第5話 袖にとどむる香のまにまに(前編)
規則正しい寝息が聞こえる。
志貴は、ゆっくりと瞼を持ち上げた。
戦の気配のない、やけに静かな空間だった。
見慣れた杉板の天井。古びた柱には、素振りの痕が幾重にも刻まれている。
宗像本家の奥間――幼い頃から、何度も倒れ込んだ稽古場の一角。
すぐ隣では、小さな呼吸音が安定したリズムで響いていた。
宗像公介。志貴の師。
けれど、その寝息を聞いても、胸の奥のざわつきは消えなかった。
そして、次の瞬間。
「……白い炎!」
喉が先に動いた。
叫びと同時に、右腕に激痛が走る。志貴は呻き、身を丸めた。
包帯の下、皮膚が裂けるような痛み。指先まで痺れが突き抜ける。
焦げた木の匂いが、昨日の残滓として鼻腔を刺した。
(どうして……思い出せない?)
あれほどの恐怖。あれほどの熱。
なのに、記憶は霧の中に溶けていた。
「……覚えてないとか、ないやろ」
かすれた声に応じたのは、襖を開けて入ってきた母――津島富貴だった。
濡れた髪。まだ羽織も脱いでいない。足元には雨の雫が落ちている。
その腕には、何かを抱えていた。
「これだけ山道を駆け下りたんだから、傷くらいできるわよ」
声は明るかった。けれど、わずかに上ずっていた。
千の死線を潜ってきたはずの母の声音に、隠しきれない焦りがにじんでいた。
「……こんなに痛いのに。覚えてないなんて、おかしいやろ」
志貴の言葉に、富貴の目が揺れる。
その瞬間――彼女の腕から、するりと滑り落ちた仮面。
床に落ちたのは、狼の面。
だが志貴が息を呑んだのは、その“色”だった。
――深紅。
血にも似た、艶やかな紅。夜に咲く紅梅のように禍々しい。
(……違う。私の仮面は、白だったはず)
宗像家の仮面は、位階と資格を示すもの。
白は未熟者。蒼は中位の術者。そして紅は、“特級任務”を担う強者にのみ許された王格の証。
持つはずがない。自分のような者が。
富貴はすぐにそれを拾い上げ、誰にも見せぬよう背を向けた。
「……誰にも、見られてないよね?」
それは志貴に向けた言葉ではなかった。
まるで、自分に言い聞かせるように、低く、短く。
だが、廊下の向こうから、若い黄泉使いたちのざわめきが聞こえてきた。
「見たか……紅面だ。間違いない」
「ありえない。あの子、白面のはずだろ?」
「宗像一心でも、あの紅は――」
富貴は振り返り、ぴしゃりと襖を閉じた。
「見せちゃダメ。今は――まだ」
それは、母としての願いだった。
志貴が“紅”を背負う覚悟を、まだ強いられたくなかったのだ。
志貴は、ただ黙って、それを見ていた。
(……紅は、孤独の色。誰より強く、誰より遠い)
肩の疼きが、またひとつ、志貴を刺す。
そのとき。
「志貴」
低く穏やかな声が、名を呼んだ。
隣の布団で、宗像公介が目を覚ましたのだ。
土気色の肌。焦げた左肩。そして――その腕が、もうなかった。
「お前が気を失うから悪いんだぞ。俺なんぞ、腕、持っていかれたんだからな」
冗談のように笑ってみせる顔に、志貴は目を向けられなかった。
未熟な自分のせいだ。
矛も術も、制御できなかった、その結果が――
けれど、公介は笑った。
そして、目で語った。
――それ以上、聞くな。もう、責めるな。
志貴は差し出された手を、逃さずに取った。
くしゃりと撫でられた頭の温もりに、胸が熱くなる。
もう、泣いてもいいのに――それでも涙は出なかった。
身体も、心も、限界だった。
痛みと悔しさに押し沈められていく。
志貴は、公介の腕に抱かれたまま、静かに目を閉じた。
――その直前、彼の腕がそっと離れていくのを感じた。
公介が、姿を消すことを――志貴は、まだ、知らない。
――どれほどの時が経ったのか。
襖の外に、ふと気配が走った。
「志貴。起きてるか?」
静かな声とともに、障子がすっと開く。
黒と白の羽織に身を包み、眼鏡をかけた長身の男。
白川家の当主候補、時生。宗像一心、穂積壮馬と並ぶ“現代の三強”の一人。
けれど志貴にとっては、それ以上に――幼い頃からずっと傍にいてくれた、“家族のような兄”だった。
「顔色は……まあ、良くはないけど、生きてるだけで充分だな」
そう言って部屋に入る彼の羽織には、乾きかけた焦げと血のしずくがこびりついていた。
それが、ここへ辿り着くまでの戦場の記憶を、無言で物語っていた。
「一心とは、会ったか?」
志貴は、かすかに首を振る。
「そうか……君をここへ運んできたのは、一心だったよ」
時生の視線が、床に伏せられた仮面をかすめる。
――それは、白木の地に、血を滲ませるような紅が引かれた狼の面だった。
かつて白だったはずのその色は、もう――戻らない。
「俺は、一心と“禁域”の探索任務中だった。黄泉の綻びがないか、境界を見ていた。
……だが突然、一心が気配ごと消えた。宗像の“直招”だと分かった」
志貴の目が、わずかに揺れる。
「一心が呼ばれるということは、宗像で何かが起きた証拠だ。
だから俺は即座に任務記録を洗って――君の名前に行き着いた。予感は、確信に変わったよ」
時生の声は穏やかだった。けれど、その内側には揺るぎない芯があった。
かつて志貴の父・泰介の傍らに仕え、家事も稽古も担っていた男。
今もなお、その温度はこの部屋に息づいている。
「現場に着いたとき、君はもういなかった。残されていたのは、一心の術香だけ。
でも、冬馬と公介はその場に倒れていた。意識は浅く、動ける状態ではなかった」
「っ……」
「だから俺は、結界ごと二人を転移させた。……反則級の大技だけど、他に手はなかった。
お叱りは、あとで泰介さんの仏前で受けるさ。命が第一だからな」
志貴の胸が、かすかに痛んだ。
「冬馬は今、別室で療養中だ。胸に焼痕はあるが、それだけで済んだのは奇跡に近い。
最後まで君のそばにいた。――あの状況で、それを選べる奴は、そう多くない」
志貴は、喉の奥で小さく息を呑んだ。
自分の中の“なにか”が暴れた、あの夜。
誰もが逃げる中、冬馬だけは――隣にいた。
「彼は、“王の痣”が覚醒した瞬間を、その目で見た。
だから、これから問われる。君のバディを、まだ続けられるのかと」
時生は、その先をわざと口にしなかった。志貴に、言わせないために。
「志貴。
“力を持つ者”が制御を失えば、それは災厄だ。
けれど、“持ってしまった者”を否定する資格は、誰にもない」
その声は、伏せられた仮面よりもまっすぐに――志貴の胸を撃ち抜いた。
「紅は、“選ばれた”色じゃない。
“選んだ者”の、痛みの証だ」
志貴の視線が、狼の面へと落ちる。
紅――
強さの証であり、孤独の象徴。
かつて白だったそれは、もう戻らない。
けれど今、その色に、志貴は確かに“自分”の影を見ていた。
「……一心、来てたんだよね」
かすれた声が、落ちた。
「来てたよ。でも、すぐにまた別の任務に呼ばれた。……忙しい奴だよ、ほんとに」
志貴の髪には、まだ、微かに――
あの人の匂いが、残っていた。
きっと、何も言わずに抱きしめて。
何も告げずに、去っていった。
――あいつは、そういう男だ。
志貴の表情を見た時生は、その言葉を声にはしなかった。
だが、心の中で一度だけ、息を吐いた。
(もう、“香”だけじゃ誤魔化せないかもな)
志貴の指が、掛け布の上で小さく動く。
爪先が、布の皺をそっと握る。
――会いたかった。
ただ、それだけだった。
それすら言えない自分が、少しだけ、情けなかった。
「もうすぐ、いろんなことが動き出す。
でもな、志貴。まずは“食って寝る”。王だろうと、何だろうと、それが一番大事なことだ」
それだけを残して、時生は立ち上がった。
障子が、音もなく閉まる。
残されたのは、志貴と――紅の仮面。
(もう、戻れない)
それは“誰か”に与えられたものではない。
志貴自身が、抗いながらも、選んでしまった“証”。
選ばされたんじゃない。
あの夜、志貴は――選び取ってしまったのだ。
その紅は、もう袖にとどめておけるものじゃなかった。
それは、ただの仮面ではなく――命をかけて選び取った、“王の証”だった。