表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/54

第4話 仮面落つ 春の夜のごと儚く(後編)


風が、ふたたび動いた。

焼け残る匂いを割り、ただひとつの足音だけが森を渡る。


黒の外套は裾まで濡れ、踏みしだかれた葉は音を呑み込む。

白木の狼面――宗像の始祖を模した面は、現当主の直招を受けた者にのみ許される。

その面をつけた男が、結界の縁をまたいだ。宗像一心である。


 


最初に見たのは、公介だった。

左腕は砕け、血が袖の内側で重く張りつく。

それでも矛を手放すまいとする意志が、指先に残っている。


次に、冬馬。

胸に赤黒い焼痕、呼吸は浅い。

こちらへ視線だけ寄せ、唇がかすかに動く。

謝意とも詫びともつかぬ形をつくり、安堵の色をひと筋だけ残して、瞼が落ちた。


 


白は、その先にいた。

白の衣、白の髪、白の肌、そして白の“火”。

炎でありながら温度を奪う“拒絶”の形で、空間の織り目を逆撫でする。

山の音が薄皮のように剥がれ、輪郭が軋んだ。


 


最後に、一心は志貴を見た。

右肩から咲いた紅蓮の痣が半身を覆い、全身が“王の火”そのものへ傾いている。

鉄の匂いが濃い。唇の端と奥歯の内側に血の気配――術式を組む余裕を捨て、血で門をこじ開けたのだと、一心は即座に察した。

理の蝶番は王の血一滴で鳴く。正しいが、持っていかれるやり方だった。


誰にも届かぬほど低く、一心はつぶやく。


「……あかん」


そのまま火の“内”へ踏み入った。

公介はここまで荒れる可能性を読んでいた。

敵よりも志貴の火勢が上回ると見て、禁符を切った。

止められる手は、ひとつしかない。


 


紅は舞うたび輪郭を変え、痣は脈の音で合図を寄越す。

志貴の瞳は焦点を失い、遠いものだけを追っている。


視界の端で崩れた冬馬と、裂けた公介の腕――

その像が胸を凍らせ、同時に焼いた。


志貴の胸の奥で、明確な意志が火を走らせる。

護らねば。

その一念が、理を越えて燃え上がった。


炎は自走し、結界の内を奔る。

流れを見て、一心は息を呑む。


 


炎は地獄絵のように散り、結界の縁を叩いた。

石は白く、木は黒く変わる。


志貴は止まりたい。

だが止め方がわからない。

波立つ魂の動きが、そのまま火へ置き換わっていく。


 


紅が一段、音を変えた。

空気の層がひとつ沈み、白の“火”がわずかに退く。

拒絶の幕が皺を寄せ、織り目が軋む。


志貴の炎は選ばない。

だがいまは、確かに“白”だけを見据えていた。


一呼吸ぶん紅が重く落ちる――

地脈が鳴り、結界の床が低く沈む。


白い光が粉砂糖のように崩れ、空間の表皮が薄く剥ける。

耳には届かぬはずの悲鳴が、白の骨だけを震わせた。


 


「アレを押し返すんか……相当、厄介な状況までいったな」


上位層の拒絶は、並の術では揺がない。

上級の黄泉使いが束になっても拮抗が関の山――

それを、志貴の紅は正面から押し伏せている。


山肌の色が一瞬、白に漂白され、次の瞬間には紅が上塗りした。

白は形を取り戻そうともがくが、輪郭が連続して崩落する。


火勢だけではない。

痣の脈が刻む律が、理の継ぎ目へ正確に噛み合っている。

王の火の“合わせ目”。


白の核が、かすかに逃げの手を取った。


紅が静かに揺らぎ、焦げた空気の底で“一瞬だけ”夜明けのような金色が滲む。

光が咲いては消え、火と理の境目がほどける。

圧が抜け、空気が低く息を吐いた。


 


「志貴を見誤ったな、阿呆が」


勝敗を見切り、一心は白への攻め姿勢を解いた。

紅の炎の腹に沿って歩く。


轟きと轟きの間、瞬き一つぶんの隙だけを踏む。

紅が裾を舐めるたび、煤が外套に吸いこまれる。


 


「……やりすぎやで、志貴」


仮面ごしの低音が、火の底に落ちる。

志貴の瞼がわずかに震えた。


だが痣は逆に応じ、紅を逆立てる。

呼び戻すほど、炎は強く反射する。


 


「俺が来た。もう、やめてええ」


声の温度を落としても、火勢はなお荒ぶる。

護りたいのに焼いてしまう――その軋みが、炎の音に混じって聴こえる。


王の血は鍵であり、同時に不可逆の代償をもたらす。


許容は超えた。

道はひとつだ。


 


一心は歩みを止めず、仮面に手をかけた。

白木の縁を指がなぞり、内側の汗が冷える。


重い呪を一枚剝がすように、面は持ち上がる。


風が凪ぎ、空気が変わった。

狼面が外套の裾をかすめ、湿った音で落ちる。


世界が、一拍だけ息を止めた。


 


そこにあるのは、志貴が一度も忘れたことのない顔。

切れ長の目。ところどころ銀をはじいたような艶を帯びた黒髪。

強さと優しさが同じ場所に宿る面差し。


 


「こっちや」


一心の右目が、灯を弾く。


志貴の呼吸が止まった。

胸の奥で何かが軋むのを、一心は見た。

見られることを拒むように、その瞳が揺れる。

望んだ逢い方ではない――

その痛みが、声にならず滲んだのを感じ取る。


 


「もう大丈夫や」


その一言で、志貴の肩を這う紅がかすかに緩んだ。

崩れたのは力ではない。志貴自身だ。


膝が抜け、火の中に取り残されていた志貴が、ようやく戻ってくる。


一心は腕を差し入れ、静かに受け止めた。


「……おかえり」


 


炎の残滓さえ包み込む温度で、声が沈む。

右肩の痣はなお紅い。

だが、それはもはや暴走の徴ではない。


――還る場所を身体が思い出しているという、静かな火印。


息が通い、志貴は意識を手放した。


 


視線を落とし、痣に触れかけた指を引く。

ここで触れれば、自分が壊れる。


痣は魂の扉。

守り手の一線と男の衝動は同じ場所にある。


いまは、越えない。


 


「生きてるか」


振り返れば、公介は歯を噛み、冬馬の寝息は静まっている。

二人には救援が届く。


そう判断し、一心は志貴だけを抱いて歩き出した。


 


***


 


宗像本邸の廊下は静まり、濡れた足音だけが滲んで消える。

外套は血と雨を吸い、腕の中の志貴はまだ目を閉じたまま。

右肩の火印は、残り火のようにゆっくり脈を打つ。


 


「……富貴さん。志貴を頼む」


呼びかけに、女が振り返る。

志貴の母、津島富貴。


一心の腕の中の娘を見た瞬間、瞳の色がすっと引いた。

十年前の夜がよみがえる。


泰介が斃れた夜。

地鳴り、黒煙、焼けた空気。

血と灰のただ中で、十七の少年だった一心は幼い志貴を抱いていた。

裂傷だらけの腕で覆い、離さなかった。


――志貴は無事か。


あのとき繰り返した声を、富貴は覚えている。


 


「手当てを」


抑えた低さの底で、火種のような怒りが燃えている。

言葉にはしない。沈めたまま、消さない怒りだ。


富貴が頷き、志貴を受け取る。

その刹那、一心の指がかすかに震えた。

誰にも気づかれぬほど微かな揺れ――だが、母の目はそれを見逃さない。


 


「……想定外や」


俯いて落とした声は、祈りでも弁明でもない。

自分自身への痛罵に近い響き。


志貴が血で門をこじ開けたこと。

それを誰も止め切れなかったこと。

白が焼かれもせず逃げおおせたこと。

そして、自分が遅れたという事実。


白木の仮面を握る掌に力がこもり、面が軋む。

手から滑ったそれが畳に小さな音を残して転がった。


誰も気づかない音。

背を向け、一心は歩き出す。


 


***


 


一心が志貴の側を離れたのは、独りで立たせるためだった。

強くなったら、稽古をつける――眠る志貴にそう告げて姿を消す。


可愛い従妹の呼びかけに応えず、逢いにも戻らない。

夜更けに、眠る息を確かめに来る癖はあるが、悟らせない。


甘さは毒になる。近づけば、手が伸びる。

だから離れる。


 


それでも、呼ばれれば行く。

公介の符だけではない。志貴の火が、名を呼ぶからだ。


遅れた刹那を、次は許さない。


白は必ず追う。

名も出自も層も洗い、ひとつ残らず潰す。


志貴が血で鍵をつくる必要のない世界へ、必ず連れ戻す。


 


踵を返し、一心は静かに歩みを深めた。

その背へ、誰も追いつかなかった。


 


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
番契り 番地獄 狂愛 執着愛 奪愛 蜜毒 独占欲 贖罪愛 狂おしい愛 倒錯愛 契り地獄 奈落契り 血と魂 狼と少女 禁忌の契り 赦しは毒
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ