第5話 袖にとどむる香のまにまに(前編)
規則正しい寝息が、古い木の香を低く揺らしていた。
志貴は右腕の疼きが脈と歩調を合わせているのを確かめ、喉の奥に残る鉄の味をそっと飲み下した。
ゆっくりと瞼を上げると、杉板の天井に薄陽が広がり、柱には素振りの痕が年輪のように重なっていた。
ここは宗像本家の奥間──幼いころ幾度も倒れ込み、泣く代わりに立ち上がった稽古場の片隅だ。
隣では、公介の寝息が浅く往復している。
志貴の右腕の包帯は重く、肩口には熱の芯。
指先をわずかに曲げるだけで、痺れが骨の内側を擦る。
奥歯で噛み切った舌の裂け目がひりつき、昨日の焦げた空気が蘇る。
記憶の輪郭だけが、音もなく裏返った。
襖が音を立てずに滑り、津島富貴が現れた。
濡れた髪の先から雫が畳に落ち、羽織の裾には雨の匂いがまだ生きている。
両腕に抱えた白木の包みが、掌の中で微かに鳴った。
「ようやく目を覚ましたわね。どこもかしこも痛むのは当然よ」
努めて明るい声に、上ずりがわずかに混じる。
千の修羅場で鍛えられたはずの声音に、今日だけは微細な震えが宿っていた。
「こんなに痛むのに、肝心なところだけ、記憶が霞んでる」
志貴がそう漏らすと、富貴の睫毛が一度揺れ、腕の包みがほどけた。
畳に転がったのは狼の面。
志貴に息を呑ませたのは、その色だった。
深い紅。
夜の花の艶を帯び、血を思わせる王の色。
仮面は黄泉使いの能力と直結し、位階と資格を示す。
白は未熟、蒼は中位、紅は部隊長、深い紅は王格。
自分の面は白のはず──その否定が喉へ上ってくるより早く、富貴は面を拾い上げ、背を向けた。
「……誰にも見られてないわね」
低く、短い呟きは志貴に向けたというより、母自身への確認の調子だった。
廊下の奥から、若い黄泉使いたちのざわめきがわずかに伝わる。
「紅の面だ」
「ありえない。あの子は白だろ」
「一心でも、あの紅は──」
富貴は振り返り、ぴしゃりと襖を閉じた。
「見せちゃだめ」
肩の線に祈りの形が宿る。
志貴は返す言葉を持たず、右肩の痣がゆっくりと熱を取り戻すのを感じるばかりだった。
名を呼ぶ穏やかな低音が、すぐ隣から起き上がる。
「……志貴」
公介は目を開けていた。
灰をかぶったように沈んだ肌、焦げて裂けた左肩。
その左腕は、もうなかった。
志貴の喉が詰まり、声を出そうとするたび、舌の疼きが先に立つ。
涙だけが、言葉よりも早かった。
公介は静かに見つめ、ひと言だけ置いた。
「お前が生きてる。それでええ」
短い言葉に、責めも赦しも畳まれている。
続けて、声の温度を一段落として、当主の響きに換えた。
「通達を出せ。志貴の件は口外無用──宗像公介の名で封じる」
それだけで部屋の空気が締まる。
宗像の後継を守るための距離だ。
「行ってくる」
志貴は小さく頷いた。
公介が立ち上がる気配のあと、ふと、軽い重みが右肩に置かれる。
抱擁でも慰めでもない、ここにいろと命じる触れ方だった。
情と節度を同じ場所に置く──公介のやり方である。
***
どれほどの時が、音もなく過ぎたのか。
障子の向こうに柔らかな気配が立ち、白川時生が静かに姿を見せた。
黒と白の羽織は乾きかけの焦げと血の痕を宿し、眼鏡の奥の瞳は澄明を保っている。
「顔色は芳しくないですね。けれど、生きている。それだけで、今は十分です」
声は穏やかで、芯は冷えていた。
「一心とは、会いましたか」
志貴は首を振る。
「あなたをここへ運んだのは、一心です。何も言わず、何も置かず、彼らしい」
床に伏せた紅の面へ、時生の視線が一瞬だけ滑る。
白木の地に滲む紅は、鼓動のたび灯を宿すように見えた。
「私は一心と禁域の巡回に出ていました。黄泉の綻びを点検していた時、彼の気配が忽然と途切れた。宗像の直招──と判断するのに、一拍も要りませんでした」
説明は、必要な分だけで止まる。
「現場に着いた時、あなたはいなかった。残っていたのは、一心の術香と、焦げた結界。冬馬くんと公介さんは倒れていましたから、結界ごと転移させました。禁じ手ですが、命が先です」
冬馬の背が浮かぶ。
皆が退く中、ただ一人、名を呼んで踏みとどまった背中。
怖れていたのに、逃げなかった背中。
「冬馬くんは別室で休んでいます。胸の焼痕は残るでしょうが、命は確かです。あの場で“隣”を選べる者は多くありません」
そこだけ、時生の声がわずかに温度を上げ、すぐ元の静けさへ戻る。
「力を持つ者が制御を失えば、それは災厄です。ですが、“持ってしまった者”を断ずる資格は、誰にもありません」
一語一語が畳に沈んだ。
「紅は“選ばれた”色ではなく、“選んだ”色です。痛みの色でもある」
志貴は袖の中で指を握り、右肩の痣に合わせて呼吸の拍を整える。
理を焦がし咲いた証として、いまここに痣が在る。
「皆、あなたを案じています。私や冬馬くん、公介さん──一心も」
一心の名が出た瞬間、髪に残った香が呼吸に混じる気がした。
会いたいと言葉にする前に、喉が固くなる。
「まずは眠り、食べることです。王であれ人であれ、順序は変わりません」
それだけを残して、時生は静かに一礼し、障子を閉めた。
残されたのは、志貴と紅の面。
雨が庭砂を打つ音が遠くで続く。
志貴は面へ伸ばしかけた手を止め、代わりに掛け布の皺をそっと摘んだ。
舌の痛みはまだそこにある。
痛むという事実が、かろうじて自分をこちら側へ繋ぎ止める。
志貴はようやく思い知った。
これは与えられたのではなく、あの夜に自分が選び取ってしまったのだ。
袖にとどめておくには、紅はあまりに重く、あまりに熱い。
面は飾りではない。命で支払った“王の証”として、彼女の傍らに在る。
公介の命はすでに屋敷へ下り、下は志貴から距離を取り、紅の件は封じられるだろう。
誰の目にも触れさせないためだ。
冬馬は眠り、呼吸は静か。
公介は片腕の痛みを押し込み、時生は言葉を費やさないまま怒りを冷やしている。
皆がそれぞれの場所で、志貴の「いま」を守っていた。
それでも志貴が目を閉じるたび、いつか見た琥珀色の灯だけが、闇の中で遅れて瞬いた。
身を横にするだけで、睡魔が襲ってくる。
志貴の呼吸が静かに深くなり、まどろみの底へ沈んでいく。
その寝息と歩調を合わせるように、紅の面の奥がかすかに脈打った。
夜明け前の空気の中で、志貴ひとりのはずの部屋に、赤い灯が一瞬だけ生まれては消える。
***
襖の外、細い廊下の陰に三つの影が立っていた。
公介、富貴、そして時生。
「あの紅を見たか」
公介の低声に、富貴が静かに頷く。
「……あれほど封じておいたのに」
時生は腕を組んだまま、落ち着いた口調で答える。
「志貴の“紅”は、まだ理の外側にあります。王格の枠には収まりません。……冥府も黙ってはいないでしょう」
「もう放っておける話ではないわ」
富貴が言葉を継ごうとしたとき、公介が手で制した。
「志貴には、何も言うな。まだ“あれ”を自覚させるには早すぎる」
「でも、もう目は覚ましているのよ」
「それでもだ」
公介の瞳に、かつて戦場で剣を抜いたときと同じ光が宿る。
「紅は、理そのものを燃やす火だ。ひとつ誤れば、あいつは王である前に“理を壊す者”になる」
富貴は唇を噛み、時生は眼鏡の奥で目を細めた。
「……いずれ、隠し通せなくなります」
「その時まででいい。時生、何としてでも手を打て」
公介が静かに言う。
「約束の春までは、このままにしてやりたい」
三人はそれ以上、言葉を重ねなかった。
紅の灯がわずかに漏れる襖を見つめる。
微かな脈音は、まるで生き物の鼓動のように廊下の闇へ吸い込まれていった。
夜はまだ終わらない。
だが、確かに“次”が動き始めていた。




