第54話 な忘れそ、ぬくもりの名を
結界の夜は、音が角を失う。障子の向こうで雫が落ちても、それが床へ触れるまでの距離が曖昧になり、息遣いも、布の擦れも、やわらかな綿に包まれて届く。
その静けさが、布団を乱暴に剥ぐ音で裂けた。
一心が寝台の上で跳ね起きた。胸を押さえ、喉を鳴らし、吸い込む空気を探して口を開くが、肺へ落ちていかない。呼吸は浅く、吸った分だけ吐けずに残る。肩が痙攣するほどに動悸が荒れ、額から冷や汗が流れ落ちた。込み上げるものを堪えきれず、片手が口元へ走る。
闇の中で右眼が光った。光は強くない。だが、焦点だけが勝手に合い、見つけるべきでないものへ伸びていく。名のほつれ、記憶の綻び、欠けた輪郭の端。そこへ触れようとする衝動が、身体の内側から一心を追い詰めた。
「……志貴、どこや」
低い呻きはすぐ掠れた。言葉の終わりが息に溶け、声として形を保てない。布団の端を掴む指は白く、握る力が定まらず、震えだけが残っている。
背へ回り、肩を抱き留める手が入った。骨ばった背中は汗で冷え、寝間着の布が皮膚に貼りついている。掌が背骨に沿って据えられ、肩甲骨の上から腰へ、一定の速さで下ろされる。乱れた息に合わせて加減する手つきではない。速さが崩れないことで、こちらの呼吸の道だけが先に戻る。
耳元でヨルノミコトの声が落ちた。
「志貴様は、ここにおられます。ご無事です。名も記憶も、奪われておりません」
言葉は短いのに、根拠のように硬い。けれど首は小さく振れてしまう。否定というより、身体が恐怖の残りをまだ振り払えていない。吸い損ねた息が喉に引っかかり、胸の奥が苦しく鳴った。
「声が、消える。さっきまで、あったのに……」
右眼が、また探そうとする。眼差しだけが起き上がり、部屋の暗がりを舐め、結界の膜の内側へ潜ろうとする。その動きに合わせて吐き気が強くなるのが、自分でも分かった。息の道がさらに細る。唇の端が痺れ、舌の裏が乾く。胸骨のあたりに重みが落ちて、そこから先へ空気が進まない。
寝台脇の箱が開き、布が取り出される気配がした。掌に載せられたものへ指先が触れた瞬間、布は床へ落ちた。掴む筋肉が抜けている。ほんの短い空白のあいだ、身体は動けなくなる。胸の奥だけが乱れ、手足の命令が届かない。目だけが勝手に走り、覆うもののない右眼が闇へ刺さる。
低い声が、落ち着かせるように入った。
「大丈夫です」
布が拾い直され、もう一度、掌へ載せられる。今度は凍える指で、それでも結び目だけは迷いなく作られた。右眼が覆われた瞬間、荒波のようだった息が、ようやく浅瀬へ降りる。呼吸の音が喉ではなく胸の方から戻ってくる。吐ける分だけ吐ける。吸える分だけ吸える。遅れて、冷や汗の冷たさが首筋へ伝った。背中に当たる掌が、汗で滑らない速さのまま、一定に下ろされ続ける。
「深く、落ちた。気を抜いた」
一心の声は低く、言葉が途切れ途切れに落ちる。胸の奥の震えは止まらないのに、吐く息の出口だけは塞がらなくなった。
「その間に、奪われたら、どうする」
「奪われておりません。志貴様は、ここにおられます」
ヨルノミコトの言い切りの硬さが、結界の膜と同じ手触りで耳へ入ってくる。喉が詰まった。吐き出せない嗚咽のようなものが、言葉の形になれずに残る。最強の名を背負ってきた身体が、この一点でだけ崩れていく。誰も見ていない。見えていない場所に落ちるほどの弱り方が、自分の内側にある。
「志貴が、消えたら……俺は……」
続きは切れた。呼吸だけが乱れ、眼帯の下で睫毛が小さく震える。瞼の奥で何かがほどけそうになって、必死に押し戻す。押し戻すほど、右眼がまだ見ようとする。見れば、確かめてしまう。確かめた瞬間、欠けが生まれる気がした。
背中の掌が、少しだけ速さを落とした。急に優しくはならない。揺らぎを許さないまま、重ねる場所だけが胸へ寄る。
「覚えておいででしょうか、一心様。志貴様が、まだ五つ前後でいらした頃のことを」
返事は出ない。だが耳は確かにそちらを向いた。息の波に合わせて、背をさする掌がわずかに重なる。身体が先に戻るための入口だけが、そこに作られる。
冬の出雲。蕎麦屋の暖簾は雪の白を一枚だけ外へ追いやり、店の奥から出汁の甘い匂いが、鼻の奥へぬるく落ちてくる。
志貴は、一心の袖を小さく引きながら座敷へ上がった。畳の縁でいったん膝をつき、両手をついてから、よいしょ、と身体を持ち上げる。靴を揃えきれない志貴に、一心がそろえろと指をさし、しぶしぶそろえる。座るとすぐ隣へ寄る。肩が触れる距離が、あの子の指定席だった。
座敷の畳は冷えていて、膝をつくと骨へ薄い痛みが返った。丼の湯気だけが部屋の真ん中に小さな熱を立て、息を吐くたび、その熱が頬をかすめる。
「一心、見て。湯気、すごいで」
両手で抱えた丼の湯気が、細い睫毛の先を湿らせる。頬は雪明かりみたいに白く、唇の色はまだ薄い。それでも目だけが湯気を追って、熱のありかを見ている。
「美味しい。これ、一心も、どうぞ?」
差し出された丼の縁へ、指先がいったん近づき、触れる寸前で止まる。湯気の立つ縁をかすめて、すぐ離れる。右手の箸は冷たい蕎麦を持ち上げたまま宙で迷い、結局、冷たいほうへ戻る。短い逡巡のあいだに、言わないものだけが増える。熱いのが苦手だとも、分からないとも。
「冷たいほうが、味がよう分かる」
言い訳は真顔のまま落ちた。志貴は首を傾げ、湯気を見つめてから、一心を見上げる。
「寒がりやのに、あったかいの食べへんの?」
「うるさい」
次の瞬間、氷を二つ、指でつまんで志貴の丼へ落とす。しゅう、と湯気が目に見えて細り、匂いの甘さが一段引く。あたたかさが削られる速度だけが、やけに正確だった。
「ひどい」
志貴の瞳に涙が溜まる。けれど、手は離れない。袖をぎゅっと掴んだまま、頬をぷくりと膨らませ、そっぽを向く。怒っているのに、距離だけは守らない。
「食べへんの?」
一心が、わざと面白がるように問う。志貴は背けたまま黙り、鼻だけが小さく鳴った。少しして、丼を持ち直し、すする。口の中に残っていた温度を確かめるみたいに、目尻がほどける。
「美味しい。絶対、こっちが正解や」
「……そうか」
それだけで十分だった。志貴は味を言葉にして渡す。一心は味そのものではなく、その言葉のほうを受け取り、表情だけで収める。丼の上に戻りかけた湯気が、もう一度だけ鼻先へ触れた。香りが戻ったかどうかは、志貴の顔で分かる。
「コップの氷、入れたわ」
眼帯の下で睫毛がかすかに震えた。喉の奥で、詰まっていた音がほどける。息が、そこでやっと胸へ落ちる。戻ってくるものがあると知るだけで、胸の内側が少し静かになる。
「他にも、あるか」
「ございます」
一心が確認を重ねるのは、不安のせいだけではない。奪われていないと、身体へ何度でも刻み直すための手順だった。
朝の宗像邸。障子を透かす光が薄く、床に淡い影を落としている。志貴は足音を消して寝間へ入り、背伸びして布団の端を指先でそっとつつく。布の上に落ちる音が小さすぎて、起こすというより触れるだけだ。
「一心、起きて。朝やで」
返事はない。代わりに、布団の中から伸びた腕が志貴の腰を攫う。小さな身体は抵抗もできず、布の谷へずるずる引き込まれた。畳の冷えが一瞬で消え、布団の内側の熱だけが頬へ当たる。
「起きてぇ……!」
「まだ眠いんや。お前も寝とき」
布団の中で短い笑い声が転がり、すぐ静かになる。呼吸が整い、寝息が早いリズムへ落ちる。志貴は小さく唸るように言い返しながら、結局そのまま眠る。頭の位置を直し、一心の胸へ額を預ける。嫌がるどころか、熱を持った場所を探すように、頬が布団の奥へ沈む。
襖の向こうで、わずかな気配が揺れた。衣擦れが一つ、畳に吸われるように消える。覗く癖のある足取りだった。呼びかけは来ない。代わりに、引くときだけ残る沈黙が置かれる。
それで十分だった。
眠りに落ちる速さが違う。背中の緊張が抜け、呼吸が底へ入る。志貴の指が袖を掴んでいるだけで、胸の奥の硬さがほどけていく。見られても、起こされない。触れていれば、沈むと知っている者が、ちゃんと引いた。
昼まで寝てしまって、泰介に二人まとめて叱られた声が、耳の奥に一度だけ戻った。
「それも、覚えてるわ」
まだ少し掠れている。けれど、先ほどの震えはない。息は途切れず、吐いた分だけ戻ってくる。眼帯の下の右眼が、闇を探しに行かない。
次の記憶へ移る。
夜の宗像邸。大人たちが仕事に出たあと、怪我をしていた一心は留守番を命じられ、世話係の役目が回ってきた。頼まれて焼いた生地は丸く整ったのに、色だけが真っ黒で、表面は固く、触れれば冷たさが指に残った。
「まずい。一心、これ、むりやぁ」
志貴は一口で泣いた。両手で皿を押し返し、顔を伏せる。涙は早く、匂いと味の区別より先に落ちる。甘いはずのものが、口に入った瞬間に全部違う顔をする。
「公介さんのがええ……」
一心は真顔で首を捻る。感想が分からないまま、比較だけで立て直そうとする。誰が作ったか、誰の手なら落ち着くか。それだけで道を作れると思っている。
「泰介さんより、マシなはずや」
「泰介さんのも、一心のもいらん」
「もう一回、言うてみぃ」
抱き上げ、睨みつける。志貴は目を逸らし、声を落とした。勝ち負けではなく、ただ温度が欲しいだけの声だ。柔らかい匂いと、喉へ落ちる安心が欲しい。
「公介さんの……チンする」
「あるなら、早よ言え」
冷凍の生地が火にかかり、機械の音が鳴り、部屋の匂いが戻る。柔らかい甘さが遅れて広がり、志貴の涙の塩気の向こう側へ、やっと安心が混じる。志貴の顔がほどけるのを見て、ようやくそれが正解だと分かる。
志貴は皿を持って待ちながら、一心の袖から手を離さない。泣いたあとの頬に塩気を貼りつけたまま、指だけが強く絡みつづけている。離せば冷えが戻ると知っているみたいに。袖の布の温度が、志貴の掌の熱で少しずつ変わっていく。
「よう覚えてるもんやな」
一心の声に、冗談めいた色が戻る。喉の奥の硬さがほどけ、息が深く入る。胸の上下が一定になり、背骨のあたりの攣りがほどけていく。
布団の端を掴んでいた指が、完全にゆるむ。冷や汗の冷たさは残っても、恐怖の形ではない。背中へ当たる掌の速さが、そこで初めて少しだけ軽くなる。寄り添う重みが、逃げ道を塞ぐものから、支えるものに変わる。
「志貴は、いま、眠ってるな」
「はい。百日の眠りの途中におられます」
「目ぇ覚めたら……」
「また、あの頃のように」
一心は短く息を吸い、ゆっくり吐いた。息の出口が塞がらない。それだけで、胸の内側が少し静かになる。眼帯の下の右眼が、闇へ手を伸ばさない。
「……ほんまに、できるやろか」
「できます」
それ以上の言葉は要らない。志貴がいる限り、戻れる、と身体がもう知っている。味が分かるかどうかではない。志貴が美味しいと言えば、それが美味しい。志貴が温いと言えば、その温度に沿えばいい。そうやって、ずっと間違えずに生きてきた。
結界の外で、冷えが深まる気配がした。雪の匂いがわずかに混じり、鼻の奥がつんとする。
「目覚めたら、雪やな。志貴は、騒ぐやろな」
「布団を抱えたまま、走って来られるでしょう」
「首に巻くんは、あかん」
「存じております」
眼帯の下で、目尻がほんの少し緩む。志貴は首元を覆われるのを嫌う。あの日、庭先でそれに気づき、慌てて外したことを覚えている。忘れていない。奪われていない。
「あの、もこもこのやつや」
「用意しておきましょう」
灯をひとつ落とす。部屋は藍に沈み、床下から冷えが静かに上がってくる。けれど布団の中の呼吸は乱れない。胸の上下は一定で、吐いた分だけ戻る。
「ありがとう」
布団の中から、低い声。
「礼には及びません」
名はここにある。声も、温度も、手の届くところに。
一心は再び眠りへ落ちる。その呼吸は、もう乱れない。右眼は覆われ、肩の痙攣は止み、布団の端を掴む指は熱を取り戻している。背中に当たる掌が離れても、冷えに引き戻されない。息が底へ沈み、静かに続く。
最強の名は揺るがない。ただ一つ、志貴という名に触れたときだけ、深く、確かに、崩れる。崩れても戻れる。戻れることを、いま、身体が思い出している。
結界の夜は音を丸め、温度を保つ。雪はまだ降らない。降るのは、目覚めのあとだ。




