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第4話 仮面落つ 春の夜のごと儚く(後編)

風が、再び動き出した。

焼け焦げた空気の中、ただ一人、その足音が森を渡る。


黒の外套。

濡れた裾。

足取りは静かで、地に敷かれた葉が、ただ音もなく潰れていく。


仮面は、狼の牙を象ったもの。

宗像の始祖を模したその面は、現当主から“直招”を受けた者にのみ授けられる。


宗像一心――彼が、現れた。


最初に目を向けたのは、公介だった。

血に塗れ、地に伏してもなお矛を握ろうとする姿に、彼の目がわずかに細められる。


次に冬馬。

胸に赤黒い焼痕を残し、荒い息を吐く少年へ、一心の肩が、かすかに動いた。

それは怒りか、哀しみか――判然とはしなかった。


そして、白い炎。

まだ消え残る澱の奥に渦巻く“なにか”を、彼は確かに敵と見定めていた。


最後に、志貴。


右肩から咲き乱れた紅蓮の痣が、右半身を焼くように覆い、

彼女の全身が、“王の炎”そのものと化している。


その視線が志貴に落ちた瞬間――

世界が、音を失った。


「……あかんわ。あかん。これは……」


その呟きは、誰にも届かないほど小さく。

けれど、語尾だけが鋭く残った。


感情の濁流を呑み込んだまま、彼は歩き出す。


志貴が暴れているはずの、誰も近づけなかった“内”へ。

まるで何事もないかのように、迷いなく踏み込んでいく。


紅の火が舞い、痣が脈を打つ。

志貴の瞳は焦点を失い、ただ空ろに彷徨っていた。

けれど――その熱は、“生きている”と映っていた。


一心は、仮面越しに笑った。


「……やりすぎやで、志貴」


その声に、志貴がぴくりと反応する。


焦点の奥にいた“あの人”を、志貴の意識が捉えた。

瞼が震え、喉がかすかに動く。

言葉にはならずとも、熱が頬を伝って落ちた。


やっと来てくれたのに、手が届かない。

遠い。

遠すぎて、苦しい。


火が跳ね、痣がさらに広がる。

彼女の身を、まるで世界そのもののように塗り替えていく。


――けれど、その火は、戯れだった。


はしゃぐ子どものように、炎は跳ね回りながら、触れるものすべてを焼き尽くす。


一心の身体が、滑るように舞う。

まるで炎の中を踊るように、彼はすり抜けていく。


「そんなんじゃ、俺には当たらへん」


囁くように。挑発するように。


その声に、志貴の瞳がかすかに焦点を戻した。


痣が脈打つ。

蔦のような紅が、肩から首筋、背中、腰へと這っていく。

それはまるで、“王”の刻印。


火が爆ぜた。

咆哮のように。

白を焼き尽くすように。

空間の色が剥がれ、温度が歪む。


――そして、白は、消えた。


逃げたのだ。

焼かれることを、恐れて。


焦げた硫黄の臭いと、色の失われた大地だけが残る。


世界が、一度だけ、呼吸を止めた。


それでも、一心は歩みを止めなかった。


「帰ってこい、志貴」


その声は、どこまでも優しかった。

けれど、その声にこそ、痣はもっとも強く反応した。


火が乱れた。

一心を包むように、紅蓮が咲き乱れる。


それでも、彼は止まらなかった。


「なら、こうするしかないな」


仮面に、手をかける。

ゆっくりと、慎重に。


その動きは、まるで呪術のように重く。

指先が、面の縁をなぞる。

志貴の視線が、その動きに吸い寄せられた。


火が、ざわりと揺れる。


刹那、風が凪ぎ、空気が変わる。


仮面が――外された。


白木の狼面が、外套の裾をかすめて落ちる。


そこにいたのは、志貴が一度たりとも忘れたことのない顔。


宗像一心――

切れ長の瞳。濡れた黒髪。

その奥に宿る、強さと、優しさ。


志貴の瞳が大きく見開かれる。

呼吸が止まる。


「みないで」と、心のどこかで叫んだ。


違う。

こんな逢い方をしたかったんじゃない。


――けれど、それでも。


「……来て、くれた」


その想いが、胸の奥で膨れ上がった瞬間、視界がにじんだ。


肩を這っていた紅い火が、かすかに揺らぐ。


崩れたのは、力ではない。

志貴自身だった。


火の中に取り残されていた“志貴”が、ようやく、戻ってくる。


手が震え、膝が折れ、崩れ落ちる。


一心は柔らかくその身を抱きとめた。


「やっと……帰ってきたな」


その声は、炎の残滓すら優しく包み込むようだった。


志貴の肩には、まだ紅い痣が残っていた。

けれど、それはもはや暴走の証ではない。


――彼女が、還る場所を覚えていたという証だった。


(ああ、戻ってきた。この腕の中に)


ようやく息ができる。

志貴は意識を手放した。


「しゃーないか」


(また俺を選ぶわけやな)



志貴の身体は、驚くほど熱かった。

けれど、その熱は、もう焼き尽くすものではなかった。


残り火のように、静かに、確かに――灯っていた。


右肩の痣は、なおも紅い。


「……ようやった。よう頑張った」


囁くように言って、彼はそっと痣に触れようとした――

が、やめた。


――今、ここで触れたら、俺まで終わる。


触れてしまえば、自分の何かが壊れてしまう。


一心は、志貴を抱いたまま振り返った。


公介が倒れていた。

その隣には、血の気を失った冬馬。


それでも彼は、何も言わず歩き出す。


志貴を抱いたまま、一歩ずつ。

その背に、誰も声をかけられなかった。


その背は、静かで、崩れなかった。


(志貴を壊すくらいなら、俺の方が壊れてまえ)



宗像本邸の廊下は、静かだった。

濡れた足音が、ひとつずつ滲んで消えていく。


その音の主――宗像一心は、志貴を抱いたまま廊下を渡っていた。

外套は血と雨に濡れている。

腕の中の志貴は、まだ意識を取り戻していない。


けれど、その痣は、なおも紅い。


「……富貴さん、志貴を頼むわ」


声に、女が振り返る。


志貴の母、津島富貴。


その目が、腕の中の娘を見た瞬間、すっと色を引かせる。

けれどそれ以上に――彼女は、思い出していた。


十年前。


泰介が斃れた、あの夜。

地鳴りのような咆哮。黒煙。焼け焦げた空気。


血と灰にまみれた現場で、彼女が見たのは――

幼い志貴を抱える、一心の姿だった。


十七の少年。

満身創痍。

無数の裂傷を負いながら、彼は志貴の身体を覆っていた。


「志貴……無事、なんか……?」


それだけを、かすれた声で繰り返していた。


誰が呼びかけても、返事はなかった。

痛みに顔を歪めることもなく、倒れかけても、志貴を離さなかった。


――そして今、その目が、まったく同じだった。


「手当てを。すぐに」


その声は、今までにないほど低かった。


抑えられているのに、ひどく重い。

声の底にあったのは――怒りだった。


けれど、それは言葉にならない。

静かに燻る火種のように、消えることのない怒り。


富貴が頷き、志貴を抱き取る。


その瞬間――一心の指が、かすかに震えた。


誰にも気づかれない、ほんの微かな動き。

けれど、富貴には見えていた。


彼は、顔を伏せた。


「命、削らせたくなかったんやけどな」


それは呟きにしては濁りすぎていた。

祈りでも告白でもない。

まるで、自分自身を責めるような言葉だった。


――けれど、その奥にあったのは。


純然たる、怒りだった。


志貴が、自らの血を代償に力を発動させたこと。

誰も、それを止められなかったこと。

白い炎が、焼かれもせず、逃げおおせたこと。


そして――自分が、“間に合わなかった”という、ただ一つの事実。


仮面を握る手に、力がこもる。

濡れた狼面が、かすかに軋んだ。


――もう二度と、あの子を壊させない。


その誓いだけが、彼の中に静かに燃えていた。


手から仮面が滑り落ちる。

畳の上で、かすかな音を立てて転がった。


その音に、誰も気づかなかった。


ただ一心だけが、その音に背を向ける。


静かに、歩き出す。


その背には――

誰も、追いつけなかった。



仮面は、すでに落ちた。

炎も、涙も、もう戻らない。

けれど、志貴は見た。

“檻”ではなく――

あの人の、素顔のままの祈りを。


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