第47話 熊野にて 骨は鳴り 鈴は冷ゆ(前編)
道反にある本邸の廊に、夜烏の黒羽と白蛇が同時に落ちた。
「冥府より報す。黒離宮、夏座の足枷解け、本体、地上へ向かう」
「熊野に壮馬の急襲。悪鬼は前回の十倍以上。津島に死亡者が出ています」
伝令は互いの影を踏み、同時に頭を垂れた。
廊の空気が一拍、沈み、外の気配が濃くなる。道反の裂け目から立つ湿りが、いつもより重い。冥府の報は冷えた金気を混ぜ、熊野の報は焦げと血の匂いを運んでくる。
「……こんな時に、やってくれたな」
公介の声は低い。唇が薄く結ばれ、怒気が喉の奥で噛み殺されている。
咲貴はその横顔を見た。
苛立ちは、四天王の脱獄だけに向けられているわけではない。盤面をわざと散らし、踏ませたい段を用意した者がいる。そうとしか思えない匂いが、廊の湿りに混じっていた。公介の肩は黙ったままなのに、そこだけ余計に重く見える。
四天王が動けば、道反か泰山へ流れる。宗像だけを睨んでいれば足を掬われる。そういう古い手口が、裂け目の湿りの中に混じっている。咲貴は喉の奥で、その湿りを噛んだ。
境界を塞いでいた一角が外れたのなら、裂け目は裂け目として開く。溜め込んだものは溢れる。宗像の恐慌は、宗像の内側で終わらない。泰山も同じだけ揺れる。楼蘭の名がふいに浮かび、胸の底が冷えた。今ごろ、あちらも同じように息を詰めている、と喉の奥が先に決めた。
公介はその場で指示を落とした。言葉は短いが、迷いがない。
「冬馬、時生は道反を抑えろ。志貴の静域は……時生、特級の許可を出す。最大の禁結界で死守。外敵は押し出せ。……俺が熊野へ出る」
「待って。わたしも」
咲貴が一歩、前へ出かけたところで、冬馬の声が割り込んだ。
「あかん」
強く言い切るというより、落とす。そこに情の温度は混ざらない。咲貴は立ち止まる。冬馬の目が、公介ではなく、道反の闇へ向いていた。裂け目の向こうを見ている目だ。
「お前が落ちたら全部終わりや。……公介さん、頼む。行って」
公介は返事を返さず、頷くだけで踵を返した。
「出る」
公介は振り返らず、ただ掌を一度だけ上げた。
灯の影が背を呑み込み、その輪郭が闇へ溶ける。背中が消える寸前、咲貴は息の奥で噛んだ。
一心なら先を読めるはずなのに、動く気配がない。公介の苛立ちは、四天王だけに向いていない。そう嗅ぎ取れるほど、言葉の端が固かった。守りに徹してやり過ごす、という形を、宗像の当主が選べないことだけが、咲貴の胸にも突き刺さる。
時生が歩み出た。足音が畳の目を揃え、空気を整える。
「……今の百を殺しても、後の千と万を取る。非道だと思うだろうが、許してくれ」
時生は静域の敷居へ膝をつき、掌を置いた。細い光が畳の目に沈み、命の香が糸になって最奥へ走る。結界に触れる指が、冷たくなっていくのが見える。
「この身を担保に結界を張る。志貴の静域へ触れようとするものがあれば、僕の転送結界で吹き飛ばす。ただし、僕が生きている間だけだ。意味は、わかるね」
言い終えると、爪の先が鈍い灰に染まり、一本、白く色を失った。こめかみの髪が細く一本、雪の糸のように変わる。咲貴は息を呑み、冬馬は眉を寄せた。
「行くで」
冬馬の背を追って本邸から一歩外へ出ると、空気がいきなり痩せた。湿りが薄い代わりに、裂け目の縁が剥き出しの刃みたいに尖っている。境界の片側が外れたせいで、流れが逆になっている。風の向きが定まらず、嗅いだ匂いが喉の奥で何度も引っかかった。
「わかっちゃいたが、ほんまの総攻撃やな」
悪鬼が、押し返しても押し返しても出る。数が増えているというより、滞りなく流れ続ける。塞ぎのない水路だ。裂け目の内側で、堰き止めていた何かが役割を失ったのだと、身体が先に理解する。
宗像の結界維持役が慌てて走り回り、灯が乱れ、声が乱れる。背後では誰かが泣き、誰かが怒鳴る。咲貴は振り返る余裕すらなかった。余所見をすれば足場を奪われ、裂け目に引かれる。
冬馬が前へ出た。朔の香が、咲貴の背へ薄く絡む。抑えつけるのではなく、拍を合わせるだけの、軽い縛りだ。それでも戦うには十分だった。
「まだまだ、来るで」
冬馬の声が短く落ち、次の瞬間、悪鬼の群れが裂け目から噴き上がった。黒い塊に、白い焦げが混ざる。歯の数が異様に多いもの、手足の長さが揃わないもの、目の位置がずれているもの。理の形を捨てたものが、理の外側を掻きむしりながら這い出てくる。
咲貴は火を出した。蒼白い灯が、闇に対してだけ淡く立ち上がる。境界の肌理だけを炙るような熱に触れた瞬間に、悪鬼の輪郭がほどける。ほどけた先で、また次が押し寄せる。
冬馬の動きは速い。刃で断つのではなく、抜く。名の結び目を探し、切り口を最短で作り、崩す。悪鬼は痛みを知らず、倒れた後に、滅されたことを理解するような間がある。だから手を止めると、一気に背へ回られる。
咲貴は息を吸って、吐く。火を広げすぎると志貴の静域へ響くと、冬馬に怒鳴られながら、歯を食い縛った。
だが、火を広げないと人が死ぬことを、肌が先に知り始める。範囲を細く削り、抜きどころだけを太くして対処するが、身体が激しく痛んだ。指先が痺れ、掌の汗が冷たくなる。汗に混じって鉄の匂いが上がる。自分の血の気配だ。
「多すぎる」
咲貴が呟くと、冬馬は返事を捨てるみたいに鼻で息を切り、次の一手へ体を投げた。互いに言葉へ気遣いなどする余裕がない。隙ひとつに、悪鬼はすぐに境界へ齧りつく。無数の悪鬼に齧りつかれれば、静域へ届きかねない。
泰山からも、同じ知らせが届いた。楼蘭がいるというのに、宗像の恐慌と同じ速さで、泰山も侵食されていた事実に面食らうしかない。
「楼蘭が足止めって、きついな」
咲貴と冬馬は、道反に溢れ出した悪鬼を狩りつづけるしかない。どれだけ手数を増やしても追いつかない。息が乱れ、足裏が痺れ、膝の裏が冷える。火はまだ出るのに、情けなくも身体が追いつかない。
ふいに、後方から新しい伝令が転げ込んだ。夜烏の羽が濡れている。声が割れている。
「熊野が壊滅寸前です。津島の外郭が落ちました。道が塞がり、当主が単独で悪鬼を受け止めています」
咲貴の息が止まり、次の瞬間、肺が熱くなる。冬馬が半歩だけ寄り、肩の線をそろえただけで、何も言葉にしなかった。
公介がひとりで、壮馬と、数十倍に膨れ上がった悪鬼に対処するしかない。目溢れした悪鬼が、封の内側へなだれ込めば全滅もありうる。熊野の状況が、あまりに悪い。
咲貴の中で、決断が形になる。考えではない。身体が先に動く決断だ。
「熊野へ、行く」
咲貴が熊野へ出ると口にした瞬間、冬馬の目がわずかに細まり、先の手順だけが先に定まったように見えた。視線が裂け目の縁をなぞり、結界の外と内を一度だけ量る。
冬馬は言葉だけを落とした。
「熊野へ行くなら、俺はお前の朔を降りる」
一拍遅れて言うのではない。拍を揃えたまま、切る。声色に迷いも気遣いもない。冷たさすら、凛とした一刀のように落ちる。
「他を失っても、志貴死守の優先順位は変えられへん。何を護るかと問われたら、俺は志貴やと答えるしかない」
冬馬は目を伏せ、一つ息を吐いた。息の白さが、道反の闇に溶ける。
「お前は志貴を護るための王やったはずや。道反を出て、熊野を救うと言うなら、役割の放棄と同じに見える。少なくとも、俺にはそう映る」
「だから、朔として護る価値がないって?」
咲貴は額に手を当て、静かに笑った。胸の奥に溜まったものが、笑いの形を借りただけだ。
「志貴なら、熊野を見捨てたりはしない。自分だけが護られたと知って、傷つくのは誰。志貴よ」
咲貴は宗像の長羽織を脱ぎ捨てる。その衣に染みついた香気が、一瞬だけ夜気に揺れた。高潔という梅の花言葉が、ただの飾りではないことを、咲貴だって知っている。理を説く前に、護ってきた。それは護れるだけの力を持っていたから、宗像は宗像でいられた。
「四天王なら当然、志貴を狙ってくる。冬馬、本音を隠すのは、自信がないからかい」
背後で、ふいに現れた望がくすくすと笑った。冬馬は苦虫を噛み潰したように口を閉ざす。咲貴は望を見ない。見れば、狐という生き物は言葉を増やし、惑わせかねない。
望は、咲貴の沈黙の脇へ滑り込み、ぬるい声で言った。
「四天王を相手取れば、無傷で済むはずがない。傷や穢れは契り相手にも響く。咲貴へ届けば、志貴へも波及する。だから朔を除す。そう言えば済むのにね」
望の声は、悪意より先に手際が立つ。咲貴はその手際を、いまは振り払わない。
「緊急時に言葉足らずは、命取り」
望は二人を見比べ、指を鳴らした。乾いた音が、道反の湿りを一瞬だけ切る。
「朔がつかない宗像の王は、ごまんといる。私が預かって護ってきた王の方が多いくらいだ。その中には、宗像泰介もいる」
望は咲貴の髪をひと房すくい、柔らかく笑った。笑いが甘いぶん、背筋が冷える。
「冬馬を朔にした君と、私を相棒にした泰介。どちらが強いと思う」
咲貴はふっと笑い、肩を落とした。望に気遣われたのではない。盤を整えられただけだ。それでも、ここで決めきらねば、皆が死ぬ。
「もう、好きにして」
志貴の優先が変わらないことを、咲貴は声にせず喉の奥で確かめる。志貴には一心がいる。あの男が無策なわけがない。もし本当に志貴が危険なら、公介は熊野へ出ないし、壮馬も迷わず道反へ噛みついたはずだ。そういう手順が、まだ踏まれていない。だからこそ腹が立つ。
咲貴は志貴と一心を思う。契りの在り方があまりにも違う。仮の契約、一季の王、公介が落とした言葉の意味が、骨に沁みるほど理解できてしまう。
「わたしも、同じか」
繋がりを断つことに、躊躇すらない。これがなくては駄目だと心が叫ぶこともない。互いが一番で始まったものではないからだ。
「朔を外す。望のみでいく」
望が小さく頷き、咲貴に契約解除の手順を耳打ちした。
朔の契を外す所作は、あまりに短い。首の緒を一息で解き、掌を合わせ、結び目の形を指で折る。あっけないほどに容易い。
冬馬の結び目は迷わず解けた。香がほどける瞬間の冷えが、咲貴のうなじを撫で、背中の芯が一段だけ軽くなったはずが、立っている地面が重くなる。
急激に口腔内に逆流した血があふれだす。
朔を外した反動が大きすぎた。
「咲貴、おいで」
望が咲貴の身体を抱きしめ、肩口に牙をつきたてた。
咲貴は天を仰ぎ、冷たい夜の匂いを肺いっぱいに吸い込んだ。
「冬馬、ずっと言いたかったことがある」
血を吐き切った涙目のまま、今度はまっすぐ冬馬の目を見据える。冬馬の瞳の奥に、道反の裂け目が映っている。
「わたしの名前は、津島咲貴。これが、わたしの核なの」
冬馬の眉がぴくりと動いた。
「志貴には一心がついてる。もし真に志貴が危険なら、公介さんも離れないし、壮馬も迷わず道反に噛みついた。言ってる意味、わかる?」
望は指先を歯で噛み、滲んだ血を咲貴へ差し出す。咲貴はそれを受け取り、舌先で確かめる。甘さのない血だ。
「熊野が狙われたのは、わたしへの挑発よ。わたしが甘く見積もられた。だから、番狂わせは、熊野でしか起こせない」
望は咲貴を背から抱いた。抱いているのに、触れていないみたいな軽い抱き方だ。
「あんたは道反で、志貴だけを護っておけばいい。わたしは、志貴が護りたいものを、すべて護る」
二人の間に、数秒の沈黙。互いの思惑は言葉になることはなかった。
「もう、行くわ」
咲貴が言うと、冬馬は一度だけ頷いた。頷きは短いが、軽くはない。何か言いかけて、咲貴へ伸びかけた手が止まり、そのまま拳が握られる。
「あぁ、気ぃつけて」
それだけで互いに背を向けた。やはり、後味は悪い。けれど、気を抜けば、道反が落ち、熊野が落ちる。咲貴は振り返らないまま、夜の匂いをもう一度吸い込み、熊野へ向けて足を出した。
***
熊野社叢の縁は潮の匂いと榊の青さが喉を洗い、そこへ血の金気が薄く絡みついていた。注連縄は千切れ、鳥居の笠木には黒い指の跡が残る。石段は二段ぶん、濡れた血で滑り、踏み外せば転ぶという単純な危険よりも、足裏が嫌がる粘りが先に来た。熊野はまだ立っているのに、息の拍だけが別のものにすり替わっている。
公介は槍を肩で立て、崩れた結界の縁へ片足をかけた。骨の内側まで冷える静けさだった。襲う前の静けさではない。襲ったあとの、塵芥が淘汰を待つような静けさ。生き残りが息をひそめる気配すら薄く、折れた紙垂と湿った土が、誰のものでもない沈黙を抱えている。匂いと形だけが残って、声が遅れている。
「来るの、遅いよ」
声は風の上から落ちた。見上げるまでもなく、樹の上の位置がわかる。白木の枝に腰をかけ、片手に紅い鈴を持つ登貴がいた。その軽さが、熊野の壊れ方と噛み合わないのがいちばん気持ちが悪い。
公介は視線を上げず、槍だけを“そこではない”方向へ向け、吐息だけで呟く。
「悪趣味やな。宗像の身体を盗んで、よう誂えてある」
「褒めてるのか?」
枝の影がわずかに揺れ、さらに別の影が降りた。藍の羽織、喉だけ白く、面を半ば掛けている。穂積壮馬は木の根を踏まない歩き方をする。血の跳ねた土を避ける癖が、長い年月で骨に沁みている。踏めないのではなく、踏まない。自分の足が汚れる順番すら、あらかじめ決めている歩き方だ。
公介は槍の石突で一度だけ地を叩いた。音は低く沈み、垂れ下がった注連縄の紙垂がばさと揺れる。その揺れの影から、悪鬼が三つ、暗がりの奥へ散った。散る速さが揃いすぎている。逃げたのではない。滅される前に、引っ込められた。
「俺らの縄張りへよう戻ってきたな、壮馬。用件、聞いたる」
「戻った覚えはない。奪いに来ただけだ」
壮馬の目が細くなる。視線は公介の左肩、欠けた腕の付け根に、わざと置かれる。欠損を数える癖がある。相手の損耗で盤を読む癖がある。公介はそれを顔に出さない。出したところで餌にしかならない。槍を握る掌の厚いところに、冷えた汗が貼りつくのを、ただ確かめる。
「片腕で槍を振るえる優美な型は久しいよ。けれど間合いは縮む。ここで果てるのが、お前の役目か?」
「仕事は選ぶ。お前のためには死なん」
言い終えるより早く、槍の穂先が音もなく横へ走った。喉笛は狙わない。面の縁の布、感覚を鈍らせる香の継ぎ目だけを裂く。藍の羽織に縫い込んだ細糸が切れ、壮馬の匂いが露出する。軽い、冷えた鉄。そこに、壮馬の顔が見えた。
その焦げは潮にも榊にも馴染まない。宗像の土にも馴染まない。馴染まなさが、壮馬の在り方の古さを逆に浮かび上がらせる。昔から、他人の場に寄りかからない。そのくせ、奪う時だけは遠慮がない。
「ふーん。やっぱり強いのか」
登貴が鈴をひと振りした。
社叢の奥で、死んだと思って横倒しになっていた津島の若い衆が一人、喉を鳴らして起き上がる。起き上がりながら、目は“こちらを見ない”。鈴の向いた方角だけを見て、そちらへ歩く。歩くたび、足の裏が皮ごと剥がれ、血が音もなく落ちる。本人の痛みが追いつかないのがわかる。鈴に従う歩幅だけが先に整ってしまっている。
「やめろ」
公介は槍の柄尻で彼の膝を砕き、眠らせた。骨が鳴る。鳴った音が熊野の冷えへ吸い込まれる前に、登貴が子守歌みたいな顔で聴いていた。あの顔で聞かれると、殺すより穢れる。
「ひとりで熊野を引き受けるとか。冗談だろ。いくら公介でも無理な話だと思うけど」
壮馬の笑いは軽く、目の奥は濡れていない。遊びのふりをして、刃の角度だけは最初から決めている声だ。
「まぁ、あの数の悪鬼を食い止めてるあたりは、さすがに宗像の化け物じみた何かは感じるけど。ここからは遊びじゃなくなることも理解できてるか?」
公介は槍を引かず、距離の線だけを足裏で引き直した。喋れば喋るほど、相手の拍に乗る。乗った瞬間に一気に形勢が傾く。
「悪鬼が溢れ出すのは定例や。千を殺しても千五百が生まれる。宗像にとっちゃ古からの慣わしのままで、何ら変わらん」
「宗像の守備範囲で黄泉使いが落命しても、気にしないと聞こえるが?」
「天運は定められとる。いちいち反応してたら、宗像なんかやってられん」
「策士に嵌められ、この状況を作られたとしても、同じことが言えるか?」
問われた瞬間、胸の奥に棘が立つ。嵌められたかどうかより、嵌めた手口が、誰のものかを嗅ぎ分けるのが先だ。
「さぁ、どうやろな。宗像の先祖は品行方正とはいかんかったやろうし、恨みつらみ数えだしたらきりがない。徳か、運みたいなもんが足りひんかったと笑うしかないやろ」
「宗像の当主は面白いほど皆、同じことを言う」
「だったら聞くな。化け物じみた御長寿と、こんなとこで立ち話する趣味ないねん」
槍をひと振りし、口ではなく場へ言い聞かせる。線を引けば、相手は越えてくる。その越え方で、次の手がわかる。口を動かすのは、その癖を拾うためだけでいい。
「俺は、公介、嫌いじゃないがな」
「ありがた迷惑って知ってるか。俺は、お前が昔から大嫌いだよ。知らんかったやろ」
口にして、胸の奥がわずかに軽くなるのが腹立たしい。吐いたところで盤は変わらない。
「お前らのせいで、可愛い姪っ子二人ともに嫌われるかもしらん。あぁ、やってられん」
「志貴だけでいいのでは?」
「お前、咲貴を舐めすぎや。ほんまに宗像らしいんは咲貴やぞ、覚えとけ」
言った瞬間、空気がほんのわずかに沈む。潮と榊の匂いの奥に、道反の湿りが薄く混じった。似合わない層が熊野へ滑り込んでくる。
壮馬の口元が獣みたいに歪む。
「招かざる客か。飛んで火に入る夏の虫か」
登貴が枝の上で首を傾げ、鈴の紅を指先で転がした。
「あなたが、志貴の妹?」
振り向いた目は古い井戸の底の色だった。覗き込めば覗き返される。底があると思った瞬間に底がずれる類の目だ。鈴が鳴っていないのに、鳴る前の詰まりが喉へ触れる。
石段の影から、咲貴が出てきた。背後に狐がついている。白い尾が一本だけ、風の高さを測るように揺れた。狐の匂いは甘くない。甘くないのに、気配だけが滑る。場に馴染むふりが上手い。
公介の喉の奥が硬くなる。冬馬が判断して咲貴を熊野へ出したのなら、道反はここ以上に危険域へ寄ったということだ。志貴の静域に時生が膝をついた光景が、頭の端に刺さる。刺さったまま抜けない。
「早いな……」
漏れたのは咲貴への非難ではない。手順の速さへの苛立ちだ。盤がわざと散らされているなら、散らされた先で一番に躍る駒が誰か、相手は最初から決めている。
「志貴の妹だから、何?」
咲貴は答え、襟元に結わえた紐を指で確かめた。喉の前に、さっきまで道反にいた香の層が薄く残っている。それが“ここ”に似合わないことを自分で知っている仕草だ。紐を一段締めるだけで背筋の拍が変わった。
公介は槍の穂先を少しだけ上げ、咲貴へ短く落とした。
「咲貴、壮馬には向かうな」
言い切ることで、熊野の空気に命令の線を引く。言葉を増やせば敵が拾い、守るべきものの順が崩れる。
「壮馬の相手は、俺や」
壮馬が肩をすくめ、登貴は鈴を止めたまま笑わないから余計に、鈴の赤だけが浮く。
「片腕では荷が勝つのでは?」
「黙れ、裏切り者」
槍の柄が掌の奥で鳴った。熊野の冷えが骨の内側へもう一段だけ染みてくる。立ち話は終わりだ。終わらせなければ、熊野はもう一段、死ぬ。
公介は穂先を引かず、あくまで線だけを保った。壮馬が一歩踏み込めば、その一歩の癖で次が読める。読めるうちは、致命にはならない。
だが、登貴の鈴は、読む時間そのものを奪いに来る。音の拍を崩し、判断の隙間へ刃を差し入れる。熊野の壊れた拍が、その手口を助ける。
咲貴の背後で、狐の尾が一度だけ揺れ、風の高さを測り直した。風が低い。地の匂いが濃い。悪鬼の群れが社叢の奥でまだ息をしている。熊野の禁域が吐いたものではなく、鈴に吊られて残っている息だ。
「咲貴」
公介は名だけを落とし、視線だけで位置を縫い留めた。振り向けという命令ではない。そこに立っていろ、という合図だ。
咲貴は一拍、喉元の紐へ指をかけたまま止まり、次に、指を離した。
登貴が枝の上で足を揺らし、鈴を持つ手の力が変わる。握りが強くなったわけではない。鈴の“向き”が変わっただけで、空気が詰まる。
「志貴の妹、って言われて怒るんだ」
登貴は表情を動かさず、声だけで笑う。
「可愛いね。似てる。あの子も、似た顔をする」
公介は槍をわずかに沈め、登貴の影の落ち方を見た。影が薄い。枝の上に影が乗っていないのに、確かに、いる。熊野の地面が“ここにいることにしている”。そういう居方をする輩は、正攻法では追い払えない。
「壮馬、面白いね」
登貴は小さく息を吸った。
公介の槍の線、咲貴の立ち位置、狐の尾の揺れ。熊野の血の濃さ。すべてを味見するように見定めた次の瞬間に、視線が咲貴へ寄る。
「志貴だけでいい、って言ったのに」
声は穏やかなまま、棘が立つ。
「わざわざ来るんだ。偉いね。宗像ってほんと、そういうところが面倒で、大嫌いだよ」
「嫌いなら、帰ればいい」
公介は言い返し、槍を一歩ぶんだけ前へ滑らせた。穂先が地面へ触れる寸前で止まる。地を裂かないのは、熊野の土をこれ以上濁らせたくないからだ。
「本当に片腕で守るつもりか?」
壮馬が囁くように言うと、登貴も言葉を一斉に吐き出した。
「咲貴は守れる? 志貴も守れる? それとも、守る順番を誰かに決めてもらう?」
公介の奥歯が噛み合い、金気が舌の裏へ滲んだ。挑発はいつも通りだが、今日の挑発は盤に沿っている。散らされた盤の上で、誰が先に踏み外すかを測っている。咲貴がここへ来た時点で、相手の期待は半分叶っている。
登貴の手首がわずかに回り、鈴が紅を返す。鳴る前に、空気が詰まった。鈴の音で切るのではない。切る“拍”を渡さない。息の通り道を奪う。
狐の尾がもう一度揺れた。今度は低く、石を叩くような揺れで、風が咲貴の背へ寄る。狐は咲貴を前へ出す気だ。出さないと、鈴は喉へ来る。出せば、鈴の標的がずれる。ずらした瞬間を、狐火で裂く。実に合理的で、危険極まりない戦い方だと思い出した。
公介は一度だけ、咲貴の肩の線を見た。
背と足裏の重心が決まっていた。宗像に来て数ヶ月で身につける類の早さではない。咲貴は最初から、適応できる身体を持っていたというわけだ。
退けと、言いかけて、公介はその言葉を飲んだ。公介は、別のやり方で線を引くことにした。
槍の穂先を、ほんの一寸だけ上げる。咲貴の前ではなく、咲貴と登貴の間の空気へ向ける。刺すのではない。ここから先は宗像の線だと、場へ言い聞かせる。
「咲貴、行け」
咲貴が、返事をしないまま、石段を一段だけ進んだ。進んだ拍に合わせて、登貴の紅い鈴が、ようやく小さく鳴る。
音は高くない。むしろ低いのに、肋骨の内側へ入ってくる。熊野の冷えが、鈴の音に合わせて形を変えた。空気が詰まり、咲貴の息が一口ぶんだけ盗まれかけたが、狐の尾が石を叩き、風が咲貴の背を押した。
その押しがなかったら、鈴は咲貴の喉を切っていた。
公介は歯を噛み、槍を握り直す。
登貴は笑わないまま、枝の上から落ちる気配を作る。枝が軋むのではない。枝が“なくなる”気配だ。
「やめとけ」
公介の声は低く沈んだ。誰に言ったのかは、自分でも分からない。登貴か、壮馬か、咲貴か、それとも自分自身か。答えは返らない。返るのは音だけだ。鈴の一拍が、熊野の拍を塗り替える。
公介は槍を構え、体重を前へ預けた。これ以上、守れる段はない。
咲貴が躱し、登貴の手首へ触れたのが視界の端で見えた。触れた瞬間に、空気の筋が一本だけ走る。走った筋が、次の刹那に、こちらへ向きかける。
公介は槍の穂を振らず、ただ踏み込みを一つ、社叢の縁へ預けた。悪鬼が鳴く前の匂いが濃くなる。熊野がまた一段、死にかけている。




