第51話 六出なる 飛び雪まひて 夏沈む(前編)
焔が、夜の裏地を返す。
熊野の社叢は血の匂いと煤に満ちていた。折れた枝の断面がまだ湿り、踏み荒らされた土に焼けた葉が貼りついている。焼けた葉は黒く縮れ、指先で触れれば粉になって崩れそうだった。崩れ落ちた石段の上に、咲貴と公介と望が残っている。
息を吸うたび、肺の奥に残った熱がじわりと煙り、喉の奥に鉄が戻る。火は消えているのに、焦げた空気だけがいつまでも退かない。髪の先にも衣の襟にも、すすの匂いが薄く絡みつき、払っても払っても落ちない。
公介が石の縁を掌で一度払ってから、爪先で石段の割れ目を確かめた。
「閉じたままやな」
舌打ちは小さかったが、夜気の底でよく響いた。道反と熊野を繋ぐ道は、時生と冬馬が張り巡らせた結界で硬く閉ざされ、一切を拒んでいた。目で追っても戻り道は見えない。社叢の影が続くだけで、その先があるはずなのに、そこで途切れている。
咲貴は一歩を試そうとして、足を止めた。足首の内側だけが薄い膜に触れるように冷たく撫でられる。皮膚の上ではなく、骨の内側をなぞられる。踏み出す前に、身体のほうが先に止められてしまう。膜は微動だにしなかった。
「どうやら、こっちの方が先に片がついたみたいやな」
公介が爪先で石段を蹴ると、硬い音が返るのみで、やはり結界に弾かれた気配だけが残った。咲貴の視界の端で、公介の口元がわずかに歪み、公介が低く呟いた。
「まだ、交戦中ってことか」
咲貴はまいったと眉を顰めた。道反の勝敗が決するまで、ここからは戻れない。そういう取り決めを、結界は機械のように守っている。誰の事情も聞かない。火の熱も血の匂いも、全部まとめて外へ押し返す。祈りも命令も通らない。ただ閉じるべき時は閉じる。その冷えた理屈が、ここでは刃より先に立つ。
「あちらが、自ら結界を解くなら良いけどね」
望の淡々とした声に、公介と咲貴は同時に渋い顔を作った。
望は石段の端へ腰を下ろし、埃ひとつない指先で長い髪を梳いた。指が髪をすべるたび、すすの匂いとは別の香が薄く立つ。戦っていた気配だけが嘘みたいに所作が軽い。軽さが腹立たしいのに、崩れないという意味では頼もしくもある。咲貴はその二つを同じ場所に置けないまま、胡乱げに目だけを細めた。
「咲貴が無事で、宗像の“王”が欠けたわけじゃない。それで充分。……私を選ばなかった志貴は、重要じゃない」
咲貴は視線を外さず、望を睨みつけた。目だけで刺すには足りなくて、唇の端がかすかに引きつる。頬の奥が熱い。怒りで熱いのか、火が反応しているのか、区別がつかない。区別をつけようとした瞬間に、余計に乱れる。どっと押し寄せてくる疲れに、咲貴は肩の力だけ抜いた。
「本当にいい性格してるわ」
「ありがとう」
にこやかに返す望は、すぐ視線を先へ滑らせた。社叢の奥、結界が立ち上がっているあたりを、何かの肌理を読むように見ている。望の視線は、道の先ではなく、道が途切れている境目へ吸い寄せられていく。咲貴には、あの目が通れるかどうかではなく、どれだけ閉じているかを量っているように見えた。
「この強度なら、Veilmakerでも触れられはしない。いまの道反に触れれば“名”ごと焼き切れる。狙いがそれなら、もう笑うしかないね」
言葉の底に、わざとらしい棘がある。咲貴は、公介の呼吸が一瞬止まるのを見た。自分の喉も同じところで引っかかり、唾が落ちない。
名を焼き切る、という言い方が指している相手を、咲貴は胸の奥へ沈めた。名を言えば、それだけで、また輪郭が立つ気がして身震いする。望がふと、こちらに顔を向ける。問いを投げるというより、確かめるような口調だった。風が一度、煙を押し上げ、白い筋が社叢へ溶けた。
「今日で何日目?」
公介が一瞬、息を詰めた。首筋の筋が硬くなり、視線だけが石段の欠け目へ逃げる。
「楼蘭が経験した“白の眠り”は三十日で事足りた。ここからの日数で何を仕上げるつもりなんだろうね?」
望は頬杖をつき、咲貴を見た。視線が肌に触れた気がした。量られているのは志貴だと分かっているのに、胸がざわつく。志貴が眠って、計算が間違っていなければ五十日が経とうとしていた。
一心が指定したとする百日。折り返しが見えたからこそ、また先が長く感じる。数が現実になった瞬間、祈りが祈りのままでは済まなくなる。
「志貴に必要であれば待つしかないよ」
咲貴は襟元を整えながら、石段に腰をおろした。衣の乱れは、呼吸より先に戻す。手の動きが落ち着けば、声も落ち着く。指先が震えていないことを、自分に見せたかった。膝の上に戻した掌が冷たく、指の腹にすすの粉が残っているのが分かるが、見ないふりをした。
「甘いな。……だから、いつも掌の上で転がされる」
「一心のやることなら、志貴に害はないからいいの」
望は深い息を吐き、ちらりと咲貴を見るだけで、それ以上は言わなかった。言い返さない沈黙が反論より重い。咲貴は視線を逸らさずに耐え、社叢の奥に立ちのぼる白煙へ目を戻した。
白煙の下に、焼けた石の匂いが潜っている。火が消えても、石はしばらく熱を抱く。人の身体も同じだと、咲貴は思った。抱いた熱を、簡単には手放せない。
陽が昇りきるまでに怪我人の搬送は済んでいた。担架の軋む音、靴裏の泥が石を擦る音、短い指示の声。それらは朝の光に吸われていき、今は残っていない。血の跡は水で流したところから、また黒く滲み始めている。
遺体はこの場で公介が焼き切った。骨も灰も残さない。作業としては正しいのに、手を離した場所だけが空っぽだ。残るものと残らないものの線引きを、宗像は誤魔化せない。咲貴はそういう家の息苦しさを、いまも喉の奥で思い出していた。
「血肉、骨灰……何ひとつ遺してはならないなんて、哀しいね」
「あれが皆、悪鬼に喰われでもしたら難儀だよ。それに悪鬼にでもなったら、どうしようもないでしょう」
望の声に、慰める色は一切なかった。声の質が柔らかすぎて、余計にいたたまれなくなる。
熊野の風が、焦げの匂いを運んでは引き戻す。袖口がわずかに持ち上がり、白煙が細くほどけて、また石段の下へ沈んだ。煙の沈む先に、遺されたものは何もない。だからこそ、煙だけが何度も戻ってくるように見えた。
公介は咲貴の隣に腰をおろし、疲れた顔のままで笑ったが、目は笑っていない。目の下の影が濃く、瞬きの回数が少ない。咲貴には、公介がまともに眠れていない顔に見えた。
「百日は長い。こちらが灰になるのが先かもしらんな」
「それは言えてるかも。……でも、志貴が戻れば、何とかなる」
咲貴は自分の声が強くなるのを抑え、語尾だけを丁寧に落とした。言い切らなければ崩れるのは、自分だと分かっている。言い切った瞬間に肩から力が抜けそうになり、抜ければ火が揺れる気がして、背筋をもう一度だけ立てた。
望がつぶやいた。
「王は君だ」
咲貴は喉の奥で返事を噛み殺した。ここで声を返せば、志貴の眠りへ手を伸ばすのと同じになる気がした。咲貴は唇の力を抜き、返事をせず、ただ呼吸を整えた。
***
時は遡り、道反。
焔の縁が、鏡めいて揺れている。
その奥に、日本庭園の真ん中へ立つ冬馬が映っていた。母屋を背に、焔の幕を正面に据え、刃先より向こうを睨んでいる。
焔は壁ではなく、境の縁に張られた膜のように波打ち、燃え上がる枝葉が血のような光を散らした。熱が焔の面を舐めるたび、像の輪郭がわずかに歪む。
冬馬の瞬きは少ない。視線だけが外へ伸び、戻ってこない。
「……宗像志貴を選んだか」
境界の彼方で、赫夜は焔を鏡にして覗いている。月の白さに照らされた横顔には、皮肉とも諦念ともつかぬ笑みが浮かび、目だけが冷たい。
熊野へは咲貴が、宗像の守護獣まで連れていった。壮馬の相手に公介。手札としては弱い、と赫夜は判断した。だが、宗像には折れない理由が、どこかに必ずある。そのことを、赫夜は冥府の暗部として何度も見てきた。
冥府の援けでないのは、赫夜が何より分かっている。宗像が“外”へ手を伸ばすとき、次に繋がる先がどこかも。だから、泰山に在す白の千年王の顔が、いちばん先に浮かんだ。
「冥府の目を逃れて、宗像泰介を隠していたか」
主力を欠き、死戦となるはずだった熊野の戦況を、たった一枚の切り札が鮮やかに塗り替えていく。赫夜はそれを見事と言わない。宗像は、いつも平然とそれをやる。
だが、その切り札が泰介ひとりだったとは、赫夜は思っていない。
宗像咲貴。
あの娘が示したのは、力の強さではない。
他者の理をなぞり、歪みなく自分のものとして立ち上げてみせた。模倣と呼ばれる力だ。
赫夜は、宗像にその手の力が根づく絵を想像し、即座に打ち消した。
冥府ですら、扱いを誤れば盤そのものが歪む。
泰介以上に、札としては厄介だ。それが宗像の手に渡ると思うだけで、理由もなく胸の奥がざらついた。
「嫌味なほど周到に杭を打ち、次はどう出る」
ここにはいない誰かの意図が、焔の縁から覗いていた。赫夜はそれを見慣れている。盤の外から差し込む指。誰が打った杭かを当てるより、どこに次の杭が来るかを読む。
「壮馬は黒脈の末端。あの遼雪とはな。……知っていたのか。いや、時代が合わない」
穂積壮馬からは姿形があまりに違いすぎて、遼雪の血を拾い損ねていたと、自嘲ぎみに笑った。
遼雪は耀冥の死後に生まれた傍流の公子。似た才を囁かれたが、影のまま忘れられた血筋だ。赫夜の声音が、少しだけ低くなる。
「未来を視る“目”を、自ら差し出し、帷に喰わせたか」
耀冥の“目”には到底及ばない。あの帷が引き出せるのは数度。魂が弾ければ終いだ。与えた回数のぶんだけ、奪われるものがある。赫夜はその釣り合いを、何度も見てきた。
その代償を、何で贖うつもりなのか。
赫夜の瞳に、古い記憶がよぎる。燃え落ちる楼閣、耀冥の無慈悲な眼差し。言葉なく押しつけられた負の遺産。息をするみたいに冷たく、逃げ道を塞ぐ設計図。
もしこれすらも耀冥の設計図に沿ったものなら、腹が立つほど隙がない。逃げ道だけを丁寧に潰し、残る選択肢を一つに絞るやり方だ。冷たく、整い過ぎて、赫夜にはくい止める手が思い当たらない。
「この筋書きは、いつから始めたのか」
落とした声は、悔恨とも敬意ともつかぬ笑みが浮かび、目だけが冷たい。焔が大きく揺らぎ、赫夜は視線を動かした。
「ようやくお出ましか、燼華」
その瞬間だった。
大気を裂く轟音。堅牢な宗像の結界が、一枚、破られた。鏡に燼華の姿が映る。幼い輪郭のまま、焔の向こうへ滑り込む影。その速さが、刃より先に庭の空気を切り刻む。
「冥府の四天王を相手に、これだけ保つか。宗像は、見上げたものだな」
赫夜の声に、称賛の響きは薄い。状況の評価だけがある。
それに向かい立っているのは冬馬。最奥を閉じ直す猶予は、彼が生んだ。次に為すべきは一つ。四天王を新たな檻へ招き入れ、熊野へ行かせないよう外側の結界を閉じ直す。
「“夏”を最初に解き放つとは……」
赫夜は眉間を押さえ、目を伏せる。次に何が来るか、胸の内で順に並び直した。
耀冥が最初に四天王の座につかせたのが燼華だった。黒の千年王に否を唱える者などいない。狂犬を据えたと影で揶揄した者達は、その狂犬にもれなく噛み殺された。
最も残忍で、最も軽薄。善悪がまだ形にならない子供。それが、燼華。
「燼華を当てて、どうする気だ?」
燼華とまともにやりあえるとしたら、宗像一心か、泰介くらいのものだ。両者ともに選択肢として現実味がない。赫夜は手を出すべきか思案したが、胸の底で何かが引っかかった。
「いや、待て……。あれは、穂積壮馬の息子ではなかったか。遼雪の血を引いているとしたら、これは……」
強い風が吹き、焔の鏡が揺さぶられ、中身を映さなくなる。像が崩れ、輪郭だけが炎の縁に残る。
「見るな、という合図か」
赫夜は苦笑いしながら、唇を指でなでた。勝ち筋が、焔の揺れの向こうで囁かれている。赫夜のものではない勝ち筋だ。
耀冥の手が動いているなら、もう遅い。
やりかねないことだと、赫夜はひとつ息を吐き、焔の鏡から身を引いた。
***
道反の本邸、その庭だった。
刃の衝突音ではなかった。焔が爆ぜる音でもない。庭へ滑り込んできたのは、幼い笑い声だった。
無垢な響きが、血と煤の匂いを凌駕して庭を満たす。笑い声はやがて囁きに変わり、焔の縁から這い出してくる。熱でも冷たさでもない圧が、空気を重くした。庭の音が、一枚、抜け落ちた。葉擦れも、砂利の転がりも、虫の気配も、いまだけ消える。
「……宗像志貴は、どこ?」
問いは平坦で、感情の凹凸がない。だからこそ、万の屍より重く沈む。
焔を押し分けて現れたのは、年端もいかない少年だった。背丈は低い。肩の線も細い。目だけが年齢と噛み合わない。子供の顔をしているのに、視線の重さが古い。冬馬の背筋に、冷たいものが一本走った。
冬馬は喉を鳴らしかけ、飲み込んだ。目の前にいるものを子供と呼べば、判断が遅れる。
相手はただ歩いてくるだけなのに、冬馬の息が細くなり、胸の鼓動が耳奥を叩く。途中で息を吸い切れないまま胸が固まり、吐き出しが遅れる。音として残るのは、鼓動だけだった。
喉の奥が痛んだが、声は揺れなかった。
「俺が、答えるとでも?」
冬馬は目を細め、静かに刃先をあげた。握る柄がかすかに震え、切っ先がわずかに揺れる。震えを止めようとすれば、余計に目立つ。
冬馬は肩の力を抜き、足裏で地面を掴み直した。砂利が鳴り、音が自分の足元へ戻ってくる。
夜が裂け、結界の隙間から焔が白々と時を反転させた。光が庭石の面を舐め、枝の影が逆向きに伸びる。
少年の笑いは、その反射の中でさらに薄くなり、逆に存在だけが濃くなる。
その反響に、地獄が忍び寄った。




