第55話 うつろふ雪に、黒は鳴る
冥府に入ってから、冬馬は何度も足を止めた。
景色が変わるたびではない。変わらないまま、距離だけがずれていく。その感覚に、身体が追いつかなくなる。
長い石畳の坂を下りきったところで、視界を白が埋めた。
雪ではない。降ってもいないし、積もってもいない。空は暗く、地面は濡れてもいない。それでも、目の前の建物だけが白かった。
壁も屋根も白い。灯に照らされた白ではないのに、闇にも沈まない。近づくほど目が滑り、角だけが手元から逃げる。それでも建物の重さは、そこに残ったままだ。
冬馬は一歩、足を進めた。
音が消えた。靴底が石を踏む感触だけが返り、反響が来ない。静かというより、音が終わる前に吸われていく。
白い壁に、汚れはない。だが、使われていないわけでもない。人の手が触れた高さだけ、わずかに艶が違う。床には細い傷が走り、同じ場所を避けるように足跡がずれている。
宮の前で、冬馬は無意識に息を詰めた。
中を覗こうとしたわけではない。入ろうともしていない。ただ、ここで止まるべきではないという感覚だけが、先に来た。
顔を上げ、振り返り、来た道を見上げる。
丘の上にも建物がある。遠くから見えるのに、道筋は分からない。近づけそうな斜面なのに、足を運ぶ理由が、どこにもない。
視線を戻す。白い宮は、そこにあるままだ。
拒まれた感じはしないが、迎えられた気配もない。ただ、通過点として据えられている感覚がする。
冬馬は喉を鳴らし、唾を飲み込んだ。
寒くはなかった。けれど、身体の内側が、遅れて冷えていく。
ここが、薄雪の宮と名を知ったのは、そのあとだった。
赫夜は冬馬に、ごく短く言いつけを残した。
「ここで過ごせ。冥府の作法はそいつに聞け」
「わかった」
自分でも驚くほど、返事だけは素直だった。
「そいつは俺の弟、明熾だ。こっちは冬馬。……いや、もう飛雪だな。明熾、彼は貴重な類だ。意味は、わかるな?」
初対面の主は、言葉を返さなかった。赫夜よりも長身で、痩せた輪郭を昼の衣が際立たせている。白磁めいた肌のまま簾の陰に凭れ、瞼を半ば閉じていた。動揺も興味も表に出さず、こちらを見たかどうかも曖昧だった。
「よろしくお願いします」
冬馬が歩み寄っても視線は合わない。挨拶にも頷きひとつ返ってこない。明熾は隣の部屋を指すだけで、それ以上の指示を増やさなかった。
冬馬が指された間へ入ると、小さな狼が二匹、静かに座していた。黒銀の毛並みは灯に艶を拾わず、耳も尾も必要以上に動かない。
『傷を治しましょう』
促されるままに、さらに奥の湯殿へ進む。軍装を脱ぐと、狼たちはそれを咥え、影のように去っていった。
「傷が深いな」
背後で声がした。
冬馬の身体は、自分でも驚くほど跳ね、肩が上がった。気配がなかった。振り向く前に、背へ深く入った刀疵を指でなぞられる。触れられたところだけ熱が引き、痛みの芯が遅れて浮く。
「宗像のままか」
言葉の意味が掴めず、冬馬は眉を寄せた。
「怨嗟や穢れを、まともに受けるな」
簡潔すぎて、むしろ遠い。冬馬が言い返す前に、明熾は湯を指した。
「私は、つらつら話すのが嫌いだ。入れ」
踵を返して出ていく背中に、冬馬は思わず声を荒らげた。
「何なんやっ」
鼻息のまま湯に身を沈め、冬馬は息を呑んだ。
ただの湯ではなく、宗像の王泉に似た性質がある。肌の上で熱がほどけ、傷が目に見えて塞がっていく。血の匂いが薄まり、痛みがひとかたまりになって引いていくのがわかる。
『明熾様に隠し事はできませんよ』
いつの間にか戻っていた黒銀の狼たちが、くすりと喉で笑った。
「どういう意味や」
冬馬が首を傾げても、狼たちは答えない。考えるのも煩わしくなるほど疲労が重く、瞼は勝手に落ちていく。湯縁にもたれ、浅い眠りへ引き込まれていきそうだ。
数刻前、冬馬は夏の四天王を斬った。赫夜から熊野の顛末も聞いた。だから、思考は底へ沈むしかない。
父が裏切り者である事実だけで充分に重いのに、今度は自分が冥府の四天王の一角に据えられた。宗像へは戻れない。戻ろうとすれば、何かが壊れると、身体のほうが先に知っている。
湯の熱がやわらかくなったところで、意識がふらつきはじめる。
『眠そうです、明熾様』
「眠ることでしか、ほどけぬ痛みもある」
明熾の声がして、指先が触れたとき、わけもなく涙がこぼれた。声をころし、呼吸に混じって水だけが落ちていく。
明熾は指先で、その涙をそっと拭った。
「身体の傷なら、治りは早いが……」
安易に触れられるのは嫌い。気を許したわけではないのに、隙だらけの自分に戸惑う。
『明熾様が、お気になさるとは珍しいこと』
狼が明熾の足元へ絡み、もう一匹は冬馬の顔を覗き込む。
「冥府に入った時点で人の籍は外れる。来歴は冥籍に起こされる。……君のは、さっき読んだ」
独り言のように、明熾はぼやいた。
「無垢すぎる」
明熾は冬馬ではなく、狼たちへ視線を落としながら、言葉をこぼす。
「濁りがないのに、傷だけが多い。扱いを間違えれば、すぐ壊れる」
冬馬はぐっと唇をかんだ。だが、抗う声が出ない。
明熾の掌を拒めず、目を伏せるだけ。生まれて初めて知る温度に、眠気が差してくる。
「冥府に籍を持った今も、君は自由だ。選ぶ権利は、まだある」
明熾は湯の中で眠りかけた冬馬に、声を落とす。
ふらつく意識の中、ゆっくり身体が持ち上げられた感覚はあるが、手足に力が入らない。
「起こさないように」
明熾の声が近くて、遠い。
冬馬はそののち、丸一日に近い眠りに落ちた。
***
「……痛っ」
冬馬の目覚めた身体は、乾いた関節が擦れるように軋んだ。
『お目をお覚ましに』
小学生ほどの姿をとった子狼が、静かな笑みで覗き込んでいる。毛の艶は黒銀のまま、瞳だけが妙に澄んでいた。
部屋は簡素で、墨と紙と乾いた香だけがある。刀も飾りも、余計な熱もない。息をしても響かない気配が、床から天井まで染みている。
冬馬が身を起こしかけた瞬間、床の底で鈍い響きがした。結界の膜が歪む音が、波となって押し寄せてくる。薄雪の宮の静けさに、異物の振動だけが浮き上がる。
隣室では明熾の名を呼んで駆け込む足音が重なり、官吏の叫びが続いた。使いの蛇までが足先をかすめ、廊下が騒ぎの匂いで満ちていく。
冬馬がひょいと扉から中を伺う。
本を片手に、相変わらず綻びのない顔の明熾がいた。駆け込んでくる官吏の声が重なるたび、片眉だけが不快を告げる。
「黒の牢が、破られました」
「四天王が解き放たれました」
明熾はゆっくりと本を閉じると、音が消える。報告者達の顔つきが凍り付き、明熾の視線を避けるように頭をたれた。
「兄上が何とかする」
興味がないと突き放すような声色に従うように、人がはける。
「宗像が狙われる」
冬馬が踏み込むと、明熾は首だけ動かして短く言った。
「行くな」
制止というより、事実を置いただけの声だった。命令でも忠告でもない。薄雪の宮の静けさと同じ調子で、音だけが落ちる。
冬馬は立ち止まらない。
床を蹴ると、足裏の感触が一拍遅れて返ってくる。呼吸が早まり、胸の奥で何かが擦れた。背を向けたまま、廊下を駆ける。
その背に、明熾のため息がひとつ落ちた。
気配がわずかに沈み、空気の張りが緩む。
「行かずとも、来る」
声は追ってこない。背に届く前に、距離だけが切れていく。
薄雪の宮は、黒の離宮に近い。
白い回廊を抜けるにつれ、足音が削がれ、匂いが消えていく。門へ向かうほど、外と内の境が曖昧になり、身体の輪郭だけが残る。
宮門を出た、その瞬間だった。
空気が、止まった。
冷えでも静寂でもない。張り詰めた膜の向こう側に、何かが立っている。冬馬は反射的に身を強張らせ、肩を落とし、重心を低く取った。
「匿うなら、やはりここか」
声に温度がなかった。
低く、均され、問いとも断定ともつかない。音だけが切り離されて落ちる。
冷えた沈黙が、足元から広がった。
霜は張らない。だが空気が重くなり、呼吸の間が引き伸ばされる。冬馬は無意識に重心を落とした。
門前に、ひとり立っている。
背は高く、装束は白とも灰ともつかない。鎧はなく、刃も見えない。裾だけが静かに揺れているが、風の気配はない。男は立っているというより、そこに在るだけだ。
「見つけた。夏を殺して座を得た宗像」
名を呼ばれたわけでもないのに、胸の奥の熱が削がれていく。火の輪郭が、指先から曖昧になる。
「誰だ、あんた」
問いは短く、互いの間合いを測るためだけの声だった。
「冬の座、氷魄」
名乗りはそれだけ。
仄光の中、顔立ちは判然としない。瞳だけが淡く、凍った水面のように光を返さない。
氷魄は足音を残さず歩み出た。
一歩ごとに、時間が遅れる。動こうとする思考が先に鈍り、身体がそれに従う。刃を抜くより早く、世界が減速する。
「宗像志貴を喰う。紅を取り込めば、俺の冬は黒まで届く」
独り言のように言い、氷魄は冬馬を見た。
そこに感情はない。評価でも憎悪でもなく、計算の結果を確認する視線だった。
「その力で耀冥を屠る。それが最短だ」
宣言は冷淡で、ためらいがない。そこに残っているのは、選択肢ではなかった。
冬馬は歯を食いしばる。
この相手は交渉も説得も想定していない。結論に向かって、淡々と歩いてくる。
「宗像志貴の封域の座標を言え」
仄光の中、視線だけが先に届く。
「言うわけないやろ」
冬馬は歯を食いしばり、扇状に割る炎で応じた。大鎌を振り下ろす。炎が理の綴じ目を裂き、世界を反転させるはずだった。
だが次の瞬間、氷魄の凍結領域が静かに降り、炎は白く固形化して砕け散る。空気が湿って重くなり、息を吸うのに時間がかかる。動きが鈍る。瞬きが遅れ、腕を上げるだけで、途中で止まる。脈だけがやけに速い。皮膚に薄氷が張り、睫毛に霜が降り、呼気が肺の奥で硬くなる。
「夏になったばかり。まだ力を使いこなせていない。骸座の戯の直後の肉体では、ままならないだろう」
氷魄の指が喉に触れた。触れただけで温度が抜け、膝が落ちる。大鎌の重量だけが地との繋がりを保つ。
意図せず声が漏れ、意識の淵が傾く。
「宗像志貴。百日の眠り、残り五十ほど。さあ、封域はどこだ」
凍り付いた掌が額へ触れた。指が冬馬の記憶の戸口へ、蝶番の位置を探るように掛かる。
蝶番が押し分けられ、桃色の布端が一枚だけ翻った。その瞬間、冬馬の内に、志貴の香がごくかすかに薫った。
「やめろっ」
冬馬は首を捻った。頸椎が悲鳴を上げる。己の中の夏が形を崩してでも噛み付く。
冬馬は大鎌の刃先を己の胸に突き立てた。志貴の香に触れられるくらいなら、この身の理ごと砕いた方がいいと奥歯を噛んだ。
「四天王を殺すのは骸座の戯か、黒の千年王の刃だけ。習わなかったか。残念ながら自死はできない」
冬馬の表情が凍りつく。燼華とは比べものにならない力量差。勝ち筋が、どこにも見えない。
冬馬は首を鷲掴みにされ、持ち上げられる。額に手を押し付けられ、激しい頭痛に悲鳴を上げた。
その刹那、場の空気が一変し、耳をつんざく金属音がした。
「触るな」
声はただそれだけで、場の重心が移った。
風を斬る音に次いで、一振り。
氷魄の身体が後方へ吹き飛び、同時に冬馬の身体がどさりと落ちた。冬馬は激しく咳き込んだ。
「あの第十六皇子殿がここで出て来られるとは……運のない。だが、やめておかれるが」
明熾は静かに刀を下ろしていた。その刃が空気を切った気配はない。鞘鳴りもなければ、踏み込みの足音すらない。黒の剣は、元より音を持たない。それでも敵は斬れていた。
氷魄の首はまだ、自分が死を迎えたことに気づいていない顔のまま、ゆっくりと土の上へ滑り落ちていく。
「何ということもない」
明熾の掌に、音もなく黒い霜が降りていた。
「……斬ったんか?」
冬馬は見ていたはずなのに、動作も軌道もひとつとして捉えられなかった。
凍結領域がほどける。血の匂いは薄く、静謐だけが強い。切断面は冷たく、蒸気はない。明熾の一刀は、熱を伴わず、理だけを切り落としたのだと、遅れて理解した。
「黒の千年王の刃なら死ねるのだろう。言葉通り、死んでみろ」
昼寝着のままの明熾が、僅かに眉を顰めた。
「一番上の兄の代物だから、紛い物ではない」
明熾は剣についた血を振り落としたのみで、もう無駄には振らない。その沈黙だけが、礼儀のように見えた。
「四天王に皇子とは、愉快」
品のない笑みの途中で音は途切れた。氷魄の胴が膝を折る。その肉体は、ようやく己が崩壊したことを受け入れ始めていた。
冥府律が動いた。
見えない綱が締まり、空気の張りが一段変わる。
冠の紋が氷霧のように立ち上がり、明熾の胸骨へ沈んだ。冬の印は、音もなく座を得る。
そこへ赫夜が駆け込んだ。
「明熾。馬鹿たれが。黒の千年王に託された刃だぞ。ここで抜く手があるか」
赫夜の叱責の声は短く重い。
「四天王の入れ替えは律法だ。波紋も大きい。何を考えてる」
だが明熾は振り返らなかった。膝を折ったままうずくまっている冬馬へ手を伸ばしてくる。
冬馬は思わず手をとりそうになり、慌ててひっこめた。
「痛むか」
明熾はひとつ考えてから、片腕で冬馬を抱き上げた。冬馬は予想外の状況にあわてふためくが、明熾は平然としている。歩みは揺らがず、口調は淡々としている。
「刃を抜いた責めは甘んじて受ける。ただ、それより、この子が壊されなくてよかった」
落とした声は、どこか眠気を孕んでいた。剣の反動か、ぐらりと一瞬だけ明熾の身体がぶれる。
「お前が四天王を堕とすなんて馬鹿なことがあるか」
「一番上の愚兄を見習った」
赫夜のこめかみがぴくりと跳ねた。皮肉が刃を持っているようだと、冬馬は目を逸らした。
「明熾。あれを使って無事でいられるのは耀冥だけだ。わかっているのか」
赫夜の呼び止める声は空を切る。
抱えられた冬馬の指先が、明熾の衣の端を無意識に掴んだまま、二つの影は白い回廊へ溶けていった。
***
冬馬が目を開けると、天井の白が近い。身体が浮いている。
落ちるはずの実感が、どこにもない。
明熾の温度に触れていると、瞼が落ちるのに逆らえなくなる。疲労があるのは確かだ。それでも、こんな落ち方は理解できない。
「ね、寝てた!」
抱き上げられたままだと気づいた瞬間、喉がひゅっと鳴った。
「お、おろせ。俺は男や、歩ける」
「はいはい」
明熾は淡々と、歩幅も手の強さも変えない。
白い回廊の灯りがゆっくり流れていくのに、揺れはほとんどない。外の気配が一段ずつ削がれ、腕の檻だけが確かだった。
冬馬がもがけば肋が軋み、息が詰まる。夏との死戦の反動と、先刻の残響が筋の奥に針の束のように残っていて、動くたびに遅れて刺さった。
「じっとして」
寝台に降ろされ、首筋と額の血を、濡らした布で拭われる。手つきは異様に静かで、明熾には嫌な熱がひとつもない。布の冷たさだけが皮膚を通り、火照りの芯を薄く削っていく。
「腕も出せ」
反射的に手首を引いた。だが掌の温度と微かな匂いに、未経験の感覚が冬馬の中のどこかをほどいていく。拒むはずの息が勝手に深く落ち、肩から力が抜けた。疑う気持ちだけが、あとから追いつく。
落ち着かなくて、あたりに目をやる。天蓋も屏風もないのに、材の艶と線だけで、ここが私的な奥であると分かる。
「これから、どうなる?」
掠れた声で問うと、明熾は布を替え、片目だけ向けた。瞼の影の奥は読めない。
「何も変わらない」
「嘘や。変わらんはずがないやろ」
明熾は小さく息を吐いてから、冬馬の頭に手を置いた。重さがあるのに押しつけない。熱もないのに、そこで乱れが止まる。
「冥府律が動く。それだけだ」
「大したことやろ……」
「自由が奪われるわけではない。現に、拘束されていない。気に食わなかったから、斬った。止められなかった。言えるのはそれだけ」
「あかんやろ。四天王を斬ったら……」
言い返そうとした瞬間、視界が滲んだ。傷が痛むのではない。こらえきれぬものが胸の底から溢れ、涙腺だけが先に崩れた。喉の奥が熱くなり、息が途切れる。
明熾はまた小さく息を吐き、目の上に冷たい布をそっと置いた。布の角が睫毛に触れない角度へ、無言で直される。乱れた呼吸が布の下でかすかに跳ねた。
「四天王の響きが窮屈なら、いっそ他も斬ってしまおうか。君が少しでも楽になるなら」
「はっ。何言うて」
「冗談だ」
明熾の声の平坦さは、冗談には聞こえなかった。
「大人しくして」
手が背へ回り、肩甲骨の下で止まり、呼吸をひとつずつ数えるようにゆっくり撫で上げる。乱れた脈へ、落ち着きの順番を押しつける手だ。触れた瞬間、明熾の掌が冬馬の拍の乱高下へぴたりと合い、呼吸の刻がひとつずつ揃っていく。胸の奥の詰まりが、ほどけ方を思い出す。
「お前、何で優しくするんや。何か企んでるやろっ」
冬馬は混乱のまま袖で目尻の水を乱暴に拭った。明熾はまた布で目元を押さえ、静かに言う。
「いちいち、うるさい。いまは、休め」
「お前の匂い、嫌いや」
明熾の手が一瞬だけ止まる。止まった箇所だけ、背の皮膚が薄く冷えた。
「誰と比べてる」
問われた冬馬の息が荒くなる。
「志貴の匂いが、わからんようになってる」
胸が焼け、視界が白む。戦場でも鈍らぬはずの嗅覚が崩れる恐怖が、いまになって襲う。喉の奥に鉄の味が戻り、唾が飲み込めない。
明熾は何も言わず、背を撫で下ろす速さを、吐く息に合わせてわずかに落とした。乱れていた拍が、掌の下で一本に揃い始める。胸の苦しさが少しだけほどけ、息が深く入る。
「さっさと寝ろ」
「命令すんな」
「はいはい」
短い返事は変わらない。それでも背にある明熾の手は離れない。指先が布越しに呼吸の上下を確かめ、ほどけきらない震えを押さえつづける。
冬馬の意識は、その温度を最後にふっと底へ落ちた。
***
赫夜は、氷魄の冷気と、牢の壁面に微かに残る異質な糸の摩擦痕を見やった。
「どいつも、こいつも、好き勝手ばかり」
糸は香りを持たない。だが触れれば、指腹から記憶の手触りだけが剥がれていく。Veilmakerの改竄は、いつの間にか質を変えていた。
「簡単に破られる代物じゃないはずだがな……」
Veilmaker単独では牢そのものを破るには足りない。耀冥の縛りに、目に見えぬ綻びが生じているようにしか思えない。赫夜は口の内側で金属の苦みを噛んだ。
「何かが、おかしい」
背後から官吏の報告が続く。春と秋の牢も空だと言う。
「俺が、迅速に駆けつけて間に合わないとはな」
意図があるのか、ないのか。赫夜は、そこが読めずに苛立った。
「全ての冥籍を確認しろ」
短く指示し、踵を返す。
Veilmakerが境界線を越えた。冥府と宗像の枠だけでは、もう収まらない。牢破りは目隠しに近い。もっと大きいものを、別の場所で動かしている。
赫夜は舌打ちを飲み込んだ。
面倒だと肩をすくめる。放っておけば、冥府の内側から裂ける。
薄雪の宮の外回廊まで戻り、赫夜は明熾の寝所の敷居で足を止めた。
明熾が椅子を引き寄せ、冬馬の横で不眠の番をしている。孤高不羈の第十六皇子が、誰か一人のために時間を潰す姿など、見たことがない。
「明熾」
呼べば、明熾は首だけこちらへ向けた。
「春は宗像へ、秋は泰山へ向かった。Veilmakerのことだ、能力も少し弄っているはずだ」
「知っている」
「……知ってる、か」
赫夜は額を押さえ、短く笑う。説明を必要としない弟。説明される前に過剰に理解している。
「牢は、Veilmakerの糸が触れていた。だが、破るほどの力はなかったはずだ。お前はどう見る」
明熾の瞳が一ミリだけ細くなる。言葉はない。沈黙が返事になっている。
赫夜は続けた。
「冥府の盤は乱れた。お前が冬を継いだことで、乱れは形を持つ。責任は本当に引き受けられるんだろうな」
「役割は引き受ける。だが、自分は捨てない」
「やれやれ」
赫夜は肩を落とした。引き受けると言いながら、線を譲らない。その線が、いまは冬馬の横に引かれている。
明熾は冬馬の寝息を一度確かめ、視線を戻した。
「天地を裏返しても好き放題してきた一番上に比べれば、私は慎ましい」
「皮肉の矛先が正確すぎて、腹が立たん」
赫夜の言葉が途切れる。明熾は窓を少し開けた。冷気が入り、室内の熱が均される。冬馬の呼吸が、余計な揺れを一つずつ落としていく。
明熾は冬馬の寝汗をぬぐいながら、ぽつりとこぼした。
「あの自由人は頭が悪いとばかり思っていたが、気持ちが、少し分かった」
赫夜は聞き流すふりをした。喉の奥が冷えた。明熾は入れ替え戦の意味も波紋も、最初から理解した上で斬ったのだ。そして今、冬馬に対してだけ、ものの見方を変え始めている。
「ほどほどにしてくれよ。俺はもはや手いっぱいだぞ」
赫夜の言葉に、明熾は答えなかった。
まいったな、と赫夜はしゃがみ込む。視線の先で、冬馬の指先が布を探るように動き、すぐ静かになる。眠りの底で、それでも何かを掴もうとしている。
「いや……ある意味で、最適解か」
赫夜は肩の力を抜き、静かに立ち上がった。
冥府の盤は、想定外の一手で裏返った。明熾に刃を託した時点で、底の規則が静かに組み替わり始めていたのだ。
「あんにゃろの掌の上の気がしてならん」
赫夜がぼやくと、明熾はいまさらだろと小馬鹿にしたような笑みを浮かべていた。
赫夜はわざとらしく盛大なため息をはいて、明熾の宮をあとにした。
同じ時刻に、宗像の結界膜が低く一度だけ鳴り、泰山の雪層がひと筋沈む。春は宗像で飢えを研ぎ、秋は泰山で古い執着を舐める。
黒の離宮の地下で、誰も知らぬ痛みが軋んでいる。
薄雪の宮の中で、冬馬は疲れて眠り、明熾はただ時を読む。雪はまだ降りきらず、夜は冷えを増す。その冷えの芯で、明熾の胸骨に沈んだ新しい冠が、音もなく鳴った。
それは祝福ではない。
冥府が静かに裏返りきるための始鐘だった。




