第53話 六出なる 飛び雪まひて 夏沈む(後編)
炎球は、もはや太陽と呼ぶほかなく、庭の影という影を溶かしていった。熱が押し寄せるたび、世界の輪郭が一枚ずつ剥がれ、音だけが後ろへ置き去りにされる。
最奥で時生の呻き声が上がり、結界がわずかに揺れた。最奥への道が開けば、一心が黙ってはいない。けれど、その一手は志貴を丸裸にするのと同義で、冬馬の腹の底は早々に拒んでいた。奥歯を噛み締め、舌の裏の乾きで迷いを誤魔化す。
「終わり、にしよっか」
燼華が小さく息を弾ませた。
冬馬は前足の指をわずかに開き、踵で地を噛む。胸の内で骨が一度だけ鳴り、視界のぶれがほどけた。呼吸の入口が一本に定まる。
見ろ、勝ち筋はある。香が縫われて戻る、その瞬間へ踏み込み、間を割って、刃を届かせる。
先刻、大鎌の根を割った刹那にだけ走った無音を、冬馬はまだ掌の裏で覚えていた。炎が綴じ直るとき、理は一瞬だけ素肌を晒す。炎の核の表面にも、微かに波打つ縫い目がある。香が裏返り、甘さが苦みに触れる。あの帯が、いまの狙いだ。
風圧で膝が笑う。柄はぬめり、手の内の温度がすべてを奪いに来る。正攻法は捨てるしかない。そう腹の底へ落とすまでに、ここへ来る道で何度も噛み砕いた。
一歩目で熱の壁が悲鳴を上げ、袖口が焦げて千切れた。二歩目で視界の端が白く飛び、骨の数えだけが目盛りになった。刃の角度を半分だけ外へ逃がし、重みを切先へ移す。呼気が喉を擦り、舌に鉄の味が乗った。
「志貴を、護る!」
名を呼ぶのと足裏が地を離れるのは同時だった。冬馬は一直線に、核の縫い目へ踏み込む。
振り下ろした瞬間、炎の核は真二つに裂けた。刃は熱の縫い目だけを断ち、轟音は生まれない。世界が息を止め、沈黙だけが余韻になって残った。溶け落ちた炎は、燼華の胸奥に亀裂となって走る。
「……どうやって?」
燼華は胸を押さえ、目を丸くしてから、嬉しそうに口角を上げた。
「……僕が、斬られた?」
荒い息が肩を揺らす。裂け目は一瞬の縫い目を狙い撃っただけだった。九十九を捨て、残り一を穿つ。ほかに手はない。
「馬鹿な……」
燼華は笑いながら、目だけを揺らす。
「君、全部負けてたのに……最後だけ、勝った?」
冬馬は答えない。血に濡れた刃を支え、吐き捨てる。
「勝った。……十分やろ」
視界が二重にぶれはじめ、冬馬は力なく笑った。
「軌道、読めんかったやろ……」
振り下ろしたかに見えた刀は、寸手で逆手に返り、切り上げに変わっていた。強者相手には悪手でも、死を顧みないという一点だけで、すべてが裏返る。
「君、馬鹿だろ。これ、間違えば相打ちしかないじゃん」
「相打ちでも構わん。志貴は護れる」
「最高に馬鹿だ!」
裂け目を見下ろし、燼華は傑作だと笑った。だが次の瞬間、亀裂の奥から炎が逆流する。
悲鳴は子供の声で、冬馬の耳奥を刺した。白い炎の脈が乱れ、内側から押し返す熱が燼華の身体を裂いていくのが見える。芯まで割れるような音が混じり、焦げた匂いが一段濃くなった。斬られた痛みではない。見ているだけで喉が縮むほどの苦痛が、積み重なった熱の重みになって押し寄せてくる。
「いやだ……いやだ……!」
夜空を焼き、炎が暴発する。燼華は庭を転げ、幼子のように泣き叫んだ。断末魔の後、喉の奥で空気だけが掠れる。
その叫びを、別の声が押し潰した。
耳で聞くというより、身の内側へ先に落ちてくる音だった。炎の轟きの向こうにあるはずなのに距離の感覚だけが抜け落ち、冬馬の気道が反射で細くなる。息を吸い損ね、舌の奥が乾いた。
『精算だ。奪った熱だけ、骨で払え』
声は冷たい。温度が低いのではない。熱も煙も拒む硬さで、輪郭だけがそのまま残っている。冬馬は柄を握り直し、指の腹へ戻ってきた痛みで、ようやく自分の足が地を踏んでいることを確かめた。
『お前の魂から“還り”を剥いだ。汝は何者か。その問いは、もうない』
「還りの理なんか、どうでもいいよ……耀冥」
燼華の泣き声が不意に止み、涙の奥に冷え切った光が宿る。
耀冥の名は、喉の奥が先に知っていた。冥府の黒に触れたことのある者なら、外せない。冬馬の頭はきしみ、理解へ手を伸ばすたび、指先だけが外へ弾かれて、届かないまま戻される。その不気味さが、背筋を薄く滑った。
「本当に耀冥が大好きで、大好きで仕方がない。あなたが一番の大悪党だよ。それにしても、骸座の戯、愉しかったぁ」
燼華は天へ手を伸ばすようにして、目を閉ざした。
「冬馬、君さ。冥府の黒脈だろ。そうでもなきゃ、僕を斬れない」
大鎌が地に転がり、燼華の身体が徐々に崩れ落ちる。
「僕は退屈も永続も嫌い。だから、君に全部あげる。そのかわり、君のいちばん大切なものを握りつぶしてあげる」
子供の掠れた呟きが、呪いのように胸へ刺さった。
「骸座の戯は終わり、冠だけが残る。冥府律は作動する。……ねぇ、そうでしょ、耀冥」
炎が乾いた音を立て、魂核が砕ける。燼華の身体は火の粉となり、夜空に散った。
『四天王を討った者は、その座を継ぐ。それだけのことだ』
灼熱の印が冬馬の胸奥に刻まれ、炎の紋様が魂へ食い込む。夏の権能が流れ込む。その熱に押されるほど、骨の奥が薄く軋み、冷えの輪郭だけが遅れて立った。最後の一響は、全身の継ぎ目が同時に鳴る無音だった。片膝をつき、ようやく呼吸が戻った。刃を下げ、鞘へ収めても、音は鳴らない。胸の内側で、夏が沈む音だけがした。
結界はまだ堅く、時生は血を拭いながら、それでも保ち続けている。志貴の眠りの場はわずかに揺れただけで、落ちなかった。
冬馬は地に片手をつき、息の隙間に言葉を落とす。
「……志貴が無事なら、それでいい」
口に出したのは、それだけだ。続きは喉のいちばん奥でつかえ、渇きだけが残ってほどけない。斬り込む瞬間だけ、胸郭がひどく軽くなる。踏み込んだあとで、熱と血の重みが遅れて届き、肋のあたりへ一気に乗る。黄泉使いとして刃を握るたび、そのずれが同じところで起きるのを、冬馬は見ないふりをしてきた。志貴を護りたい、あの名さえ守れるなら、と自分に言い聞かせ、噛み合わなさごと飲み込んできた。
けれど、いま胸へ食い込んだ夏の紋が、それを許さない。息を吸うたび、背の継ぎ目がわずかに狂っていく。宗像のまま立てる形じゃない、と、身体のほうが先に突きつけてくる。
志貴に、どの言葉で、どう言えばいいかがわからない。
「わかってたはずや……」
燼華を斬れば宗像でいられなくなることを、どこかの時点で気づいていた。
「どうすれば……いや、もう、どうしようもないやんか」
志貴が最後に焚いた桃の香だけが、結界の内と外でゆっくり巡り、揺らぐたび、そっと戻ってくる。
道反の夜は閉じ、熊野の風はここまで届かない。異物になったままここに立てば、道反は開かれない。
冬馬は刀を突き立て、うつむいた。魂に焼き付いた刻印が赤く燃え、背を灼く。
「最悪や……」
指を握り、開く。彩度の落ちた世界で、胸奥の焼き痕が鈍く疼いた。それが夏の刻印だと、誰にも教えられず、ただ知る。
「……もう、ここにはおられんのやろな」
冬馬がかろうじて吐き出した声は血に濡れていた。
夜風が吹き、焦げた木々の匂いに、ほんのわずか甘さが混じる。それを胸いっぱいに吸い込み、冬馬は泣き笑うしかなかった。
隣に居る、と口に出さずに済ませるための言い訳を、冬馬はずっと手元に置いてきた。幼馴染、任務の相棒だ、と志貴の横に立つ理由を、刃の柄みたいに握っていれば、胸の熱は道具の形に収まるはずだった。
境へ手を伸ばした瞬間、皮膚が粟立った。宗像のままではないものを、膜が弾く手触りが返ってくる。指先の熱が先に抜け、次に焦げが走る。触れた途端に落ちる、と身体が先に痛みで告げてくる。未来というより、痛みの予告だった。
愉しいね、と、燼華の笑い声が、焼け残った木々の匂いに混じって戻る。耳ではなく、胸の内側で鳴った。
「俺が……決めたはずやのにな」
立ち上がろうとした冬馬へ、突風が吹きつけた。
「何だよ、これ……」
身を包むのは、冥府の黒に氷銀を縫い合わせた軍装だった。胸奥の夏が熱を寄こすたび、表の金具だけが凍て、呼気が細くなる。肩章には六花の紋が光を吸い込みながら凍てつき、胸元を渡る鎖飾りが幾重にも連なっていた。無骨さと、儀礼の荘厳が同居している。外套は一方の肩にのみ掛けられ、裏地は深紅に燃え、裾の銀糸の唐草が闇で氷華のように揺れた。足元まで引き締められた長靴が、細い脚線を刃みたいに拾う。
「何が、どうなって……」
裂けていた傷は見る間に塞がり、血の流れも止まっていく。胸にあるのは安堵ではなく、深い混乱だった。激しい頭痛が襲い、熱に軋む。
「……きついやろ、あんまりや」
冬の名が、夏の座に沈む。肩章に刻まれた銘が視界に入り、飛雪という名が、口に出る前に腹の底で先に鳴った。
「……嫌や」
六花の紋が胸で鳴り、骨の奥で氷が軋む。炎の残響はまだ消えず、夜の縫い目をわずかに歪めていた。時の色が裏返るような感触だけが、皮膚の内側に残っている。
飛雪は自分のものとは思えず、血が逆流するほど異物だった。
「俺は……冬馬やろ……!」
頭蓋の奥で痛みが爆ぜ、思わず漏れた声に、自分で驚く。
「……志貴……!」
呼んでしまった。守りたい名だけが胸の奥に最後まで残る。だが軍装の鎖飾りは冷たく、真名は覆いかぶさるように魂を締め上げる。
志貴の笑った顔が浮かぶ。ただ隣で、何気ない話をする、その時間が好きだった。
やはり、どうしても、渡したくない。たとえ、それが一心でもと、言葉にならぬ熱が、血と一緒に口の奥を焦がす。
「志貴の側に居たい。何で、奪うんや」
夏に沈んだ飛雪。己が名でありながら、己を引き裂く刃だった。
「全部、お前が選んだことだ」
背に、体温のない影が落ちた。振り向くより先に喉の奥が冷え、息の道だけが締め上げられた。
視界の端に、すらりとした背丈の男が立っている。庭の石灯籠より頭ひとつ分は高い。月光をはね返す銀髪が乱れもなく肩へ落ち、紫水晶を思わせる瞳が、感情の温度を持たないまま冬馬を捉えていた。
その目は怒りでも殺気でもない。面倒を数え切れないほど片づけてきた者みたいな、手順の目だった。
「骸座の冠は斬り手に落ちる。冠と引き換えに、お前は宗像を捨てた」
言葉に抑揚がない。切るための音だけが落ちる。
「落ちる火の粉に、自ら灯を見出す者を容易に救わない。耀冥の作法だ」
耀冥と名を落としながら、頬の筋が一度だけ動き、口元が、わずかに歪んだ。笑いでも軽蔑でもない形のまま、言葉だけが落ちた。
歩みが近づく。距離が詰まっても、香の揺れがない。冷たさだけが先回りして、冬馬の身の内側へ触れてくる。
「飛雪。それがこちら側でのお前の真名だ。穂積冬馬は仮初が剥がれ、遠からず消える」
鬱陶しそうに、前髪を指で払う。その動きが、戦場には不釣り合いなほど日常に近い。だから余計に、言葉の冷たさが骨へ刺さった。
「案外、脆いな」
冬馬は硬直して動けない。動けないのに、相手の苛立ちだけが伝わってくる。正面で相手にされていないのに、逃げ道だけは残されない。
「序列の柏手は、真名の脈を叩き起こす。今、お前たちが難儀する相手は、俺だけだ」
乾いた音が一つ鳴った。硬直が解けた瞬間、冬馬は反射で身を引いたが、次の瞬間には軍装の胸元を掴まれていた。掴むというより、動く余地を奪う手つきで、逃げ先だけを塞ぐ。
「何だ、これ……」
身の中が薄く鳴る。氷が擦れるように軽い。自重が消えたみたいで、足裏が地を掴めない。
「身体が軽いだろ。……真名が戻った。冥府の血が濃いお前には、宗像側で生きるための身体は窮屈だったはずだ」
淡々と言い切るくせに、手は離さない。抱え上げる前の落とさない代わりに、容赦もしない手。
「夏の四天王としての役割からは逃げられん。だが、今のお前では荷が勝つことばかりだ。易々とは死ねると思うな。叩き込むべきことは山ほどある」
差し出された手のひらは誘いの形をしているのに、温度がない。選べ、と言いながら、選択肢の端を削っていく。
「死にたいなら、燼華がやったように骸座の戯をすればいい。生身となって斬り合う。魂が砕け、灰すら残らん」
冬馬は返事をしなかった。焦げた指先で柄を撫で、結界の向こうに漂う香を確かめる。護りたいものは護ることができた。その事実だけを、胸の奥で握り直す。
「飛雪」
名を呼ばれても、冬馬の目は結界の内側から離れない。志貴の香が、まだあそこにある。
「真名は、お前の魂に最初から刻まれていた。後付けじゃない。少しは反応しろ」
短い息が落ちた。ため息にすらなりきらない。苛立ちが言葉の前へ出るのを押し戻すみたいに、口元が硬くなる。
「護り方は幾通りもある。場所じゃない。手筋だ」
吐き捨てるでもなく、教えるでもない。面倒に慣れた声が、面倒に飽きた形で落ちる。
「どうするかはお前が決めろ。俺はもう行く。ここは好かん。長居はしたくない」
踵を返す動きが早い。置いていく気の歩幅なのに、冬馬の身体がふっと引かれる。さっきの手が、背中のどこかに残っているみたいに。
冬馬はゆっくり立ち上がり、その後を追うように歩み出した。黒と氷銀の軍装に夜風が絡み、六花の紋章がかすかに鳴る。袖口から雪片のような光が零れ、塞がったはずの傷は跡だけを残し、皮膚の下で新しい力が脈打ちはじめた。
「あんたの名前は?」
肩越しに、紫の瞳だけが一度こちらへ戻った。面倒を見る覚悟の目ではない。押しつけられた、と言われた方が腑に落ちる視線だった。
「赫夜だ」
その名を、冬馬は聞いたことがある。冥府の皇子の名だ。息の奥がもう一段強張り、先を思うだけで血の気がひいた。




