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第41話 みまかる火に 名を重ねつつ 霧を踏む


 冥府の最深に、黒の間がある。


 名を失った魂と、命を越えた骸の記憶だけが沈み、触れれば指先から熱が奪われるような冷たさが、壁にも床にも染みついている。静寂は、ほどけぬまま引き絞られた布のように、場の輪郭を離さずにいた。


 四つの影が、張り詰めた布の上を裂かぬように進んでいく。誰も口を開かない。ここで音を起こせば、眠りの縁へ刃先が寄る。触れたものは、戻らない。沈黙が律となり、揃えた歩が合図になっていた。


 先を行くのは《春》の仮面をつけた者。緋の外套に血の文様が走り、細い体躯は風の癖をまとって揺れるのに、足取りだけが泥を踏むように沈んでいる。軽さを装うほど、沈みが露わになる。


 《夏》が肩を揺らした。苛立ちか、焦燥か、それとも恐怖か。いずれにせよ、胸の裏側を爪で掻かれるような落ち着かなさが、歩の端から漏れている。


「黙ってんのも疲れんだろ。誰か、口、開けよ」


 《秋》が首を傾げる。年若い面差しのまま、眼だけが底へ沈んでいた。湿った暗さは腐らない。笑いの形だけが先に浮かぶ。


「《春》が報告するだろ。俺たちは、その確認に来ただけだ」


 《冬》は沈黙を破らない。歩幅を乱さず、三人を抜くこともなく、踏みしめる土の音さえ削いで進む。息を吐く速さまで、律に合わせているかのようだった。


 前方で、霧に似た影の帳が揺れた。無明の奥で、何かがわずかに身じろぎする。幽境の裂け目から落ちてきたのは声ではなく、命令に近い響きだった。


『報告を』


 口は動かない。響きは空気を割らず、脳の内側へ冷たい滴のように落ちた。受け取った瞬間、肩の筋が勝手に強張る。胸の奥が一拍遅れ、骨の内側に、命令の硬さが居座った。


 《春》が一歩、前へ出る。緋の仮面の奥で表情は動かない。声だけが、糸を撚るように静かに整えられていく。


「黒の香が風に混じっていました。限りなく耀冥のもののように思います」


 帳の奥がざわめいた。名を聞いた者の皮膚が、焼かれた痕へ触れられたようにひりついた。


 《夏》が肩をすくめ、吐き捨てる。


「あの名前をここで出すな。四天王たちが、どんな目に遭ったと思ってる」


「死んだはずなんだよな」


 《秋》の唇が薄く吊り上がる。眼は伏せたままだ。笑みは皮に留まり、奥は乾ききったまま、言葉だけが生々しい。


「四天王たちが喰ったはずだ。……耀冥の、あれを。なのに、どうして」


「焼かれた記憶は消えない」


 《春》の声が低く落ちる。抑えた声のまま、刃先だけが研がれていく。


「宗像の香ではなかった。だが、あれは嫌な記憶を呼び起こす。燻って、しかも、終わらない」


 その瞬間、帳の奥から別の声が滑り落ちた。女の声は甘く、嗜虐の響きを含むのに、舌に残るのは金属の苦みだった。


「耀冥は、もういないわ」


 《春》の主、真なる春の声だった。


「馬鹿馬鹿しい。夢を見ているのではないの」


 気怠そうに息を吐き、女は続ける。柔らかな声が、鼓膜の裏へ冷たい指を差し入れた。


「簡単に名を口にしないで。あの人を喰らい、焼かれ、なお切り裂かれた悦びの中にいる。祈りにも似た殺意を何度も重ねて、ようやく得られる渇きなの。壊し続けなきゃ、私はあの時から一歩も進めない」


 影がざわめき、他の三人の主の気配が交錯する。黒の間の静けさが一瞬だけ薄くなる。


 《夏》の主は、無邪気な子どもの声で嗤った。


「焼いたって骨は残る。血肉を奪っても魂は奪えない。耀冥は骨の奥にまで呪を仕込んでた。噛むたびに焼けた理が舌の裏から沁みてくる。あれほど口当たりの悪い甘さもないよ。ほんと、意地が悪い」


 《秋》の主が嗄れた声で言う。削れた音の奥の言葉は妙に快活で、その軽さが檻の錆びのように響く。


「喰った瞬間から、ここが檻になった。あの方は自らの肉に理を仕込んでいた。毒だよ。骨まで届く、逃げ場のない毒だ。天才すぎるから、笑うしかない。死が終わりだと信じたがるのは、焼けた側の怠けだ。耀冥が滅んだ証など、どこにも転がっていない」


 《冬》の主は温度のない声で続けた。言葉は途切れがちで、余温のない間だけが残った。


「耀冥が現れたのなら、もう一度無敵の黒に戻す。それが最適解だ。戻らぬなら終わらせる。彼が隠れ続けるなら、隠れ家ごと潰すだけだ」


 《春》が目を伏せる。仮面の奥で視線を落としただけなのに、場の密度が少し沈む。


「希望の詩なくば、千年は虚となる。彼が最後にそう言った意味を、我々はまだ読み解けておりません」


 御簾の向こうで、ため息が重なった。息は熱を持たず、ただ空気を冷やす。


「つまらん報告だ。希望の詩を読み解けぬまま、なぜ今になって黒が動く。毒の縛りが効いているのなら、なおさら理屈が合わない」


 《秋》がぽつりと呟いた。押し殺していたものが綻び、零れた音だった。


「もし希詠がまだ生きていたなら、耀冥はまだ終わっていないのでは」


 《夏》の主が、からかう調子で息を零した。音は軽く、耳の奥に棘が引っかかったままだ。


「あの子がまた耀冥を。あんな最期だったのに、簡単に戻れるわけないよね。戻れるなら、とっくに戻ってる」


 春の主が声を跳ねさせた。尖った息が混じり、言葉は形になりきらないまま、黒い空気へ散った。


「やめて。その名をここで出さないで。吐き気がする。赦せないのは焼かれたことじゃない。あの女には許したくせに、私には耀冥と最期まで呼ばせなかった、あの冷たさ。殺してやりたいほど愛してるの」


 《冬》の主が淡々と言う。感情の手触りがないぶん、言葉の冷たさだけが残った。


「諦めたらどうだ。希望の詩がなければ生に至れぬのなら、名を呼べば影だけでも戻るのではないか。毒の塊を喰わせたのは彼だ。縛りの結び目も彼の血だ。結び目の名を口にすれば、形だけは揺れる」


 春の主の声が鋭く張った。帳へ届く前に音の端が削がれ、硬さがその場に貼りついた。


「あの耀冥が、そんなに単純なはずがない。名で釣れるほど浅いなら、私たちは焼かれていない」


 声が途切れると、黒の間は元の静けさへ戻った。奥だけが、ひやりと脈打った。


「無駄ばかりね。耀冥の縛りをほどく段取りが先でしょう」


「拾えるものも拾えず、戻ってくる。見苦しい」


「鴈や宗像は匂いがいいと聞く。耀冥より旨そうだ。なのに、奪えもしないとは」


「千年王も火も、全部ほしい。手土産がないなら、ここにいる理由はない。さっさと引け」


 言葉が先に積もり、調子は噛み合わない。甘い響きは慰めに届かず、幼い笑いは軽さのまま硬い芯を残す。嗄れた快活は錆の味を混ぜ、冷たい判断は平たい刃で押しつけてくる。声が擦れるほど乾きは増し、黒の間は静けさを引き取った。


 影たちは黙した。やがて帳の奥の存在は、言葉を残さぬまま気配だけを削ぎ、帳の揺れが止まった。


 残された春夏秋冬の四人が身を翻した。互いの気配を確かめるだけで、会話は続かない。焼けた記憶の裏側で、耀冥という影はまだ消えずに燻っている。乾きが衣の裏にこびりつき、手放せぬまま残った。


 ***


 黒の間のさらに上層。冥府の律を司る、白き階の奥。


 冥府の監視者は目を伏せたまま、指先で律を辿っていた。頁を送る所作に似ているが、紙はない。それでも、めくった感触だけが指に残り、記録の層が静かに移り変わる。律は、触れられた拍ごとに輪郭を取り直していく。


「また馬鹿どもが騒いでいるのか」


 声は平らだった。苛立ちは混じらず、乾いた摩耗だけが残る。


「春夏秋冬ごときでは、道反も泰山も傷ひとつつかないか」


 監視者は言葉を継ぐ。そこに自嘲はあっても、嘆きはない。指先の重さは変わらず、律は応じない。


 春夏秋冬は、外に出れば異端の英雄と呼ばれる。だが主である四天王の気配は黒の間の奥に沈んだまま、戻りきらない。焼け残った残響が衣の裏にこびりつき、動くたび擦れる。鎖で縛られているのではない。立つだけで境の輪郭が浮き、足元の線が勝手に立ち上がる。


「あの四天王を意のままにするのは、あなたくらいのものだ」


 耀冥は自らの血で毒を固め、それを食ませた。拒めぬ形に整え、差し出した。甘さは舌先にだけ残り、腹の底では熱に変わる。やがて骨の奥に黒い冷えが居座る。喰って増えたものがあるはずなのに、動かそうとすると先に引っかかる。黒へ寄る細い糸だけが張り、力はそこから先へ出てこない。


「王位継承第二位」


 肩書を置いた途端、声音の端が微かに荒れた。積み重ねてきた疲れの層だけが黒く浮き、消えずに残る。


「王なき冥府で、順位を数えるのか」


 指先は律をなぞり続ける。拍が詰まるたび、爪の根に薄い痛みが走る。白き階の底で乾いた反発が一度だけ返り、監視者は指腹で押し伏せるように動きを続けた。


「王でない私が押さえるしかない……笑えないな」


 手は止まらなかった。律の面を撫でるたび、白が薄く軋む。監視者は息を落とし、視線を伏せたまま呟いた。


「耀冥。あなたは今も冥府の中枢だ」


 名を口にした途端、律の面がわずかに冷えた。頁の縁が一筋だけ浮き、白がかさつくように剥がれる。見えたのは欠けた輪郭で、次の拍には痕ごと閉じられた。黒い重みだけが、指先の奥に残った。


「それが希詠による再臨なら」


 唇がかすかに歪むが、笑みにはならない。むしろ拒絶に近い。


「私は、やはりあなたが嫌いだ」


 頁の律が音もなく灼けた。灰にはならず、灼け痕だけが記録として残る。熱は紙を焦がさず、記録の輪郭だけを薄く削いでいく。


「Veilmakerに燃やされ、書き換えられても興味を示さない黒の千年王殿」


 深い溜息がひとつ零れた。音は白き階の静けさにほどけ、跡を残さず消える。


「宗像が綻びなら、こちらも手を入れるしかない」


 黒の不在は限界だった。律の面は薄く痩せ、触れる拍ごとに輪郭を取り直している。欠けたところから冷えが滲み、白き階の底へ落ちていく。


「隠れんぼは終わりです。耀冥、居るのなら……」


 監視者は律をなぞる指先を、ほんの一拍だけ強く押し込んだ。その圧が白き階の底へ沈む。返るものは音にならない。


「Veilmakerを、必ず引きずり出す」


 そのまま、もう一拍だけ深く押す。律の底がわずかに応え、反発が指腹に触れた。


「あなたが出るなら、盤面は動く」

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