第56話 薄雪を踏みて、名を結う
風花の宮、禁の間。
灯は落ちている。呼吸の数だけ、静けさが淡く脈を打つ。声を落としても、壁に触れる前に消える広さだった。禁の間は、近いものだけを残す。遠いものは、そこで断たれる。
赫夜は椅子に背を預けず、片手を挙げる。影が寄った。
「止めろ」
それで足りた。影は頷きもせず消え、気配も痕跡も残さなかった。
扉の外で気配が揺れて、明熾が入った。赫夜が視線で問うと、明熾は短く頷いた。
「外に連れ出せ。監視が増えた」
それだけ告げ、赫夜は視線を逸らす。明熾は一礼し、静かに退いた。
禁の間に独り残ると、赫夜は紙片を火に落とした。灰は生じず、痕跡だけが消えた。
***
薄雪の宮の回廊は、夜気をよく通す。
「外へ出るぞ」
明熾が戸口に立ち、短く言った。理由は告げない。宗像へ戻れる道が一歩でも近づくなら、問うている暇はないと冬馬は腹で決める。慌ただしく草履をつっかけ、大きな背に従った。
市へ下る石段は、油と醤の匂いで温かった。焼き砂糖の甘さが風に混じり、鍋と杓文字の音が重なる。宮の乾いた空気の中では忘れていた生活の匂いが、肌の上でほどけていく。
「こんなこと、してる場合か」
冬馬の声に、明熾は答えない。露店で餅を二つ買うと、明熾は片方を冬馬に押しつけた。
「いや、話を聞けや」
「今のうちに入れろ」
押し返す言葉が見つからず、渋々齧る。焦げの香と熱が喉を落ちていく。乱れていた鼓動が型に沿うように揃う。それが癪に障る。二口、三口と続けてしまい、食べ終えると、明熾が布で冬馬の口元の粉を拭った。あまりに自然で、冬馬は慌てる。まるで子か何かを護るように、無意識で出た仕草にしか見えなかった。
「何してんねん」
「勝手に手が動いただけだ」
淡々と離れた指先は、すぐに肉串を注文していた。
「ほんまに、こんなことしてる場合やないやろ」
「身についてるだけだ。気にするな」
「なんの癖やねんな……」
「食べられる内に食べておく。一番上の兄に躾けられた。それが抜けない」
「仲良いんか?」
「さぁ、声は耳に届く」
冬馬は、わかったような、わからんような返答に首を傾げる。
中央の広場から放射線状に伸びた路地には、露店が並ぶ。冬馬は視線を追い、呟いた。
「冥府も……変わらんのやな」
「君らが『死神』と呼ぶ側にも、営みはある」
明熾は串を受け取り、冬馬に押しつける。油が滴り、炭火の香が夜気に濃く広がった。
「……またか」
腹の底が鳴り、渋々噛みつけば、炙った脂が舌に弾ける。塩と醤の香りが喉を抜け、焦げ目の苦みが心地よく、止まらない。
明熾は黙って隣で食べ終え、焦げた先端を指で弾き、木串を紙に揃えて収めた。
「冥府が敵のようにしか見えないなら、曇っているのは君の目だ」
冬馬は言い返そうとして、また口元を拭われ、顔を真っ赤にした。
「拭かんとって」
首を傾げるだけの仕草に、冬馬はいちいち拒むのをやめた。
猫が露店の下から飛び出し、子どもの声と笑い声が重なる。冥府にも暮らしがある。そう知っただけで、足取りが一瞬ふわりと軽くなった。
「少し用事だ」
明熾は二本目の肉を淡々と喉へ送った。冬馬も慌てて真似をしたが、噛む間もなく押し込み、熱さに目を潤ませる。
「ゆっくりで良かったのに」
明熾の声音は落ち着いていて、逆に癪に障る。
「もっと早よ言えや。息上がるし、喉焼ける!」
涙目のまま見上げると、明熾の横顔はわずかに笑ったように見えた。冬馬は心臓が跳ねるのを誤魔化すように、路地を進む。
「あのさっ。四天王って、そもそも外に出られるんか?」
「後で話す」
冬馬はそれ以上聞けなくなった。
路地は迷路みたいで、数メートルごとに細い分かれがある。通りは宮の外縁を西へ流れていた。
賭場の灯が黄に強く、札を弾く乾いた音が柱に跳ね返る。宗像の匂いはここにはない。それだけは確かだった。
「行こう」
賭場の中央で初老の男が札を指ではじいている。こちらへ笑みを含んだ目を寄越し、口角だけで言った。
「皇子が散歩か。子犬まで連れて」
「誰が子犬や」
冬馬が睨むと、男は肩を竦めて札を伏せた。何もしないのに、人の流れが斜めに傾く。背後の気配が別の路地へ吸われていくのが、体で分かった。
「じゃ、依怙贔屓だな」
明熾は気に留める様子もない。
「ちょいと散歩って面持ちじゃねえな」
男は札を指の隙間で遊ばせる。明熾が援護と一言置くと、男は指先をひらりと振った。
「はいはい。坊ちゃんに借り、一つね」
名乗る気もない様子で手を振るだけ。
「あいつ、誰やねん」
「賭場の風切り、名は迅羽。軽口ひとつで場の風を変える」
明熾は珍しく苦い顔をした。
その瞬間、屋台の上の盃がからんと鳴り、賭場の歓声が半拍ずれて弾けた。初老の男がこちらに片目を寄越す。
「この小童が子犬か子狐かで張るやついねえか?」
男は大声で場へ投げこんだ。周囲がどっと笑い、重心がそちらへ傾く。
「当たった奴には酒一升、外れた奴は皿洗いだ」
さらに沸き、冬馬が真っ赤になりかけたところを、明熾が肩で押して通す。
明熾はいつも通りというように背を向け、さっさと賭場を出た。
「何も聞くな」
先に釘を刺され、冬馬はむっと頬を膨らませる。だが明熾の足取りは明らかに軽い。灯の向こうにあった人影が消えていた。
***
角を折れると、警邏の紋を袖に縫い込んだ官吏が横一列に立ち、道を塞いだ。人の形をしているのに、目の温度だけが落ちている。
「通行印の提示を」
口ぶりだけが固い。
冬馬の指が反射で柄を探した瞬間、明熾に手首をつままれて動きが止まる。力は弱いのに、関節の奥で抑えられたように逆らえない。
一人がまばたきを忘れた顔で冬馬を見つめ、口の端がわずかに歪んだ。耳の奥でざわめきが増え、胸の内側へ沈み、己の名の最初の一拍が遠のいた。
冬馬の「と」の手前で舌がもつれ、胸の内側に砂が流れ込んだみたいにざらつく。吐き気が上がり、石壁に手をついた。
「こっちを見ろ」
明熾の声は低くまっすぐで、焦りがない。それが助けになる。顔を上げれば、揺れない目がそこにある。
明熾の指が胸元の前で小さく動くと、名の揺れが胸の内側でひとつに寄っていく。結び目が固まると、ざわめきは鎮まった。
「名はここにある」
明熾の指先が胸元を軽くはじく。鼓動を確かめると、護る手つきだけが残った。喉を塞いでいた膜が薄くほどけ、息が通った。首筋に触れた指が拍を確かめ、すぐ離れる。
「もう大丈夫だ」
明熾が呟き、官吏の肩越しに視線を滑らせたのと同時に、賭場の方で歓声が跳ね、灯が連鎖して弾けた。一斉に目がそちらへ吸われる。言葉になる前に襟を引かれ、抜け路地へ身をすべらせる。
「あれ、目眩しのつもり?」
走りながら問うと、明熾は淡々と答えた。
「音の重心をずらせば、群れは勝手に傾く」
「どこの世界も単純やな」
屋根の端を影がひとつよぎり、矢羽が空を裂くような微かな気配だけが残る。
冬馬は思わず足を止めた。
「馬鹿」
明熾が勢いよく腕をひいた。
「監視を撒いている最中に止まるやつがあるか」
壁に刺さった矢を二本引き抜くと、明熾はそれを鼻先へ突き出す。
「こっちが味方、そっちは敵」
冬馬はただ困惑する。
「皇子が狙われんの?」
明熾は肩をすくめるだけだった。
屋根から乾いた指笛が一声。
さっきの初老の男が、ひょいとひさしに腰を下ろして指で示す。
「散歩に付き合うにも、礼儀があってな。ほら、右」
同時に右手の路地の灯がふっと落ち、左へ人流が偏った。
「坊ちゃん、借りは二つな」
二人がそちらに走ると、男は笑って姿を消す。
市の端、結界の薄い縁。そこにも影が立っていた。官吏ではない。得体の知れぬ影だ。
視線が当たった途端、耳のざわめきがまた増え、名前が薄れる。冬馬は石垣に手をつく。
「前だけを見て」
明熾の声。首の後ろに置かれた指が軽く押す。視界が前へ狭まり、雑音が遠のく。
「名を掴め」
指が一度だけ動き、手が離れる。
「もうすぐだ」
明熾が右上を見る。屋根の影がふっと膨らみ、どこかで細い鈴が乾いた音をひとつ鳴らした。粘ついた視線がほどけ、前が空く。
その直前、屋根から小さく声が落ちた。
「子狐で手を打たんか?」
「うるさいわ!」
冬馬が反射で噛みついた瞬間、胸のざわめきが切れ、あっさり名が戻る。
「迅羽、もう黙れ」
明熾が空へ一言捨てる。直後、指笛がひとつ。迅羽の合図だ。
「足を止めるな」
結界の境界へ駆ける。膜に触れる直前、明熾が冬馬の前髪を指で上げ、眼元に手をかざした。閃く白光がやわらぎ、耳のざわめきが薄皮一枚分だけ遠のく。向こうの冷たい空気の筋が、すっと見えた。
「あいつ、何者やねん」
迅羽の誘導は見事すぎた。明熾は答えず、手を離す。
***
言葉少なに歩き続け、半刻ほどして明熾が足を止めた。
「ひと息つけるな」
結界の外れは風の通らない小さな窪地だった。明熾は石に腰を下ろし、包みを開いて干した柿と薄い餅と黒蜜の飴を並べる。冬馬は立ったまま、来た方角に目をやる。
「座れ」
「座ったら立てん気がする」
「立たせる」
言い切りの調子に反論がほどける。干し柿を押され、渋々齧る。噛むほど肩から力が抜け、抜けた途端に胸の奥がぐらりと揺れ、冬馬は石に手をついた。
「……ほんまに、何やこれ」
名の輪郭が削られる。冬馬という響きが遠のく。
明熾は背に手を置き、肩甲骨の下を撫で下ろしてから、首の後ろに指を当てた。圧は弱いのに、呼吸だけが言うことを聞く。
「声に出して名を呼んでみろ」
喉が焼けるほど息を吸い、冬馬は目を閉じた。
「冬馬」
名はあっさり戻ってくる。ざわめきがほどけ、足裏に地面が戻る。指が離れ、息の端で笑いが零れそうになって冬馬は自分で驚く。
「呼ぶ名と、身に馴染んでいる名が噛み合っていない」
明熾は飴を指で転がしながら言った。
「冬馬は宗像のいる世界での名だ。ここで君に割り振られた名がある」
「そんなもん、要らん」
刺々しい声が自分に刺さる。明熾は頷きも否定もしない。
「要る要らないは後だ。まず、ずれを一つに揃えろ」
黙り込んだ冬馬を横目に、明熾は肩を落とす。
「千年王でさえ即位直後は名が揺らぐ。だから《同律》は欠かせない」
「志貴は千年王になったばかりや……同じことになるんか?」
ふと口から零れた名に、明熾の目がわずかに動いた。
「紅は……おそらく揺らぎはせんだろ。揺るがせない楔がいる。君は他人のことより、まずは自分自身を何とかしろ」
言葉は冷たいのに、落としどころは体に合わせてある。反論は見つからない。
「合っていなければ、さっきみたいに揺れる。隙だらけになる」
「……冥府での名とか、馴染むわけないやんか」
「飛雪。悪くない響き」
明熾は干し柿に手を伸ばす。胸の奥へ細い冷気が入ってくる。冬馬は顔を上げた。
「俺は冬馬や」
「外では冬馬でいい。内側では受け入れろ」
「二つ、使い分けろって?」
「定めるだけだ。どちらも、君だ」
明熾が飴の包みを剥ぎ、冬馬の口元に押し当てる。
「噛め」
黒蜜の甘さは悔しいほど効いて、胸のざわめきを押し下げた。
「易々と敗けたくなければ、己を使いこなせ」
明熾は冬馬の右手を取り、掌を軽く掴む。
「稽古だ。一つ言い、すぐ重ねろ。止めるな」
「……冬馬、飛雪」
最初の音が硬く、胸の奥に反発が走る。甲に添えられた指が拍を一つ刻んだ。
「もう一度」
「冬馬、飛雪」
今度はわずかに滑らかで、視界がぶれない。
「逆にしてみろ」
「飛雪、冬馬」
言えた瞬間、胸の引っかき傷がおとなしくなって息が深く落ちる。冬馬は小さく息を吐き、膝に額を落とした。
「嫌や。……けど、楽や」
「嫌なら、嫌のままでいい。受け入れろ」
「無茶ばっかり言うなや」
「無茶苦茶は宗像の十八番と聞いている」
「それ、正解や。間違いないわ」
明熾の目尻が、ほんの少しだけ和らいだ。
風が細く鳴り、遠くで乾いた音がひとつ。どこかの近道がまた削られたのだろう。空気が一度入れ替わり、冷たさだけが残る。
「宗像に、戻りたい」
顔を上げれば、宗像の方角は体が覚えている。明熾は頷かず、否定もしない。包みの最後の飴を冬馬の手に乗せた。
「移動する。歩きながら噛め」
「子ども扱いすんな」
「子どもでいていい」
立ち上がろうとした膝がわずかに笑い、袖を軽く引かれて体が立つ。前髪を指で上げられると、視界が一段明るくなった。
「宗像が蹂躙されるんは嫌や」
明熾は小さく息を吐いてから冬馬を見た。
「君の宗像が十日の備えを活かせぬほど脆いとは思えない」
冬馬の目に光が戻る。
「当たり前やろ!」
声を荒げてみてから、しばらくして冬馬は首を傾げた。
「十日って……何」
「赫夜が止めろと命じた。暗部組織の黯が動く。少なくとも十日は宗像や泰山に異変は起きない」
「相手は四天王やで?」
「黯なら足止めは可能」
誰かが敵の足を止める。その気配を冬馬の体が先に掴む。
「十日」
数字はそれだけで余計な理屈がいらない。冬馬は頷かず、前だけを見る。
「宗像は簡単にやられへん」
声にすると胸が軽くなる。
「黒の禁域へ行く。支度だ。境界をまたぐ。行けるな」
「いける」
境界を跨ぐ手前で、さきほどの粘る目がもう一度こちらを刺した。冬馬は短く合わせる。
「飛雪。冬馬」
核はぶれず、同律。
明熾の手は来ない。必要がなかったからだ。
「できたな」
「できた」
試す声ではなく、確かめる声だった。短く笑い合う。冬馬の舌裏に、黒蜜の甘さだけが薄く残った。
雪の匂いがわずかに濃く、宗像へ向かう細い筋が確かに伸びている。二つの影は並び、薄雪を踏んでいった。
***
道反の結界がほどけ、空気が一段ゆるんだ。
咲貴たちは中庭から本邸へ歩みを進めた。
夜の太鼓が一打だけ鳴り、息を潜めた空気が波立つ。数刻前の戦の爪痕がまだ生々しい。床には返り血が乾ききらず、障子には裂け目が残る。
咲貴は衣の袖を裂かれ、肩には血が滲んでいた。時生は結界維持で蒼白となり、膝の上に重く手を置いたまま。公介は胸に包帯を巻き、呼吸を整えきれずにいる。望も衣を煤で汚しながら、沈黙のまま控えていた。
その静けさを破ったのは、蛇の舌打ちのような音。障子の向こうから一匹、黒文を咥えた蛇が現れた。
「開け」
咲貴は立ち上がり、紙を受け取って封を切る。墨は冷たく、記された文字は短い。
【冥府告】
冥門守・穂積冬馬。冥籍名・飛雪、四天王の一〈夏の冠〉に起座。以上。
場の空気が一気に落ちた。血の匂いと墨の匂いが重なり、胸の奥を冷やす。
「……嘘だ」
咲貴は呟き、すぐ口を噤む。震える指で文を畳み、袖に押し込む。袖口には血が滲み、さらに赤を広げた。
「事実だけ拾え。理由は後でいい」
言葉は咲貴自身への叱咤に近い。望がわずかに頷き、時生は目を閉じたまま結界を支え続ける。公介は声を探しながら唇をかすかに震わせるが、何も出てこない。
蛇が踵を返す前、結界が低くきしんだ。その場にいるすべての名の輪郭が、ひとしく揺らいだ。冷たい緊張の余韻だけが、広間に居座る。
咲貴は膝が折れそうになるのを堪え、吐き捨てるように言った。
「立て。……座るな」
命じる声は震えて血の味が混じる。袖で口元を拭っても、赤は隠しきれない。
夜は揺れず、硬さだけを増していく。遠くで鈴がひとつ、乾いて割れた。




