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第40話 あえかな火に 名はつけがたく 雷は舞ふ


 今夜も、宗像の奥庭は落ち着きを失っていた。


 宗像本家の奥庭は、香の層が幾重にも重なり、月の輪郭すら曖昧になる。渡り廊下の影は庭石の縁へ滲み、灯籠の火は芯だけを残して細く揺れていた。息を吸うたび、甘い残り香の底から、理が焼けた匂いが鼻腔に残る。


 咲貴は喉を鳴らさないよう、浅く息を吐いた。香が重い夜ほど、胸の奥が先に熱を帯びる。その熱は、怒りや恐れを待たずに身体を促す。指先へ回った瞬間、火は制御の縁から外れやすくなる。


 庭の外縁、結界の近くで冬馬が目を細めた。視線は闇そのものではなく、闇の手前に滞る香の乱れだけを追っている。


「毎晩来るって、諦め、知らんのか……」


 言葉の終わりに、風が鳴いた。木々の葉が一斉に揺れて、枝先が擦れる。音のわりに、風は庭へ降りてこない。外側から押し込まれる圧だけが、香の膜を撫でるように動いた。


 冬馬がちらりと咲貴を見る。咲貴は頷き返せず、視線を外した。頷いた瞬間に呼吸の拍が崩れる気がした。崩れた拍は、そのまま火へ繋がる。


 道反の外側の結界は、今夜も、裂けるべくして裂けた。縫い目の太さが違う。志貴が張っていた時の張りと、咲貴の香で保っている今の張りでは、膜の強さがまるで違う。押し込まれる圧が、穴を探るというより、最初から穴を知っているように迷いなく寄ってくる。


 冬馬が口の端を曲げた。


「厄介事ばっかりや……」


 声は低く落ちる。望は、ぎりぎりまで咲貴を守ろうとしない。分かりきっていた。それでも、毎夜、身体のどこかが期待してしまうのが腹立たしい。助けを呼ぶ音は、宗像では弱さになる。弱さは、食われる。


 廊下の奥から、公介の声が飛んだ。


「鍛錬やと思え、咲貴!」


 その声と同時に、結界の縁が鳴った。硝子を爪で掻くような乾いた音が走り、香の膜が一本の線で裂ける。裂け目の奥が、ただの闇ではない色で揺れた。


 夜の帳から現れたのは、形を持ちながら定まらない、人ならざるものたちだった。四肢は人の骨格に似ているのに、関節の向きが違う。足が地を蹴るたび、石の上へ湿った影が落ちる。仮面も衣もない。理の皮だけをまとって、獣の嗅覚で香を辿る。


 裂け目の向こうが一度、膨らんだ。影が影を押し出す。ひとつ潰しても、同じ息づかいがすぐ次へ重なる。昨夜の庭より、足音が多い。


 咲貴は数を数える余裕を奪われる前に、目を凝らした。灯籠の火の裏で、影が重なる。渡り廊下の柱の陰にも、土の匂いが濃い。香の裂け目へ集まるというより、最初から庭の呼吸に混ざっていたような気配がある。


 冬馬が小さく息を吐いた。嫌な予感が、その息と一緒に庭へ落ちる。


 咲貴の身体が先に反応した。


「来ないで……」


 声が出た瞬間、指が勝手に動く。香を踏みしめる間もなく、蒼白い火が指先から零れ落ちた。

 咲貴の蒼白は、近づくものへ刃を向ける。間合いに入った瞬間、熱は見境なく噛みつき、影の輪郭を削り落としていく。


 火は風を噛んで伸び、庭石の縁を舐め、裂け目の前へ集まる影へ噛みついた。肉が焼ける匂いではない。理の皮が焦げる匂いがする。紙が黒く縮むときの、あの乾いた甘さが、夜気の奥で弾けた。


「咲貴、落ちつけ! 大丈夫やから、抑えろ!」


 冬馬の声が割れる。冬馬が香を展開し、蒼白の火へ押し返すように膜を張る。祓いの香。揺れを整えるはずの香。だが、咲貴の火は祓われない。鎮まらない。焼く性質が、祓いの縁を黒く焦がしながら進む。


「止め……られない……っ!」


 咲貴の声が震える。指の関節が、きし、と音を立てた。胸の奥が焼ける。焼けるというより、臓腑の底から火が生まれて、出口を探して暴れている。喉の内側に熱が逆流し、舌の裏が乾いた。視界の端が白く歪み、香の膜が裂ける音が遠くなる。


 火が外へ外へと張り出す。境が曖昧になるほど、咲貴の呼吸は浅くなる。押し戻そうとした拍が、逆に火へ力を渡す。庭の空気が、じりじりと蒼へ染まっていった。


「冬馬、左翼はお前がやれ。咲貴、一回、息をはけ!」


 公介が前へ出た。刃が抜かれる音が短く響く。刃に血が走り、赤い線が夜へ光った。公介の動きは迷わない。迷いの余地を削るみたいに、足場を固めている。


「咲貴、聞け。火は範囲指定せぇ。まず、誰を護るか決めてから使え!」


 咲貴は息を飲んだ。焼けただれる夜気の中で、公介の目だけが凍ったように冷たい。その冷たさは責めではなく、退路を断つためのものだった。


「今、決めろ。できへんかったら、お前の火は王の火にならん」


 咲貴は、目の前の影を見た。冬馬が香の膜を張って立っている。公介が血の刃で異形を裂いている。宗像の中核が、自分を中心に据えられて、そこから退かない。


 咲貴の胸の奥で、何かが落ちた。


「わたしが、できないと……だめなんだ」


 言葉は湿っていない。湿らせる余裕がない。咲貴は唇を引き結び、焼け跡の残る手を見た。志貴の火は、誰かを赦すために灯っていた。咲貴の火は、焼き尽くして守るために生まれた。


 綺麗にできない。けれど、焼くことなら、できる。


 咲貴は息を吸い、吐いた。吐くときに、火の出口を喉ではなく指先へ寄せる。火が散らないように、骨で囲う。火の輪郭が、荒いまま、少しだけ縮む。


「それでええ。昨日よりだいぶマシになってる!」


 公介が咲貴の背を叩き、前へ出た。叩かれたところが熱を持つ。背中の皮膚が薄くなる。薄くなっても、踏ん張るしかない。


 公介の刃が異形を薙ぎ払いながら、咲貴の横顔を一拍だけ掠めた。驚きが混じった目だ。咲貴には、志貴にない器用さがある。比べるつもりはない。比べる余裕などない。それでも、公介の手が途切れないまま、その驚きだけが夜へ落ちるのが分かる。


 後方から足音が来た。香が違う。冷えた水のような匂いが、庭へ入ってくる。


「後方の結界は問題ない。咲貴、火は強い。今はそれでいい。ただ、今夜は空気が違う。気を抜くな」


 時生の声が落ち着いている。落ち着いているから、余計に怖い。咲貴は頷いた。頷く代わりに、火の輪郭をもう一度握り直す。


 道反の霊域の底が、ゆっくりと鳴った。見えないくせに、そこだけが重い。香が一枚ずつ剥がされ、夜の底へ吸い込まれていく。守るべきものがある場所へ、圧がまっすぐ寄ってきていた。


「おかしい……」


 冬馬が背後を振り返る。幾重にもなる禁域の結界が、目に見えないところで軋む。木々の葉は揺れないのに、灯籠の火だけが理由もなく横へ倒れた。皮膚の裏が薄くなる。耳の奥に水が溜まり、軽い圧で揺れる。闇が増えるのではない。庭そのものの密度が、別の層へすり替わった。


「この感じ……奴等かもしらん!」


 冬馬が叫んだ。霊香がざわめき、地を這うような瘴気が靄を曳く。悪鬼だけではない。違う質が混じっている。刃物のように整った気配が、香の裂け目からすべり込む。


「冥府特殊部隊《春夏秋冬》なら、最悪や」


 闇の裂け目から、四つの影が滑り出た。冬馬の横顔が凍りつく。その反応だけで、名が喉の奥へ落ちた。冥府特殊部隊《春夏秋冬》。


「道反に、来やがった……」


 公介が舌打ちを小さく落とす。


「咲貴は、退け!」


 命令が飛ぶ。だが、咲貴は退けなかった。退ける暇がない。背後に志貴の眠る封域がある。場所は分からない。けれど、ある。前には冥府の最精鋭。逃げ道は、宗像にはない。


「退いてる暇なんて、ない!」


 咲貴の声は低く落ちた。その低さが、火の輪郭だけを鋭くする。


「わたしが王なら、逃げるなんてありえないでしょ。何をしてでも排除しないと!」


 蒼の香が、指先に灯る。志貴の火とは違う、焦げつく火。


 冬馬の声が、微かに震えた。


「それは、志貴が一度も口にせんかった言葉や」


「それでも、わたしは、そうする」


 咲貴は目を細め、闇を見た。闇の中にいるのは敵だけではない。宗像の形そのものが、こちらを試すように息をしている。


「私は、使えるものは全部使う。預かったものを、削られずに残すために」


「志貴はな……誰かを焼かずに済む道を、ぎりぎりまで探してた。ほんまに、よう考えろ!」


 冬馬が咲貴の腕を掴んで足を止めた。掴まれたところが熱を持つ。掴まれた熱が、火を呼ぶ。咲貴は腕を引かなかった。引けば、火が散る。


 公介が冬馬の肩に手を置いた。


「冬馬……それでも、間に合わん時もある。王は迷わん火も持たなあかん」


 咲貴は二人を見た。志貴の火は優しかった。咲貴の火は、優しさを載せる余裕がない。焼かない道を選べるほど器用ではない。けれど、宗像として顔向けできない戦い方はしない。その線だけは、どれだけ熱が暴れても外したくない。


「綺麗じゃないし、優しくもない。毒でもいい。それが、わたしの火。誰にも触れさせないで、燃えて、守る。それじゃダメなの?」


 そのとき、風が変わった。


 焦げるような蒼の香に、ほんのひとしずく、異質な匂いが混じった。夜の海に灯が一つ浮かぶように、香の膜の隙をすべって、咲貴の肩口をなぞっていく。声も熱も持たないけれど、そこにあるという気配だけが残る。


 咲貴は息を吸った。胸の奥へ落ちた匂いが、火の芯へ触れて、ほんの少しだけ痛みを和らげる。


「志貴……わたし、できるよね……」


 霧の中で、ひときわ強い悪鬼が香の層をかき乱している。扉を破る匂いだった。香を崩し、縫い目を裂くためにだけ研がれた質がある。

 冬馬の香が破られれば、志貴の封域が露になる。


 咲貴は視線を定めた。


「優先するのは、あれ。まず、あれから焼くしかない」


 右手を掲げ、火を一点に収束させる。火は暴れる。暴れたままでも、焦点を与えると従うことがある。


「冬馬の結界に重ねて、焼く!」


 蒼の火が走った。蒼の奥に、ほんのり別の色が滲む。紅の香を帯びた蒼だった。夜が一瞬だけ照らされ、庭石の影が鋭く割れた。


 その瞬間、《春夏秋冬》が動いた。


 先陣を切ったのは《春》の男。金色の瞳に縦に走る瞳孔。衣が風をまとい、空を裂く。


「志貴ではない火、か。遊びには、ちょうどいい」


 風が爆ぜ、空気が裂けた。裂け目から悪鬼が一斉に現出する。十体。いずれも上級の飢鬼だった。

 咲貴は火を放った。だが、火は逸れ、敵味方の区別を忘れたかのように、蒼が暴れ、庭の端へ跳ねる。


「咲貴、止め……!」


 冬馬が香を放つ。祓いの香。けれど、咲貴の火は祓われない。焦がす性質が、祓いの縁を削り、火だけが前へ出る。


「あかん」


 冬馬が喉の奥で短く落とす。


「俺の香では、止まらん」


 公介が駆け寄り、咲貴の腕を取った。


「お前の気持ちは分かる。けどな、王の火は制御して初めて武器になる。今のは、武器やない」


 咲貴は深く息を吸い、手のひらの火を握った。握り潰すのではない。形を与える。火は握れる。握れないなら、王ではない。


「でも、これなら焼き尽くせる。わたしは、この火でやるしかない」


 咲貴は公介の腕を振り払った。蒼の火が閃く。周囲に展開された祓符が蒼の光を囲い、炎は外へ散らず、内側を薙ぐ形へ寄った。冬馬の香と火が、荒いまま噛み合う。それでも、この一拍は間に合う。


「……荒いけど、間に合ったか」


 冬馬が息を吐いた。


 低い笑いが、腹の底から転がるように響いた。咲貴の背後で空間が裂け、悪鬼ではない人の姿が立ち上がる。


「《夏》や」


 赤衣をまとい、炎のように揺れる髪。男は火を嘲るように笑っている。


「新しい王の炎、か」


 足元の悪鬼が蹴られて爆ぜた。


「お前ぐらいじゃ、まだ俺を止められねえよ」


 地を抉るような速度で踏み込む。咲貴は身構えた。蒼の火を握り直す。握り直した火の色が、蒼一色ではないことに、自分でも気づく。気づいた瞬間、男の足が止まる。火花が弾け、岩が砕ける。


「……その火、あの火に似てきやがったら、笑えねぇな」


 視線が変わる。侮蔑の中に、刹那だけ影が差す。


「焼かれて終われるなら、マシだった」


 男の声は笑っている。けれど、笑いの奥に終わらなかった過去の傷が滲む。


「焼かれて、生き残る地獄を知ってるか。あの時、焼かれたのは俺じゃない。影だったのに、俺の中から、まだ消えない」


 男の手が伸びる。咲貴へ触れようとする手だ。触れられれば、火が跳ねる。跳ねた火は、宗像の内側を焼く。


「咲貴!」


 冬馬が叫び、結界を張り直すが、追いつかない。


「……何」


 天からではない。水の層を割るように、何かが跳ね出した。


 軽い着地音が一つ落ち、遅れて雷鳴が腹へ響いた。庭の湿った香が、一瞬だけ甘くなる。


『んー? あれ? 戦ってるの?』


『あー! 私、この子好きー! 志貴さまに似てないけど、ちゃんと焼ける子!』


 現れたのは、三日月の髪飾りをつけた白髪の少女たち。いや、少女と少年の姿が混じっている。小さな影が何体も、灯籠の火の前へ跳ねた。


 彼らは咲貴を見上げ、にっこり笑った。


『私たち、助けにきたんだよ』


『もう大丈夫。たぶんねっ』


「……なに……?」


 咲貴の目が見開かれる。喉が乾いて、声が上手く出ない。


『ぼくら、八雷』


『火は綺麗なんかじゃない。けど、それでええんよ』


『志貴さまは火を綺麗なんて言わなかった。でも、いちばん綺麗だったんだよ』


『あったかい夜の匂いがすると、わたしたちは呼ばれるの』


『だから、怖くなったら、夜を探せばいい』


 少年少女たちがくるりと回り、小さな紅の炎になる。炎は咲貴の肩や腕に柔らかくまとわりつき、蒼の火の輪郭へ触れた。触れたところが痛い。痛いのに、薬布を当てられたみたいに熱が落ちる。荒ぶる火の芯へ、やわらかな香が巻きついて、痛みに染みる。


『夜は志貴さまと同じだねぇ』


 声が湿気に溶け、ふわりと広がる。可愛らしいのに、気配は軽くない。


『志貴さまは、泣き虫だったのに、泣き方を教えてくれたんだよ』


『君もすごいと思うでしょ?』


 咲貴は喉の奥に熱を飲み込んだ。目頭が熱くなる。火ではない場所が熱を持つ。熱が上がると、火が跳ねる。その恐れが先に来るのに、それでも熱は止まらない。


『志貴さまは、ちゃんとみてるよ』


 蒼の火に、ほんのり紅が滲みはじめた。色が移り変わるというより、輪郭が撫でられて丸くなる。八雷の香は風ではない。抱擁のように、火の芯へ触れて、暴れ方だけを変えていく。


『あー、冥府の犬だー。また、負けに来たの?』


『こてんぱんにされたの、覚えていられないんじゃない?』


 八雷の雷撃が弾けた。

 その衝撃が消えきらないうちに、空気が一瞬、止まる。春夏秋冬がそれぞれに不服の表情を浮かべ、動きが止まった。


「黄泉津の眷属が……何故、でてきた?」


 《春》の声が硬い。答えを待つ間もなく、霧の奥で声が重なった。


「霧に隠されねば、我らの歩みは暴かれてしまうぞ。この秋の霧は、真実すら惑わせる。さて、どうしてくれようか」


 一歩、靴底が退く音。


「静かにしておれ。まだ、眷属のみだろう。凍らせさえすれば、今の宗像の歩みのすべては容易く止まるさ」


 舌打ちが、風を裂いた。


「やれやれ、宗像はいやだ、いやだ。蒼に紅、次は何が混ざるんだか。春の風は毒すら笑って運ぶが、背後に獣を隠したこの珍妙さは好みではないよ」


「ははっ」


 唐突に笑いが割り込む。肩が揺れ、品のない笑みが浮かんだ。


「規格外を引っ掻きまわすのは俺たちの役目だろ。焼いてみろよ、宗像の火が何を焦がすか見てやる」


 八雷が雷撃をためはじめる。空気が、わずかに黒く染まった。黒みは一枚の膜みたいに広がり、香の層の底へ沈んでいく。


「……なんの香だ……これは……」


 《秋》の呻きが落ちた。言い切るより先に喉がひっかかり、霧がその音を吸う。


「紅では、ない……違う、これは……」


 《冬》は唇を噛む。噛んだまま、もう一歩だけ言葉を押し戻すみたいに目を伏せた。


「待て。これは……黒……ではないのか?」


 《春》が目を見開いた。驚きが走るのは速い。速いのに、声だけが遅れて重くなる。


「馬鹿な……黒の、耀冥?」


 声に恐怖がにじみ、にじんだものを隠す暇もなく次の息へ繋がった。


「死んだはずだ。あの災禍が生きていれば、冥府の律そのものが崩れるぞ。黒い香は、死んだ芽すら目覚めさせる」


 息が掠れた。掠れた息が霧に散る間にも、黒い匂いだけは残って、庭の温度をじわりと落としていく。


「命も、名も、香すらも滅ぼす、記録されない王。あの耀冥であるなど、考えたくもない」


 《秋》の視線が鋭く刺さる。もう名前を出すな、と睨みつける圧だった。


「だが、万が一、近くにいるなら。耀冥であれば、何をしてくるか分からん……!」


 その名が落ちた瞬間、場の温度が一段、下がった。

 霧が重くなる。視線が交わる前に、わずかな距離が生まれる。


「俺の兄は……あの香に触れた夜、発狂して自ら命を絶った。自らの火に焼かれてな!」


 《夏》の声だけが前へ出る。怒りではない。焦げた記憶を吐き出すような荒さだった。


「耀冥が来る可能性があるなら……ありえん事態になるぞ」


 《秋》は踏み込まない。言葉を置くだけで、場を締める。霧が応じるように沈んだ。


「退くしかない……」


 《春》の判断は早かった。迷いは音になる前に切り捨てられる。

 次の瞬間、四つの影は同時に退く。悪鬼を残したまま、空気ごと裂いて、道反の外へ消えた。


 庭に残ったのは、燃え残る理の皮の匂いと、雷鳴の余韻だけだった。


「何が、どうなってるの……?」


 咲貴も、冬馬も、公介も時生も、誰ひとり、いま起きたことに言葉をつけられない。八雷が飛び回るたびに微かに香る黒い匂い。志貴の香ではない。紅でもない。なのに、春夏秋冬が怯んだ。


 咲貴は舌の裏で、自分の火の色を確かめる。蒼の灯。蒼のはずなのに、紅の匂いが混じったまま、消えない。


『あっれ〜? 逃げたね』


『遊び相手してあげるのに、残念!』


『ねぇ、そんなことよりさー。ここ道反でしょ?』


『わーお、久々に来たよね〜!』


 八つの小さな炎が、咲貴の周りを呑気にふよふよ浮かぶ。さっきまで雷だったものが、いまは子どもの笑い声になっている。


『あれ〜? でもさー、道反なのに、志貴の匂いせーへんなー……』


 炎が咲貴の指先に残る蒼の灯を見つめる。


『志貴がねとるからちゃうかー?』


『気にしない、気にしないー』


 咲貴は、目の前の存在を見た。禍神のはずの八雷が、守った。守っただけではない。冥府の最精鋭を退かせた。しかも、理由は香ひとしずく。


 全員が息を止めて、八雷を見ている。わちゃわちゃした姿が、戦いの中心に立っていた現実が、まだ庭の空気へ馴染まない。


 炎たちが少年少女の姿に戻る。彼らは咲貴を見上げ、示し合わせたわけでもないのに、同時に笑った。


「やっほー、はじめまして? 咲貴ちゃん!」


 咲貴は返事ができなかった。喉が乾いて、声が引っかかる。火が落ち着いたはずなのに、胸の奥の熱が残っている。


 その背後で、どこか見えない闇の奥に、気配があった。


 焦げた夜の底。名もなく、香も絶ち、ただそこにいるだけの影。王でも神でもない。けれど、火の傍にいることだけを選んだ者の気配が、庭の湿った香の底に沈んでいる。


 影は微笑んだように見えた。見えた、というより、咲貴の火の輪郭がそう感じ取った。


 次の瞬間、影は夜に溶けた。火の匂いだけを残して。




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