の宮、と読める文字。薄雪の宮とは違う冷えが混じり、宮というより刃を収める箱の名に聞こえる。さらに、空茫は明熾の腰元へ視線を落とした。黒の刃がある位置だ。


 冬馬は、道と刃を並べて見せられていると気づいた途端、喉の奥がひやりとして息が浅くなった。だが、空茫は指を横に振る。黒の刃だけでは足りない、と言っているようだった。


 机の端に短い注記がある。四天王同士は殺せない。律がそう定めている。


 冬馬は胸奥の焼け痕が嫌に熱を寄こすのを感じた。燼華を斬れたのは自分が四天王ではなかったからだ。いまは違う。自分は〈夏〉で、相手は〈春〉と〈秋〉だ。明熾が黒の刃を持っていても、斬れない可能性がある。


 明熾は紙の上を指で辿り、空茫の示した道筋を拾う。


「名入れの書を見つけ、春と秋の名を消せば止まる。消せなければ入れ替え戦しかない。入れ替え戦ができるのは冥府の縁者のみ。冥府の血がなければ座は継げない」


 冬馬は口を開きかけた。


 冥府の縁者ではないのに、と言い切りたいのに、喉の奥で言葉が折れた。壮馬の顔が浮かぶ。宗像の土に馴染まない焦げた匂い。奪うときだけ躊躇のない足運び。屋敷の空気の中で、壮馬だけ別の温度を持っていた。いつもどこか、宗像の外側に立つ匂いがしていた。


 父、穂積壮馬は間違いなく冥府の縁者。


 冬馬は肩を落とし、息を短く吐いた。言い切れない事実が、胸の内側で重くなる。空茫に責める気配はなく、確かめる気配だけが冷たく正確だった。


 明熾が紙を畳み、空茫の指先を静かに押し戻した。


「ここは捨てるな。まだ使う」


 空茫は返事をしない。だが、机の端を指先で二度叩いた。硬い音だった。ここはもたない、と否定の目つきだ。もたないのに使う、その矛盾が冥府の匂いに似ていた。


 そのとき、背後の空気が変わった。


 距離が急に詰まる。足音でも、匂いでもない。近づく気配だけが滑り込んでくる。冬馬が振り向くより早く、視界の端で布が揺れた。


 薬草と血の匂いが落ちる。舌の裏が僅かに痺れた。


「芳土か。居たのなら、さっさと出てくればいいものを」


「それは僕の勝手でしょう」


 性別が掴めない。声の高さも定まらない。顔立ちは整っているのに、目の奥が冷えている。視線は明熾ではなく冬馬の胸元へ一直線に落ちた。夏の焼け痕の位置を見て、愉しそうに口角を上げる。


「面白いね」


 声は柔らかいのに、触れたら皮膚の裏へ刃を入れられそうな気配がある。


 明熾が冬馬の前へ半歩出た。庇うというより、線を引く動きだった。


「冬馬の身体は、父親の血で読まれやすい」


 芳土は目を細める。


「第十六皇子が、そんなことを言うんだ。物珍しい」


 笑いは薄いが興味は本物だ。冬馬の皮膚がざわつく。自分が調べられる側に置かれていると腹へ落ちてくる。後退したいのに足が動かないのは、明熾の背が壁になっているからだけではない。ここまで来た自分が、戻り方を思い出せない。数分前のことが抜け落ち、動悸がした。


「冬馬、息をしろ」


 明熾の手が首の後ろに当たり、初めて息を止めていたことに気づいた。冷や汗が額から滑り落ちる。椅子に強引に座らされ、冬馬は目を伏せた。


「望みは何」


 芳土が明熾へ問う。軽い口調なのに空気が硬い。返答ひとつで火花が散る、と室内の道具が黙って鳴った。


 明熾は芳土を見ない。冬馬の肩口に一度だけ視線を置き、短く返した。声に、珍しく威圧が混じっていた。


「分かっているだろ」


 芳土は口元だけで笑った。


「そういうところ、本当に兄弟だね」


 兄弟という言葉に、冬馬の胃が縮む。冥府の皇子たちは温度のある言葉を選ぶときでも、最後は手順の形に揃えて落とす。揃えられた言葉は、刃と同じ角度で刺さる。


 芳土が冬馬へ近づく。距離が詰まった途端、胸奥の〈夏〉が反射で起き上がりかけた。熱が外へ出ようとする。だが芳土の匂いは不思議と熱を煽らない。鎮めるのでもないが、それでも緊張をほどき、必要なところだけを切り分ける匂いがした。薬草の苦味が舌の裏から喉へ広がり、唾が飲み込みにくくなる。


「父親の血を抜き切るか、記憶ごと捨てるのが一番早い」


 さらりと口にした捨てるという言葉が、あまりにも軽いのに、落ちた先が深すぎて、冬馬は息を呑む。


「現実的じゃないなら、分解して組み替える。血の性質を変えるんだよ」


 芳土の指先が空中で細く動く。見えない糸をほどき、別の形に結び直すような動きだ。冬馬の身体の内側で父の血がざわめき、名が揺れるときの耳障りなざわめきと重なる。


「痛みはあるし、反動で命を落とす可能性も、ないとは言えない。四天王の身体に手を入れて、黒の冠がどこまで抵抗するかも読めない」


 淡々としているのに、〈夏〉が熱を寄こす。抵抗すると言われた瞬間、焼け痕の周りで熱が動く。牙を立てるような熱だ。冬馬は奥歯を噛みしめ、呼吸を乱さないようにした。


「媒体がいる。触媒が欲しいが、誰でもいいわけじゃない」


 芳土が明熾に目をやり、静かに笑んだ。


 明熾は一拍もたつかず言った。


「赫夜の許可がある。私の血を触媒に使え」


 耳が熱くなる。皇子の血を、自分の身体に入れる。拒むべきだと頭が言う。だが胸の奥が静かだった。頷いてしまえば楽になる、と身体が先に知っているような静けさだ。冬馬はその静けさが怖いのに、抵抗が湧かない自分が理解できない。


 芳土は口元を上げた。


「怪しい」


 怪しいと言いながら踏み込まない。冬馬はそこでようやく、芳土が明熾そのものではなく、赫夜の許可の方を見ているのだと掴んだ。許可という言葉が、この場では刃より先に通る。


「回復と再構成にどれだけかかる」


 明熾は芳土を見下ろし、腕を組みながら問う。


 芳土は冬馬を見る。視線が胸元から喉へ移り、最後に指先へ落ちた。名の綻びを探る視線だ。


「皇子で、同質の四天王が触媒なら五日から七日」


 冬馬の肺が熱くなる。


「間に合わん!」


 声を張ったつもりでも、地下の壁が吸って小さく消えた。


「十日しかないのに、五日から七日とか。冗談やろ」


 残りの日数で名入れの書を探す。計算はできる。できるのに胸が納得しない。宗像ではいまにも数多の名がほどけている。崩れはじめたものは待ってくれない。ここで寝台に縛られる日数を使うのが耐えられなかった。


 立ち上がろうとした瞬間、明熾の手が肩を掴んだ。強くはないが関節の奥を押さえる止め方で脚が止まる。掴まれた肩だけが冷たい。


「五日で再構成。残りで名入れの書を探す」


「嫌や。今すぐ行く」


 冬馬は身体を捻ろうとした。勝てないのは分かっている。それでも、自分の意志が他人の手順に押し込まれるのがどうにも気に食わない。


 その瞬間、明熾の声が荒れた。


「黙れ」


 冬馬は息を呑む。明熾の声に怒鳴りの形が混じったのを、冬馬は初めて聞いた。


「Veilmakerは甘くない。血を辿る。記憶を好き放題に弄られたいか」


 一語一語が喉へ刺さる。名が沈黙の内側へ押し込まれ、そこへ他人の指が伸びる光景が胸を焦がし、冬馬は言葉を失った。


 明熾は荒れた呼吸を一度で整え直す。


「宗像がやられたら泰山も持たない。いずれ冥府も裏返る。現世が崩れれば、既存の千年王が負を受けるしかなくなる」


 言葉が切り口の揃った刃のように並ぶ。冬馬は志貴を思った。あの背中に負が積もる。積もれば積もるほどに歪みは加速し、崩れきったなら戻らない。


「Veilmakerは、穢れに弱い千年王から狙う」


 息を吸った瞬間、喉が詰まり、次の呼吸が遅れた。名前を呼ばれなくても、胸の奥が先に応えた。言い返す言葉が見つからない。


「引き金になりたいか」


 冬馬の血が読まれやすいなら、今のまま動けば宗像へ刃を運ぶのは自分になる。自分が志貴へ繋がる紐になる。想像しただけで胃がきしむ。


 そのとき、壁際で空茫が小さく声を落とした。


「……やられた」


 冬馬は振り向く。空茫はフードの下で口だけを動かし、机の奥を指した。壁一面の機巧。扉、針、糸、歯車。逃げの仕掛け。逃げるための道が最初から作ってある。準備があることが、逆に怖い。いつでも捨てられる場所だという印だからだ。


 空茫は指を止め、床の一点を叩いた。硬い音がして、逃げ道が起動した。


 芳土が冬馬を指差す。


「つけられたというより、君だね」


 背骨の奥が冷えた。場所が嗅ぎ当てられたのは、自分の血を辿られたからだ。どちらにせよ胸の焼け痕が先に答えを出している。熱が動き、呼吸が乱れそうになる。冬馬は唇を噛み、息を押し込んだ。


「これが、Veilmakerのやり口だ」


 明熾が言い切る。


 次の瞬間、地下の天井が低く鳴った。遠い轟音。土の上が鳴ったのではない。結界の縁が叩かれている音だ。鈍い振動が机の器具を震わせ、紙が微かに波打つ。外から何かが押し込んでくる。圧のかけ方が一定で、迷いがない。


 悪鬼の匂いがした。焦げと湿りと冷たい金気。鼻の奥が痛む匂いだ。


「何か違うの、おるやろ……」


「兄弟でも考え方には色々あるからな」


 街で嗅いだ匂いが重なる。冥府の官吏の布と墨と乾いた鉄の匂いに似ていた。


「冥府が悪鬼を扱ってるなんて、知らん」


「宗像が全て語らないのと同じこと」


 整えられた衣の奥に、律で縫われた息がある。


「今から来るのは少し手を焼く。王府直轄の密偵部隊だからな」


 なだれ込んできたのは悪鬼だけではない。白づくめの官吏が無言で立ち、同じ背格好、同じ動きで列を作っていた。視線が揃いすぎていて、目の温度だけが落ちている。


「え、何してんの……」


 官吏たちは手近な悪鬼に手を伸ばし、捕食しはじめた。白い衣に赤黒い染みが広がる。咀嚼の音が、床を這ってこちらへ寄る。


「もう見るな、目が腐る」


 明熾が視界を奪うように袖を冬馬の顔の上に被せた。布越しに、湿った音と乾いた足音が重なり、胃が反射で持ち上がる。


「動くな」


 明熾は冬馬を小脇に抱えた。


「芳土、できるのか」


 芳土が指を鳴らした。乾いた音で薬瓶の栓がいくつか跳ね、空気に薄い膜が張る。匂いが変わる。甘さのない薬の匂いが、悪鬼の匂いの角を一瞬だけ鈍らせた。


「五日、第十六皇子の血でならやれるはず」


 芳土の声が軽い。その軽さが背筋を寒くした。


「次は破棄したくない」


 可愛らしい少年の声がした。


 空茫は最後尾へ下がり、機巧の前へ立った。指先が次々と糸を引く。歯車が噛み合い、壁が割れ、逃げ道が開いていく。


「さっさと改造して。迷惑」


 初めて聞いた声が、冷たく突き刺さる。


 道の先に光は見えないのに風が通る。外へ繋がる匂いがある。薄い匂いの場に踏み込んだ瞬間、名の輪郭がわずかに軽くなり、皮膚の裏が先に警告するように粟立った。身体が思い出すより早く、喉が乾いた。


 背後で異臭が濃くなる。湿った土と腐臭。爪が石を削る音。そこへ、整った足音が混じった。揃いすぎた歩幅と無駄のない呼吸。


 背後の気配は一つではない。歩幅の揃った重さと、爪が石を削る荒さが、同時に迫っていた。


 明熾の走り方には無駄がない。抱えた冬馬の重みが揺れない。冬馬の呼吸が勝手に整う。整うほど腹の底が煮える。降ろしてと言う暇さえ、喉まで上がっては消える。


「任せる」


 空茫が殿をする。逃げの仕掛けを起動し、最後に道を閉じる。誰が生き残るかを最短で決める無慈悲の絡繰が動き出す。


 冬馬は歯を食いしばった。奥歯に残る苦味と一緒に、抱えられている自分の重さがはっきり分かる。いまは、前へ出る側ではない。


 明熾が低く言った。


「前だけを見ろ」


 冬馬は唇を噛み、前だけを見る。逃げ道の先で空気が一段薄くなる。ここも冥府だが律の内側の冷えではない。律の外側になればなるほど、Veilmakerの気配が濃くなる。喉の奥が乾く。舌の裏の熱が消えない。怖さは言葉になる前に、まずそこへ出る。


 背後で機巧が爆ぜる音がした。土と金属が裂ける音。悪鬼の叫びが一段高くなる。密偵の声が重なる。


 冬馬は息を詰めたまま、短く音を落とした。


「……間に合うんか」


 声が掠れて、情けない。身体が思う以上に冷えている。


 明熾は答えないまま速度だけを上げた。冬馬の胸奥の〈夏〉が焼け痕の位置でじりと動く。暴れようとする熱を、明熾の冷たい動きが押さえつける。


 五日で血を組み替え、残りで名入れの書を探し、宗像の最奥へ辿り着く前に春と秋を止める。言葉にしなくても、明熾の手順はそこへ向いている。冬馬は、それに乗るしかない。


 冬馬は目を閉じた。瞼の裏に、志貴の気配が浮かぶ。顔そのものより先に、薄い桃の匂いが来た。泉の底の冷え、言葉の途中で止まる声、名が沈黙の内側へ押し込まれていく感覚。思い出の形を取っていても、触れれば壊れるものばかりで、冬馬は舌の裏に力を入れた。


 守りたい、と喉が言いかけて、言葉になる前に飲み込んだ。胸の焼け痕がじりと動く。熱が上がるのではない。熱の縁が薄くほどけ、そこへ冷たいものが差し込む。呼吸がわずかに遅れ、腰を支えていた腕の圧が、一瞬だけ薄れた気がした。


「降ろして。走れる」


 声にした瞬間、名が胸の奥でほどけずに残った。残っているうちに、走るしかない。


 明熾は返事をしない。冬馬の腰を少しだけずらし、地へ下ろす。足が土を掴む。掴んだ感覚があるうちは、まだ大丈夫だ。冬馬は小さく息を吐いた。


 冬馬は走り出した。まずは逃げ切る。宗像へ繋がる糸を、自分の手で断ち切らないために。


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