第57話 風吹けば 名のほどける 夜越えて
宗像の朝は、音から壊れた。
夜の名残が庭石に張りつき、明けの冷えが足裏から滲んでくる。回廊の木は湿りを含んで、踏みしめると、きしむような感触を返した。香は焚かれているはずなのに、いつものように部屋の隅々へ行き渡らない。煙が梁へ届く前に薄く散り、甘さの芯だけが喉の奥に引っかかる。障子越しの光は白いが、空気は晴れず、煤の匂いが混じっている。
鳥の声ではない。鐘でもない。人の呼びかけが、途中で力を失って落ちる。名を呼びかける声だけが痩せ、残りの言葉は宙で擦れて消える。返事の前に、呼び声そのものがほどけていく。
咲貴は回廊の途中で足を止めた。淡い鼠の小袖に、濃い紫紺の袴。襟は詰めたまま、紐が少しずれている。髪は急いで束ねたが、後れ毛が頬に貼りつき、汗が冷えて重い。袖口には水気が移って、指先がかじかむ。
名を呼ばれた気がして振り返った。そこにいた女は、咲貴を見るなり眉を寄せた。世話役の一人だ。毎朝、湯殿の支度を整え、必要なことだけを短く告げる者が、今は咲貴の顔を確かめるように覗き込み、言葉を飲み込む。
視線は合っている。だが、そこに親しみがない。女の目は咲貴の肩口、髪、袴の裾へと滑り、最後に唇の動きだけを追う。名を結び直せない目つきだった。
「……誰?」
女は一歩退いたあと、ふいに咲貴の袖を見た。迷うように、けれど確かめるように視線を落とす。
「……その結び」
咲貴の腰紐だった。いつもと変わらない結び方だ。
女はそこを見つめ、喉を鳴らし、次の瞬間、はっとしたように顔を上げる。
「……違う」
何が、とは言わなかった。女は首を振り、今度は怯えるように後ずさる。さきほどまで見ていたはずの結びを、もう見ていない目だった。
咲貴は、その一瞬を逃さなかった。
名を失っているはずの目が、ほんの刹那だけ、正しい位置を見た。
理由は分からない。ただ、今朝の混乱の中で、それだけが妙に残った。
咲貴は世話役の背に向けて、名を呼ぼうとした。舌を起こし、息を押し出す。けれど音が立つ手前で崩れ、喉の内側に薄く散った。
もう一度。今度は短く、確かに、と形だけを作る。唇が動いたのに、空気だけが抜ける。世話役の肩は揺れず、足音も止まらない。
咲貴は喉の付け根に指を当てた。息の通りだけが頼りなく、言葉の重みが乗らない。冷たい雫が背を滑り落ちていく。
宗像の中庭は変わらず静かなまま、石灯籠は夜露を弾き、白砂は荒れていない。結界も崩れてはいない。けれど、人の振る舞いだけが、いつもの筋を外れていた。
廊の端で、宗像の中回りの者たちが互いの肩を掴んでいる。顔を覗き込み、違う、と叫ぶ。声が荒れるほど、言葉は噛み合わない。押し返されて転び、膝を擦っても痛みを訴えず、ただ怯えて後ずさる。誰に押されたのかが分からないまま、怒りも恐怖も行き場を失う。
慌てて、外庭向こうの別棟を見に行くと、状況はさらに悪かった。
親子が向かい合って立ち尽くしていた。子は母の袖を掴み、母は抱き寄せようとして腕を止める。抱いてよいのかを決められず、指が宙で震える。迷いが長引くほど、子の泣き声が細くなり、母の呼吸が浅くなる。
記憶が、一様に失われているわけではなかった。誰かだけを忘れる者がいる。逆に、家の中の全員が互いを見失い、名も関係も手繰れない家もある。
顔は分かるのに関係だけが抜け落ち、言葉にした途端に違和感が走る者もいれば、関係を言い当てられるのに顔が結びつかず、声を掛けられない者もいる。
咲貴の目に入る範囲だけでも、崩れ方がばらばらだった。
宗像は、混乱の中心だった。
奥庭の方から走ってくる足音が重なる。板を叩く響き、擦れる衣、苦い息。名が呼べない分だけ、人は足音で寄り、足音で離れていく。回廊の湿った匂いの中で香だけが薄いままだった。
津島や白川の黄泉使いたちの異変は、さらに深刻だった。
詰所の中庭の一角で、刃がぶつかる音がした。乾いた金属音の奥に、骨を打つ鈍い響きが混じる。
騒ぎをききつけた咲貴が駆け寄ると、二人の黄泉使いが向かい合い、互いを悪鬼として斬り結んでいた。普段なら互いの癖も間合いも知っているはずの者同士が、今は知らない敵を前にした体で動いている。
瞳は濁り、白目の方が目立つ。呼吸は荒く、口元に泡が浮き、柄を握る指が汗と血で滑っている。袖口は裂け、足元の砂は掘れて踵の跡が乱れた。どちらの攻めも雑で、余計に怖くなる。得体の知れない恐怖が刃を速くし、さらに視界を狭めていく。
「止めて!」
咲貴が叫ぶと、声は冷えた空気を切って広がった。だが二人は振り向かない。こちらを見ても、咲貴を誰として受け取ればいいのか分からない。呼び止められていると理解できず、刃だけが続く。名がなければ、制止の言葉はただの音になる。
熊野、厳島、白山。これからもっと増えてくる。次にどこが同じ目に遭うのか、考えたくもないのに、頭が勝手に並べてしまう。
本家筋の者たちは、決断を迫られた。記憶を改竄された黄泉使いを拘束し、牢へ押し込める。縄を掛ける手が躊躇う。だが、わずかでも躊躇えば刃が届く。守るための処置だと分かっていても、鉄格子の向こうで暴れる姿は胸に刺さった。
見慣れた背中が檻の中で肩を揺らし、唾を飛ばして叫ぶ。
叫んでいる本人は何に叫んでいるのかもわからない。歯の鳴る音だけが残り、吐く息が白く曇る。
宗像の外では、さらに酷い。
報せは断片で入ってくる。
電話は繋がりにくく、文字にしても意味が滑る。読み返しているうちに、今読んでいる名前が誰の名前だったか分からなくなる者がいるという。
一般人の視界に、世界が違って映りはじめていた。隣人が悪魔に見え、通りすがりの影を幽霊と誤認する。電柱の影が伸びただけで叫び声が上がり、駅の階段で肩が触れただけで殴り合いが始まる。
恐怖が暴力を呼び、暴力が死を生む。死が増えれば、負の魂が積み重なる。積み重なったものが境界を押す。
宗像へ入ってくる外気が、朝の冷えとは別の冷たさを帯びる。障子の紙が、誰も触れていないのに微かに鳴る。風ではない。床下から上がってくる湿りを含んだ冷えだった。
黄泉の境界が揺らぐ。
生と死の線が、痩せていく。
本来、悪鬼の手が生きている人間に届くことはない。それがこの朝、わずかに破られた。爪が皮膚を掠め、血が出る。掠めた指は人の指に見えるのに、触れた感触だけが違う。乾いて冷たく、皮膚の奥の熱を吸い上げる。触れてはいけないものが、触れはじめている。
咲貴は奥殿へ戻った。
部屋の奥は香を濃くしていた。濃いはずなのに、香炉の煙が真っ直ぐ立たず、梁の手前で乱れて散る。
灯は落としてあるのに、紙面の白さだけが目に刺さる。望と時生が地図と記録を広げていた。地図の端は擦り切れ、記録は何度も書き足されて墨が滲んでいる。
時生の袖口には乾いた血の跡があり、望の指先には香木の粉が付いている。夜からずっと動き続けていたのが分かる。どちらの顔にも疲労が滲んでいるが、声は冷静だった。
「まず建て直しだ」
「宗像を安定させないと、外に出ても意味がない」
その判断は正しい。咲貴にも分かっている。
宗像の結界が揺れれば、ここにいる者の名もすぐに崩れる。黄泉使いを鎮め、牢を整え、負の魂を収め、内側を守り切る。やるべきことは山ほどある。
だが、その理屈を口に乗せた途端、言葉が途中で詰まり、咲貴の足が止まった。
「外に、出よう」
二人の視線が同時に上がる。
時生は眉を寄せ、望は目を細める。止める言葉を用意している目だと分かる。それでも咲貴は言った。喉が乾き、舌の裏が熱い。戦禍の火の名残が身体の奥で揺れている。
「今、宗像を閉じたら、外は持たない。負の魂が溢れれば、境界が破れる。そうなったら、宗像だけ守っても意味がない」
口にした瞬間、袖の中で拳を握る。爪が掌に食い込み、痛みが自分を引き留める。咲貴は痛みを確かめるように息を吐いた。
その瞬間、胸の奥で微かな震えが走った。
声が、した。
耳ではない。内側だ。懐かしく、少しだけ呆れた調子。言葉が短いのに、ぶれない。
『それで、いいよ』
志貴の声だった。
咲貴は思わず口の端を上げた。こんな時に、と苦笑が漏れる。笑った瞬間だけ、胸の奥の冷えが緩む。
「……相変わらず、浅慮だね」
望が静かに息を吸った。香の匂いが一瞬濃くなる。目の奥に、咲貴の覚悟を測る冷たさがある。
「王として立つ覚悟があるなら、話は別だけれど」
望の言葉は何より刺さる。
咲貴の視線は自然と公介へ向く。
公介は最奥の禁域の方を見たまま、動かない。座しているわけでもない。立っているわけでもない。ただ、そこにいる。
眠る志貴の在り処から目を離せずにいる。
腕を失った側の肩が、以前より少し落ちて見える。痛みではない。宗像という家の重さを骨で受けているような姿勢だった。
「Veilmakerの目的が分からない」
公介の声は低かった。普段なら必要なことだけを落とす男が、今はそれを呟くように言う。
分からないという言葉に、苛立ちより先に疲れが混じっている。
「いまは、目的なんか、どうでもいい」
咲貴はきっぱりと言った。
「宗像は、志貴さえ護れていればいずれ立ち直る。今は、降りかかる火の粉を払う。それだけでいい」
禁書へ伸ばした手を、公介が止めた。指先の力が強い。掴むのではなく、止めるだけ。止め方に当主の癖が出る。公介は咲貴の手首を離さず、卓上の布をずらした。布の下から黒漆の箱が現れる。蓋を開ける所作に迷いがない。
「なら、王玉を身に宿せ」
箱の中には、掌に収まるほどの玉があった。濃い紅でも白でもない。深い色が光を吸うように沈んでいる。見ているだけで喉の奥が乾く。玉の表面は滑らかなのに、触れれば熱を持ちそうだった。
宗像の王玉。それは宗像にとって、王そのものを示すものだ。宗像の名と記憶が揺れにくいのは、ただ術が優れているからではない。王がある限り、宗像の系譜に属する者は守りの中に入る。その守りの下で黄泉使いたちの力も引き上げられてきた。咲貴は、今朝ほどそれを実感したことがない。名が崩れる速度が、宗像の内と外で違う。
「汝、宗像に身を捧ぐ者なり。汝のために宗像があるのではない。宗像のために、汝があるのだ」
宗像約定。その文言を、咲貴は今朝、初めて知った。言葉は冷たいのに、宗像の血には馴染む。だからこそ、拒みがたい。
王玉をとれば、それはもう代行ではない。仮の器でもない。宗像の王として立つことを意味する。
「……駄目だ」
時生が即座に首を振った。声は低く、硬い。冷静な男が、ここだけは譲らないという音だった。
「それは、志貴の役目だ。咲貴じゃない」
望は反対に、静かに頷いた。目は咲貴から逸らさない。逸らさないまま、断を落とす。
「必要だ。今の宗像には」
沈黙の後、公介が短く言った。
「やれ」
その一語が重い。宗像の全てを背負ってきた男が、禁域の奥を見たまま言う。志貴を見捨てるのではない。だが、志貴を護るために咲貴を王にするという矛盾を、当主は受け入れようとしている。
咲貴は、王玉を受け取れなかった。
王玉は、箱の中で静かに沈んだままだった。
そのとき、部屋の外で、短い音がした。
何かが落ちた音だ。器が割れる音ではない。もっと軽く、乾いた音。
次いで、押し殺したような声が続く。
「……名が」
誰かが言いかけ、言葉を失う。
廊の向こうで足音が乱れ、世話役の一人が駆け込んできた。顔色が死人のように白い。
「西の回廊で……一人、戻りません。呼んでも、振り向かない」
名を呼んだとは言わなかった。
呼べなかったのだと、咲貴には分かった。
咲貴は、誰にも呼ばれずに立ったとき、それでも自分を咲貴だと言えるのかが、ふいに胸をよぎった。
王玉は動かない。
宗像の内側で、ひとつ、結びきれなかったものが落ちた。
「王は、志貴しかいない」
手を伸ばせば、決定的に何かが変わる気がした。宗像のために、志貴の居場所を奪うような感覚が、どうしても拭えない。奪うつもりなどないのに、奪うことになる。咲貴の中で、その一点だけがどうしても動かなかった。
その時、空気が冷えた。
香炉の煙が止まり、紙が鳴らず、遠くの喧騒が一瞬引く。音が薄い膜になって剥がれ、部屋の芯だけが露わになる。影が、音もなく立っていた。
「それは、志貴様には不要なものです」
ヨルノミコトの声は淡々としていた。畏れを煽るでも怒りを煽るでもない。事実を置くだけの声だ。けれど、その事実には刃がある。
「千年王の力は、苗床にされてよいものではない」
視線が公介と咲貴を順に捉える。
ヨルノミコトの視線が、もう一度、咲貴に戻った。
測るような目ではない。確かめるというより、見落としを拾い直すような視線だった。
「……想定より、深く繋がっている」
誰に向けた言葉ともつかない呟きだった。
咲貴は眉を寄せた。
「何が?」
問い返すと、ヨルノミコトは一拍、間を置いた。
その間だけ、奥殿の空気が冷える。香炉の煙が、わずかに下へ引かれた。
「名を呼ばれず、戻れなくなる者が、宗像だけで何人出ても、おかしくはなかったはずです」
言い切りだった。推測でも確認でもない。
公介の指が、卓の縁を叩いた。乾いた音が一つ。
「……どういう意味だ」
ヨルノミコトは視線を外さず、淡々と続ける。
「改竄は進んでいます。ですが、宗像はまだ踏みとどまっている。王玉に触れなかったのなら、なおさら、溢れ落ちるものは数多あったはず」
咲貴の胸の奥が、ひやりとする。
「落ちなかったのは、偶然ではない」
ヨルノミコトは、そう断じた。
「宗像を護ったのは、王玉ではないのでしょう」
視線が、咲貴の胸元へ向いた。
そこには何もない。ただ、布が重なり、呼吸に合わせてわずかに上下しているだけだ。
「……志貴、か」
その一語が、公介の口からこぼれ落ちた。
咲貴は何も言わなかった。
否定も肯定もしない。けれど、胸の奥で、先ほどの声が、わずかに遠ざかる。
ヨルノミコトは、ほんのわずかに視線を下げた。それ以上は言わない。
「幸運なことに、災厄の方が遅れただけです」
その言葉が、重く残る。
王玉は、箱の中で沈んだままだった。
ヨルノミコトは、それを見下ろし、告げた。
「次は、選ぶ猶予はありません」
咲貴はその目を逸らさない。逸らせば、決断が遅れる。遅れれば、間違いはもう取り返せない。
「こうなってしまえば、冥府の暗部が動くはずです。十日程度の猶予はあるでしょうが、春の四天王は必ず道反に来ますよ」
知らなかった事実が、静かに落とされた。音を立てずに落ちたものほど、深く刺さる。
咲貴の胸の奥で、熱と冷えが同時に動く。十日の猶予。知らずにいた十日を、どう使うか。
ヨルノミコトは、ほんの一瞬だけ目を伏せた。
「王座を空にする代償は遅れて来ます。十日、という猶予は“安全”ではありません」
咲貴は拳を握った。
宗像を護るか。外を救うか。王として立つか。王玉を拒むか。
選択肢は、もう残っていない。
胸の奥で、再び志貴の声がする。名を呼ぶわけでも叱るわけでもない。ただ、咲貴の背を押す温度だけが、そこにある。
咲貴は、顔を上げた。
決断の時は、迫っていた。




