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第52話 六出なる 飛び雪まひて 夏沈む(中編)


 「燼華を斬れば、お前はお前でいられなくなるぞ」


 誰かの声は悔いの色を含んでいたが、夜気に薄く吸われ、焔の縁へほどけた。


 道反の中庭だった。


 夜の手触りが軋み、庭の底で炎が音を失う。結界の膜が白く鳴り、桃の香が一瞬だけ向きを変えた。


 冬馬は刃をわずかに落とした。耳の奥では鼓動だけが、狂いなく数を刻んでいる。


 影が一点に凝り、白光が芽ぶく。葉脈まで透けるほど鎮まったのち、炎は一本の柱へ集まった。その刹那、夜は誰かの吐息で綻びる。


 「こんばんはっ」


 火柱の中から歩み出てきたのは少年だった。まだ声変わりも終えていない無垢な響きの奥に、星を呑んだ火が棲んでいる。


 「僕は夏の四天王。燼華だよ」


 幼い声音の名乗りは、遊戯の開始を告げる鐘だった。血と煤の匂いに混じって、炎が甘く揺れる。


 「宗像は本当に桃の香りがする」


 澄んだ声は無垢のまま、庭の空気を一段冷やした。燼華は鼻先で笑い、冬馬の正面に立つ。


 「ねぇ。宗像志貴はどこ?」


 炎の波が木々を舐め、夜を白く灼いた。


 「答える必要はないやろ」


 「あぁ。なら答えなくていいよ。すぐ見つけて引きずり出すから、大丈夫」


 燼華は暗がりへ手を差し入れ、大鎌を引き出した。刃の根で火の子が鈴のように揺れる。


 「すっごい昔に、僕、希詠って女を食い逃した。宗像でいちばん、いい香りだった」


 「……希詠?」


 「千年前の宗像の十一番目の公女。黒の千年王に殺された紅の千年王。知らないの?」


 耳の奥が冷えた。宗家で、乾いた声で読まされた文言がある。喉の奥が、その言い回しを先に覚えていた。冬馬の掌に汗がにじみ、声がわずかに低く沈んだ。


 「……知るか」


 低い声が、地を割るように落ちた。


 「希詠はもう無理。だから、似てる志貴を食べる。今度は逃さない」


 「お前は、ここで終わりや」


 燼華は微笑んだ。炎が頬を撫で、空気を焦がす。


 「いいね。その言葉、好きだよ」


 少年の手が宙を切るのと同時に、炎が大地を飲み込んだ。


 炎が奔る。夜が一息で昼へ反転し、葉脈が透けるほど白く焼ける。燼華が石段に足をかけるだけで、炎は蛇のように走り、地を裂いて冬馬へ襲いかかった。


 冬馬は腰に手をやり、禁忌の刀を抜いた。鞘鳴りが雷鳴のように夜を裂く。背を伝う汗が一筋、冷たく落ちた。魂を削られる感覚はすでに皮膚の内側を湿らせている。刀身は曇り、光を吸い、夜の理を拒む。振り下ろすたび、炎の筋が真っ直ぐ割れた。


 燼華の目が、きらきらと輝く。


 「僕の炎を、斬ったの?」


 退屈が剥がれる瞬間だと言わんばかりに、燼華は跳ねた。


 「それが、どうした」


 禁忌刀は抜けば魂が削れる。冬馬は知っていて抜き、正面から向かい立つ。


 「いい。すごくいいよ。楽しくなってきた。僕も燃えちゃう。じゃあ、本気で相手してもらおっ」


 子供の無邪気と死神の冷酷が同居する笑みだった。


 「骸座の戯。夏が宣誓する」


 燼華が印を組む。屍人のように冷たい笑み。赤い鎖が冬馬の手首に絡むと、燼華は愉快そうに舌を鳴らした。


 「これで終わりまで逃げられない。でもね、終わり方は一つじゃないんだよ」


 微かな痛みが痣へ変わる。皮膚の上ではなく、骨の内側に刻まれるような熱だった。


 「宗像にも効くんだ、これ。まあ、いっか」


 「何をごちゃごちゃと」


 「まあ、最後まで聞きなよ。どちらかが死ぬまで、この檻は崩れない。さぁ、始めようか。命のやり取りを」


 薄い膜が庭を囲い、冬馬は眉を寄せた。触れるな、と身体が告げる。時生が張る結界の鳴り方に似た硬さが、そこへ別の噛み合わせで重なっている。


 「君、ほんとに宗像? なかなかいい反応してくれちゃうね」


 冬馬は答えない。炎の奔流を斬り払いながら、低く吐く。


 「いつまで喋っとるつもりや」


 「喋らなきゃ、君は秒で死ぬよ?」


 「殺してみてから言え。こちとら護るもんがでかいんや。遊び半分のお前とは違う」


 燼華の瞳が一瞬揺れ、首を傾げた。


 「君は、番でも朔でもないのに。どうして?」


 「関係ないやろ」


 迷いのない声だった。志貴を守る。ただそれだけが刃を振るわせる。


 反動はすぐ来る。一太刀ごとに血管が黒く浮き、筋の奥で何かが裂け、視界が赤黒く霞む。端から色が褪せ、鼓動が一拍遅れて胸へ返ってくる。口の端から血が伝い、足もとへ赤が落ちた。


 燼華は愉しむように炎の花弁を散らす。


 「いいね。崩れていく音がする。もっと、もっと!」


 笑い、首を傾げる。


 「知ってる? 冥府には悪鬼を駆逐する力なんてないんだ。皆、震えて隠れてるだけ。だから四天王がいる。僕らは異端で、戦うのが好きで、殺すのが得意。ねぇ、君も同じ。僕らは似てる」


 冬馬はただ血を拭い、刃を握り直した。


 「本当は楽しんでるよね?」


 燼華の炎が翼を広げ、庭園を包む。木は崩れ、古い石像は割れた。庭の中央、手水鉢を背に冬馬が立つ。石灯籠の列が炎で影を伸ばす。


 「君ごと、全部、燃やしてあげるよ」


 全身を炎に包んだ少年が、巨大な火鳥となる。羽ばたきが結界を軋ませた。


 「どこをどう見たら、楽しんでるとか言えんねんっ」


 冬馬は止まらない。朽ちる覚悟で一歩、また一歩。


 「隣にいるだけが、すべてやない」


 両手で柄を握り、炎鳥へ真っ向から向かう。


 炎鳥が咆哮する。千の炎羽が落ち、地は煮え、石は爆ぜた。


 「道反ごと、燃やす」


 桃の香を求める燼華の狂気が、熱の重みになって押し寄せる。冬馬はこの檻から出られない。脚を割り、刃を胸前で構える。


 「触らせん」


 禁忌刀が哭く。振るたび魂が削れ、視界の縁が白く跳ね、焦点がいちど外れる。血の鉄は、舌に乗る前に喉の奥で失われる。


 「僕は、勝っても負けても愉快なんだ」


 冬馬の動きが冴えるほど、燼華は笑った。その笑いが、間合いを狂わせる遊びになる。


 刃が触れる寸前、炎の龍がねじれ、斬撃は空を切る。次の瞬間、肩口に熱の不在が落ちた。斬っているのに、焦げた匂いだけが残る。炎鳥かと思えば、大鎌が振り下ろされる。視線より先に斬られ、認知が遅れて追いついた。


 「何や、その動き」


 燼華には踏み切りがない。重心が跳ぶ前に、刃だけが先に着地する。踏面が残らない。地面を使っていない。


 「飛び方が常軌を逸しとる」


 冬馬は押し込まれる。大鎌を受け続けるほど、刃鳴りのあとに痛覚が追いかけてくる。


 衝突を幾度も重ね、気づけば月がわずかに傾いていた。星の配列がわずかにずれ、露は乾いてまた結ぶ。息は粗く刻まれ、喉は血で灼け、汗は鉄と炎の匂いに紛れて皮膚から剥がれ落ちる。


 「埒があかん」


 援護は来ない。公介も咲貴も、熊野にいる誰も、この膜の内側へは届かない。頼れるのは刃一本と、この身を削る覚悟だけだった。胸の奥で、短い決着だけが硬く固まる。


 腕は痺れ、指は柄を握り潰すようにしか動かない。炎の明滅に時刻感覚は奪われたが、骨だけが数刻を正確に刻んだ。


 冬馬は呼吸ひとつ、思う形に整えられない。衝突の手応えより先に、痛覚だけが届く。それでも一歩たりとも退がれない。


 「つまらない。もう、疲れたの?」


 大鎌を肩に、子供の声で嘆息した。


 「死はね、退屈の反対。君、わかる?」


 冬馬は答えない。握る指の骨が内側から鳴る。掌の皮が、少し遅れて悲鳴を上げた。


 「ほら、君が弱いと全部おしまいになる」


 子供の非力さなどない。大鎌の側面で弾き飛ばされた冬馬の背が、柔らかなものに触れた。


 透明な膜にひびが走る。宗家の結界だ。ひびの奥から、息を詰まらせたような反動が返り、鉄が喉へ戻る気配がした。同時に、道反の最奥が微かに揺れる。


 「君が僕を斬れないなら、僕は宗像を喰らいつくすよ」


 冬馬は歯を噛んだ。骨や筋の流れを無視した動きで炎を断つ。骨が鳴り、肉が悲鳴を上げる。


 「僕たちは長生きだから、君たちの不可逆を可哀想だなって思うよ」


 燼華は炎を細め、喉で笑った。


 「ほら、死はすぐそこ。がんばれ、がんばれ」


 大鎌が高く掲がれ、炎が龍となる。幻惑ではない。熱の芯が増し、空気の手触りが変わる。燃えているのは炎だけではない。結界の継ぎ目が、熱にほどけていく。視界が白み、音が遠のき、世界が熱で塗り替えられていく。


 白んだ世界で、冬馬は骨鳴りだけを頼りに立つ。口腔内の血すら拾えないほど、感覚が薄い。


 景色の輪郭が欠ける。見えているのに、距離の順番が繋がらない。


 炎の龍が笑い、遊ぶ。燼華は息ひとつ乱さず、遊戯の速さのまま間合いを詰めてきた。鎌が弧を描くたび、龍の喉が鳴り、熱が音を噛み殺す。


 冬馬は受け、逸らし、理ごと断つ。だが十に九つは押し込まれ、受けた腕から形が崩れる。刀を振るたび、冬馬の身体から何かが剥がれ落ちる。骨は律儀に、そのたび鳴った。流れ落ちるのが汗なのか血なのか、もう判じられない。


 「ほら、しっかり!」


 燼華が笑う。楽しげな時間の真ん中にいる、子供の笑いだった。


 冬馬は何度も倒れては立ち上がり、もう何時間経ったのかもわからない。炎と血と鉄の匂いだけが、途切れぬ時の代わりに夜を満たしていた。


 「こんなんじゃ、僕、志貴までたどり着いちゃうよ」


 燼華は大鎌を肩で転がし、ゆるい軌道で振る。刃にまとわりつく炎がとろりと長くなり、龍の形へ寄っていく。美しいのに、そこを撫でる理が焦げて剥がれ、香の筋が狂っていく。


 「……あいつの核、どこや」


 龍が至近へ迫る。冬馬は一歩踏み込み、炎ではなく大鎌の根へ刃を入れた。


 炎が一瞬だけ無音になる。世界の縫い目が露出し、熱が消え、匂いが向きを変えた。刃は炎の根を割り、芯へ触れる。縦に裂けた感触が走り、立ちのぼる匂いが喉を焼く。自分の名が裂ける錯覚に似て、耳の奥が鈍く鳴った。


 「惜しい!」


 燼華は笑う。


 灰になったのは喰い置きの核だった。匂いに、薄い人の甘さが混じっている。数刻前に呑んだ何かを、身代わりにすり替えたとしか思えない。甘く焦げて、無色の粉に還っていく。


 「何個持ってるんや」


 冬馬は舌打ちした。核を斬っても終わらない。


 「今回のは、一番良かった。踏み込みがあと少し足りないから届かないんだよ」


 燼華は首筋を差し出すように肩を傾ける。


 「くそったれ」


 冬馬が仕掛ける。鍔迫り合いで間合いを半歩詰め、袖の内から合口を抜いた。すかさず、脇腹をなめる角度で差し込む。


 「二本目なんて出すの、ずるい!」


 燼華は足で刃を止め、力いっぱい蹴り飛ばした。


 「じゃあ、僕も」


 炎を集め、一つの白い核にする。これまでとは比にならない熱が、冬馬の頬を焼いた。


 燼華の身を包むのは、冥府特殊部隊でも上位者にのみ許された軍装だった。黒を基調とした詰襟には肩章と鎖飾りが据えられ、冥府の紋が冷たく浮く。胸元から裾へは幾重もの装飾が走り、線の一本一本が階級の重みに見えた。片肩に大きく掛けられた外套は、身じろぎのたびに翻り、裏地の深紅が刃のように覗く。血にも似たその色は、口元の笑みより雄弁に残虐を語った。


 華奢な体躯に過剰なほどの華美さを重ねた不釣り合いが、恐怖だけを濃く残した。縁には銀糸で六花の刺繍が流れ、長靴の艶は鉄の冷たさを映した。手の大鎌は炎を纏い、刃の呼吸に合わせて布が揺れるたび、軍服全体が生き物のように脈打った。


 深紅の裏地と炎鎌が重なるとき、燼華は夏を象徴する災厄そのものに見えた。


 「これで、どう?」


 巨大な炎球が放たれる。闇が白で塗り潰された。


 風圧に膝が折れかけながら、冬馬は刀を高く振り上げる。


 「志貴、護ったるから」


 喉の奥に、幼い頃からの約束みたいに残っている名がある。あれを奪われるわけにはいかない。刃で道を拓くことも、隣に立つことのうちやと、歯を噛んで確かめる。


 「ごちゃごちゃ考えるんは……あとやな」


 勝たないことには護れない。眼前の炎球は、触れた瞬間に終いだと悟れる熱を孕んでいる。


 冬馬の喉の奥で、乾いた叱責の音が一度だけ蘇った。圧倒的な差を、身体ごと跳ね返した光景が、白い熱の向こうに重なる。


 六歳の冬馬は見ていた。石畳は真夏の陽で焼け、立っているだけで足裏が灼けるようだった。木刀を握る一心の背が、大人の影に押し潰されそうに揺れている。


 勝てるはずのない泰介へ、少年は一歩踏み出した。捨て身だった。胸元へ飛び込み、逆手に持ち替えた木刀で切り上げる。


 乾いた衝撃音。泰介の口から、阿呆、と鋭い叱責が落ちた。


 けれど幼い冬馬には、その瞬間だけが目に焼きつくほど鮮やかに見えた。胸を焦がす熱を、そこに確かに感じた。


 「やるしか、ないやろ……」


 鼓動が耳奥を叩き、柄は血と汗で滑る。呼気がひゅっと細くなる。それでも離せば、志貴が奪われる。


 冬馬は踏み出すしかない。


 冥府は、斬り手の名に冠を落とす。そんな言い回しを、どこかで聞いた気がした。今は意味を拾う余裕もないまま、白い熱が眼前で膨れ上がる。

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