第49話 熊野にて 骨は鳴り 鈴は冷ゆ(後編①)
石の匂いが変わった。
さっきまで嗅いでいた社叢の湿りよりも、もっと古い。苔と血と、踏まれ続けた石肌の冷え。咲貴の背が地へ叩きつけられ、肺の空気が一息分抜けた。視界が白く跳ね、耳の奥で鈴の残響だけが粘る。
喉へ酸い熱が上がる前に、もう一度、体が転がされた。
登貴の鈴は割れている。けれど、あの圧は消えていない。鳴り口のない音が胸骨の裏を擦り、呼吸の順番だけを崩す。脈と息が噛み合わない。噛み合わないまま足裏が石段の縁を拾い損ね、咲貴は斜めに落ちた。
石段を二段、三段。肩が擦れ、背中が弾み、掌が空を掴む。
落ちる先の空気が、ひとつだけ濃い。金気と、古い香と、刃の冷えが混じった匂い。視線を上げるより早く、そこで何かが当たり合っているのがわかった。音を立てない当たり方。硬さをぶつけず、やわらかく触れたまま押しも引きもしない、恐ろしさがある。
咲貴の体が止まる前に、襟首を掴まれた。
布が喉へ食い込み、首がきゅっと引き上がる。反射で顎が上がり、目の焦点が合った。
「いきなりこれは無茶だと思わない」
石段のさらに下。苔の湿りが濃い段で、槍と刀が、音を立てずに当たっている。咲貴をつかんだままで、槍を振り回しているのに、軌跡に欠けはなく鋭い。刃の気配だけを滑らせ、触れたものから手触りを奪っていく。
「おぉ、お父さんっ……」
素っ頓狂な声を出して腰が抜けた咲貴の身体のすぐ脇に、軽い足があった。
「はい、お父さんです」
明るい声、笑い方の薄さ。濡れた絹みたいに滑って、掴めない男がいる。
「辛くも死を逃れた身が、どう役立つのか、ここでお見せしようかな」
咲貴は呆気にとられて、間抜けにも口が開いたままだ。泰介の笑い方は、公介と似ているのに、似ていない。
「君、こっち。今は前に出ない」
襟首を掴んだ手が、乱暴に放らない。投げるでも抱えるでもなく、必要な位置へ置く。視界の端で、白い尾が一度だけ石を叩いた。望の合図が、咲貴の背骨へ拍を通す。
「……化け物め」
壮馬の声が、僅かに低くなった。
咲貴は息を取り戻そうとして、舌の裏に金気が滲むのを噛み殺した。登貴の鈴の残り香が、まだ喉を塞いでいる。視線を上へ戻した瞬間、登貴の影が石段の端に立った。髪の白さが夜の黒を切る。鈴を失った手が空の音を撫でるように動き、撫でられた空気が咲貴の耳の内側で反転した。肺が一瞬だけ縮む。
「咲貴、そこで息を戻して。……君はもっとよく見なくちゃいけない」
息が止まるより早く、泰介の指が襟を引き、石段の陰へ滑り込ませた。背中が冷えた石へ当たり、肩の痙攣がそこで止まる。望の尾が咲貴の膝裏へ触れ、崩れそうな重心を支える。
「君は負けてるみたいな顔してるけど、それは本当かな」
泰介の言葉は軽い。けれど声の底に、引き剥がせない硬さがある。近いのに、甘えさせる近さではない。戦場で手を取って、駒として最良の場所へ置くような動作だ。
「君、宗像死守、まだやってるの? ……ほんと、骨董品みたいな狐だね」
望が泰介を胡乱げに見た。泰介は片目だけ細くし、ニコリと笑う。
咲貴は息をするだけで精一杯だった。鈴の拍が乱した呼吸を、望の拍が引き戻す。吸って、吐く。吐いた息が白くなる前に、また違う匂いが混じった。血文字の匂い。濡れた墨みたいに甘く、冷たい匂い。
泰介が自分の腕を見下ろしている。皮膚に滲んだ血の文字を、指先で撫でた。“任せた”の二文字が、撫でられた下で、すっと消える。
「説明なしでいきなり戦場はなしだよね。……で、本当に、お久しぶりだよ。ねぇ、壮馬くん」
咲貴は、その消え方を見て喉の奥がひやりとした。公介が、いまどこにいるのかを探す間もない。槍の軌跡がひとつ揺れ、壮馬の刀がその揺れへ刺し込む。泰介はその間に、刃のない筒を掌に呼び込んだ。
「早く新しい身体に切り替えないと腐って駄目になるとか。君のほうは、そういう縛りでもあるのかな」
白い金具の柄。刃ではない口。空虚が口の縁に角を持っている。咲貴の皮膚が、嫌な予感で粟立つ。筒の口に血で描かれた印が八つ。泰介の指が触れるたび、ひとつずつ、息をするみたいに開く。
「“俺の登貴”を壊した奴に、まだ礼をしていなかったから、ちょうどいい」
泰介は登貴を指さしながら、肩をわざとらしく寄せた。
「礼なんかいらないよ。十年前の話だろう。長く寝ててくれて助かったよ。君が“あの化け物”の飼い主だったとか、本当に笑えないけど」
筒が受けた瞬間、刃が刃でなくなるのが咲貴にも分かった。鉄の硬さが残ったまま、切るはずの順番だけが抜け落ちる。切断の理が、口の縁で外され、ほどかれていく。槍でも刀でも、そこに込められた秩序が落ち、ただの鉄へ沈む。泰介の手の中にあるのは、物を断つ道具ではない。“理”を外してしまう空洞だ。
「壮馬くん、君のはほどけやすい。糸目が粗いんだ。縫い直す前に終わりだね」
登貴の影が、一足深く入った。
石段の上から降りてくる速度ではない。落ちる影が位置だけを変え、そこにあるはずの段差を無視して距離を詰める。咲貴の喉がまた狭くなる。鳴っていない鈴の詰まりだけが、胸の内側を擦った。
望の尾が、もう一度、石を叩いた。
「足場は作ってある」
肩を押されたぶんだけ、足裏に一枚の板が滑り込む。石段の冷えの中に薄い“閂”の気配。登貴の白が残した、薄い筋。
咲貴は右掌を前に出し、見たことのない白の式を“なぞった”。ほんの瞬きの長さ。指先で“白”を掴んだ瞬間、肺にあった息が逆に吸われた。白は冷たいはずなのに、骨の髄を焼くような熱で内側を走る。視界の輪郭が一瞬だけ異様に澄み、登貴の動きが算盤の珠のように止まって見える。
才覚を借りるとは、こういうことかと身が震える。どこを焼けば、どう崩れるかが先に分かる。迷いなく裁けてしまう視線。志貴が持つ眼差しが、いまは自分の内側にも立っている。恐怖と誇りが同時に噛み合い、肋骨を内側から軋ませた。これを持ってしまえば、志貴の孤独がどんなものか、分かってしまう。分かってしまうのに、同時に、自分もそこへ立てるかもしれないと錯覚する。
「へぇ、うまいもんだ」
泰介の声が背後で弾んだ。笑っているのに、油断の匂いがない。
咲貴は登貴へ踏み込むためではなく、登貴が踏み込んだ拍の崩れへ体をねじ込んだ。次は手首を狙う。掴んだ白の閂は、三拍しか持たない。四拍目で器が軋む。五拍目で、咲貴の体が折れる。
ひとつ、ふたつ、みっつ。
掌が、登貴の手首の内側へ触れた。触れた場所から、登貴の筋が咲貴の体内へ入りかける。反射で噛んで止める。止めたのに、膝がひとつ揺れた。その揺れへ、登貴の影が滑り込む。
「本当に脆いな」
登貴の声は笑っていない。薄い紙一枚を切る音に似ている。
咲貴は掴まれた腕を支点に体を回し、肘で払った。息を奪う湿りが喉に絡む。湿りの立ち上がる順番を“白の閂”でずらした。ずらした分だけ、登貴の拍が一つ遅れる。
望が、低く唸った。
「境界を越えるな」
望の声は低い。歯の間から出る音だけで、背中が冷える。
頷く暇もないまま、三拍目の終わりで登貴から離れる。手放した瞬間、胸郭に瓦を積まれたみたいに息が塞がる。舌の裏に血がにじむ。歯を食いしばり、倒れそうな体を石段へ預けた。
「時間が惜しいな」
咲貴の方へちらりと目をやる泰介の筒が、風の理を削いだ。
壮馬の刀の“存在”が、ひとつずつ殺されていく。刀は消えかけ、現れかけ、どちらにも寄らずに止まる。出しても噛み合わないと理解した間が、骨だけを遅れて締める。
「壮馬くん、君の刀は甘いままだね」
泰介の声音は軽いのに、刃より鋭い。
壮馬の顔は笑っていない。焦ってもいない。ひび割れた仮面みたいに動かない。それが、咲貴には気味が悪かった。登貴の方角へ一瞬だけ視線が流れ、また戻る。何を企んでいるのかがわからない視線。
泰介と咲貴の耳に、重い足音が近づいた。社叢の外、石段よりさらに下から響いてくる死神の鎌の音に、熊野全体が一度だけ息を止めた。
夜烏が低く鳴き、白蛇が葉の裏で震える。
社叢の奥で、枝に抱かれて眠っていた桃の実がひとつ裂けた。
甘い匂いが夜に溢れ、骨を焼く匂いと混ざり合う。赦しと焔の匂いが、同じ場所へ戻ってきたように胸の奥へ刺さった。
「報す。……道反、四天王夏座と穂積冬馬、交戦に入る」
声が落ちた瞬間、熊野の空が冷えた。風が塩を置き去りにし、山の影だけが濃くなる。
泰介の笑みが潮が引くように消えた。
「……急ぐよ。あの子、志貴のためなら何でもやる」
壮馬の喉の奥が、ほんの少しだけ鳴った。予定が狂った、という音だけが残る。
「休息など、させてやらないよ」
登貴が鈴を失った手で空を撫で、風を地へ落とす。土を起こし、膨らんだ土が咲貴の足首を掴もうとする。
足を引く。望の尾がその土を一撫で払いのける。
払われた土が、今度は泰介の足元へ寄る。泰介は小さく息を吐くだけで慌てる様子はない。筒が“角”で土の理を外し、湿りへ落とす。
「僕、娘たちと過ごす時間を奪われた分、取り返さないといけないから、ごめんね」
登貴の目が細くなる。気味悪く唇の端が上がる。
「王号もない凡人のくせに……」
「まいったね。僕、王号なくても、君よりたぶん強いよ」
土を蹴り上げると、一瞬で灰にかわり、あたり一面の視界を奪った。
「選ばれたことがない痴れ者が……」
登貴の声が、咲貴の耳の内側へ直接刺さった。
その言葉を、わざわざ拾いあげる自分自身の刺さり方に苛立つ。
「あぁ、いらいらする」
呼吸が整い切らないまま、さっき掴んだ白の閂を、もう一度、掴みにいこうとする。
「咲貴」
泰介の声が低く落ちた。
振り返る前に、襟首をもう一度掴まれた。泰介の背中の陰へ入れられた瞬間、登貴の白い火が、咲貴のいた場所を薙いだ。
「阿保のひとつ覚えの志貴じゃないんだから、しっかりしなさい」
泰介が、咲貴の額へ、自分の額をそっと当てた。
「いいか、君にしかない才がある。僕に似て、君は賢いんだ。もっと上手くできるはず」
汗の匂いと榊の青と、香の焦げが混ざる。触れた額の熱は、宗像の内側の匂いを孕む。
「頭を使って、心は閉じて。触れて掴め。持って行かれそうになったら、手放す。その繰り返しだ」
泰介は咲貴の右手を取り、自分の胸板へ押し当てた。
「使えるものは出し惜しみなしだよ」
胸の奥で、何かが走った。走った線が掌の内側へ繋がり、世界の輪郭が一瞬だけ鋭くなる。音の埃が払われ、血の匂いの層が分かれる。
「……やってみる」
手を離し、肩で息をした。肩の内側で、泰介の持つ火が点いたり消えたりする。望の尾が軽く触れ、静める。
泰介はゆっくり立ち上がり、筒を握り直した。
「さぁて、お待たせ、壮馬くん」
壮馬の刀が来る。泰介の筒が受ける。触れたたび、理が外れ、刃はただの鉄へ落ちていく。
「身体、あったまったかい。僕もちゃんと動けそう」
泰介は事もあろうに近接戦を選んだ。
「だから、嫌いなんだよ」
壮馬は蹴りや突きを受け止めながら、苦い顔をした。それでも後に退けない。背後には登貴がいる。
「登貴、退がれ!」
登貴の足元へ香の筋を引き直す。三本。四本。土が呼吸を始め、息を奪う湿りが立ち上がる。
登貴は、その湿りを盾にして踏み込み、白い火を薄く伸ばした。
望の肩毛を刃こぼれ一つ分だけ裂く。望は唸るが、退かない。巨大な体躯で、咲貴の前へ肩を落とす。
「邪魔だよ、望」
咲貴は望の背の陰から掌を泰介の背にあてた。意図して、泰介を写す。三拍だけでいい。理の外し方。空虚の角。あの嫌な手触りを、掌へ一瞬だけ乗せる。
ひとつ、ふたつ、みっつ。
掌の内側に、空虚の角が立つ。立った角が登貴へ触れた瞬間、魂の“縫い目”がひとつほどけた。登貴の目が僅かに揺れたのを、咲貴は見逃さない。
その一拍で、手首を掴みにいった。
掴める。掴めるはずだった。
登貴の抵抗が、そこから始まった。
白い火が掌の縁へ絡み、絡んだ火が逆に指の内側へ入り込もうとする。冷たいはずの白が、骨の髄を焼く熱に変わる。喉が勝手に鳴り、肺が一息分持っていかれる。足裏が一瞬、石段の上で空を踏む。
望の尾が腰を叩いた。泰介の筒が登貴の仕掛けた糸を一つ外し、指先から登貴を剥がした。
剥がれた白糸が空へ散らず、土へ落ちる。土がさらに息を奪う。
歯を食いしばる。舌の裏の血を飲み込み、膝の揺れを止める。
「いつも……あと一歩が届かない」
声が勝手に落ちた。弱音を吐くつもりはなかったが、体が漏らした音だった。
泰介の手が襟首をもう一度掴み、引いた。
「ここで折れない。君は僕の娘だからね」
その言い方が、公介に似ているのに、公介とは違う。鼻の奥が痛んだ。
石段の下で、拍が一つ切り替わった。
切り替わった拍の上で、登貴はまだ抵抗している。白い火が細く伸び、望の足首へ絡もうとし、土が呼吸して湿りを吐き、鈴のない音がいまも胸骨の裏を擦る。
咲貴は、その擦られ方を忘れないまま、掌を握り直した。三拍で足りる。三拍で、ひとつだけ奪えばいい。
その瞬間だけ、熊野の夜が、石段のさらに下でひとつに重なっていた。
「咲貴、まともに受けたら駄目だ」
泰介の声に社叢の風がひとつ裏返った瞬間、壮馬の標的が変わったのが分かった。
距離は数歩あるのに、刃の間合いが先に詰まる。瞬き一つで詰められ、躱した拍が、足元から外れた。
「なぜ、冬馬は来なかった」
壮馬が、咲貴の額すれすれをかすめて踏み込む。一閃。抜いたのは刀身の気配だけ。声は低く抑えられているのに、芯だけが隠れない。息を吸う前に、皮膚が先にひりついた。
「やはり志貴優位は、やめられないか。……本物の朔なら、側から離れられるわけがない」
その言葉が、ほどけかけた糸をきつく縒り直した。咲貴の胸の奥で結び目が疼く。咲貴は壮馬を睨み返す。
「今度は狐か。勝つためなら、何でもあり。宗像は節操がない」
背後から泰介が、小馬鹿にしたように笑う。声音は軽いのに、視線は壮馬を逃さない。距離は離れているはずなのに、間合いの緊張が場を覆っていた。
「いやいや、宗像だからこそ、できる伝統芸なんだけど。ご存知ない?」
白い尾が石を叩く。その一打ちで空気の層が震えた。黄の瞳に映るのはただ一人、咲貴。
「望という名がある」
「わかってるよ、望」
名を呼んだ瞬間、咲貴の呼気が噛み合わなくなる。吐いたはずの息が戻らず、横隔膜がひきつって胸骨の奥で乾いた鈴がひとつ鳴った。肺が縮み、肋がきしむ。焦げた香が舌根に貼りつき、視界の縁が白くざらつく。
「咲貴っ」
望が石段を半寸ずらして前へ出る。巨大な躯が壁になり、咲貴の揺れた軸だけを受け止めた。
「邪魔だよ、望」
登貴が唇の形だけで告げる。望は答えない。
「私は、君に名を呼ぶ資格を与えた覚えはない」
尾で土を払うと、地の香の筋が一列めくれ、登貴の進路が半寸ずれた。
「もう、大丈夫。行く」
咲貴はそのずれを掌でなぞった。触れるだけでわかる。結び目の位置、ほどける縫い目。
触れて借りられるのは三拍だけだと、咲貴は身で覚えている。四拍目で器がきしみ、五拍目まで持たせれば、身体が折れる。
指の内側で志貴の焔が一瞬だけ点く。鼓動に噛ませ、ひとつ、ふたつ、みっつ。四拍目、魂の縁がひゅっと跳ねた。血管の奥に熱が走り、痛みだけが遅れて噛んだ。
「もう一歩……」
咲貴の息が引きつる。頬の薄皮が剥がれ、滲む汗に血が混じった。
「大丈夫。様になってきてる」
背後から泰介の声。刃のない筒が風の理を削ぎ、壮馬の刀の“存在”をひとつずつ殺していく。
「壮馬くん、やりきれないね。咲貴の肉体は五体満足でないといけないんだろう」
泰介のささやきは鋭い。壮馬の目に、珍しく怒りが露わになる。
「当代の王とやり合って、失敗が続く。あの器じゃ、せいぜい二年だ」
泰介の声は皮肉でも冷笑でもない。ただ事実を述べる響き。その無情さに、壮馬の眼がわずかに揺れた。
「本当に、気の毒すぎる。咲貴を殺せるタイミングなんかいくらでもあるのに、殺し方はひとつしか選べない。そりゃ、後手に回るか」
泰介は軽く笑いながら踏み込む。
「またもや、僕がいる。また失敗するんじゃない?」
その瞬間、泰介が土を軽く蹴る。火の筋が地を走り、伸びた先で跳ねて、行き止まりを焼き抜いた。
「登貴!」
呼びかけと同時に、壮馬は地の香を書き換える。だが登貴は止まらず、咲貴へ一足、深く踏み込んでいた。
「咲貴!」
望の肩がさらに前へ出て、咲貴の半身を覆う。毛並みが炎を弾き、咲貴の頬と首筋の熱をさらっていく。
「志貴さえ護れたら、咲貴が死んでも構わない。それが宗像だろ?」
壮馬は刺すように言い放つ。その冷酷な理屈に、咲貴は舌で唇の血を拭い、泰介の娘らしく言い返した。
「わたしすら殺せてないのに、何様?」
咲貴の眼差しが、言葉に勝る力で突き刺さる。
「咲貴の異能は、宗像の中でも異端だ。意志ひとつで暴走する力を抑え込むんだから、宗像の誰よりも優れているよ」
泰介が、けらけらと笑ってみせる。
「ただの補完要因だったくせに……」
登貴の声に焦りが混じる。それが何よりの証だ。咲貴はすでに、一方的に押し込まれる存在ではない。間合いを、じわじわと互角に保ち始めている。
「志貴と咲貴は双子なんだから、ただの補完要因なわけがないよね」
泰介は咲貴にそっと耳打ちする動作を見せた。だが実際、何の指示もない。
割られた鈴の代わりに、登貴は足元を睨んだ。土が呼吸を始め、波打つ。揺れに浮く順番を見誤れば、足首を持っていかれる。
「もう、馴れた」
言葉を落としてから、咲貴は一拍だけ遅れて踏み込んだ。本能で駆け出したわけじゃない。遅れを拾い直すために、登貴の手首を掴みにいく。流れ込む登貴の術の形式。その途端、紅の血がはじけるように疼き、志貴の香が迸った。
「志貴……?」
刹那、紅の千年王の炎が眼底に灯る。志貴の意識が、すべるように咲貴へ近づいてくる。重なるのは一息ぶんだけで、それでも掌の内側が熱くなった。
咲貴の指先に、光の刃が集まり始める。
『咲貴では無理や、阿呆』
一心の声が、頭蓋に雷鳴のように落ちた。熊野に届くはずのない声が、確かな禁止として焼きつく。
『八雷、任せたで』
声がすっと遠のく。その代わりに応じたのは、咲貴に会いに来た八雷だった。あの夜、八雷は結び目をひとつ噛んでいた。
人の形を取らず、火の塊のまま掌へ現れる。言葉もなく、そのまま咲貴の胸へ飛び込んだ。
八雷の稲妻が皮膚の上を走り、やがて紅い蔦の字へほどけていく。けれど最後まで結ばれない。輪郭だけが残り、中心は抜けたままだ。それでも、焼き切れかけた器のきしみが、そこで止まった。
泰介が低く唸り、喉を鳴らす。
「境界を越えるな。君の身体がもたない」
咲貴は胸元を握りしめ、荒い呼吸のまま堪えた。心臓の一点に痛みが沈み、歯を食いしばって耐える。
「八雷がいなかったら、どうなっていたことか!」
望が声を荒げたのは珍しい。咲貴はその毛並みに包まれながら、苦笑を零した。
戦況が膠着していたぶん、泰介は口角を上げている。
「咲貴の身体に浮かんだ痣は、やすやすとは消えない。だからこそ、厄介。そうだよね」
咲貴は意味がわからず、泰介を見た。
「志貴がそこに半分居るんだよ、咲貴」
泰介が、咲貴の胸のあたりを指差して笑う。
「全部は駄目だと怒られたみたいだけどね」
だから身体が軽いのかと、咲貴は息を呑んだ。掌に目をやるだけで、紅の炎があらわれる。
「志貴は、昔から咲貴を護ると決めていたからね」
泰介の言葉に、咲貴の喉が詰まった。返す言葉が見つからず俯いた。
「……知らなかった」
呟きが落ちてから、遅れて涙がひと筋、頬を切った。
咲貴を囲むように炎の壁が複数、立ち上がった。味方へは寄らない。けれど、あちこちに散っていた悪鬼の気配が、同じ拍で息を潜めた。
壮馬は想定外の消耗に、わずかに焦燥の影をにじませる。
「ねえ、壮馬くん。優秀な君が、どうして宗像槍の終の型を習得できないのか、僕はずっと不思議だったんだよ」
泰介の声音が淡々としているぶん、返す呼吸の順番だけが詰まる。壮馬の目の動きが、ほんの少し遅れた。
「宗像登貴。記録では五百から六百年前の嫡出。その王格を支えた朔。寿命に縛られぬ黄泉の鬼は、出自を隠すには格好の隠れ蓑……ねえ、本当にこちら側の血を持っている?」
問いかけに応じたのは壮馬ではなく、登貴だった。泰介の言葉を止めるかのように、焔の尾を引いて飛びかかってくる。
「それが回答ね」
泰介は微笑みながら、すべてを受け流す。
「十年前はもっと強かった。今は受け流せる……弱っているのかな?」
蹴り飛ばされた登貴を、壮馬が抱き留めた。その腕の硬さが、庇護なのか執着なのか、咲貴には測れない。
「持ち時間の差は……致命的だね」
泰介の声が、削れるものを淡々と削る。咲貴の胸に、ざらりと残った。いくら敵に向けたものであれ、触ってはならないものに触れた感覚があった。
「ねぇ、望」
泰介が視線を投げると、望はそっと目を逸らした。咲貴は小さく息を吐き出した。そこに言葉は落ちてこない。
登貴が紅の千年王になれなかった時、確かに何かが壊れた。公介に見せられた禁書の頁が、咲貴の脳裏をかすめる。乾いた筆致で、起点の二字だけがそこにあった。読んだときの指先の冷えだけが、いま戻る。
「そろそろ、槍を使う頃合いかな」
泰介が空を仰ぐ。社叢の縁、夜の縫い目がひとつほどける。
「来たね」
ヨルノミコトが一歩で降り立ち、薄桃の御幣を差し出した。端だけ黒ずみ、冷えが鼻先へ触れた。
「一心様よりお預かりしてきたものです」
泰介は深く頷き、御幣を受け取る。刃のない筒をそっと放し、背の空へ手を伸ばした。
「月讀の刃、我が血に応じよ」
影の裂け目から白金の柄が来る。宗像槍。王家に伝わる千鳥十字槍。
ずしりと掌に収まり、金具が汗で鳴った。泰介は肩を鳴らし、軋む筋肉を確かめる。
「何をするか、もうわかるでしょ? ……逃げ切れるかな」
印が七つ、指先に撫でられて開く。最後に血が触れ、八つ目が音もなく沈む。筒に刻まれていた空虚は、印に引かれて穂先へ移る。理を外す角は、いまは槍にある。




