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第45話 みづかがみのしじま とどく紅


 本邸の離れにいると、母屋で保たれている香の秩序は、薄い膜のようにしか届かなかった。障子の目を抜けてくる夜気は湿りを含み、畳の縁へ冷えを置いていく。咲貴は頬杖をほどかず、その冷えが指先まで回ってくるのを待つようにして、耳だけを澄ませていた。聞き取ろうとしていたのは風ではない。母屋の奥で交わされている声が、湿りを含んだ空気に丸められながらも、確かにこちらへ届いてくる、その声だった。


 庭の竹が擦れる音に、別の揺れが重なった。離れと母屋のあいだを渡る湿った空気が、言葉の端を削いだまま運んでくる。冬馬の低い調子と、公介の沈んだ声が噛み合わないまま重なり、全てが取れるわけではないのに、取れてしまった分だけで胸の内側の形が変わる。守りのために伏せられてきた沈黙が、別の種類の沈黙へすり替わっていく気配があり、そのすり替わりだけは、言葉よりもはっきりとした手触りで残る。


 途切れ途切れに届く音の輪郭を拾うほど、遅れて入ってくる声が胸へ居座った。遅れがあるぶん、言葉は刺さる位置を外さない。そこへ冬馬の声が、いつもの軽口の薄皮を剥いだような調子で落ちてきた。


「志貴には、内緒だ」


 咲貴は胸の奥が鳴るのを止められず、刺さったと気づくより先に、鐘にも悲鳴にも似た響きが体のどこかで形を持った。怒りか悲しみかを選ぶ暇はなく、ただ何かが決定的に落ちた、とだけ思える。落ちたものの音は誰にも気づかれないまま、ひとりの耳の中で長く残り、残ったぶんだけ喉の奥が熱を持つ。


 咲貴は息を整えようとして整わないまま畳の目を見た。置いていかれる感覚は今に始まったことではない。志貴の背中が先に進み、宗像がその後ろを固め、咲貴は同じ家の中にいながら別の部屋に隔てられる。それを理解してきたはずなのに、"内緒"という言葉が落ちた瞬間だけ、理解の仕方が変わる。守るために伏せる沈黙ではなく、見せないために隠す手つきが混じった気がして、胸の奥の熱が少し強くなった。隠される側が咲貴であることに、理由があるのだとしても、その理由は咲貴の方を見ていない。


「……いつだって、置いてけぼりのままだ」


 呟きが畳に吸われるより先に、背後の気配が動く。八つの火が咲貴の背へ静かに浮かび上がり、雷をまとった八雷の姿が、誰に教えられたでもなく地へ降りて膝をついた。かつて志貴に跪いた時と同じ静寂が離れに滲み、いま彼らの瞳に映っているのが志貴ではなく咲貴であることを、咲貴は視線を上げる前に知ってしまう。


「咲貴には、見られても良いって思っただけのことじゃないの?」


 鳴雷の声が刃のように置かれ、咲貴の肩がわずかに震えた。違う、と咲貴は思う。そう思うのに言葉は喉の奥で引っかかり、形にならないまま残る。咲貴にとっては答えがないというより、答えへ行く道が、自分の側だけ途切れている。


「見られてもいいって……」


 声が震え、視線は畳へ落ち、噛み締めた唇の裏が痛む。あの時の景色が勝手に胸へ浮かび上がり、血の匂いと鉄の音が一緒に押し寄せ、冬馬の背だけが先に前へ出た像が、薄明りの中で立ち上がる。刃の軌跡が闇を裂き、咲貴が叫んだ声は届く前に虚空へ溶け、止めたいと思ったのに止まらなかった、その手触りだけが残っている。止める言葉が自分の中にないみたいで、唇の形だけが空回りした、その感覚が戻ってくる。


「……だったら、どうして、わたしの声じゃ、止まらなかったの?」


 問いは相手へ向けた形をしているのに、答えが返る場所はない。答えのない空気の中で、悔しさだけが噛み切れないまま残り、咲貴は息をひとつ飲み込みながら、胸の奥で焦げるように熱いものと指先へ回る冷えが同じ身体の中に並ぶのを感じた。


「冬馬は、志貴の名でしか、止まれない。それが、わたしにとって、どれほど悔しいことだったか……わかる?」


 声にならない声を喉で噛み潰しながら言うと、拳が静かに震え、こぼれた涙が掌の上で火に変わる。赦しではない焦がしの火が細く揺れ、咲貴はその火を握り込む。握り込むほど、熱は増していく。


「……志貴、志貴、志貴……みんな、志貴ばっかり!」


 声が夜気を裂き、八雷が一斉に顔を上げる。咲貴はその視線に押し返されるように言葉を継いでしまう。


「結局、志貴じゃなきゃだめなんでしょ……?」


 掌の火がふるえ、胸の奥の熱と同じ拍で揺れる。


「もう、はっきりと、そう言えば良いのに……」


 言い終えるより早く、咲貴は立ち上がっていた。裸足のまま廊を踏み、庭へ飛び出し、灯の届く場所を抜けていく。母屋の香の秩序が薄くなるほど、胸の奥の熱だけがはっきりしていき、追いすがる気配があったとしても今の咲貴には届かない距離へ、自分から出ていくことがいちばん簡単だった。


 月の出ない夜の湿りが土の匂いを強くし、枯れ葉を蹴る音が足元へ絡む。空は遠く、息は白く、喉の奥だけが熱い。志貴にはなれないとわかっているのに、どうにもならない気持ちがある。焦りでも悲しみでもなく、胸の奥がただれていくような痛みが歩くたびに剥け、そこへ夜気が触れてさらに痛む。


 どこまでも続く林の闇を抜け、気がつけば八雷すら振り切っていた。背後の灯も遠のいた刹那、見知らぬ香がした。牡丹の艶に鉄の冷えが混じる香で、湿った土の匂いの上へその香だけが薄い膜のように張り、咲貴の足を止める。呼吸を入れた瞬間、喉の奥がきゅっと狭まり、吐く息の先が定まらない。


「……誰だ」


 問う声に、風が応えた。枝を擦る音が止む拍で空が揺らぎ、その裂け目の縁に影が立つ。


「おや、宗像の雛鳥が、迷い込んだみたいだな」


 低く笑う声だった。近い距離のはずなのに遠いところで鳴ったように響き、耳へ届くより先に背筋の内側へ触れてくる。黒衣に銀の紋様が走り、目元を隠す面、片手の長柄の杖、風もないのに揺れる足元の影が、咲貴の呼吸を浅くした。


「どこをいじったら、ここへ辿り着けるというのか……」


 咲貴はその名を知るはずもなかったが、確かに“赫夜”という名の気配がそこにあった。


「赫夜……」


「へぇ、そんな才があるわけか。宗像は次から次へと……呆れるくらいの天井知らずだな」


 意味がわからず困惑している咲貴。男はそれだと、指をさした。


「わからんか……面倒な奴だな。良いか、俺はあんたに名乗ったか?」


 未だに理解できていない咲貴に、呆れたように男は言った。


「……息をするように名を読み取るのが、あんたの才みたいだ、と言っている」


「名を読み取るなんて……していないっ」


「ならば、たった今、"できてしまうように化けた"。それだけのことだろう。……実際、俺の名は赫夜で、間違いない」


 男は眉をひそめたが、すぐに口元に笑を浮かべた。


「宗像の血が流れてる奴は、何かしら化ける。

……何千年前から、そんなもんだ」


 男は磐座の上に座ると、袖の中から徳利をとりだした。


「宗像の子は、例外なく“火”か“香”に狂う。……さて、あんたは、どっちだ」


 磐座に腰を下ろした赫夜は、徳利の口を指で押さえたまま、咲貴を見上げていた。面をつけたままの視線は形が読めないのに、見られているという感覚だけが濃く残る。咲貴は足の裏が土を掴んでいるのに、立ち位置の確かさを失っていくようだった。冷えた夜気が頬に触れるたび、離れで握り潰したはずの熱が胸の奥でふたたび燃え直し、息の通り道を狭める。


「……ここは、どこ?」


 声は思ったよりもかすれて出た。問いの形を作ったつもりでも、返ってくるのは笑いか沈黙だろうという予感が先に立つ。赫夜は徳利を傾け、口をつけもせずに中身の重さだけを確かめるような手つきを見せてから、ふっと息を吐いた。


「さてね」


 曖昧に流されるのが怖かった。咲貴の問いが無価値だと言われたわけではないのに、受け取られないまま落ちていく。その落ち方が、母屋で声を拾った時の感触と似ていた。咲貴は唾を飲み込み、喉の奥の熱を押さえた。


 赫夜は、そこだけは丁寧に置くように言った。


「あぁ、これだけは言っておく。……俺は、あんたの味方でも、敵でもない」


 言い切られると、身構えは逆に強くなる。味方でも敵でもないと言える位置に立つ者は、宗像の理の内側にも外側にも足場を持つ。咲貴はそれを本能で知っていた。赫夜は徳利を揺らし、袖の影をずらしながら、面の奥で皮肉めいて笑った。


「けれど、子供のように拗ね、感情垂れ流しにしたまま、ここまで駆けてきた“王の影”を、無視するほど無粋でもない」


 咲貴の胸がざわめいた。見てきたかのように語るその口ぶりが、恐怖に近いものを連れてくる。咲貴は言い返したいのに、言葉が喉で引っかかり、熱だけが上がっていく。赫夜は咲貴の目を見たまま、問いを並べた。


「認めてほしいか。それとも、褒めてほしいのか。……何が欲しいんだ。欲しいものだけ取りに行くのは、弱者の癖だ」


 咲貴は掌を握り直した。握り込んだ火は小さく、指の間で震える。火の震えに合わせて、咲貴の呼吸も浅くなる。


「子供じみた承認欲求満たしてもらって、その次はどうする。……考えてもいないのに、喚くのは一人前か」


 赫夜は仮面を外した。面の裏の暗がりが一瞬だけ夜気に晒され、端正に整った顔が現れる。二十代半ばに見えるのに、目の奥が年齢の手触りと噛み合わない。赫夜は徳利の蓋を外して口をつけ、喉を鳴らした。


「目立つ戦果を、皆の前で、わざわざあげてみるがいい。……たいてい、こういう時にする努力なんざ、報われないもんだがな」


 咲貴は言葉を失っていた。胸の奥が熱いのに、足が動かない。赫夜はため息をもらし、咲貴の沈黙を慰めるふりもしないまま続けた。


「あんたには……身勝手さが、足りない」


 その一言が痛かった。怒られているというより、皮膚の内側を指でなぞられて、隠していた弱いところだけを正確に押されたみたいに痛む。咲貴は唇を噛み、血の味がしないかを確かめるように舌を動かした。


「……つまりは、責任をとる覚悟のレベルに差があるっていう意味だ」


 赫夜は酒を一気に喉に流し込む。徳利の中身が減る音が、湿りを含んだ闇の中で妙に乾いて響いた。


「強い奴……まぁ、優秀とされる連中は、自分がやってることの責任を自分がとれば済むから、軸がぶれない」


 わかるかな、と赫夜はうすく笑む。その笑みが咲貴を救うことはなく、むしろ逃げ道を塞ぐ。


「生温い覚悟しかないから、周りにばかり求めるんだ」


 挙句に迷い込んできて、見ず知らずの他人の余暇の邪魔をする、と言外に置かれた圧が、咲貴の肩へ重くのしかかる。咲貴は反論を探した。宗像の離れで胸を焼いた悔しさを持ち出せば、何か言える気がした。けれど、その悔しさは言葉にすると軽くなる。軽くしたくなくて、咲貴は黙ってしまう。


 赫夜は苛立ちを見せるでもなく、ただ面倒そうに眉を寄せた。


「俺が何か話さなきゃ、いつまでも帰らないつもりか。……面倒だな」


 舌打ちは短かった。怒りというより、手間の見積もりがそこで確定したような音だった。赫夜は磐座の端へ徳利を置き、咲貴を見上げたまま言う。


「わかった、わかった。あんたが知りたいことを話す。話せば、帰ってくれよ。……俺は、千年王の赦しの炎は、時に、魂を腐らせると思ってる」


「……どういう意味かわからない」


 咲貴の声が漏れた。赦し、という語が胸の奥の熱と噛み合わず、どこかで空回りする。赫夜は咲貴の動揺を拾い上げず、そのまま言葉を継いだ。


「かつて、それで壊された男を知ってる」


 赫夜は徳利を傾け、血を連想させるには十分すぎる色をした酒を磐座へ注いだ。赤は岩肌を伝って暗闇へ沈み、すぐに輪郭を失っていく。赫夜は注いだ酒を見ない。見ないまま、声だけを落とした。


「理を抱えすぎて、己で己を壊した」


 咲貴は僅かに息を呑んだ。赫夜はそれ以上、語ろうとしない。沈黙が、深く関わっていた過去を沈黙の形のまま置き、咲貴の胸にだけ火を移す。


「すべてを受け入れ、すべてを赦してなお、届かない者がいる。赦しは毒となり、至高にいた強者をも惑わせる。……だから、俺は、赦しの炎をもつ千年王が嫌いだ」


 咲貴の肩がぶるりと震えた。嫌いだと言われるのは、志貴の火に向けられた言葉のはずなのに、咲貴の胸の内側が削られる。赫夜の影が、ゆっくりと咲貴に近づく。距離が縮まるのに、息が詰まって声が出ない。


「あんたの火は、紅の千年王とは違う。まぁ、血縁なら香は繋がるだろうが、火は分かつ。火は血じゃない、魂だ。その違いを知り、恐れるな」


「……わたしを、否定していたんじゃないの?」


 咲貴の問いは、胸の奥の熱から引っ張り出したように掠れていた。赫夜は、わずかに首を傾げた。


「……どうして、そう思う」


 問い返されると、咲貴は自分の言葉の根が見えなくなる。否定された、と思ったのは咲貴の都合かもしれない。けれど、都合だとしても、胸の痛みが消えるわけではない。咲貴は唇を噛み、吐き出す息の先を定めようとした。


「誰も、わたしのことなんか、選ばないし、興味ないでしょ?」


 赫夜は面倒くさそうに髪をかいた。仕草は軽いのに、言葉の刃だけは鈍らない。


「死を迎える火。拒絶の火。捨てられた者の灯火。……あんたが自らの意志で何を選ぶのか、興味あるけど」


 咲貴の唇がかすかに開いた。返したい言葉はあるのに、形にならず、胸がつまる。赫夜は咲貴の沈黙を待つふりもしないまま、愉しげに見ていた。


「よく知ってる奴が、あんたに重なるんだ」


 その言い方が、咲貴の背筋を冷やした。咲貴は、知らない。赫夜が言う“よく知ってる奴”が誰なのかを知らないのに、その影が胸の奥へ滑り込んでくる。


「迷え、苦しめ。そうしなきゃ、決められんだろ。あんたが“何をする火”であるのかを、な」


「なぜ、そんなことを言うの?」


 咲貴の問いは、責める形をしていなかった。むしろ縋る形に近いのに、赫夜はそれを拾って慰めたりはしない。強い風が吹き、赫夜の衣が翻り、その姿が霧のように揺らぎ始める。咲貴は思わず一歩踏み出しそうになって、足の裏で土を掴み直した。


「俺のどっかにまだ残ってる……悔悟のせいだ」


 赫夜は霧のようにほどけていく中、ふと空を見上げた。


「……あんたは、間違わないようにな」


 月のない夜が、静かに焦げていた。赫夜の輪郭が薄れ、風がその余熱を攫っていく。咲貴は声を出そうとして、出せないまま立ち尽くす。


「酒はひとりで飲むのが流儀なんだ。さっさと帰ってくれ……」


 最後に、赫夜は笑うでもなく、ただ言葉だけを置いた。


「またな、《夜哭の殲滅》」


 八雷と同じ言葉が、夜の底へ沈んだ。咲貴はその場に膝をついた。涙は流れなかった。泣くより先に、赫夜の言葉が胸の内側で静かに燃え続け、焦げの匂いだけを残していた。


 “千年王”にはなれない。


 咲貴は焦げついた胸に手を当てる。掌の熱はまだ消えず、消えない熱のせいで、息の通り道が細いままだった。


「……それでも、わたしの火が何なのか、知らなきゃいけない」


 声は小さい。けれど、赫夜の残した余熱みたいに、夜の底で消えずに残る。

拒絶の火、死を迎える火、捨てられた者の灯火。そのどれもが胸の内側へ触れてくるのに、どれも決め手にならない。

志貴ではない、咲貴だけの火を探さねばならない。



***



 道反の静域には灯がない。香だけが満ちている。その香は空に散るのではなく、敷布の白へ沈み、壁の隅へ溜まり、吐いた息の行き先を狭めるように居座っていた。志貴の呼吸は静かで深い。薄衣の下をかすかにめぐる桃の香が淡いぶん、眠りの重さだけが逆に目立つ。


 一心は寝所から一間あけて座し、黒塗りの浅い水盆を前に寄せた。底には白砂。水は薄く張られ、鏡面を保っている。覗くためだけの器で、触れれば白砂が舞い、澄みは簡単に崩れて濁る。だから触れない。覗くという行為だけを、崩さずに続ける。


「志貴……」


 名を呼ぶと、水は澄んだ。白砂が線となって模様を描き、その合間がひらく。映るのは光でも像でもない夜の奥行きだった。覗いているはずなのに、背へ視線が返ってくるような圧が残る。息を落として、一心は言葉を継ぐ。


「ええ夢だけみとき。起きたら文句出るやろけど、なんぼでも受け付けたるから」


 低い声で、息に混ぜた言葉が口の中で熱を作る。掌の内側で、言葉にならない火が胸骨の裏をゆっくり燃やした。


 盆の面が、ごく浅く波立った。層がひとひらめき、森の闇が水に立ち上がる。表は鏡、裏は夜、その境だけが欠けている。


「何や……まだ、呼んでないけどな」


 一心は水鏡に目を凝らし、頬杖をついた。映り方の癖で、場所の手触りが先に来る。片眉がわずかに上がった。


「ほぉ。喧嘩売られてるみたいやな」


 黄泉境界、禁足の森の奥。水鏡の中で月は薄く、苔は湿り、石は冷たく、音は沈む。香だけが移ろい、風は葉の縁を撫でてすぐ消える。その奥に磐座がある。昔、一人の女を封じた場所だ。苔の縁に乾いた紅が斑に残っている。誰かが付けた色が乾ききったまま、石の皮膚に張り付いている。


「何で、お前がそこにおるんや……」


 水鏡の中に咲貴が立っていた。掌の火は細く、色が揺れて落ち着かない。呼吸は乱れていないが、足元の踏ん張りが薄く、つま先の踏み替えが、わずかに遅れる。森の湿りが肌に絡みつく距離で、火だけが先に跳ねようとしている。


 影が夜の向こうから歩いてきた。藍の羽織に銀の縫い、目元を隠す面、片手に長柄の杖。足音は湿りを踏まず、足元の影だけが夜をひと筋濃くする。


 仮面を外した長身の男の袖がひとたび払われ、藍が闇を吸い、銀が点で切れる。袖口から徳利が現れ、男は磐座の角へ紅酒を傾けた。ゆっくり、惜しげもなく、北へ、次いで西へ、東へ、そして南へ。最後の一滴が南で切れ、ひとしずくごとに苔が濡れ、石は血のように色を飲んでいく。祈りめいた所作をしながら、順番だけが冷えたまま整っている。


 男は徳利を持ったまま顔を上げ、咲貴に目を向けたが視線はそこで止まらない。水鏡越しに、こちら側を正確に射抜いてくる。


 磐座は紅に沈みきり、そして唇だけがわずかに動いた。


『届くぞ』


 言葉の形は確かで、わざと唇を読ませる仕草だった。


 咲貴の掌の火がほそく跳ねた。森の色が一枚はがれ、遠くのどこかで薄い鐘が鳴る。水鏡のこちら側の香が、ほんの一瞬だけ噛み合わない。


「……ふざけたことを」


 一心の声が落ちるのと同時に、志貴の寝息がわずかに乱れ、喉の奥で、ひゅ、と細い音が生まれた。白い唇の端から血が一筋すっと流れ、甘いはずの香に煤がひと筋まじる。


 一心は掌で受けた紅の温度を確かめ、指先でそっとすくい、舌にのせた。流れ込む香は志貴のものだ。だが、確実に干渉を受けた証が混じっている。


「紅酒、か……」


 盆の水は森の景を淡く返す。苔むす磐座。藍の袖。銀の縫い。紅酒。面の影。唇の形。像の並びが、こちらへの当てつけのように整っている。


「……相変わらず、感じ悪いやんか」


 口元にわずかな歪みが生まれる。舌の上に残る紅の温度が、一心の中で何かを静かに研ぐ。


「逆巡り……」


 一心は、水鏡を志貴には決して向けない目で睨みつけた。


「四方を逆に踏んで、何がしたいんや。合図のつもりか。ええ挨拶やないか」


 水面には触れず、指先で空気だけを押す。波紋は立たないが、鏡の底がわずかに深くなり、こちら側の夜が厚くなる。


「やれるもんなら、やってみぃ」


 水鏡の向こうで赫夜の肩が影だけずれる。徳利は音も残さず宙ではじきとび、紅酒の香だけが夜に残った。一心は、壊すなら最初から壊せるのに、注がせてから壊す。その順が、返礼の形をしていた。


「よう手間取らすわ」


 志貴の睫が震えた。赫夜の手にあった徳利は凄惨なまでに砕け、紅の液体はもう落ちない。だが香の層に細い棘が一本混ざったまま、志貴の呼吸が浅くなる。


 一心は志貴の喉元に指を寄せ、呼吸の浅さだけを撫でた。


「邪魔しよって」


 吐息ほどの怒りは、静かで澄んでいる。


「ヨルノミコト」


 呼べば、水の面に墨がひろがり、次いでしなやかな声がそこから立ち上がった。


「お呼びでしょうか」


 水鏡の縁に、ぽたりと香のしずくが落ちる。一心はその波紋を目で追い、ゆるく顎を引いた。


「当然、見てきたんやろな。要点だけ言え」


「赫夜様らしき男が、禁足の磐座にて咲貴様と接触。一心様がお嫌いな紅酒を注がれたかと」


「それは、見えた」


「赫夜様と妹御が居合わせたのは偶然のようです」


「偶然ねぇ……。あの赫夜が、考えなしに動くことなんかないやろ」


「しかしながら、妹御があの場所に辿り着けた理由がわからず、驚かれた様子に嘘は無かったかと……」


「宗像のすることにいちいち驚いてみせたこと自体が、赫夜の想定内やと思わんのか」


「申し訳ございません」


 ヨルノミコトはこうべを垂れた。


「赫夜はもうええわ」


「では、壮馬の動きです。登貴の名をもつ女と血による古き誓約を取り戻し、妹御の肉体を捧げ、紅を立て直す、と」


 一心は水盆の縁を爪で軽く弾く。波はすぐ崩れ、底の白砂がひと筋だけ濃くなる。


「懲りんことやな……まぁ、志貴から切り替えたことだけは褒めたるわ」


 指先を離すと、さっき混ざった棘のせいで、澄みが戻るまでに、わずかな間が要る。


「それから……八雷の動きが、妹御の『夜哭の殲滅』と呼ばれる火に影響を受けております」


 一心は膝の上で指をひとつ折り、視線を志貴の唇へ移した。赫夜に仕掛けられた紅はすでに薄い。


「この連動性は、志貴様の再構成に無関係とは言い切れません」


 その一言に、一心の眉がわずかに動いた。香の温度が半度だけ下がる。


「志貴様が、眠りの中で妹御に分け与えているおそれがあります」


「勝手に流れ込む宗像の王格以上のものを分け与えてるというんか」


「妹御の在り方は、ただの宗像の王格とは言えません。ゆえに、跳ね返りは防げないやもしれません」


 志貴は静かに眠っているが、唇の端にかすかな紅が再びにじむ。


「阿保やな……」


 一心が緩やかな動作で目を伏せる。それだけでヨルノミコトの背に緊張が走った。


「確認やが、壮馬が登貴を隠してる場所を特定できた、ということで間違いないんやな」


 静かに問うただけで、ヨルノミコトの膝が畳に沈む気配がした。返事の前に、息がひとつ浅くなる。静域の香は動かないが、人の呼気だけが揺れる。


「……はい。特定できております」


 一心はすぐに声を返さない。沈黙が長いというより、音の入る隙が塞がれていく感触がある。水盆の面は澄んだまま、底の白砂の線だけが冴え、志貴の寝息だけが淡く耳に触れる。


「さぞかし、うまいこと情報ばら撒きはったんやろなぁ」


 ヨルノミコトが喉を鳴らした。


「……壮馬の手口は、いつも段取りが良いもので」


「お前はいつも正攻法やな。冥府にもう一度流してやれ」


 え、とヨルノミコトが顔を上げる気配がして、すぐに息を呑み直す。冥府の誰が裏返るかもしれない、その躊躇が声になる前に止まった。


「もう一度、ですか」


「冥府が一枚岩やったことなんかないやろ。そもそも壮馬退治は、こちらの仕事でもないし。これで宗像の形に多少の影響が出ようと、想定内や」


 言いながら一心は、志貴の唇の端を見た。薄く残る紅が布へ滲む。あの棘が、まだ香の層に引っかかっている。水盆の中の森は凪いでいるのに、こちらの息の取り方だけが、わずかにずれる。


「ヨルノミコト、返事」


「畏まりました」


 慌てた声音のあと、地を擦る衣の音がかすかに続いた。静域は静域のまま、空気が忙しない。


 一心は水鏡へ視線を戻す。森はもう揺れていないが、磐座の紅の濃さだけが、沈んだまま残っている。


「実際にその目でみた冬馬はどうや?」


 ヨルノミコトは短く間を置いた。言葉を選ぶ癖が、ここでは露骨に聞こえる。


「古禁の刃が応じる様は禍々しく、宗像の流れを組む御仁の在り方からはほど遠く……」


「正直に言うてみぃや。許したる」


 喉の奥で笑いが擦れた。一心は真には笑ってはいない。だが、許すと言った途端、ヨルノミコトの息が少しだけ通る。


「……冥府の四天王に近いかと」


 一心の口元がわずかに動く。


「そらよう鳴る牙やな」


 水鏡の底で、白砂の線が一筋だけ濃く見えた。影の濃さが増したわけではない。こちらの目が、そういうものを探している。


「よろしいのですか?彼は、志貴様の狂信者です」


 一心は志貴の横顔へ視線を落とした。眠りは深い。桃の香は淡いのに、守りの重さだけが手に取れる。


「構わん。今の位置からわずかでも動こうものなら、手酷くはじかれること、アレが一番ようわかってはるんと違うか」


 言い終えると、夢の底で何かを避けたように、志貴の睫がかすかに震えた。見えない刺が、まだ居座っていることが、余計に腹を立たせる。


「敵か味方か、こちらはどちらでも可や」


 ヨルノミコトが返事を探す沈黙の間に、静域の白さがもう一段沈んだ。水盆の面が揺れないからこそ、背に張り付くものがある。


「一心様、もう一つお伝えしておくことがございます。……狐が、静かすぎます。一尾も揺れません」


 一心は水鏡を見たまま、息を浅く吐いた。狐の尾の影が見えないことよりも、見えないまま続く時間が不穏だ。動かないものほど、手を入れる位置を誤る。


「静かすぎる時がいちばん悪い。何企んではるんやろなぁ」


 言葉は軽いが、声の底は冷たい。


「尾が一本揺いだら報せ。二本で噛め。三本なら焼け」


「御意」


「Veilmakerの目は?」


「宗像の結界を舐めるように周回しております。……散らしますか」


「そうやなぁ。目、そらせるなら、世界が少しばかり傾いても構わん」


 一心は水盆の縁へ指先を寄せたが、触れない。触れれば白砂が舞う。手早く見えなくなるのは困る。


「そうやな、黒の檻でもいじくるか」


 ヨルノミコトが息を呑む気配がした。


「四つの禍事は厄介かと存じますが……」


「禍事、うまいこと言うやないか」


 一心の口角が片方だけ上がる。愉しいのではない。退屈の手前で、刃を選ぶ顔だ。


「あれらは退屈に指をかけとるやろ?檻の封をひとつだけ外せ。季節は……そうやな、真逆のアレで良い」


「相性が悪いと存じますが……」


「そうでもないと思うで。面白いもんが見られるやろし、赫夜も他人事にできんようになる」


 言葉が走るたび、静域の床下で何かが締まる錯覚がある。音も香も乱れないのに、締まる。宗像の結界が、見えない箍をひとつ増やしたような手触りだけが残る。


 ヨルノミコトはわずかばかり声を落とした。


「……赫夜様は」


「赫夜」


「申し訳ございません。赫夜は、磐座を媒介に、志貴様へ干渉するつもりでしょうか。それとも、妹御との連動を鍵とするのでしょうか」


 一心は志貴の唇の端を親指でそっと拭い、指先に残る温度を見た。赤は薄いが、消えきらない。親指を舌に運ぶ。香が触れた瞬間、喉の奥が細く鳴る。志貴の香に、知らない焦げが混ざっている。


「いかがいたしますか?」


 一心は答えず、目を伏せた。長い沈黙ではない。ただ、ひと呼吸ぶんだが、ヨルノミコトの背が強張る。


「決まっとる。いまは見逃すが、遊びですまんようになったら、根本から斬る」


 ヨルノミコトが短く息を呑み、深く頭を垂れる気配がした。水音がわずかに鳴る。静域の白が、それを吸い込む。


 水鏡の底で森の影がひとしずく揺れ、磐座の紅がゆるく滲んだ。見ているこちらの目が、滲みを拾った。


「俺がやると言うからには、やるで。赫夜」


 布の陰がかすかに動き、八雷の気配が覗いた。小さな灯が、志貴の頬のあたりへ寄ろうとして止まったまま、香だけを吸う。


 一心は視線だけ落とした。


「お前ら、そのまんまで志貴に触れたらあかん。泉で咲貴の氣を落としてからや」


 八雷がびくりと縮む気配がして、火の玉へ戻る。小さな灯は枕元で丸くなり、眠る者へ触れぬ距離を守る。


 水鏡の底で、森がもう一度だけ揺れる。映る景色に咲貴はいない。磐座だけが残り、紅の濃さだけが沈んでいる。


 赫夜が磐座の縁を指で一度だけ叩いた。音は石に吸われ、響かないのに、こちらの耳の奥へ残る。視線が鏡のこちらの暗がりをなで、去り際、唇が意図的に動いた。


『出てこい』


 夜だけが、袖の中へ沈む。


 一心の眉間に深く皺が入った。


「好み、よう覚えとるやないか」


 掌の内側で黒を孕んだ火が強くなる。志貴の眠りを妨げないように、空気は軋まず、香は乱れない。久しくなかった騒がしい心地が何より腹立たしく、刺だけ残す。


 志貴の呼吸は深い。白布の一点だけが濃く、夜の灯のように見える。一心は布の皺をそっと整えた。触れ方を変えるだけで、志貴の寝息がひと息ぶん、柔らかくなる。


「紅酒は……二度と口にせん」


 ヨルノミコトが静かに頷く気配がする。


「赫夜は、確実に、見せるために注ぎました」


「俺の知っとる石に、わざわざ紅酒仕込むとは性格悪い奴や」


 遠くで雷がひとつ転がった。静域の天井は揺れない。だが耳の内側にだけ、転がる音の余韻が残る。檻の牙は見えないところで研がれ、上層は枷の数を数え直す。そういう気配が、香の縁に薄く混じる。


 一心にとって、それらは些末だった。些末でなければ困るのだ。何を犠牲にしても、守るべきものは、ただひとつしかない。


 指先を志貴の耳もとへ落とし、唇を寄せる。


「……安心してええよ。神隠しは得意や」


 志貴の睫が夢の底で一度だけふるえた。桃の香は静かに満ち、焦がす色はまだ言葉を持たないまま、夜の底へ沈んでいく。


 水鏡はひと息で澄む。そこに映る志貴は、ただ静かに眠っている。


「……上等や、赫夜」


 声は小さいけれど静域の隅々へ、刃の線として届いた。


 百日が何になるかは、どうでもいい。志貴さえ無事なら、それでいい。


「磐座の件、狐も嗅ぎつけとるやろ。……今以上に見張れ」


「御意」


 ヨルノミコトの気配が引く。地を擦る音が遠のき、静域は元の無音へ戻る。残るのは桃の香と、舌の上の血の温度と、香の層に刺さった一本の棘。


 志貴の呼吸は深く、桃の香がゆるやかに流れている。百日の眠りは、まだ中ほどだ。


 一心は水盆を見下ろした。


「百日が足りんのなら、世界のほうを延ばしたらええ」


 白砂の線はほどけず、鏡面は澄んでいるのに、夜の闇は伸びる。

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