第4話 仮面落つ 春の夜のごと儚く(後編)
風が、ふたたび動いた。
焼け残る匂いを割り、ただひとつの足音だけが森を渡る。
黒の外套は裾まで濡れ、踏みしだかれた葉は音を呑み込む。
白木の狼面――宗像の始祖を模した面は、現当主の直招を受けた者にのみ許される。
その面をつけた男が、結界の縁をまたいだ。宗像一心である。
最初に見たのは、公介だった。
左腕は砕け、血が袖の内側で重く張りつく。
それでも矛を手放すまいとする意志が、指先に残っている。
次に、冬馬。
胸に赤黒い焼痕、呼吸は浅い。
こちらへ視線だけ寄せ、唇がかすかに動く。
謝意とも詫びともつかぬ形をつくり、安堵の色をひと筋だけ残して、瞼が落ちた。
白は、その先にいた。
白の衣、白の髪、白の肌、そして白の“火”。
炎でありながら温度を奪う“拒絶”の形で、空間の織り目を逆撫でする。
山の音が薄皮のように剥がれ、輪郭が軋んだ。
最後に、一心は志貴を見た。
右肩から咲いた紅蓮の痣が半身を覆い、全身が“王の火”そのものへ傾いている。
鉄の匂いが濃い。唇の端と奥歯の内側に血の気配――術式を組む余裕を捨て、血で門をこじ開けたのだと、一心は即座に察した。
理の蝶番は王の血一滴で鳴く。正しいが、持っていかれるやり方だった。
誰にも届かぬほど低く、一心はつぶやく。
「……あかん」
そのまま火の“内”へ踏み入った。
公介はここまで荒れる可能性を読んでいた。
敵よりも志貴の火勢が上回ると見て、禁符を切った。
止められる手は、ひとつしかない。
紅は舞うたび輪郭を変え、痣は脈の音で合図を寄越す。
志貴の瞳は焦点を失い、遠いものだけを追っている。
視界の端で崩れた冬馬と、裂けた公介の腕――
その像が胸を凍らせ、同時に焼いた。
志貴の胸の奥で、明確な意志が火を走らせる。
護らねば。
その一念が、理を越えて燃え上がった。
炎は自走し、結界の内を奔る。
流れを見て、一心は息を呑む。
炎は地獄絵のように散り、結界の縁を叩いた。
石は白く、木は黒く変わる。
志貴は止まりたい。
だが止め方がわからない。
波立つ魂の動きが、そのまま火へ置き換わっていく。
紅が一段、音を変えた。
空気の層がひとつ沈み、白の“火”がわずかに退く。
拒絶の幕が皺を寄せ、織り目が軋む。
志貴の炎は選ばない。
だがいまは、確かに“白”だけを見据えていた。
一呼吸ぶん紅が重く落ちる――
地脈が鳴り、結界の床が低く沈む。
白い光が粉砂糖のように崩れ、空間の表皮が薄く剥ける。
耳には届かぬはずの悲鳴が、白の骨だけを震わせた。
「アレを押し返すんか……相当、厄介な状況までいったな」
上位層の拒絶は、並の術では揺がない。
上級の黄泉使いが束になっても拮抗が関の山――
それを、志貴の紅は正面から押し伏せている。
山肌の色が一瞬、白に漂白され、次の瞬間には紅が上塗りした。
白は形を取り戻そうともがくが、輪郭が連続して崩落する。
火勢だけではない。
痣の脈が刻む律が、理の継ぎ目へ正確に噛み合っている。
王の火の“合わせ目”。
白の核が、かすかに逃げの手を取った。
紅が静かに揺らぎ、焦げた空気の底で“一瞬だけ”夜明けのような金色が滲む。
光が咲いては消え、火と理の境目がほどける。
圧が抜け、空気が低く息を吐いた。
「志貴を見誤ったな、阿呆が」
勝敗を見切り、一心は白への攻め姿勢を解いた。
紅の炎の腹に沿って歩く。
轟きと轟きの間、瞬き一つぶんの隙だけを踏む。
紅が裾を舐めるたび、煤が外套に吸いこまれる。
「……やりすぎやで、志貴」
仮面ごしの低音が、火の底に落ちる。
志貴の瞼がわずかに震えた。
だが痣は逆に応じ、紅を逆立てる。
呼び戻すほど、炎は強く反射する。
「俺が来た。もう、やめてええ」
声の温度を落としても、火勢はなお荒ぶる。
護りたいのに焼いてしまう――その軋みが、炎の音に混じって聴こえる。
王の血は鍵であり、同時に不可逆の代償をもたらす。
許容は超えた。
道はひとつだ。
一心は歩みを止めず、仮面に手をかけた。
白木の縁を指がなぞり、内側の汗が冷える。
重い呪を一枚剝がすように、面は持ち上がる。
風が凪ぎ、空気が変わった。
狼面が外套の裾をかすめ、湿った音で落ちる。
世界が、一拍だけ息を止めた。
そこにあるのは、志貴が一度も忘れたことのない顔。
切れ長の目。ところどころ銀をはじいたような艶を帯びた黒髪。
強さと優しさが同じ場所に宿る面差し。
「こっちや」
一心の右目が、灯を弾く。
志貴の呼吸が止まった。
胸の奥で何かが軋むのを、一心は見た。
見られることを拒むように、その瞳が揺れる。
望んだ逢い方ではない――
その痛みが、声にならず滲んだのを感じ取る。
「もう大丈夫や」
その一言で、志貴の肩を這う紅がかすかに緩んだ。
崩れたのは力ではない。志貴自身だ。
膝が抜け、火の中に取り残されていた志貴が、ようやく戻ってくる。
一心は腕を差し入れ、静かに受け止めた。
「……おかえり」
炎の残滓さえ包み込む温度で、声が沈む。
右肩の痣はなお紅い。
だが、それはもはや暴走の徴ではない。
――還る場所を身体が思い出しているという、静かな火印。
息が通い、志貴は意識を手放した。
視線を落とし、痣に触れかけた指を引く。
ここで触れれば、自分が壊れる。
痣は魂の扉。
守り手の一線と男の衝動は同じ場所にある。
いまは、越えない。
「生きてるか」
振り返れば、公介は歯を噛み、冬馬の寝息は静まっている。
二人には救援が届く。
そう判断し、一心は志貴だけを抱いて歩き出した。
***
宗像本邸の廊下は静まり、濡れた足音だけが滲んで消える。
外套は血と雨を吸い、腕の中の志貴はまだ目を閉じたまま。
右肩の火印は、残り火のようにゆっくり脈を打つ。
「……富貴さん。志貴を頼む」
呼びかけに、女が振り返る。
志貴の母、津島富貴。
一心の腕の中の娘を見た瞬間、瞳の色がすっと引いた。
十年前の夜がよみがえる。
泰介が斃れた夜。
地鳴り、黒煙、焼けた空気。
血と灰のただ中で、十七の少年だった一心は幼い志貴を抱いていた。
裂傷だらけの腕で覆い、離さなかった。
――志貴は無事か。
あのとき繰り返した声を、富貴は覚えている。
「手当てを」
抑えた低さの底で、火種のような怒りが燃えている。
言葉にはしない。沈めたまま、消さない怒りだ。
富貴が頷き、志貴を受け取る。
その刹那、一心の指がかすかに震えた。
誰にも気づかれぬほど微かな揺れ――だが、母の目はそれを見逃さない。
「……想定外や」
俯いて落とした声は、祈りでも弁明でもない。
自分自身への痛罵に近い響き。
志貴が血で門をこじ開けたこと。
それを誰も止め切れなかったこと。
白が焼かれもせず逃げおおせたこと。
そして、自分が遅れたという事実。
白木の仮面を握る掌に力がこもり、面が軋む。
手から滑ったそれが畳に小さな音を残して転がった。
誰も気づかない音。
背を向け、一心は歩き出す。
***
一心が志貴の側を離れたのは、独りで立たせるためだった。
強くなったら、稽古をつける――眠る志貴にそう告げて姿を消す。
可愛い従妹の呼びかけに応えず、逢いにも戻らない。
夜更けに、眠る息を確かめに来る癖はあるが、悟らせない。
甘さは毒になる。近づけば、手が伸びる。
だから離れる。
それでも、呼ばれれば行く。
公介の符だけではない。志貴の火が、名を呼ぶからだ。
遅れた刹那を、次は許さない。
白は必ず追う。
名も出自も層も洗い、ひとつ残らず潰す。
志貴が血で鍵をつくる必要のない世界へ、必ず連れ戻す。
踵を返し、一心は静かに歩みを深めた。
その背へ、誰も追いつかなかった。




