表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/54

第5話 袖にとどむる香のまにまに(前編)


規則正しい寝息が、古い木の香を低く揺らしていた。

志貴は右腕の疼きが脈と歩調を合わせているのを確かめ、喉の奥に残る鉄の味をそっと飲み下した。


ゆっくりと瞼を上げると、杉板の天井に薄陽が広がり、柱には素振りの痕が年輪のように重なっていた。

ここは宗像本家の奥間──幼いころ幾度も倒れ込み、泣く代わりに立ち上がった稽古場の片隅だ。


隣では、公介の寝息が浅く往復している。

志貴の右腕の包帯は重く、肩口には熱の芯。

指先をわずかに曲げるだけで、痺れが骨の内側を擦る。

奥歯で噛み切った舌の裂け目がひりつき、昨日の焦げた空気が蘇る。

記憶の輪郭だけが、音もなく裏返った。


襖が音を立てずに滑り、津島富貴が現れた。

濡れた髪の先から雫が畳に落ち、羽織の裾には雨の匂いがまだ生きている。

両腕に抱えた白木の包みが、掌の中で微かに鳴った。


「ようやく目を覚ましたわね。どこもかしこも痛むのは当然よ」


努めて明るい声に、上ずりがわずかに混じる。

千の修羅場で鍛えられたはずの声音に、今日だけは微細な震えが宿っていた。


「こんなに痛むのに、肝心なところだけ、記憶が霞んでる」


志貴がそう漏らすと、富貴の睫毛が一度揺れ、腕の包みがほどけた。

畳に転がったのは狼の面。


志貴に息を呑ませたのは、その色だった。

深い紅。

夜の花の艶を帯び、血を思わせる王の色。


仮面は黄泉使いの能力と直結し、位階と資格を示す。

白は未熟、蒼は中位、紅は部隊長、深い紅は王格。

自分の面は白のはず──その否定が喉へ上ってくるより早く、富貴は面を拾い上げ、背を向けた。


「……誰にも見られてないわね」


低く、短い呟きは志貴に向けたというより、母自身への確認の調子だった。


廊下の奥から、若い黄泉使いたちのざわめきがわずかに伝わる。


「紅の面だ」

「ありえない。あの子は白だろ」

「一心でも、あの紅は──」


富貴は振り返り、ぴしゃりと襖を閉じた。


「見せちゃだめ」


肩の線に祈りの形が宿る。

志貴は返す言葉を持たず、右肩の痣がゆっくりと熱を取り戻すのを感じるばかりだった。


名を呼ぶ穏やかな低音が、すぐ隣から起き上がる。


「……志貴」


公介は目を開けていた。

灰をかぶったように沈んだ肌、焦げて裂けた左肩。

その左腕は、もうなかった。


志貴の喉が詰まり、声を出そうとするたび、舌の疼きが先に立つ。

涙だけが、言葉よりも早かった。


公介は静かに見つめ、ひと言だけ置いた。


「お前が生きてる。それでええ」


短い言葉に、責めも赦しも畳まれている。

続けて、声の温度を一段落として、当主の響きに換えた。


「通達を出せ。志貴の件は口外無用──宗像公介の名で封じる」


それだけで部屋の空気が締まる。

宗像の後継を守るための距離だ。


「行ってくる」


志貴は小さく頷いた。

公介が立ち上がる気配のあと、ふと、軽い重みが右肩に置かれる。

抱擁でも慰めでもない、ここにいろと命じる触れ方だった。

情と節度を同じ場所に置く──公介のやり方である。


***


どれほどの時が、音もなく過ぎたのか。

障子の向こうに柔らかな気配が立ち、白川時生が静かに姿を見せた。

黒と白の羽織は乾きかけの焦げと血の痕を宿し、眼鏡の奥の瞳は澄明を保っている。


「顔色は芳しくないですね。けれど、生きている。それだけで、今は十分です」


声は穏やかで、芯は冷えていた。


「一心とは、会いましたか」


志貴は首を振る。


「あなたをここへ運んだのは、一心です。何も言わず、何も置かず、彼らしい」


床に伏せた紅の面へ、時生の視線が一瞬だけ滑る。

白木の地に滲む紅は、鼓動のたび灯を宿すように見えた。


「私は一心と禁域の巡回に出ていました。黄泉の綻びを点検していた時、彼の気配が忽然と途切れた。宗像の直招──と判断するのに、一拍も要りませんでした」


説明は、必要な分だけで止まる。


「現場に着いた時、あなたはいなかった。残っていたのは、一心の術香と、焦げた結界。冬馬くんと公介さんは倒れていましたから、結界ごと転移させました。禁じ手ですが、命が先です」


冬馬の背が浮かぶ。

皆が退く中、ただ一人、名を呼んで踏みとどまった背中。

怖れていたのに、逃げなかった背中。


「冬馬くんは別室で休んでいます。胸の焼痕は残るでしょうが、命は確かです。あの場で“隣”を選べる者は多くありません」


そこだけ、時生の声がわずかに温度を上げ、すぐ元の静けさへ戻る。


「力を持つ者が制御を失えば、それは災厄です。ですが、“持ってしまった者”を断ずる資格は、誰にもありません」


一語一語が畳に沈んだ。


「紅は“選ばれた”色ではなく、“選んだ”色です。痛みの色でもある」


志貴は袖の中で指を握り、右肩の痣に合わせて呼吸の拍を整える。

理を焦がし咲いた証として、いまここに痣が在る。


「皆、あなたを案じています。私や冬馬くん、公介さん──一心も」


一心の名が出た瞬間、髪に残った香が呼吸に混じる気がした。

会いたいと言葉にする前に、喉が固くなる。


「まずは眠り、食べることです。王であれ人であれ、順序は変わりません」


それだけを残して、時生は静かに一礼し、障子を閉めた。


残されたのは、志貴と紅の面。

雨が庭砂を打つ音が遠くで続く。

志貴は面へ伸ばしかけた手を止め、代わりに掛け布の皺をそっと摘んだ。

舌の痛みはまだそこにある。

痛むという事実が、かろうじて自分をこちら側へ繋ぎ止める。


志貴はようやく思い知った。

これは与えられたのではなく、あの夜に自分が選び取ってしまったのだ。

袖にとどめておくには、紅はあまりに重く、あまりに熱い。

面は飾りではない。命で支払った“王の証”として、彼女の傍らに在る。


公介の命はすでに屋敷へ下り、下は志貴から距離を取り、紅の件は封じられるだろう。

誰の目にも触れさせないためだ。


冬馬は眠り、呼吸は静か。

公介は片腕の痛みを押し込み、時生は言葉を費やさないまま怒りを冷やしている。

皆がそれぞれの場所で、志貴の「いま」を守っていた。


それでも志貴が目を閉じるたび、いつか見た琥珀色の灯だけが、闇の中で遅れて瞬いた。


身を横にするだけで、睡魔が襲ってくる。

志貴の呼吸が静かに深くなり、まどろみの底へ沈んでいく。

その寝息と歩調を合わせるように、紅の面の奥がかすかに脈打った。

夜明け前の空気の中で、志貴ひとりのはずの部屋に、赤い灯が一瞬だけ生まれては消える。


***


襖の外、細い廊下の陰に三つの影が立っていた。

公介、富貴、そして時生。


「あの紅を見たか」


公介の低声に、富貴が静かに頷く。


「……あれほど封じておいたのに」


時生は腕を組んだまま、落ち着いた口調で答える。


「志貴の“紅”は、まだ理の外側にあります。王格の枠には収まりません。……冥府も黙ってはいないでしょう」


「もう放っておける話ではないわ」


富貴が言葉を継ごうとしたとき、公介が手で制した。


「志貴には、何も言うな。まだ“あれ”を自覚させるには早すぎる」


「でも、もう目は覚ましているのよ」


「それでもだ」


公介の瞳に、かつて戦場で剣を抜いたときと同じ光が宿る。


「紅は、理そのものを燃やす火だ。ひとつ誤れば、あいつは王である前に“理を壊す者”になる」


富貴は唇を噛み、時生は眼鏡の奥で目を細めた。


「……いずれ、隠し通せなくなります」


「その時まででいい。時生、何としてでも手を打て」


公介が静かに言う。


「約束の春までは、このままにしてやりたい」


三人はそれ以上、言葉を重ねなかった。

紅の灯がわずかに漏れる襖を見つめる。

微かな脈音は、まるで生き物の鼓動のように廊下の闇へ吸い込まれていった。


夜はまだ終わらない。

だが、確かに“次”が動き始めていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
番契り 番地獄 狂愛 執着愛 奪愛 蜜毒 独占欲 贖罪愛 狂おしい愛 倒錯愛 契り地獄 奈落契り 血と魂 狼と少女 禁忌の契り 赦しは毒
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ