第50話 熊野にて 骨は鳴り 鈴は冷ゆ(後編②)
社叢の湿りが、ひとつだけ薄くなる。土の匂いが引いたのではない。足裏に乗るはずの沈みが、わずかに遅れて返ってきた。
ついさっきまで余裕を崩さなかった泰介が、そこで一度だけ息を吸い損ねた。胸の前で止まった空気を、喉へ押し戻すみたいに、唇の端がかすかに歪む。咲貴は、それを見てしまった。
次の瞬間、吸い込みの入口が細くなる。胸へ落ちるはずの空気が手前で止まり、喉の奥へ押し戻される。吐き切れない鉄の匂いだけが、一瞬、鼻の奥を刺した。
泰介が手元に目を落とし、感触を確かめるように指を移した。力を入れ直すための仕草ではない。金具が鳴るより先に、柄の奥で小さく軋む気配がした。泰介の掌の内で、重みの芯がずれかけているのではないかと、咲貴は唇を噛んだ。
咲貴は望の肩毛をつかみ、目の端で壮馬を見た。壮馬は刃を構えたまま、泰介の喉元ではなく胸の中心を見ている。視線の当て方が変わっていた。泰介の弱りの具合を測る目だと分かった途端、背筋へ冷たい汗が一筋、落ちた。
「……へえ」
壮馬の声が落ちた瞬間、咲貴の首筋が冷え、嫌な匂いが鼻の奥に引っかかった。
「大丈夫か。起こされた口だろうに」
声は穏やかだった。だが、咲貴の耳には、息を整える間を与えない位置で落ちた。
泰介の胸がわずかに上下する。その動きより先に、壮馬の視線が胸の中心へ定まり、離れない。踏み込みでも穂先でもない。吸って吐く、その切り替わりの薄いところへ、もう刃先の冷えが寄っている気がした。
「心配してくれるとは、光栄だね」
泰介は笑ってみせてはいるが、額に汗が貼りついている。槍の金具が小さく鳴り、柄の端で節が白く浮いた。指の白さが引く前に、槍先がほんの一寸だけ沈む。落ちたのは穂先ではなく、息のほうだ。槍の重みがそれに引かれて、遅れて沈んだ。
「咲貴、行こうか」
言葉は穏やかなのに、踏み込みへ移る瞬間、吸って吐くはずの順番が一度だけ合わなかった。
「お父さんっ」
土が沈む音が、ほんのわずか遅れて届く。踏み込んだ重さが、すぐ槍先へ行かない。膝で一度止まり、脛の筋があとから張った。
穂先へ載るはずの重みが、先端ではなく中ほどで止まった。押し出す順番が一息ぶん狂い、穂先が最短の線に入らない。
このまま壮馬を相手に、あの狂いが二度続けば、槍先は当てたのに裂けず、逆に柄だけが持っていかれる。咲貴はそれを想像して、指先が冷たくなった。
望が低く唸り、咲貴の足元へ尾を一打ち落とした。石段の縁に半寸だけ土が盛り上がり、板のような硬さが生まれる。
「長引かされたら負ける」
望の低い声が、咲貴の呼吸を引き戻す。
「機会は一度だけ」
咲貴は頷けないまま、胸の奥の結び目を締め直す。志貴へ手を伸ばしすぎれば、その代償は咲貴ひとりでは済まない。
壮馬は唇の形だけで笑みを作り、泰介から目を離さない。
「お前にしてはせっかちすぎだろ。なぁ、泰介」
泰介の踏み込みに合わせて、壮馬が身を引きながら刃先をかわした。
泰介は返さない代わりに槍先をわずかに落とし、呼吸を整えようとしたが、吸い込むはずの空気が胸へ入る直前で止まり、激しく咳き込んだ。
「君、そんなにおしゃべりだったの」
泰介は一瞬だけ、槍を持たない左手を胸元へ当てた。ただ、そこにあるものを確かめるような仕草だ。次の瞬間、何事もなかったように肩の力を抜いた。
壮馬はその一瞬を、見逃さない。
「終の型に入る前の呼吸じゃない。お前、戻り始めてるだろ」
壮馬の声は挑発の形を取りながら、確信へ寄せてきていると、咲貴は拳を強く握りしめた。
「お前に、型を編める時間が残ってるとは思えないな。……いつもの調子はどうした、泰介」
泰介は返事をしないまま、一歩前へ出た。次の踏み込みは正確だ。だが、踏んだ音が返るのが遅い。槍の柄を支えていた力が外れた。穂先が、狙った線をわずかに外へ滑る。咲貴は息を呑み、喉の奥が詰まった。
壮馬から踏み込んでくることはない。咲貴は歯がゆい思いで睨みつけるしかない。
距離は足一歩分。刃を伸ばせば届く。けれど壮馬は刀を水平に保ったまま、半歩も詰めない。代わりに足先の向きだけを変え、退きも寄りもしない。
時間だけが削られていく。
泰介の肩が、さっきよりわずかに下がった。
「逃げが上手なことだ」
泰介が前へ出るたび、やはり壮馬は同じ分だけ下がる。ただ、追う側の泰介の息づかいだけが苦しくなる。
泰介が踏み込もうとするが、肩で息をする形になる。槍の柄を引く腕がわずかに浮き、穂先の高さが一寸だけ上がる。穂先が狙いの線に入る前に風を受け、花弁の帯が薄く裂けてしまう。
壮馬は、ひと息の間だけ、刃先を泰介の正面に置いてみせて、口角に笑みをのせた。
斬りに来ない。その分だけ、泰介の息が戻る間だけが削れていく。
咲貴は泰介の横顔に目をやり、息を止めた。泰介の口元が薄く笑んでいた。言葉はなかったが、泰介の視線が描いた次の一手を、咲貴は迷わず受け取った。
「宗像槍……終の型、『花の宴』」
泰介の声が落ちた瞬間、熊野の夜の湿りが抜けた。
空気が乾いたわけではないのに、喉の奥へ砂粒をひとつ落とされたように、吸い込みがつかえる。吸ったはずの空気が胸へ沈みきらない。
花の匂いが先に来る。花の甘さに焦げが混じり、喉が痛い。
槍を振るう前から、空気の張りが一枚はがれ、湿りの薄皮だけがめくれていく。咲貴は指が震える。恐怖ではない、高揚に近い震えだ。
「十年前と同じだよ、壮馬くん」
泰介の声が夜気に重なり、言葉が終わるより早く、壮馬が足元を一度だけ踏み割った。湿りが立ち上がり、泰介の手元を狙うように刃を差し込む。
宗像の型は穂先だけでは成立しない。踏み込みの呼吸が乱れれば、描いた線が途中で途切れ、不完全に終わる。
泰介の槍が低く鳴った。花弁が生まれかけ、舞う前に細く折れた。裂けた花弁の端が落ちずに浮き、次の結び目の場所を塞ぐ。
咲貴は喉が狭くなるのを感じた。いまの乱れは、型の出来不出来ではない。泰介の身体のほうへ、限界が寄ってきている。
「まぁ、想定内だよね」
咲貴の不安をよそに、泰介は暢気な声で笑った。壮馬をひと睨みし、槍を手の内でまわし、距離をとらせた。
「甘いんだよ、君は……」
泰介が槍を一振りする。空気が裂け、無数の花弁が舞い、触れるものを焦がすのに燃え移らない。だが、確実に削れたものは戻らない。
「そうでもないと思うがな」
壮馬は引かず、花弁の帯へわざと身体を寄せ、削られる痛みを踏み台にするように距離を詰めたが、刃を伸ばせば届く位置で、足だけを止めている。
視線が動き、泰介の手首、肘、肩をなぞるように移り、槍の柄の金具で止まる。咲貴の背に冷えが走った。そこへ触れられたら、槍の動きが一段、狂う。
泰介は笑いながら槍の重みを測り直す。その測り直しの一瞬へ、壮馬の刃が槍の柄へ触れた。
触れただけで、金具が嫌な音を立てる。木でも金でもない。槍の中を通っている息の通り道を、ひとすじ切られたような音だった。
「しっかり狙いなよ」
刃が当たる位置をずらしながら、泰介は槍を握りなおし、小さく息を吐く。
咲貴はその攻防の強度に、息を吸い損ねた。型が編まれる前に、手順そのものを崩されかねない瀬戸際にいるはずの泰介の動きが、あまりに優美に見えた。
登貴が動くのが視界の端に映った。
壮馬を背に庇う形のまま、登貴が花弁の帯を押し返した。気味悪い間を作って、泰介の手順を奪いに来る。その動きを防ごうと炎を投げつけるが、簡単に踏み潰されてしまう。
「邪魔」
登貴の唇だけが動く。薄い声なのに、空気の層が一度だけ裏返り、咲貴の肋骨を内側から軋ませた。
登貴は深くは出てこない。下手に懐深く入れば、泰介がそれを見逃さないと分かっているような距離の取り方だ。
登貴の白い火は揺れるだけで、攻めてはこない。泰介が踏み込むと、石段の縁で足が一度止まった。踵が外れ、踏み直しが入る。槍先が出るのが、わずかに遅れる。登貴は足元だけを見て、その遅れを食わせに来ている。
「僕の間合い、怖がりすぎでしょう」
泰介はひらりと攻撃をかわしながら、一歩、また一歩前へ出る。呼吸が短くなっても止めることはない。
壮馬の視線が、ほんの一瞬だけ登貴へ流れたが、登貴は応えないまま、ずらし方を同じにする。息を合わせるというより、同じ躓きだけを作り続けた。
泰介は視線を逸らさないまま、咲貴へ声を落とした。
「三つだけだ、咲貴」
言い方は平らなのに、余裕がない。泰介の右腕の輪郭が、薄く透けかける。汗が額から顎へ滑り落ち、落ちた汗が土へ吸われるより先に冷える。
「それ以上は要らない。しくじっても、志貴だけは起こすな」
命令の形をしているが、実際は切迫だ。壮馬が長引かせに来ている。登貴が足元を奪いに来ている。もう待ったはなしだ。
望が肩で押し、石段に半寸の風板を作る。咲貴は迷わず跳躍した。
登貴の肩に手を触れるふりをして、前転して背後で受け身をとる。完全に登貴の間合いに深く入りこみ、壮馬の視線をわずかな間ずらした。
登貴の“癖”を喰うとみせつけて、一度だけ意識をずらせば、次の手は読めない。
咲貴は自らの腕に噛みついた。溢れ出した血に意志があるように皮膚の上をすべり、指先にたまりをつくる。
「志貴!」
夜の壁が歪み、いるはずのない双子の指先に触れた錯覚が走る。
胸の奥で紅の命式が組み上がり、糸が一本ずつ紡がれていくたび、咲貴の器がきしむ。
その数秒を、壮馬が見逃さない。登貴を押し退け、咲貴に手を伸ばす。
壮馬の刃は咲貴には届かない。望が尾で地を叩き、砂塵が舞い上げて、壮馬の踏み込みを遅らせた。
咲貴は歯を食いしばって、三つだけ数を守る。
「もういい!」
合図と同時に志貴を手放す。だが触覚は残る。胸郭に瓦を積まれたように息が塞がり、咲貴は膝から崩れた。土に頬を打ちつけた瞬間、口の中に血と泥が混じる。
「よくやった」
泰介の手が咲貴の背をなで、指先に糸をからめた。引き摺り出し方は乱暴なのに、手触りだけは正確に、咲貴の器を壊さず抜ききった。
「咲貴!」
望に抱き上げられ、ようやく呼吸が戻る。望がとっさに咲貴の腕に噛みついた。巨体の毛並みが逆立ち、咲貴にくるはずの反動を肩代わりしてくれた。
「ごめん、望……」
激しく咳きこみながら、視線を泰介へ向けた。
泰介は槍先で真紅の糸を縫い、束ね、輪にしていた。輪ができた瞬間、登貴の足元がひゅっと冷え、踏み込みの感覚が跳ね上がったように見えた。
泰介が壮馬へ視線をすべらせた。それに気づいた登貴が、泰介の手元へと爪を立てる。
「馬鹿っ」
壮馬が瞠目した。登貴へ向けているはずの泰介の手順と理解していたはずだというように、体勢を崩す。
「泰介!」
壮馬は避けていた泰介の間合い深く踏み込んだ。終の型が結びきれないよう、その隙間へ刃を差し込み、結び目を粗くする。
「発動したら最後……なんだよな」
壮馬が泰介の喉元を掴み、笑う。
「お前にも時間がない。そういう身体なんだろ」
咲貴の背筋が冷える。壮馬は確信ではなく、観察で言っている。息のずれ、汗、金具の鳴り、結び目の粗さ。拾ったものを並べて、泰介の限界へ言葉を寄せてくる。
眉を顰めた泰介の槍の穂先がわずかに下がった瞬間を、登貴が拾う。
登貴の白い火が細く伸び、槍の輪へ触れかける。触れてしまえば、輪の芯が冷え、型の骨組みが壊れてしまう。
泰介の型は攻撃であり、同時に泰介自身の身体を削る。芯をたたき割られれば、反動が一気に来る。
咲貴が唸り声をあげ、地を蹴った。
咲貴の身体はもう臨界点をはるかに超えた。登貴から読み取り、技としてくりだすだけの力は残されていない。
一か八か、触れずに癖だけを掠め取ることに注力する。正面から触れるつもりはない。触れに行く気配を見せれば、登貴はそこへ刃を立てる。咲貴が狙ったのは、登貴が手を伸ばす直前に作る冷えのずれ。そこへ指を差し込み、伸びる指先の順を一段だけ乱す。
咲貴が登貴の間合いに丸腰で飛び込む。
「そいつを、殺すな!」
壮馬の声に、登貴の動きが乱れる。
咲貴へと向けられた登貴の白い火が標的を失い、離れた場所で弾ける。火の粉が咲貴の頬を舐め、息が一度止まりかけたが、迷わず踏み込んだ。
「お願い」
登貴の袖の影に、八雷が張りつけ、咲貴が離れる。少年と少女の形に割れた雷が、登貴の袖と髪へ絡みつき、細い火花を散らす。
「鬱陶しい!」
登貴が八雷を祓い、間を整え直そうと身を捩った。その僅かな隙に、壮馬の視線が一度だけ逸れた。
咲貴はその瞬間、懐刃を投げつけた。狙いは壮馬の刀身の根元。接触と同時に火花が散り、黒煙が上がった。刃が折れる乾いた音。
壮馬の手が伸び、咲貴の肩口を掴み、地へ叩きつける。背にくる衝撃で肺の空気が抜け、口から血が溢れた。
だが、やはり絶命の刃は来ない。折れた刀の切先は、急所をわざと外している。追い詰められたこの状況にあっても、咲貴の肉体を壊さずに持ち帰る手つきだと分かり、咲貴の背骨が冷えた。
「このまま死なれたら、使えない」
誰に向けた言葉でもなく、壮馬は淡々と声を落とす。
登貴の器にするには条件がある。
それだけを、あのとき泰介が耳元で落とした。息の温度まで、まだ残っている。
「……簡単に、死ねると思うなよ」
声は恐ろしく冷えているのに、乱暴に扱うことはない。
地に縫い留められた右肩に目をやりながら、咲貴の喉が鳴る。
「死体では、意味がないんだよね?」
ここで怯んだ顔をしたら、終わる。
壊れ物を扱うように、綺麗な肉体を残し、息だけを引き抜かれてしまうのだけはごめんだ。
咲貴は痛みの筋をいったん断ち切るみたいに瞼を下ろし、泰介の笑い方を思い出す。怖れを見せず、悟らせずに、決定打を放つ。
「離さない」
壮馬の手が、ほんのわずか震えた。
「あなたの負け」
咲貴は泰介そっくりの表情を作った。痛みを痛みとして扱わない顔をして、壮馬の腕に爪を立てた。
「何を、した?」
壮馬の目が一瞬だけ揺れる。ようやく異変に気づいたようだと、咲貴は笑った。
「壮馬くんさ」
泰介の声が低く落ちた。透けかけていた腕の輪郭が、いまは戻っている。
「この子は志貴じゃない」
咲貴の掴んだ腕が、わずかに重くなる。気を張らないと意識をとばしそうになる。
「それに、僕は宗像泰介だ」
壮馬の目が見開かれた。
「はじめから狙ったのは君ひとりだけだよ」
泰介が言い切る。槍先が壮馬の理を刈り落とす。百八の糸が魂の結び目に集まり、動きを封じる手順が整う。
「逃げろ、登貴!」
壮馬の叫びが裂け、登貴が距離を取る。紅く纏わりつく糸の結び目を一つほどきかけ、動きが止まる。
「朔の糸は、もう切れてる」
宗像の王玉がもつ暴力的なまでの力を分散させる先はもうない。
「分不相応では、この暴れ馬は乗りこなせない」
泰介が登貴の背に腕を突き刺し、王玉を一気に抜き出した。
「……宗像咲貴、お前、本物か?」
登貴の目が咲貴を見た。目には静かな怒りをたたえている。小さい声なのに、背骨へ深く刺さる。
「うちの双子は、本物だよ」
泰介の声が低く落ちた。
「咲貴。やれ」
咲貴は壮馬の腕を掴んだまま、胸元へ手を入れ、髪をひとふさ取り出す。細いのに、触れた指が熱を覚える。
「紅の千年王が命じる。宗像登貴、縛」
言い切った瞬間、花弁が一瞬で視界を覆い尽くす。
術の反動で、血が逆流するように泰介の指の節が白く浮かび上がる。だが、泰介は崩れずに、咲貴へ槍を投げ落とす。
壮馬が、そこへ刃を振り下ろす。
刃の気配だけが槍の落ちる軌道へ滑り込み、咲貴の掌へ届く寸前の重みをわずかにずらそうとした。
「諦めろ」
望が尾で壮馬の身体を薙いだ。泰介と咲貴の間に割り込ませない。咲貴は歯を食いしばり、槍を左手で受け止め、右掌を閉じた。
「終宴」
咲貴の声が響く。槍先は最後の糸をひと目ほどき、ひと目結んだ。登貴の魂に貼られていた面が、ぱきり、と音を立てて割れた。
登貴はよろよろと跛行し、咲貴へ手を伸ばす。空の間を掴み、咲貴の喉の奥を一度だけ締める。
咲貴は肩に刺さっていた刀を引き抜き、上半身だけ起こして、指を鳴らした。
「……汝、永訣の……鳥となれ」
登貴の足元から紅蓮の炎が吹き出す。
咲貴の視界が一瞬白くなった。
「よせ、やめろ!」
壮馬が絶叫し、膝が崩れ落ちる。登貴が砕ける瞬間ではなく、その先を覗く目だと、咲貴は唇の裏を噛んだ。
壮馬の視線が、砕けかけた登貴から、咲貴へ一度だけ流れた。奪いに来ない。距離も詰めない。その判断の冷たさが、咲貴の喉を締めた。
「要るのは、勝ちじゃない」
低く、独り言のように落ちる。そこで、壮馬の息が一度だけ噛む。
炎に巻かれた登貴の指が、壮馬に届きかけたところで、泰介の指が、登貴の魂の芯を刈った。硝子がはじけるような音が落ち、登貴の指は空を掴む形で止まる。
止まった指先が最後に一度だけ動く。探す仕草だ。探すが、見つからないことへの怒りが目に残る。その怒りを残したまま、登貴は砕けた。
咲貴の喉の奥に冷えの余韻が残った。槍を握ったまま起き上がれなかった。息を吸うたび空気が一度引っかかる。登貴が最後に掴んだ間の痕だ。
望が半身を寄せ、肩で支えた。焦げた毛並みの匂いが花の甘さと混じり、気分が悪くなる。吐くまでではないが、身体の内側が掻き乱されたまま、無理に立たされている感覚だった。
壮馬が動かない。登貴が砕けたいま、守るべきものはないはずなのに、刀を捨てる気配も、引く気配もない。砕けた欠片の落ちた場所を見つめているだけだ。息を整えるでもない。肩の上下も、喉の鳴りもない。
静かすぎて、咲貴は耳の奥が痛くなった。社叢の湿りも、花の甘さも、さっきまで暴れていた音も、いまは全部、壮馬の周りだけを避けている。
壮馬の指が、刀の柄から離れた。落とすでもなく、放るでもなく、握っていたものを解くみたいに掌を開いた。開いた掌に血が滲んでいるのが見えた。どこを斬ったわけでもないのに、皮膚の縁が赤い。爪の先だけが、異様に白い。
壮馬の唇が、音の出ない形をつくった。言葉の輪郭だけが残り、息が伴わない。
視線がゆっくりと動く。咲貴の掌の黒髪で一度止まり、帷の縁へ移り、もう一度だけ戻って、今度は離れた。
刃は泰介へ寄らないのに、空気の張りだけが変わる。咲貴の喉元を掠めた目の冷たさで、咲貴の背が粟立った。
息を吸おうとして、喉の奥で引っかかる。飲み込めないまま止まった空気が、胸の奥でつかえた。
次の瞬間、壮馬はゆっくりと、左手を自分の顔へ持ち上げた。骨の位置を確かめるように、指が眼窩の縁へ触れた。
泰介が一歩踏み出しかけて止まった。足が土に触れる前で止まる。もう隠せない。
泰介は体重を支えられずに、膝を折る。肩で息をしながら、胸の辺りを押さえている。胸元を強く握りしめた手の甲に血管が浮き出ている。
「いけない……」
咲貴は泰介と壮馬の間の距離を見た。
「終わらせると、思ったか」
壮馬の声は咲貴へ向いていない。泰介へ向いている。限界を嗅ぎ取った獣が、最後にもう一口噛みに来る声だ。
咲貴は身体を引きずり起こし、立ち上がる。泰介を背に庇いながら、壮馬を睨みつける。
「どうしたら……」
登貴が砕けた。もう、壮馬が手を緩める理由は残っていない。力量の差は、目を逸らしても埋まらない。万策尽きたところから、何とかするしかない。
咲貴の喉が勝手に震え、言ってはいけないと分かっているのに、言葉が口をついて出かける。
「志貴……」
掌にある黒髪の束が熱を帯びた。
「咲貴、貸してっ」
八雷がそれを持ち上げた。少年と少女の形の雷が、火種を抱く手つきで空へ掲げる。
次の瞬間、紅蓮の炎が立ち上がった。
立ち上がり方はまるで生き物のようだ。獣の肩が、社叢の闇から現れるように、火がうねって形を取る。狼の輪郭が次々生まれ、咆えは音ではなく、風音で落ちた。
近づこうとした壮馬の足が、半歩で止まる。止まった足元の湿りが、焦げて乾く。
境目から溢れかけていた悪鬼の気配まで、炎の端で焼かれて押し戻されていく。裂け目の縁が縮み、縫い合わされるように塞がりだした。
「化け物は、お前たちの方だ」
壮馬が吐き捨て、自分の腕をためらいなく切り裂いた。刃は短いが、かなり深い傷だ。血が噴き、腕をすべり落ちる。湿った土の上へ血で細い記号が刻まれていく。
「結局、筋書きは変わらない」
泰介を刺す調子ではない。届かない相手へ投げた声みたいで、咲貴は身を縮めた。
「見せろ、未来を」
叫びと同時に、壮馬は左目へ爪を突き立てた。ためらいがない。血が滲み、蛇のような瞳孔が開く。
咲貴の視界が揺れた。壮馬の眼が開いたのではない。
場の理が裏返った。未来視の窓が開く瞬間、周囲の間が引きずられる。
望が低く唸り、咲貴の背へ尾を当てて倒れ込みを止める。
壮馬の顔がゆっくり歪む。
笑っているのに、呼吸は止まっている。目の奥だけが別の景色に灼かれている。
「……なんで、あいつが玉座に。……やられた」
壮馬の乾いた声が落ち、次の瞬間、狂気の調子へ変わった。
「お前が、耀冥……やっと視えた」
名を聞いた途端、場の冷えが増した。
耀冥。黒脈の王統。帷でも名を落とさない絶対強者。
その名だけは知っていた。黄泉使いであれば、知らないふりの利かない重さで、咲貴の耳に残る。
咲貴は望を見上げたが、望はふいと目をそらし、何も答えてはくれなかった。
壮馬は滲む血をただ眺めている。血が落ちる速度と同じ速さで、彼の足下で、何かが組み上がっていく。
「Veilmaker。そこにいるのか」
壮馬は刀を放り捨て、空間の歪みに爪をかけた。空気の層が一枚めくれ、夜の縫い目が裂けた。裂け目の向こうから、こちら側の光ではないものが、縁を舐めるように滲み漏れ出した。
『面白いのであれば、聞いてやらんこともない』
「俺の目が欲しいと言っていたな」
壮馬が薄い笑いを浮かべた。
「今ならくれてやってもいい。それが、奴への一番の嫌がらせになるからな」
『黒に似ているのに、黒ではない。数えられず、拾われず、それでも壊れなかった君は面白い』
帷の奥から、愉しげな声が落ちる。
『宗像の香が混じっているのも、いい』
返ってきた声は、優しい調子のまま酷薄だった。耳に心地よいのに、皮膚が泡立つ。
『大歓迎だよ。誰も見つけられなかった黒の公子殿』
壮馬の傷ついた右眼から溢れていた血が、ぴたりと止まる。
『欲しい者は同じかな』
「同じだ」
壮馬の眼の色が向こう側の光へ取り替えられていく。その過程が、咲貴にも見えた。
名の輪郭が糸で縫い直される気配まで分かり、咲貴は無意識に身をひいていた。
「黒の公子……そういうことか」
望が苛立ちを隠さず唸り、突如、咲貴の前へ身を入れた。
「咲貴、もう、一歩も動くな」
一寸でも前へ出たら終わりだという重さが、背から伝わる。
「あの帷の内では名が書き換わる。名は魂の取っ手だ。奪われれば器ごとすり替わる」
「でも、壮馬さんを逃したら大変なことになる」
咲貴の胸の奥に、志貴を借りたい衝動が立ち上がる。三つだけなら、まだ動ける。そう思った瞬間、頭の内側へ一心の声が落ちた。
『これ以上、志貴を削るな。……それに、もう遅い』
禁止として焼きつく声だった。
炎の獣が一斉にほどけ、壁が消える。
八雷が髪の束を抱えたまま、咲貴の足元へ戻ってくる。咲貴は唇の裏を噛んで耐えた。
泰介が転がっていた槍を持ち直した。杖代わりに立ち上がり、息を吐く。身体は明らかに削れている。それでも泰介の目は、帷の縁へ正確に焦点を合わせている。
「やるだけは、やってみるか」
泰介が投げた槍が布を裂くように、帷の縁だけ断った。裂け目が一度痙攣し、縫い目がほどけ、向こう側の光が薄く散る。
「魂ごと、取り返す」
壮馬の声は異様なほどに静かだった。
「目でも、名でも、身体でも……何でもくれてやる」
壮馬は、肩まで帷に身を投げ、残った顔だけがこちらを振り返る。
「堕ちろ、宗像」
壮馬の視線は咲貴へ向いたが、もう手は伸びない。
「……その器、傷つけてくれるなよ」
壮馬の静かな呪詛を遺して、帷が閉じた。
閉じた瞬間、社叢に深い呼吸が戻った。焔は消え、花の香りだけが遅れて喉へ降りてくる。音が退き、夜明けの温度だけが土の底で息をしていた。
咲貴はゆっくり膝を折った。視界の縁が白一面となり、魂のほころびが零れかける。
望の鼻面がこめかみに触れ、冷たい息が首筋を撫でた。解けかけた輪郭が、そこでようやく留まる。
泰介は限界だと、倒れ込み、肩で息をしている。
「……危なかった」
咲貴は寝転がったまま、瞼をもちあげることすらできない。
「……上出来すぎるよ、咲貴」
泰介は咳き込みながらも笑みを浮かべる。けれど瞳の奥には疲労が沈んでいた。
泰介は胸元から王玉を取り出した。血の匂いに混じって、古い紙と香の焦げの匂いがする。
「狐、これ、どうするの?」
「公介にでも渡せばいいだろう」
望は前足を組んで、知らないというように顔を背けた。
「あぁ、そうね。そうしようか」
泰介は掛け声をかけながら身を起こした。咲貴の頭に手をのせてから、ひとつ息を吐いた。
「終の型をはめきれるのは千年王だけ。遠隔で通せる理なわけがない。……壮馬は、志貴を知りすぎていたのが、敗因だよ」
「志貴なら、やりかねないから、騙し切れた?」
「そう。僕が借りたのは千年王糸ではなく、志貴の髪だけ。……さっきの糸は、君のだよ」
咲貴は眉を顰めた。血の糸は千年王のものだと禁書の文字が語っていたはずだ。
「宗像が、宗像である理由。これから、もっと知っていくだろうけど、よろしくね」
泰介は咲貴の髪をぐしゃぐしゃになるほどなでた。
『泰介様、よろしいか』
泰介の側へ、白銀の毛並みの狼が降り立った。
「ありがとう。助かったよ。一心によろしく言っておいてね」
泰介は袖から薄桃の御幣を取り出した。狼はそれをくわえると、ひとつだけ頷いた。
『一心様へ、お伝えします』
「頼む」
泰介は頷いた瞬間、肩が僅かばかり落ちた。何かを抱えて立っていた支えが一本外れたような落ち方だ。
『一心様からの言伝が、もうひとつ。早々に、生きて帰れ、と』
「毎度、努力はしてるさ」
泰介は苦笑し、血の印を拭いながら、咲貴を見た。そして、また、髪がぐちゃぐちゃになるまでなでた。
「お父さん、これ、護れたことになる?」
咲貴の問いは声に出たというより、息が形になったものに近かった。
「今の段階では、ね」
泰介が外気を吸い込み、目を細める。吸い込んだはずの息が最後まで胸へ入らず、むせこんだ。そんな不完全さを隠すように泰介は笑った。
「僕は、もう戻らなくちゃ」
泰介の輪郭がすでに薄い。保存の座へ引き戻される前の、ほどけかけの線。
「そんな顔しない。君は強かったよ。……さすが、僕の娘ちゃんだ」
その柔らかさが、咲貴の喉を詰まらせた。ここに志貴がいたならと言いたいものが喉元までくるが、飲み込むしかない。
「登貴を看破したのは志貴じゃない、君だ。事実は、それだけ」
じゃあね、と言う代わりに、泰介の輪郭が霞んでいく。
泣くのは後だと思っていた。けれど余裕が身体には残っていなかった。望の毛並みの匂いに顔を埋めた瞬間、涙が一筋だけ勝手に落ちる。
咲貴は数メートル先に転がったままの槍に目をやった。
穂先に残るのは、ほんのわずかな冷えだけだ。もう、ただの鉄として重さを取り戻している。さっきまで、あれほど凶悪だったものが、今は静かすぎる。
「……終わった、のかな」
声に出すと、現実が遅れて追いついてくる。
登貴はもういない。魂の核も、間の癖も、残っていない。最後に見せた抵抗の余韻が、咲貴の喉の奥に引っかかっているだけだ。
望が低く息を吐いた。
「今夜は、ここまで」
人型に戻った望の表情は硬い。安堵より先に、警戒が立っている顔だった。
咲貴も同じだった。終わったのに、終わった気がしない。
壮馬が覗いた未来のどれかが、まだこの夜の延長線上にある。
石段の上で、影が動いた。
遅れて現れたのは、公介だった。社叢の縁から歩み出て、惨状を一瞥し、鼻を鳴らす。
「……頭、痛いな」
軽口の形を取っているが、視線は一瞬で場を把握している。
砕けた痕、帷の縁、槍の残り香。
最後に咲貴の顔を見て、少しだけ目を細めた。
「歩く爆弾は健在やな、泰介め」
公介は息を吐き、肩を落とす。
「ようやったな、咲貴」
大きな手が、咲貴の頭をぐしゃりと撫でた。乱暴なのに、力は抜けている。その瞬間、張り詰めていたものが、また切れた。
咲貴は唇を噛んだつもりだったが、歯が震えてうまく噛めない。視界が滲み、涙が一気に落ちた。
「……登貴は砕いたのに」
声が、思ったより低く出た。
「壮馬さんを、逃した」
胃の奥を掴まれるような重さが残る。勝ったはずなのに、取りこぼした感触が、どうしても消えない。
「少し違う」
公介は短く言った。
「自分からVeilmakerに喰われに行ったんだろ」
断定する言い方だった。慰めではなく、現実としての線引きだ。
「名を差し出して、未来を売った。ああいう奴はな、戻ってきたとしても、もう同じ顔はしとらん」
望がすぐそばで伸びをしながら、頷いた。
「未来視を持つ魂ごと渡した。Veilmakerにとっては、これ以上ない収穫だろうね。厄介が一つ、確実に増えた」
三人のあいだに、同じ苦さが落ちた。
変えられない事実を、言葉にしただけで胃が重くなる。けれど、ここで立ち止まるわけにはいかない。
熊野はまだ息をしている。傷ついたまま、助けを待っている。
「……救援に切り替えよう」
咲貴は涙を拭い、前を見た。
「熊野は、わたしの本拠地。これ以上、嬲らせはしない」
公介は一瞬だけ驚いたように眉を上げ、それから小さく笑った。
「ほんま、泰介の娘やな」
望が肩を貸し、咲貴は一歩、石段をのぼる。膝はまだ笑っているが、立てないほどではない。
「冬馬は無事かな」
「あいつは、一心の次には強いから、ただでは死なんやろ。八雷がここにいるあたり、志貴に影響ないみたいやしな」
公介が、乾いた笑いをうかべる。
風下で割れた桃が、甘く腐りはじめる匂いを放っていた。
その匂いは不吉のようでいて、吉兆にも思える。終わりと始まりが、同じ場所に重なる匂いだ。
咲貴は深く息を吸った。
熊野の夜は、まだ名を失っていない。
咲貴が、護り抜いた。




